こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記⑪ 2019.11.18.

f:id:kotatusima:20191229140405j:plain(中山人形)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。

  ⑩の続き。

 

11月18日 中山人形と平福穂庵展、旅の終わり

 

横手市

 

 6時過ぎに起床。朝食の弁当を急いで食べる。会計を済ますと旅館のご主人が車で駅まで送ってくれるという。出がけに旅館のおかみさんと、最近寒くなってきましたね、などと言葉を交わした。「寒いとなかなか応えますね、でも寒いと空気が澄んで、そんなに悪くないですよ」と言っていた。私も同じ気持ちだ。これこそ雪国で暮らしてきた人間の思想だと思う。

 切符を買ってホームにある暖かい待合室で電車を待った。7時半過ぎの横手行きからはどっと学生が降りてきた。空いた座席に入れ替わりで乗り込む。途中、後三年駅を通過。「あの後三年合戦の後三年か!」と、つい駅名に反応してしまう。8時前に横手駅に着いた。改札の横には小さな熱帯魚の水槽があった。まだ観光地らしいところはどこも開いていない。ゆっくり今日の目的地である秋田県立近代美術館に歩いていこうかと考えつつ駅前のコンビニに寄ると横手の郷土玩具「中山人形」の十二支の土鈴が飾ってあった。店員さんに訊くと開いているか分からないが近くに工房があるとのことで、すぐスマホで調べてダメもとで行ってみた。駅から歩いて数分、工房のインターホンを押すと急な訪問にも関わらず快く対応していただけた。

 

・中山人形

 

 中山人形は、江戸時代後期に鍋島藩から来た野田宇吉という陶工の息子金太郎の妻よしが、もともと器などを作っていた傍らで義父から習って作ったのがはじまり。以前は横手市内の中山地区で作っていたためこの名がついている。「宇吉は全国で土人形を見てきただろうし、よしのおばあさんが殿様の乳母をやっていて歌舞伎が好きで、はじめ歌舞伎の人形を作ったところからお雛様など種類が増えていったのだろう」とのこと。人形一本になったのは明治7年ごろからだという。

 工房のガラスケースにはたくさん人形が飾られていた。「いままで作られてきた人形の種類は正確には分からず、型があっても彩色がわからなかったり、人形があっても型がないという種類もたくさんある。同じ横手市内の増田の街並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されたあと蔵からたくさん古い中山人形が出てきて、そういうものを貰うこともある」のだそうだ。いま土人形を作っているHさんは五代目。「三代目より前はわからないけれど、模様、顔、粘土の色でだいたいだれが作ったかわかる。昔の作品や人形の原型に身内の指紋が残っているのを見つけると、その時代に先祖が生きていて仕事をしていた証拠のように思える。昔と今が指紋で繋がるという他所の家では無い経験をしている。恐竜の骨を発掘する人が喜ぶ気持ちもわかるような気がする」と仰っていた。なるほどたしかに縄文土器のように土は焼けば形が何千年も残る。もちろん土鈴も土人形もその形がずっと残っていく。

 中山人形は最近は若い人にも人気が出てきたそうで「プラスチックじゃないもんで珍しがられているのかも」「もとは玩具だからピカピカなままで飾られていたものよりも、汚れたり剥げたりした人形が戻ってくると風格を感じる」とのことだった。またHさんは工房に来た若い人によく、「生きてるうちにおじいさんやおばあさんに昔のこと聞いておいた方がいいよ、お寺などを辿ってみな」と言っているという。それは仕事を継いでから中山人形という家業の歴史にわからないことが多いとわかり、自身のおじいさんからもっと昔のことを聞いておけばよかったと後悔しているからで、おじいさんが生きていれば簡単に訊けたことをいまやっと調べたり親戚のおばさんに訊いてわかってきたところだそうだ。「ルーツを探ることを求める先祖の気持ちが今の代を動かしていくのかもしれないし、それで先祖が喜んでいたりうかばれているかもしれない。よく人間は二度死ぬというけれど、ルーツを調べることが個人の仕事であり役割だとも感じる。今生きていることの厚みや深みが出てくる」という言葉は、秋田に先祖のことを調べるために来た自分にとってあまりにふさわしく、それを予定になかった訪問先で聴けたのは自分でも出来すぎた話のように思われた。自分が秋田に来た目的について説明すると「秋田県にただ観光に来るだけではなくて、目的があって何回も調べていけば、きっとそれはまず年輪のような厚みになると思う」と言葉をかけてくださった。

 Hさんは「中山地区にあった昔の仕事場の雰囲気を五感で知って体感している。それが分からないと中山人形について話せないところがあるのではないか。伝統は歴史が知識として入っていたり技術を守るだけでなく、その時代の風景、背景を、雰囲気を子供ながらに体で覚えたからこそ語れるのかなと思うし、明治時代のことを読んだり聞いたり昔の仕事場を知っているからできるのであって、ただ古い型で作れば伝統になるというものではない。お客さんにお話しするのも、調べるのも仕事だ」と仰っていた。

 せっかくなので土鈴を買って帰ろうと思った。ガラスケースには色鮮やかでかわいらしいハタハタの土鈴があった。それを見て、冬になると札幌の実家でよくハタハタの飯鮓を取り寄せて食べていたことを思い出した。それは秋田の親戚から送られたことがきっかけで取り寄せるようになったものであり、今思えばハタハタは数少ない私と秋田とのつながりの証拠のようなものだ。私はハタハタと、作り立てであろう来年の干支のねずみと、胴体に牡丹が描かれた眠り猫の土鈴を買って帰ることにした。9時半頃、工房を出て徒歩で美術館まで向かった。

 

f:id:kotatusima:20191229134056j:plain

f:id:kotatusima:20191229134059j:plain(中山人形の工房)


秋田県立近代美術館

 

 秋田県立近代美術館は「秋田ふるさと村」という施設内にあり、プラネタリウムや工芸の工房、お土産屋街などがあるようだ。たくさん彫刻が設置されている円形の広場をぬけ、2本の柱の上に横に長い展示室が乗ったような形が特徴的な館内へ入る。館内にも見覚えのある日本の近代の彫刻作品がたくさんあった。入り口には「没後一三〇年 平福穂庵展」の文字の横に「描いて 旅して 生きてゆく」とあった。私もそのように生きてみたいと思った。企画展示室に着くまでは長い長いエスカレーターを登っていく。

 平福穂庵展は全4章に分かれていた。第一章「郷里・角館と京都ー円山四条派に立つ」では、十代で京都に遊学するまでの間に影響を受けた絵師の作品や粉本が並ぶ。絵を好んだ父・太治右衛門(1823〜1877、号は文浪)とともに四条派絵師である武村文海(1797〜1863)に学んだ穂庵(当時は文池の号を用いた)は、推されて久保田(現・秋田市)で学んだり阿仁の旧家で古画の模写に励んだ。また川口月嶺(1811〜1871)のような「移動する画家」が穂庵の旅を重ねるライフスタイルに影響を与えた可能性を指摘している。また平元謹斎(1810〜1876)という蝦夷地へ渡ったことのある儒学者との交流を示す寄せ書きも残っており、蝦夷地に渡る前の穂庵が角館でも情報を手に入れることができたことが伺える。興味深かったのはアットゥシをまとう女性が描かれた演目不明の芝居絵で、江戸時代後期の歌舞伎では異人や水を連想させる役柄でアットゥシが用いられたそうだ。

 第二章「北海道遊歴と公募展での受賞ー画家としての模索期」では、穂庵が北海道で獲得したアイヌという画題や殖産興業を目的とした官設公募展に出品した出世作「乞食図」などが展示され、画業を深化させ公的な評価を得ていく様が分かる。特に穂庵による「アイヌ絵」は私がもっとも見たかったものだ。今回見られたのは数点だが、函館滞在時の穂庵が実見したであろう平沢屏山(1822〜1876)などの手による過去のアイヌ絵を踏まえて、それらを写すだけではなく構図を練りモチーフを咀嚼した痕跡が感じられた。

 第三章「秋田から東京へー転機 東洋絵画会への参加」では、東京へ進出した穂庵の充実していく画業を紹介。上京時には、同郷(秋田市生まれ)の寺崎広業(1866〜1919)も一時、穂庵の下に滞在していたようだ。

 第四章「旅の終わり、画業の円熟」では晩年の作品とともに息子の百穂の作品も展示されている。晩年の穂庵の代表作であろう「乳虎」などが展示されていた。また展示替えで見られなかったが円山派の絵師である蠣崎波響(1764〜1826)の鮭の絵の模写も展示されるようだ。波郷は若いころにアイヌの指導者を描いた「夷酋列像」を制作している。穂庵が亡くなったのは百穂が13歳の時であり直接絵を教わる機会は少なかったようだが、百穂は「アイヌ」や「田舎の嫁入り」など穂庵と同じモチーフの作品を描き、写生を重視した近代日本画の追求という意味では穂庵の仕事を継承発展させたといえるのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191229134103j:plain秋田県立近代美術館

f:id:kotatusima:20191229134108j:plain(「描いて 旅して 生きてゆく」)

f:id:kotatusima:20191229134112j:plain(穂庵が描いたアイヌ

f:id:kotatusima:20191229134117j:plain(「百穂くん」)

・旅の終わり

 

 12時半頃に見終わり、隣接する秋田ふるさと村内の「ふるさと市場」で昼食にした。家族連れでにぎわっていた。美術館はかなり空いていたがここには親子連れがたくさんいた。横手焼きそば(550円)を注文。やきそばに半熟の卵がのっている。

 

f:id:kotatusima:20191229134128j:plain横手やきそば

 

 13時20分、横手駅行きのバスに乗る。駅に着くととたんに雨が降り出してきた。駅の中で時間を潰す。14時19分発の電車で秋田駅へ向かうも、疲れから乗車してすぐ寝てしまった。目が覚めると外はザーザーと大きな音をたてて雨が降るほどの荒天だった。空は真っ暗。15時半頃に秋田駅に到着。乗り換えて16時過ぎに新屋駅に着いた。すぐ滞在場所に戻って荷物を整理し始めたが、なかなかカバンが閉まらず苦労した。打ち合わせにだいぶ遅れてしまった。17時半頃、雨の中をFさんに迎えにきてもらえてとても助かった。大学で展示について打ち合わせて、19時過ぎに秋田駅まで車で送ってもらった。

 

 

f:id:kotatusima:20191229134136j:plain(窓の外は大雨)

 

 駅のキオスクでのみものを買い、20時過ぎにバスに乗車。まだ来ていない乗客がいるらしいが出発。疲れていたのでよく眠れた。翌朝6時半頃、予定より少しはやく東京に着いた。

 

 

 

 (完)

 

秋田日記⑩ 2019.11.17.

f:id:kotatusima:20191229131833j:plain(角館)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑨のつづき。

 

 

 

11月17日 平福父子の足跡

 

・角館へ

 

 Kおばさん宅で6時に起床。朝食をいただくだけでなくお昼ごはんのおにぎりまで作って貰ってしまった。昨晩に続いてまたいぶりがっこも食べた。秋田駅まで送ってもらい8時過ぎの東京行きの新幹線で角館へ。この線路がはるか東京まで繋がっているとはなかなか信じられない。大曲駅の次、角館駅には9時前に着いた。ホームでは祭ばやしが流れていた。角館に私が来たのは日本画家の平福穂庵・百穂の出身地であり、その名を冠した美術館があるからだ。せっかく秋田まで来たのだから「小京都」と名高い角館の晩秋の紅葉を見たいというミーハーな気持ちも少しあった。

 駅を出てすぐに秋田の伝統的なお菓子である「もろこし」のお店「唐土庵」があった。「小田野直武」と大きく書かれた幟が気になって入店すると、ガラスケースには小田野の絵をパッケージにしたもろこしの詰め合わせが並び、生誕270年を記念して今年作られた小冊子が置かれていた。小田野は江戸時代に秋田藩士が手掛けた洋風画である「秋田蘭画」の代表的な絵師であり、角館出身だ。店員さんに声をかけると冊子をくれた。表紙をめくると平福百穂の歌集『寒竹』から引いた「いちはやくおらんだぶりを画きしは吾が郷人よ小田野直武 壮(わか)くして逝きし人の阿蘭陀絵は世に稀なれやくりかえし見つ」という文があった。百穂は秋田蘭画の研究書『日本洋画曙光』の著者でもある。小田野は1773(安永二)年に阿仁銅山の技術指導に訪れた平賀源内に西洋画の手ほどきを受けたとされ、秋田藩八代藩主佐竹義敦(曙山)の命で江戸詰めとなり『解体新書』の挿絵を担当することになったのは翌年のことだそうだ。当時小田野は26歳、偶然にもいまの私と同じ歳だ。もろこしは小豆の粉や砂糖、水などを混ぜて型に入れ、乾燥させ焼いた菓子だ。この店の「生もろこし」は焼きを入れずに柔らかく食べやすくしたオリジナルのものだとパンフレットに書いてあった。小田野の作品をあしらったパッケージのもろこしが欲しかったのだが量が多すぎるので、小豆の「生もろこし」の小さいパックを買って店をでた。

 外は少し寒いが日が照っているのでまち歩きにはいい天気だ。だんだんと古そうな商家を改装したお土産店が目につくようになってきた。15分くらい歩いて武家屋敷の街並みの入り口に着いた。この周辺は区割りが400年間ほとんど変わっていないそうで、6.9ヘクタールが1976(昭和五十一)年に文化庁重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。武家屋敷群は後でゆっくり見ることにして、駅から行くと一番奥に位置する仙北市角館町平福記念美術館へ。

  

平福記念美術館

 

 通りを挟んで大きなシダレザクラの向かい側にある美術館の敷地は一面が銀杏の葉に覆われ、黄色の鮮やかな絨毯を敷いたようであった。入ってすぐ左手に大きな石碑があり、碑文の上部に百穂の肖像が彫られている。瓢箪型の池も黄色に埋もれていた。ここは百穂が設置にあたって尽力した県立角館中学校(現角館高等学校)の跡地である。校歌の石碑もあった。校歌の作詞は初め島木赤彦に依頼されたが亡くなってしまったので斎藤茂吉らが引き継いで完成させた。このような豪華なメンツが作成に携わったのは百穂がアララギ派歌人でもあったからだ。その校歌の歌詞の推敲最終段階で茂吉から百穂に送られた書簡が石碑になっており、添削の赤字までが黒い御影石に彫られているのがおもしろかった。銀杏の葉を踏みながら進むと木々の向こうになんとなくロマネスク建築を連想させる石造りの回廊が見えてきた。薄い緑青のような色の外壁と角ばったアーチが印象的なこの建物が日本画家の名を冠した美術館とはとても思えない。実際には北欧の古い建築様式を取り入れているらしい。建築家は秋田市出身で国立能楽堂などを手掛けた大江宏だ。

 平福記念美術館には二つの展示室があり、日本画のサークルのグループ展と常設展が開かれていた。常設展には秋田蘭画が数点と穂庵の絵が数点、百穂の絵が十数点あった。年表を見て百穂が穂庵の四男であったことを見つけて、私の曽祖父も祖父も四男だったことを思い出した。つくづく昔は兄弟姉妹が多かったのだなと思う。こちらの学芸員の方はあいにく不在だったが事前に連絡していて、穂庵と百穂の古い画集を見せてもらうことができた。百穂がアイヌを描いた作品を初めてカラー図版で見た。蠣崎波響の鮭の図を穂庵が模写した作品の図版も確認できた。小田野直武、平福穂庵、平福百穂、沈南蘋、蠣崎波響、司馬江漢円山応挙、そして秋田蘭画アイヌ絵。関わりのありそうな言葉がいくつもぼんやり浮かんできて、頭がクラクラした。

 

f:id:kotatusima:20191229131523j:plain

平福百穂の碑)

f:id:kotatusima:20191229131530j:plain平福記念美術館)

f:id:kotatusima:20191229133054j:plain(校歌の石碑)

 

・角館散策

 

 12時頃、平福記念美術館の職員の方に平福家ゆかりの場所はないか訊いたところ生家跡に小さな石碑があるとのことだったので、ぶらぶら武家屋敷を見ながら行ってみることにした。まずぱっと目についた「石黒家」という約200年前に建てられた武家屋敷に入った。石黒家の家禄は150石であり、角館を支配した佐竹北家5000石のうち3%にあたる。この辺では上級武士らしい。公開されているのは一部であり、ここは角館の武家屋敷で唯一いまでも住居として使われているそうだ。用途によって使い分けた四つの玄関や、身分の上下によって座る位置を示す畳の並びなどが興味深かった。棟続きになっている蔵には「解体新書」(復刻版)も展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20191229131533j:plain(角館の武家屋敷)

f:id:kotatusima:20191229131538j:plain(角館の武家屋敷)

f:id:kotatusima:20191229131548j:plain(落ち葉)


 12時半過ぎ、角館樺細工伝承館へ入った。ここも平福記念美術館と同じく大江宏の建築。外壁のレンガと鋭い勾配をもつ入り口が印象的だがよくみると入母屋風の屋根がその上に載っている。こういう和風と洋風のモチーフが並置された様も秋田蘭画を生んだ角館の土地柄を想えば理解できなくもない。入るとすぐ洋風の天井の高いホールがあり、喫茶店を併設する休憩スペースになっている。少し休んでから展示室へ向かった。角館の名産である樺細工の名品が展示され職人さんの作業を間近で見られるコーナーもあった。二階には角館の武士の甲冑と一緒に平福百穂の師である武村文海が描いた端午の節句で飾る龍の幟があった。別の展示室では「イタヤ細工」などと並んで小絵馬が展示されていた。角館の周辺の町々には寺社や屋敷内の祠等に4月8日に小絵馬を奉納する風習があり、平福百穂の弟子であった田口秋魚による、角館の小絵馬の代表的な図柄を模写した作品が展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20191229133046j:plain

f:id:kotatusima:20191229131600j:plain(角館樺細工伝承館)

 

平福家ゆかりの地

 

 13時半過ぎ、角館樺細工伝承館を出て紅葉の盛りの街並みを写真に撮りつつ歩いた。14時過ぎ、武家屋敷の通りから少し離れた民家の塀の前に、膝くらいの高さの「平福穂庵百穂誕生の地」の石碑にたどりついた。気が付かず通り過ぎる人も多いだろうと思われるくらい、ひっそりとそこにある。ここからどこへ行こうかと角館の観光地図を見ていると天寧寺というお寺の裏山に「百穂筆塚」の小さい文字を見つけた。

 

f:id:kotatusima:20191229131608j:plain(「平福穂庵百穂誕生地」)

 

 14時半前、天寧寺に着いた。ここは佐竹北家が角館に入る前の城主であった蘆名氏の菩提寺だ。「裏山には百穂の筆塚があり町をみおろしています」と観光地図に書いてあったので裏山にのぼってみた。木々が立ち並んで薄暗い。30分くらい坂を昇り降りして山道を歩いた。団栗や栗のイガが落ち葉に混ざってたくさん転がっていた。幼いころの穂庵や百穂もこの山を駆けまわって遊んだのだろうか。静かだが何かに見られているような気配を感じて緊張しながら歩いた。ところが筆塚はまったく見つからない。グーグルマップで確認すると、いつのまにか裏山を抜けて反対側の角館高校の近くまで来てしまっていたようだ。仕方なく来た道を引き返した。近くの草むらでガサガサと音がした気がしたので慌てて坂を下った。聞き間違いだったかもしれない。すっかり汗だくになってしまった。筆塚の場所を教えてもらおうと寺務所のインターホンをおしても不在のようだったので諦めて天寧寺を出た。

 

f:id:kotatusima:20191229131613j:plain

f:id:kotatusima:20191229131619j:plain

f:id:kotatusima:20191229131625j:plain

f:id:kotatusima:20191229131650j:plain

f:id:kotatusima:20191229131643j:plain(天寧寺裏山)

 ふと、穂庵の墓はどこにあるのだろうと思った。百穂の墓は、数年前にたまたま東京都の多磨霊園を散歩している時に見つけてお参りしたことがあるけれど…。スマホで調べると、角館の学法寺にあることがわかった。ここから歩いて行ける距離だ。樺細工を売っているお店があったので学法寺の場所を訊いたところわざわざ調べて教えてくれた。すぐ裏手にあった。道に面して日蓮上人の小さめの銅像が建っており、敷地内、銅像の背後に十数基の墓石が並ぶ平福一族の墓域があった。穂庵の墓より先に、向かって左手手前に「平福百穂墓」を見つけた。墓域の中では新しめの墓石だったのですぐわかった。百穂の骨は多磨霊園とここに分骨されているのだろうか。穂庵の墓ははじめ分からなかったが百穂の墓の斜め後ろに建っていた。墓石の正面には「穂庵」の文字が含まれる戒名、左側面には「平福順蔵之墓」と彫られている。どの墓石も黄緑色の苔が載っていた。丁寧に手を合わせ、平福父子の画技にあやかりたかったのでお寺の賽銭箱に小銭を入れてきた。

 

f:id:kotatusima:20191229131656j:plain平福家の墓石)

 

 暗くなるまではまだ時間がある。観光地図を見て角館総鎮守の神明社に行ってみた。ここにはかつて小田野直武や平福穂庵が絵馬を奉納したらしい。15時半頃、神明社に着くと鳥居の横にいくつかの看板とそう大きくはない石碑があった。それは菅江真澄終焉の地の碑であった。角館で没しているとは。まったく意識していなかった。看板に真澄の今際のエピソードとして「北家御抱医師吉原由之氏が『久かたの月の出羽路書きしるす筆の跡こそ千代もすむらめ』と詠せられたのに対し『しるべなき月の出羽路われ迷ふつけし千鳥の跡も恥かし 真澄』と返歌している」と書かれていた。秋田の地誌を完成させる前に亡くなった真澄はさぞ無念だっただろう。社務所には誰も居そうもなかったので絵馬を見るのは諦めた。本殿の扁額の横に金の字で「神明社」と彫られた亀の甲羅が掲げられていた。

 

・夕方の角館

 

 神明社に来る途中で気になっていた安藤醸造へ行ってみた。レンガ造りの立派な蔵の内部は座敷になっていて自由に見学できる。醤油や味噌はもちろん濡れおかきもあった。さらに道を引き返して、学法寺に行く前に道を訊いた伝四郎という樺細工のお店に寄った。洗練されたデザインに惹かれて何か買いたくなった。美しい茶筒や棗を見ているとたとえ買えなくても豊かな気持ちというか、いい気持になる。コースターを見ていると店員さんが親切にたくさん在庫を出してくれたのでその中から気に入った桜皮の模様のものを選んで買った。まだ日が落ちるまでは少し時間がありそうだ。小田野直武の菩提寺の松庵寺に行く。1936(昭和十一)年に建てられた顕彰碑の裏側には当時のオランダ公使の撰文まで彫られていた。靴屋の半分に骨董品を並べている変わったお店の前を通りがかったので入ってみた。店番をしていたおばあちゃんと平福美術館の話を少しした。何年か前に平福父子の展示をやっていたらしい。店を出るともう外は真っ暗だった。角館駅へ歩いていく。角館は「小京都」と名高いが、私にはなぜわざわざ京都と比較するのかがよく分からなかった(実際のところは佐竹北家角館初代所預佐竹義隣は公家の高倉家からの養子であり京風の文化が移入された、というのが理由らしい)。石を投げれば寺社仏閣に当たるような京都と立派な門構えのお屋敷が並ぶ角館の武家屋敷街並みの外観は似ても似つかなかったので違和感があった。角館には角館なりの情趣がある、というのでいいのではないかと思う。またそれとは別に「小京都」と呼んでしまうその心性もまたおもしろいと思う。それを秋田の県民性とまで言うと言い過ぎかもしれないけれど。一日角館を散歩しただけではその心性まで理解することは難しかった。

 

f:id:kotatusima:20191229131700j:plain(安藤醸造

 

・大曲へ

 

 おなかがすいて我慢できず、かりんとうを買った。駅前のレストランは高かったので駅のキオスクで豚丼とおにぎりとお茶を買った。電車までまだだいぶ時間がある。ゆっくりご飯を食べてぼーっとした。だいぶ疲れている。待合室にはいくつかベンチがあって暖かくしてある。かりんとうを食べながら待つ。

 18時45分発の大曲行きに乗る。乗客はあまり多くはない。19時過ぎ、大曲駅に到着。途中でスーパーに寄って明日の朝食の弁当ときりたんぽ味のポテトチップスがあったので買ってみた。夜の街をあるくとホテルのネオンが目につく気がした。有名な大曲の花火を見にくる観光客が多いのだろうか。

 19時半過ぎに旅館に到着。部屋に荷物を置いて20時頃にお風呂。貸し切り状態だった。小倉遊亀の絵を思い出させる大きなタイル張りの浴槽を独り占め。足を伸ばす。きりたんぽチップスはちょっとゴボウっぽいしょうゆベースの味付けだった。これがきりたんぽっぽいのかどうかは私にはわからない。

 ふとテレビを着けると「単騎、千里を走る」が放送されていた。この映画では朴訥とした漁師役の高倉健が不仲だった病床の息子のことを知るために中国へ赴く。「もっと健一のことを聞かせてもらえませんか?」というセリフの切実さがいまなら分かる気がする。祖父や曾祖父のことを知りたくて秋田に来ている自分と高倉健が重なるように思え、つい見入ってしまった。

 

f:id:kotatusima:20191229133048j:plain高倉健

 

 

 

いよいよ最終日。⑪に続く・・・。

 

 

秋田日記⑨ 2019.11.16.

f:id:kotatusima:20191229130212j:plain(紅葉)


 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑧のつづき。

 

11月16日 父祖の地

 

・早朝のスケッチ

 6時過ぎ起床、朝食をいただいて7時過ぎには絵を描きに外に出た。雨は降っていないがやはり寒い。家のすぐ近く、坂の上から家を見下ろして、ペンで形をとっていく。背後の色づいた木々は鮮やかになるように描き、手前の小川も含めて豊かな山の雰囲気を出そうとした。9時頃に家からKおばさんが出てきて、出かけるよ、と声をかけられた。

 秋田市から県内を北上し、北秋田市鷹巣へ向かう。車中でも私の祖父や曽祖父母の話をたくさん聞いた。10時過ぎ、阿仁の道の駅で休憩。この辺はいわゆる「マタギ」で有名な集落だ。「マタギジュース」という名のジュースがあったので、熊でも入っているかと思い飲んでみたら濃いリンゴジュースだった。Kおばさんは以前よく買って食べていたという小さな黄色いパッケージのチョコレートケーキを買ってくれた。道中の山々は所々で歓声をあげてしまうほど紅葉が見ごろだった。途中、大館能代空港の看板を見かけた。大館能代空港という名前なのに、大館市でも能代市でもなく北秋田市にある。

 

f:id:kotatusima:20191229130219j:plain(紅葉)

 

 11時ころ鷹巣町立図書館に着くも、なんと蔵書整理で休館日であった。Kおばさんと二人でがっかり。気を取り直して道の駅へ向かう。「大太鼓の館」という、この地域のお祭りで使う大太鼓や世界各地の太鼓が展示されており一部の太鼓は実際に叩ける。太鼓を演奏する埴輪やトントン相撲の土俵が太鼓になっているものもあった。道の駅の中の食堂で昼食。比内地鶏の親子丼を食べた。

 

 

f:id:kotatusima:20191229130444j:plain鷹巣図書館は閉館)

f:id:kotatusima:20191229130225j:plain(大太鼓)


・Tおばさんと会う

 

 13時ごろ、鷹巣町内に住むTおばさん(やはり私の父のいとこにあたる)を訪ねる。Tおばさんは私の父や祖父と何度か会ったことがあるので話がスムーズだった。初めて会った人が私の父や祖父のことを知っているというのは、つくづく不思議な気持ちがする。後から聞いたことだが、私が生まれる前後の時期に私の父が私の祖父を連れて鷹巣に来たこともあったという。Tおばさんは古い写真を探し出してくれていた。その中にはKおばさんがもっていない写真がいくつもあった。私の祖父母が小さいころの私の父や叔父と写っている家族写真。私の曾祖母の写真。私の祖父と祖父の兄や姉たちが一緒に写った写真。若くして亡くなった私の祖父の長兄らしきの写真もあった。またTおばさんが持っていた鷹巣の地図にあった名前は、私の曾祖父の兄の家系の人物のものだった。確認すると、やはりそこが、いま遡れる中で一番古い私の家系の本籍地であった。

 

鷹巣

 

 ここからTおばさんの車に乗せてもらって移動した。まずある寺院に来た。ここは以前、佐藤家の墓があった。立派な本堂には昔の鷹巣の地図が貼ってある。お願いして調べてもらうと、過去帳には私の祖父の長兄の戒名が残っていた。その寺のすぐ近く、私の曾祖父が米屋をやっていたという場所は、今では砂利が敷かれた更地になっていた。以前は質屋だったそうだ。漠然と父から聞いていた「米屋で繁盛してすぐ没落したという曾祖父の話」も、ただの言い伝えであればそれをそのまま信じるか信じないか、それしかない。しかし実際にその店舗があったという場所にまで来てみると現実味が増してくる。会ったこともない(しかも今回秋田に来るまで写真を見たこともなかった)曾祖父がかつて生きて暮らしていたということが目の前に立ち上がってくる。そこからさらに、いま遡れる中で一番古い本籍地に行った。坂を登ってバス停を左折してすぐ右手、丘の上の集落の一画には古い民家が何軒か建っていた。集落のお寺に行って過去帳を見せてもらえないかお願いしたものの断られてしまった。しかし「だいたいこの集落の佐藤家は徳右衛門とか惣七とかいうこの辺の名主の親戚筋だろう」ということだけは教えてもらえた。15時30分頃、Tおばさんと別れて秋田市に戻った。

 ひとまず、自分の父祖の所縁の地に来ることができた。今回は下調べ不足で図書館の資料が見られなかったり、過去帳を見せてもらえなかったりした。帰るころにはすっかり「また鷹巣に来たい」という気持ちになっていた。ほんの数か月前、今回の滞在のための下調べを始める前には名前も知らなかったような場所に、だ。

 

 

f:id:kotatusima:20191229130357j:plain

f:id:kotatusima:20191229130317j:plain

f:id:kotatusima:20191229130323j:plain

秋田市へ戻る

 

 17時過ぎ、Kおばさんの家に着いた。夕食にはわざわざ秋田名物のきりたんぽを用意してくれた。比内地鶏の出汁の味が体に沁みた。このとき初めて「いぶりがっこ」を食べさせてもらった。私はそもそも大根を漬物にした類のものは嫌いなのだが、いぶりがっこは不思議とおいしく感じてぱくぱく食べてしまった。これは酒飲みの食べ物だなと思った。これがあれば秋田の美酒も進むだろう。テレビでは街歩き番組が放送されていて、なんと秋田の特集であった。タレントが、私が真山神社に行った際に被って写真を撮ったのとまったく同じなまはげの面を被っていた。「秋田美人」について放送されているのを見てKおばさんが「秋田は山海の産物が豊富で東北の他県に比べて飢饉も少なく、年貢が払えた。年貢が払えない地域はかわりに娘が貰われていく。だから秋田には美人が多いのだ」というような話をしていた。秋田の豊かな自然を根拠に持ってきているところに妙な説得力を感じた話だった。

 

 夕食後、朝描いている途中だった絵を仕上げてKおばさんに差し上げた。23時ころ就寝。

 

 ⑩につづく・・・。

 

 

 

 

秋田日記⑧ 2019.11.15.

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑦のつづき。

 

 

 

11月15日 由利本荘と大雨

 

・宮下神社

 

 5時半起床。天気が悪くなると聞いていたが幸い雨は降っていなかった。コンビニで朝食とお神酒を買い、駅へ向かう。

 7時前の電車で羽後本荘駅へ向かう。着いたらすぐ由利高原鉄道に乗り換えて7時46分発の矢島行きに乗った。整理券を出す機械には「秋田おばこ」のキャラクターのステッカーが貼られ「えぐ乗ってけだなー」と吹き出しに書かれているのがかわいかった。予定より早く着きそうだなぁと思いながら車窓の風景を眺めているうちに子吉駅についた。しかし降り方がよくわからず、もたもたしていると電車は出発してしまった。次の鮎川駅で降りる。幸い引き返す電車がすぐ来るようだ。鮎川駅は「おもちゃの博物館」が近いらしく、子どもサイズの小さい駅舎がホームにあった。すぐ8時15分の電車で引き返して子吉駅で降りた。空はだいぶ曇っているが雨はやんでいる。歩いて10分ほどの神社へ。

 

f:id:kotatusima:20191229125605j:plain(発券機)
f:id:kotatusima:20191229124106j:plain由利高原鉄道

 

 約束の9時より少し早く着いた。近くには宮下神社前というバス停があるようだが神社の前にはその名前を示すような石碑や看板は見たらない。ただ朱の鳥居や忠魂碑、秋葉大権現の碑などがある。お堂の正面の扉は閉じられたままだが、脇の勝手口のような戸の前に脱いだ靴が置いてあった。戸を開けると氏子総代さんがいらっしゃったのでご挨拶をしてお神酒を置き、今回の私の滞在や調査の話をした。するとすぐ後から近くにお住まいのおじいさんがやってきてご本尊様を拝んでいた。ここは神社と言っているが、実は本尊は大日如来らしい。脇の社にはお稲荷さんが祀られていたり、集落から転居した人が置いていった天照大神の神棚が置いてあったり。なんという神仏習合の在り方だろう。きっと長い年月の間に様々な神様仏様がここに祀られ、集落の人の心の支えになったことだろう。私が宮下神社を知ったのは「日本遺産・北前船」のサイトで市内最古の船絵馬があると紹介されていたからで、市の文化課を通して氏子総代さんに電話した際に「船絵馬は既に秋田県立博物館に貸し出されている」とも聞いていた。それでもここに来たかったのは船絵馬が奉納された場所を見てみたかったということと、船絵馬以外にも絵馬があると聞いたからだった。実際に来てみると何点も馬を描いた絵馬や句額が奉納され、壁にまで唐獅子牡丹や梅が描かれていた。田んぼのなかの小さな社に詰め込まれるように過去の人々の信仰の痕跡が残っているのだ。総代さんも、「豪農がいる集落でもないのに立派な奉納物があるのは不思議だ」と仰っていた。馬が描かれた絵馬が沢山あるのはやはり馬のための健康祈願だろうか。ここでは馬頭観音はお祀りしていないが、昔はこの辺りではよく農耕馬を飼っていたらしい。

 写真を撮り終わると総代さんがわざわざ羽後本荘駅まで送っていってくれるというので、お言葉に甘えて車に乗せてもらった。途中、子吉川支流の石沢川を見せてもらった。宮下神社に船絵馬があるのは、子吉川の海運とも関わっているのだろう。秋田に自分のルーツを調べに来たのだと話すと総代さんは「ある時期になると先祖のこと調べたくなるもんだ」と仰っていた。10時頃、羽後本荘駅に着きお礼を言って車から降りた。

 

f:id:kotatusima:20191229124150j:plain(宮下神社内部)

f:id:kotatusima:20191229124311j:plain(油絵?の絵馬)

f:id:kotatusima:20191229124316j:plain(宮下神社内部)

f:id:kotatusima:20191229124324j:plain(石沢川)


・本荘八幡神社

 

 予定よりだいぶはやく宮下神社を見終わった。本荘八幡神社へ向かうことにする。古本屋があったので寄ってみた。ちょうど由利本荘市文化財調査をまとめた本があったので買った。中には先ほどみてきた宮下神社の絵馬や前に見た松ヶ崎八幡神社の絵馬も掲載されていた。ぽつぽつと小雨が降ってきた。折り畳み傘を出す。早起きしたせいか、もうお腹がすいてきた。弁当屋でカレーを注文して、すぐその場で食べていたらサービスでインスタントコーヒーが出てきたのが妙に嬉しかった。11時半ころ、本荘八幡神社に着いた。ここは福井県から北前船で運ばれた笏谷石製の狛犬がある。先に本殿にお参りしようとすると、「右側からお入りください」と書いてあったので、中に入って拝ませてもらうことにした。軒先の彫刻も「八幡宮」の扁額も立派だ。靴を脱いで入ると、頭上には2メートル級の大きな絵馬がずらっと掲げられていた。多くは本荘藩主が奉納したものらしい。絵馬をじっくり見た後で、狛犬を見に行った。お堂の左右に一体ずつケースに入って置かれていた。ぽつぽつ雨が降ってきた。

 

f:id:kotatusima:20191229124416j:plain(インスタントコーヒー)
f:id:kotatusima:20191229124338j:plain(本荘八幡神社

f:id:kotatusima:20191229124421j:plain狛犬

 

・石脇のまち歩き

 

 13時ころ、由利本荘市郷土資料館に到着。町歩きの会の会長さんと待ち合わせ。さっそく、いくつか資料を見ながらこれから行く場所について解説していただいた。

 いま、由利本荘市になっている地域は、江戸時代は子吉川を挟んで北側が亀田藩、南側が本荘藩だった。江戸時代以前、亀田藩では子吉川を村附川と、本荘藩では本荘川と呼んでいた。北の石脇湊と南の古雪湊は河川港として栄え、どちらも子吉川沿岸や支流にいくつか番所を置き、船の出入りや積み荷の管理を行っていた。いま居る側は北側の亀田藩側になる。1623年の亀田藩の岩城氏と本荘藩の六郷氏入部以後は子吉川が藩の境になったが、ときどき境界についてもめ事が起こるとき以外は通行止めになることもなく、野菜を売りに行ったりしていたという。往来は渡し船で行われ運賃は十六文だった。また、石脇において北前船の遺産として特徴的なのは「石脇讃物」(いしわきさんぶつ)という祝い唄だ。これは例えば帆を上げ下げする「みなわ」(身縄、水縄)や帆柱を安定させるのは「はんじ」(はずな、端綱)のような弁財船の各部の名称が歌詞になっており今でも生活に根付き歌い継がれているという。同様に弁財船の各部の名称を歌詞にした歌は全国各地に残っており北前船の往来で伝わっていったものだとのことだ。ただし不思議なことに対岸の古雪では歌われていないらしい。

 14時前に出発。雨なので、ありがたいことに車で案内してくださった。まず郷土資料館前の坂を下って左折し川岸に出て「大渡御番所跡」へ。昔は堤防がなく河川敷が広がっていたという。江戸時代には渡し舟がここから出ており亀田から本荘へ行く際の関所だった。本荘にも「大渡御番所」があった。すぐそばにある水難事故の慰霊のための地蔵堂は戦前は堤防の向こうの川側にあったそうだ。近くの住宅前にはコンクリートの円柱が道沿いに立っていた。これは井戸で、昭和30年頃まで飲料水として利用し今でも生活用水で使っているそうだ。勢いよく水が吹き出ていた。来た道を引き返し突き当りを右へ。日本酒の「雪の茅舎」などを製造する齋彌酒造のような醸造業を営む商店がいまでも何軒か並んでいる。石脇の湧水は11〜13度で冬でも生暖かいらしい。左折した先、東山の麓に光徳寺跡があった。明治以後は公徳館と名を変えて地域の集会所となったここは山上の新山神社に行けない人が利用する里宮であった。ここには「鳥海山」(海は異字体)の石碑があり、鳥海山の修験と深い関りがあるそうだ。次にもとの道へ戻り芋川橋まできた。ここには「上町御番所跡」があった。渡し船の往来の取り調べや芋川上流から米が運ばれると「上町御番所」で陸揚げし米が九千石入る「お蔵屋敷」に一時蓄えた。Uターンして由利橋を過ぎたあたりは間口が三間あった。いまは三軒町という地名だ。河岸に出ると「西ノ口御番所跡」にでた。ここにも堤防は昔無かった。「西ノ口御番所」で上方から運んできたものを陸揚げし三軒町で売っていた。子吉川の水深はこのあたりが最も深く、ここで川船から荷物を積み替えて上方へ運んだ。そのほか塩越湊で積み替えて日本海を航海するなど上方まではいろんなルートがあった。亀田藩では下浜や石脇から米を上方に運んだが本荘藩はもっぱら古雪湊を使ったといい石脇より古雪のほうが扱う米の量は多かった。この日は行かなかったが河口近くには「唐船御番所」があり異国船のチェックや子吉川に入ってくる船を帆印で確認していたそうだ。

 14時半頃、車を停めて標高148メートルの東山の石の階段を登っていく。この一帯は新山公園になっており頂上には新山神社がある。公園内に見られる安山岩の巨石は石脇(江戸時代は石ノ脇)の名前の由来ともいわれる。江戸時代はランドマーク的役割を果たしていた場所だ。東山のふもとまで新山神社の神域であり明治時代に作られた第一鳥居は廻船問屋の名が残っているそうだ。だんだん風と雨がひどくなってきた。この辺りは鉄道(いまの羽越本線)の敷設が遅く拝殿脇にある灯篭は常夜燈として使われたもので大正期まで船の往来があったことをしめしている。大雨の中を車で下山する。斜面に広がる松林は、江戸時代後期から明治時代にわたって海から続く浜辺の砂地に植林を続けた石川家五代と村人の手によって砂防のため作られた。北前船の往来が始まった江戸中期頃の東山はまだ剥げ山だったのだ。今でも松は植え替えされている。明治以後の両湊の日本海の物流は統合された。対岸の古雪には本荘米の検査場ができ船で東京や大阪に送られた。いまは本荘漁港となり漁船の係留地として県が管理している。一方、石脇湊は石脇河岸場に格下げされ明治10年代以降衰退した。

 15時頃、子吉川の古雪側にある「アクアパル」へ。ここにはボートやカヌーをしまう倉庫やフィットネスジムがあり一部が子吉川についての展示施設になっている。由利本荘はボート競技がさかんで市民ボート大会がある。面白かったのは1877(明治十)年に本荘と石脇を結ぶ最初の橋として作られた「船橋」だ。並べた小船のうえに板を渡したもので、その龍がわだかまっているような姿から蟠龍橋(ばんりゅうばし)という名で呼ばれた。大水の際には両岸で橋を繋ぎとめている鎖を調節して橋が流されないようにしていた。また、ここには北前船に関する展示もあり郷土資料館での展示の際にSさんがつくったパネルが流用されているものだと言っていた。明治頃に書かれた古雪港の絵を見ながら、「今日回ってきた場所はこの辺で…」「この絵はこの辺りからみて描いたものだろうか…」などということも短い時間とはいえきちんとガイドされ説明を受けるとなんとなく分かるようになる。昨日まで知らなかった由利本荘のたくさんのことをいま私は知っている。そのことが改めて不思議だった。16時頃、由利本荘市文化交流館で車からおろしてもらう。ここはお土産物屋などもある複合施設になっている。図書館で少し本を漁る。

 

f:id:kotatusima:20191229125014j:plain(井戸)

f:id:kotatusima:20191229125018j:plain子吉川

f:id:kotatusima:20191229125618j:plain(新山神社参道)
f:id:kotatusima:20191229125023j:plain(新山神社の灯篭)

f:id:kotatusima:20191229125715j:plain(窓の外は大雨)

f:id:kotatusima:20191229125719j:plain(アクアパル)

 

秋田市

 

 その後16時41分の秋田行きの電車に乗ったのだがつい連日の移動の疲れからか居眠りしてしまい、新屋で降りられず乗り過ごした。一度家に戻り荷物をまとめ直して秋田駅へ。この日は再びKおばさんのお宅に泊めてもらう。夕食はもつ煮込み、ふろふき大根など。美味しかった。ビールを飲みながら、Kおばさんの息子(私のはとこ)のお兄さんに「もし時間があったらこの家の絵を描いて欲しい」と言われた。自分の絵を誰かが欲しいと言ってくれる、こんなに嬉しいことはない。一宿一飯の恩義という言葉が浮かんだ(僕はすでに2泊お世話になろうとしているところだが)。翌朝早起きして描くことにした。22時30 分就寝。

 

 

⑨へ続く。

 

 

 

秋田日記⑦ 2019.11.14.

f:id:kotatusima:20191228232443j:plain

なまはげ面を被ったわたし)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑥のつづき。

 

 

 

11月14日 男鹿一周

 

・男鹿への道

 

 7時半起床。昨日、仁賀保の駅前で買ったパンを食べる。

 今日は男鹿半島を巡る。この日はコーディネーターのFさんが車でアテンドしてくれる。9時ころ出発。玄関に出て戸を開けると強い雨が降っていた。ちょっと気が滅入る。

 秋田県内の海岸沿いにはたくさん風力発電の風車が立っている。秋田市から男鹿市へ向かう途中でもそうだった。私は風車というと今年の五月に見た北海道の「オトンルイ風力発電所」を思い出す。一列に並んだ風車はなかなか壮観だった。一方で秋田の風車は止まっていたり動いていたりとそれぞれバラバラに動いていて少し気味が悪かった。オトンルイではほとんど気味の悪さは感じず人間の技術の好ましい体現のように感じたのに、この違いはなんだろう。Fさんが言うには「秋田の風車が作った電気は必ずしも秋田で使われない。中央が秋田を搾取するいい例だ」とのことだ。ではオトンルイで作られた電気はどうなのか?男鹿に向かう車中ではFさんがいままでやってきたことやこれからやりたいことについて話した。「作品未満のものをどう扱っていくか」という話になりとても共感する。まさにいまこの秋田で私がやっている滞在が作品未満の何かなのだろう。

 10時過ぎ、男鹿に入ってしばらく経つと左手に大きななまはげ像が現れた。観光パンフレットかそれともテレビか、どこかで見たことがある気がする。観光地ではしばしばシンボルを巨大化したがる。私はそれを安直だとバカにしつつ実は心から面白がってもいる。

 

f:id:kotatusima:20191228232553j:plain(風車)

 

f:id:kotatusima:20191228232615j:plainなまはげ像)

 

なまはげ

 

 10時30過ぎに到着。さすが秋田を代表する観光の目玉のなまはげ、駐車場には秋田のほか、岩手、札幌、福井ナンバーの車が停まっていた。「なまはげ館」はその名の通りなまはげ習俗を紹介する施設になっている。少しだけ展示を見て、11時に隣接する男鹿真山伝承館へ移動。なんとここでは観光客向けに真山地域のなまはげを見ることができる。これはいわば「生のなまはげ」ではないか!と思うと少し興奮したがだんだんなまはげに会う(遭う?)のが怖くなってきた。古民家へ靴を脱いで上がり、畳の上に座って待っていると作務衣をきた職員の方が鏡餅の横で説明を始めた。なまはげの名の由来のひとつは「なもみ剥ぎ」であり、「なもみ」とは怠け者が火に当たっているとできるアザで、一説によればなまはげは手に持った包丁でなもみを剥ぎ取り、それを桶に入れるのだということ。また、なまはげが落とす藁にも神様が宿っているから持ち帰ってもいいということ。ここで実演される真山地域のなまはげは神様なのでツノがないということ。現在も男鹿半島では80集落が大晦日なまはげ習俗を行っていること…。始まると、家の主人役という白髪のおじさんが入ってきて玄関の前に座る。そして「先立」(さきだち)という人物が玄関から入ってきてなまはげを家に入れてもいいか確認すると、まもなく大きな唸り声が聞こえた。ピシャリと音を立てて戸を開ける音も恐ろしく、2匹のなまはげが入ってきた。決まった回数必ず四股を踏むなど、なまはげの所作にはルールがあることもわかる。よく知られているように「悪い子」や「怠け者」を探し回ったあと、なまはげは主人に促されて膳にありついた。そこで子どもが勉強しているか、家の者はまじめに働いているか、お年寄りが大事にされているか、などをなまはげが問いただす。対して主人は酒を飲ませながらうまくごまかして返答する。そして来年の再訪を告げたなまはげは帰っていった。「悪い子はいねぇかー」という決め台詞(?)で怒鳴りながら子どもを脅かして躾けるのがなまはげのよく知られた姿だろう。その印象から、なまはげとは自然災害みたいな、嵐のようにやってきては去っていくいわれのない暴力のようなものかと想像していた。だが私が見たなまはげは主人としっかりと会話をし、説得されて帰っていった。なまはげには理屈が通用するのだ。なんと人間的な神だろう。その意味でなまはげと私たち人間は対等なのかもしれないと感じた。再び「なまはげ館」の展示の続きを見る。特に圧巻なのが、男鹿のなまはげの装束をマネキンに着せて大集合させた部屋だ。右を向いても左を見ても、視界が全部ずらっと立ち並んだなまはげだ。この部屋にしても、なまはげの実演にしても、たとえ思いついたとしてもなかなか実現するのは難しいことだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228232745j:plain真山神社の鳥居)

f:id:kotatusima:20191228233738j:plain(落ち葉)

f:id:kotatusima:20191228232749j:plain(生のなまはげ

f:id:kotatusima:20191228232838j:plain(男鹿真山伝承館)

f:id:kotatusima:20191228232754j:plain真山神社への坂)

 

真山神社

 

 12時頃、坂を登った先にある真山神社へ向かう。山門には包丁の奉納額があった。さすが「なまはげの本場」だ。多くのなまはげはこの真山神社から人里に降りてくるとされている。本殿に参拝した後、石段を登って五社殿へ。この石段は鬼が一晩で999段積み上げたという伝説がある。さすが鬼が作っただけあって一段が高くて登りにくい。所々グラグラしていて危ないのは一晩の突貫工事だからか?などと思いながら歩いているとばらばらと雹が降ってきた。寒さがなかなか堪える。五社殿はかつて五つの建物だったが、火事で燃えたあとひとつの建物に集約したらしい。この建物の戸板には北前船の船員のものとも伝わる古い落書きがある。昭和などという元号が見える中に確かに「文化」の文字がある。文化といえば19世紀はじめ頃である。それほど古い落書きにはとても見えない。不安定な石段を足元に気を付けながら戻る。帰りがけ社務所の前に置いてある丸木舟について尋ねてみた。神職さんによれば丸木舟の船大工が引退する際に作って奉納したらしい。樹齢三百年の木を使っていて立派なものだ。お守りに並んでなまはげの怖い顔を彫った一刀彫りもあった。岐阜高山の伝統工芸士が御神木を彫っている。邪気が払えそうだ。以前使っていたというなまはげのお面が置いてあったので被ってFさんに写真を撮ってもらった。

 

f:id:kotatusima:20191228233035j:plain(五社殿への石段)

f:id:kotatusima:20191228233110j:plain真山神社の森)

f:id:kotatusima:20191228232800j:plain(五社殿)

f:id:kotatusima:20191228233042j:plain(戸の落書き)

 

・北浦、戸賀

 

 13時前に北浦という集落へ向かう。ここは道沿いに田沼家土蔵がある。田沼慶吉は地元で「田ッ慶」とよばれた秋田では数少ない北前船の船主で、明治の初めには20艘以上もの千石船を持ち、九百石積みの船が最大だった土崎の商人とは比べ物にならない大船主であり、大地主でもあった。黄色っぽい土壁の土蔵は堅牢そうだ。

 

f:id:kotatusima:20191228233047j:plain(田沼家土蔵の壁)

 

 車で少し走った先、海の近くで見つけた食堂は営業時間のはずなのに準備中の看板がかかっていた。恐る恐る戸を開けるとごく普通に営業していた。僕はホルモン定食(700円)を注文。どんぶりに盛られたご飯と器にいっぱいのホルモンの味噌煮込みとお漬物が出てきた。すっかり満腹になった。

 

f:id:kotatusima:20191228233519j:plain(食堂の壁にはハタハタの絵が)

 

 途中、ガソリンスタンドに寄った後で戸賀という集落へ向かう。男鹿半島の西にある戸賀湾は風待ち港であった。住宅街の細い道を車で抜けて、14時30 分頃に戸賀八幡神社の鳥居の前に着いた。細い坂を登るとプレハブの簡素な建物があり、左側から裏手に回ると少し古そうな木造の社殿があった。1751(寛延四)年の創建時には難破船の寄木を集めて作られたというが、今の社殿は明治頃のもののようだ。そんなにボロボロでもツギハギでもなかった。坂の上からみる戸賀湾はなかなかの眺めだった。

 

f:id:kotatusima:20191228233627j:plain(戸賀八幡神社
f:id:kotatusima:20191228233615j:plain(戸賀湾を望む)

 

・寒風山と帰り道

 

 だいぶ寒くなってきた。寒風山へ向かう。途中ついウトウトして寝てしまった。30分くらいして寒風山回転展望台に着くと空はだいぶ薄暗くなり冷たい風が吹いていた。「寒風山」とはなんと寒々しい名前なのだろう。今日は「寒風山びより」の天気だなどと言ってFさんと笑った。建物の中には秋田の歴史を紹介する展示室もあり、北前船のものだという碇もあった。牡蠣殻がたくさんくっついていた。どことなく松樹路人の絵を思わせる色っぽい海女さんの絵があった。回転展望台にはFさんと私のほかにはだれもいなかった。多少天気は悪いかもしれないが霧で何も見えないわけではない。自前の双眼鏡であちこち眺めて楽しんだ。16時頃、展望台を後にする。雪が降っていた。今年初めて雪を見た。これからの寒い季節を思うとうんざりするが、どこか覚悟の決まった清々しい気持ちにもなる。山を下って昨年オープンしたばかりだという「道の駅おが・なまはげの里オガーレ」へ向かう。さすが男鹿だけあってハタハタなど海産物がたくさん売られていた。僕は夕食にしょっつる唐揚げ弁当を買った。予定ではこの後、海南慰霊碑に寄るはずだったがもうだいぶ外は暗く、寒さで疲れているのでそのまま秋田市へ戻った。

 

f:id:kotatusima:20191228233730j:plain(寒風山)

f:id:kotatusima:20191228233953j:plain北前船の碇)

f:id:kotatusima:20191228233745j:plain(海女さん)

f:id:kotatusima:20191228233753j:plain(寒風山展望台)

 17時半過ぎ、Fさんに頼んで秋田県立図書館・公文書館で車を降ろしてもらった。私の先祖についてなにか手がかりがないか調べるためだ。図書館のレファレンスコーナー訊くも鷹栖町史くらいしかないとのこと。人名録にもなにもヒントはない。公文書館のレファレンスはなんと17時半で終わっていた。一応検索してみたがあまり参考になりそうな情報は出てこなかった。そのまま19時の閉館までいた。県庁前からバスに乗って新屋まで戻った。しょっつる唐揚げ弁当は食べたことのない何とも言えない風味がした。

 

 

 

 ⑧につづく・・・。

 

 

 

秋田日記⑥ 2019.11.13.

 

f:id:kotatusima:20191228221404j:plain(丁刃森方角石)

 
 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。⑤の続き。

 

 

 

11月13日 にかほ北前船紀行

 

由利本荘市郷土資料館へ

 

 6時過ぎに起床。せっかくホテルに泊まっているのだからと、贅沢に6時半ころから朝風呂に入った。7時から朝食。卵焼きは冷たかったが味は悪くない。朝食後、ホテルの小さなロビーに象潟町史があったのでぱらぱらめくってみた。8時ころ出発。この日は朝から象潟、金浦、仁賀保と北上していき最後に由利本荘の郷土資料館を見るというハードスケジュールの予定だったが、郷土資料館にどのくらい時間がかかるか読めないのと、とにかく仁賀保に見るところが多いので後まわしにしたかったのと、なるべく金浦や仁賀保で絵を描く時間を稼ぎたかったので先に由利本荘に行って資料館を見てから金浦、仁賀保に行くことにした。いずれにしろハードスケジュールには変わりないが、この選択が吉と出るか凶と出るか…?

 電車で象潟駅から羽後本荘駅に移動、駅からは歩いて由利本荘市郷土資料館へ向かい、9時20分ころに着いた。ここでは藩政時代の資料はもちろん、鳥海山信仰の資料や伝統工芸である「ごてんまり」や「本荘刺し子」、「本荘こけし」のほか、北前船関係では松前から深浦、能代、土崎、古雪、平沢、金浦、象潟、酒田などの沿岸部の地域間交流で活躍した「帆前舟」の模型や北前船の碇、船箪笥などがある。企画展示室は建設中の鳥海ダムに沈んでしまう予定の百宅という集落のマタギに関する資料を展示していた。だいたい1時間くらいで見終わった。後日11月15日にガイドの方をお願いして由利本荘市には来ることになるのだが…。

  

f:id:kotatusima:20191228221920j:plain(ごてんまり)

f:id:kotatusima:20191228221935j:plain(帆前舟)f:id:kotatusima:20191228221940j:plain(越前瓦)

 

・金浦湊

 

 由利本荘市内から金浦駅へバスで向かう。本荘第一病院前のバス停に少し早めに着くと、すぐ象潟行きと書いてあるバスが来た。少し早いのでおかしいなと思いながらも行き先は合っていたため乗車した。機械から整理券がうまく出なかったが運転手さんが横の蓋を開けて何やらいじるとすぐ出てきた。不安になって運転手さんに「にかほの方行きますか」と訊ねると「いぐいぐ」と答えた。近くの大きい病院まで行ってお年寄りをたくさん乗せるとバスは元来た道を引き返した。一部循環線になっているということらしい。うとうとして気が付くと仁賀保駅の近くだった。建物の外壁にはTDKの文字があった。空は気持ちの良い快晴。潮の香りがバスの中にも漂ってくるような気がする。

 11時半頃、金浦の「上町」というバス停で下車し港へ向かって歩き出す。ここ金浦湊での目当ては方角石と、廻船問屋が奉納したという日枝神社の鳥居や石像だ。昨日、象潟郷土資料館でも訊いたのでだいたいの目星はついているが、正確な場所は行ってみないとわからない。

 

f:id:kotatusima:20191228222544j:plain(瓦屋根のむこうに鳥海山が見えた)

 

 港近くに二つの小山をもつ公園があった。草木にだいぶ覆われていたが道だけは植物が刈られていた。低い松の枝の下をくぐって這うように小山の石段を登っていくと扉の閉まった小さな神社があった。なんの看板もなくどのような神様をお祀りしているのかもわからない。林を抜けると急に開けて、もう一つの小山へ行ける。階段を降りると白瀬矗(1861〜1946)の大きな顕彰碑が設置されていた。南極探検で有名な白瀬はこの近くの出身で記念館もある。

 

f:id:kotatusima:20191228222528j:plain(松のトンネル)

f:id:kotatusima:20191228222554j:plain(白瀬の顕彰碑と鳥海山


 もう一つの小山に登ると竹藪に埋もれるように石碑があり、その下の坂を下ると日枝神社の裏手に出た。お堂の周りにはいくつか小さな社があり、灯篭のそばに阿吽の猿の石像があった。日枝神社には必ずある独特な形の山王鳥居の向こうには水路が見えた。猿の石像を描いたあと、予定のバスを一本遅らせて13時過ぎまで山王鳥居の絵も描いた。

f:id:kotatusima:20191228222627j:plain(すごい竹藪)

f:id:kotatusima:20191228223115j:plain(山王鳥居が見える)

f:id:kotatusima:20191228222827j:plain

f:id:kotatusima:20191228223047j:plain


 方角石があるのは港から橋で渡った先の灯台が建つ島だ。「沖の弁天大橋」という橋を渡ると十二支が彫られた方角石があった。すぐ近くの小さな社には素朴な恵比寿様の石像が祀られていた。バス停へ向かう。港には小舟がたくさん係留され、野良猫が食パンの欠片にかじりついていた。暖かい。汗が出そうなくらいの陽気だ。

 

f:id:kotatusima:20191228222806j:plain(金浦湊の灯台

f:id:kotatusima:20191228223254j:plain(方角石と小さい恵比寿社)

f:id:kotatusima:20191228223307j:plain(金浦港)


 

・高昌寺と方角石

 

 13時46分に「上町」のバス停まで戻り10分ほどバスに乗り、「三ツ森入口」で降りた。そこは近くに人家の見当たらない草ぼうぼうの空き地のただなかの一本道沿いだった。

 不安になりながらもグーグルマップを頼りに海辺の集落へ向かって歩いていく。風になびく薄の向こうに鳥海山が見えた。稲を刈り終わった田んぼの中にぽこぽこといくつか小山があり、そのうちの一つに斜面に墓石がずらっと並んでいるのが遠くからでもよく見えた。その麓に森嶽山高昌寺がある。文政年間(1818〜1831)に住職が佐竹藩の御用船を救助した功により「弁天丸」という立派な北前船の模型が贈られたという。当時のものは火災で焼失しているが、明治時代に作られた現在の弁天丸は毎年御神輿として使われ町内を一周している。お堂のなかには本尊と並んで弁天丸が置かれていた。ただの模型というよりは厨子のように使われている。祭壇に賽銭箱や経典、太鼓や蝋燭立てが置かれ、ちゃんと弁天様の像が載っている。さぞ船乗りたちの信仰を集めたことだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228223833j:plain鳥海山

f:id:kotatusima:20191228223612j:plain(弁天丸)

 

 高昌寺の寺僧さんに北前船に関する史跡や文化財を見て回っているという話をすると、近くの山に方角石があるというので行ってみた。まず、恵比寿神社のある山に登ってみたがここには方角石はなかった。

 もうひとつ、高昌寺の背後の小山の上には「三王森の方角石」と呼ばれる方角石があった。案内板のようなものは何もなく地面に埋もれるようにして置かれているので注意しないと気が付かないかもしれない。振り返るといくつか石碑とほこらが並んでおり、「鳥海山」と彫られた石碑の向こうにはまさに堂々と鳥海山がそびえていた。階段を降りていくと「避難場所 山王森」と書かれた看板があった。きっとこの山も日和山として使われたのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228223619j:plain恵比寿神社のある小山)
f:id:kotatusima:20191228223602j:plain(鳥居は鉄パイプを溶接して作られていた)

f:id:kotatusima:20191228224055j:plain(三王森の方角石)

f:id:kotatusima:20191228224058j:plain鳥海山

 

・にかほ散歩

 

 15時頃から仁賀保の街中へ向かって歩いていく。象潟でも金浦でも感じたことだが、海沿いの集落は揃って黒い瓦を乗せた屋根が続く立派な街並みをもっている。鯱鉾を載せた家も見かけた。もっともこれは海からの強い風に備えてのことでもあるのだろう。

 海辺の道を歩いていると、傾いた鳥居のある小さい社を見つけた。弁天様が祀られているのか、それとも恵比寿様かと思って鳥居をくぐると社の中にはただ大きな石が置かれていた。これはだれがいつどうして祀ったものなのか。気味が悪いような、それでいて厳粛な、不思議な気持ちに駆られてそっと10円玉を置いて手を合わせてきた。テトラポッドが途切れたところで浜におり波で洗われた石を拾ったりしつつ歩いた。ついつい寄り道が多くなる。

 

f:id:kotatusima:20191228223948j:plain(黒い瓦)

f:id:kotatusima:20191228223859j:plain(小さな社)

f:id:kotatusima:20191228223958j:plain仁賀保の海)


 高昌寺から40分ほど歩くと左手の海沿いに東屋のある小山を見つけた。大沢橋を渡ると「建武碑・方角石入口」と書かれた標柱がたっていた。様々な石碑がごろごろ置かれている小山の階段を登ると立派な屋根に守られた石碑があった。これにはなんでも建武四(西暦1338)年の年号が彫られているそうだ。「丁刃森の方角石」と呼ばれる方角石はさらにこの建武碑の横の階段を登った上にあった。この小山はTDKの資料館の向かって左手にある。自分で予定していたより30分くらい遅く着いてしまったけれど、まだ明るい。必死で絵を描く。だんだんと暗くなってくる。30分そこそこで方角石と一緒に小山の北側の港を描く。描きながら能代港の展望台からみた白神岳のことを思い出した。この先に北海道もあるのだなぁとぼんやりと考えながら手を動かした。描き終えようとすると地元のひとだろうか、階段を若い女性が登ってきたので会釈した。夕暮れ時の海をスマホで写真に撮っていた。僕がもし仁賀保の町に住んでいたら夕方には度々ここに来て海を眺めるだろう。そう思えるくらい気持ちのいい場所だった。

 

f:id:kotatusima:20191228225321j:plain

(丁刃森の方角石)

 

 16時20分頃、暗くなる前に飛良泉本舗の外観の写真だけ撮って、すぐ向かいの仁賀保勤労青少年ホームへ行った。ここには「恵比寿森の方角石」があるとだけ聞いていたが、それは斎藤宇一郎記念館の中にあるらしい(斎藤宇一郎・憲三父子については秋田県立博物館でもちょうど展示されており、ここから貸し出された資料もあるようだった)。記念館といっても一部屋だけの小さな記念室程度のものだろうとたかを括っていたが、斎藤の事績を紹介する記念室とは別に上階にそれなりの広さの展示室が二つあって仁賀保の遺跡や城跡、大名の仁賀保家やTDKの資料をちゃんと紹介している。展示物は30年くらい更新されていなさそうだが立派な歴史博物館だった。これは誤算だった。頑張って駆け足で見学する。仁賀保地域には平沢湊と三森湊があったが決して地理的な条件は十分ではなかった。それでも多くの廻船問屋があり沖に停泊した船と取引していたという。展示物としては上方から運ばれた瓦のほか、明治時代に三森の今井三之助という人物が樺太(サハリン)と交易していたことを示す函館税関の書類が興味深かった(秋田は函館税関の所管なのだ)。ここにある「恵比寿森の方角石」はおそらく高昌寺の寺僧さんが言っていた恵比寿神社のある山に以前あったものだろう。農機具の展示室には「農民画家」の荘司玉宛(臣作)氏による昔の農作業の様子を描いた素朴な絵がたくさん並んでいたが、あまりしっかり見る時間がなく残念だ。

 

f:id:kotatusima:20191228225334j:plain(恵比寿森の方角石)

f:id:kotatusima:20191228230009j:plain(函館税関の書類)

 

・飛良泉と帰り道

 

 17時ころ、酒造の飛良泉本舗へ行く。室町時代の1487(長享元)年創業で、日本で3番目に古いと言われる老舗中の老舗だ。江戸時代は廻船問屋を営んでいた。漆喰の壁を持つ立派な店舗は薄暗く、中で蔵と繋がっていた。この蔵は遠縁にあたる斎藤宇一郎家から貰ったもので、ごろごろと曳家をして持ってきたとのことだ。実際に酒造りをしている蔵の内部は見学できないのだが、平沢港に漂着した亀の甲羅に飛良泉と彫られたものが飾られ、酒林がぶら下がっていた。小売りもしている。ついでに日本酒をいくつか試飲した。リンゴ酸が強く働くことで果物のようなすっぱい味になったのものや蔵に飾られていた破魔矢から採取したオリジナルの酵母を使ったものなど味が全然違うのがおもしろかった。17時半過ぎ、ほろ酔い気分で飛良泉を出て仁賀保駅へ向かう。しかし駅前に来てみてもコンビニひとつないので、唯一空いていたパン屋で明日の朝のためにあんぱんやら焼きそばパンやらを買い、夕食かわりに唐揚げパンとかぼちゃあんの入ったパンを買って、電車を待ちながら食べた。18時30分過ぎの秋田行きに乗車。窓の外は真っ暗。うとうとしてつい居眠りした。新屋駅で降り、滞在場所に着いたのは20時前だった。明日から天気が悪くなると聞いていたのでコインランドリーで洗濯して乾燥までやってしまうことにした。洗濯が終わるまでの間、平福百穂の評伝を読んでいた。洗濯を袋に詰め込んで歩きだしたら急に強い雨が降り出した。近くの民家で雨宿りをしつつ帰った。着いたら21時半だった。シャワーを浴びて、布団に横になりながら佐藤家の家系図を書いてみた。0時ころ就寝。

 

f:id:kotatusima:20191228225246j:plain(飛良泉本舗の外観)

f:id:kotatusima:20191228225252j:plain(日本酒の試飲)


 

⑦に続く・・・。

 

 

 

秋田日記⑤ 2019.11.12.

f:id:kotatusima:20191228205615j:plain

(髷絵馬 象潟金刀比羅神社所蔵)


 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

 ④のつづき。

 

 

 

11月12日 象潟の船絵馬と髷絵馬

 

・象潟へ

 

 6時起床、身支度を済ませて駅へ。ちょうど朝日が登ってくるころで、だんだん明るくなってくる。駅には余裕をもって電車が出る10分前についた。7時ころ、羽越本線酒田行きに沢山の学生たちと乗り込む。小雨がぱらついているのだろう、電車の窓に水滴がついていた。外は曇り空で時々雲の切れ間から日が射している。一昨日来た松ヶ崎を通った。浜に松が生えている景観はあの砲術絵馬が奉納された頃から変わっていないのだろうかと思った。車内は席がほとんど埋まって、だんだん立つ人も出るくらいになってきた。これだけ学生が乗っていると友達と一緒に通学している人もあろうに大変静かだ。この静かさが、まじめな秋田県民の県民性と関りがあるといえるかどうか。

 由利本荘駅の手前、子吉川に架かる橋の上から虹が見えた。グーグルマップで見ていた金浦駅は「かねうら」じゃなく「このうら」なのか、と、電車の放送でこの時初めて知った。8時05分、 象潟駅に到着。どこもかしこもトイレのピクトグラムまでも、象潟出身の版画家である池田修三の作品ばかりだった。駅前を真っ直ぐ海の方へ歩いていくと、塩越湊につきあたる。浜にある「沖の棒杭」は北前船を繋いでおいた石製の杭で、いまも沖合の波間に立っているものがある。さほど寒くはないがひどく風が強く、砂山をシャベルで崩していた。絵を描こうにも紙がめくられ飛ばされそうになる。クリップを忘れてきたことを後悔するが、ボールペンのクリップ部分で代用してなんとか描いた。9時半ころまで描いたがパレットも絵の具もかばんも何もかも砂まみれになった。ちょうど昨日、能代で見てきた「風の松原」のような砂防がいかに大事か、身をもって知れたのがちょっと面白かった。

 

f:id:kotatusima:20191228211349j:plain由利本荘の虹)

f:id:kotatusima:20191228211324j:plain(塩越湊・沖の棒杭)

 

・象潟郷土資料館

 

 10時ころから象潟郷土資料館を見学。入るとすぐ右手に大きな碇が展示されていた。館長様にご挨拶して、過去の北海道や北前船と関係する展示の資料をいただいた。浜で絵を描いてきたことを伝えると、「夏はまだいいのだが秋冬は風が強く砂がたまる」と仰っていた。象潟といえば平安時代能因法師西行法師が詠んだいわゆる歌枕の地であり、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の目的地の一つでもあった。その文人墨客たちの憧れの地だった大小百前後の島が浮かぶ景観は1804(文化元)年の地震の際の隆起で失われ、今は水田の合間に島だった丘が点在している。2階の企画展示室は今年が「おくのほそ道」紀行から330年であることにちなみ、象潟の景観や象潟を訪れた与謝蕪村小林一茶菅江真澄正岡子規など文人にまつわる特集展示となっていた。「象潟図屏風」は由利の殿様が江戸でお国自慢をするために描かせたと言われるものだが、その中にも北前船を思わせる船が帆を張って描きこまれている。北前船の小さな模型も会った。3階に上がると池田修三の作品やエスキースを展示した部屋があり、さらにその奥の部屋、古い農具や民具がたくさん置かれた反対側に、昨年日本遺産の追加認定を受けてつくったという北前船のコーナーがあった。方角石や弁財船の模型、船の通行証、方位磁石、珠洲焼の壺などが所狭しと並ぶ。ここにも船絵馬がたくさんある。その中でひときわ目を引くのは「髷絵馬」だ。船乗りが航海中に嵐に遭った際、神仏に祈るため髷を切り、無事に帰ることができたのちに奉納したものだ。五角形の板に髷が何本か括り付けられている、大変生々しいものだ。展示されているのは象潟の金刀比羅神社のもので、そのほか象潟小学校近くの妙見堂にもあるとのことだ。また、ここにはアイヌの伝統的な衣服であるアットウシなども展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20191228211541j:plain

(アットゥシとチカラカラぺ 象潟郷土資料館所蔵)

 

 12時すぎまでじっくり見学。近くのスーパーでおにぎりを買い、食べながら次の目的地へ早歩きで向かう。ちょうど約束の13時頃、戸隠神社に到着。宮司様がもう来てくださっていた。

 

戸隠神社と古四王神社の絵馬

 

 小さな境内には松尾芭蕉の足跡を記した看板もある。ここにある1780(安永九)年奉納の「永久丸」の船絵馬は秋田県内最古の船絵馬だ。塩越湊周辺の16の神社には全部で約130点の船絵馬があるという。ここにも髷絵馬があった。「日本遺産」にはここ戸隠神社の船絵馬が登録されているが、元は古四王神社にあったものを、先々代の宮司が寂しいと言って戸隠神社に移したもので、今更戻すわけにはいかずそのままにしているとのことだ。また、ここにはおそらく巴御前を描いたらしい立派な武者絵馬もあった。1861(文久元)年の奉納で、落款はみえない。

 近くの古四王神社に移動。お堂に掲げられた扁額は亀の甲羅を使っていた。宮司様によれば以前はもっとたくさん船絵馬があったとのことだが、それでも随分多く感じる。この辺りではもっとも多くの船絵馬を持っている神社だろう。特に一枚の絵馬に船が二隻描いてある船絵馬が多いところは少ないらしい。また1933(昭和八)年奉納の白馬を描いたかなり立派な絵馬があった。お堂の内部にある「古四王」の大きな社号額は本荘藩十一代藩主の六郷政鑑(1848〜1907)の真筆。一通り船絵馬を見せてもらい、お堂から出ようと靴紐を結んだら切れてしまった。帰りがけに確認すると、1862(文久二)年奉納の石鳥居に「佐々木彌吉 佐々木小左衛門 氏子中」とあった。同姓同名の可能性もあるが、佐々木彌吉は磯谷の場所支配人、佐々木小左衛門は小樽高島や宗谷の場所支配人だった人物の名だ。鳥居の脇にも謎の石製円柱があり、棒杭のように見えるけれど宮司様には分からないとのことだ。宮司様にお礼を言って15時半頃、古四王神社を出た。

 

f:id:kotatusima:20191228211549j:plain戸隠神社

f:id:kotatusima:20191228211554j:plain(古四王神社)

 

・物見山

 

 住宅の中を進み「物見山」へ向かう。瓦屋根の街並みがなかなか立派だ。あちこちに芭蕉の足跡を示す看板があった。途中見かけた公会堂は、象潟出身で、北海道で財を成し札幌区会議員も務めた奥山角三(1864〜1936)が寄付したものだ。海岸沿いの道を歩いていくと海津見神社があり、その背後の小山は1864(元治元)年に海岸防備のため設置された「青塚山砲台跡」になっている。小山に生えた木が海からの風のせいだろう、ぐにゃっと曲がっていた。16時ころ、さらに海岸沿いを北上していくと小さな港があり、その向こうに東屋が見えた。そこが物見山だ。おそらく北前船の船頭たちもここから海を眺め、日和を見たことだろう。山の麓には小さな墓地があり、坂の途中に鳥居と自然石の屋根を持つ風変わりな石の社があった。夕暮れ時である。だいぶ風が強い。砂が入ったのか、それとも塩水でやられたのか、なんだか目が疲れた。赤から橙色、そして夜の黒色に染まっていく海を絵に描いた。美しい景色だがあまりに素早く移ろってしまう。17時前、もう暗くなってきて絵が描けなくなってきたので宿に移動した。

 

f:id:kotatusima:20191228213417j:plain青塚山砲台跡)

f:id:kotatusima:20191228213426j:plain(ねこ)

f:id:kotatusima:20191228213420j:plain(物見山の斜面にあった小さな神社)

f:id:kotatusima:20191228213441j:plain

 

 夕食をスーパーで買って18時頃にホテルにチェックイン。小さなフロントには秋田犬カレンダーが掛かっていた。部屋で夕食の天丼とタラコスパゲッティサラダを食べてからお風呂へ向かう。貸し切りだった。小さな浴槽は「古代檜風呂」といい森林浴と同じ効果があるとのこと。23時ころ就寝。

 

f:id:kotatusima:20191228213430j:plain(ホテルで見た秋田の天気予報)

 

 

 

⑥に続く・・・。