こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記⑪ 2019.11.18.

f:id:kotatusima:20191229140405j:plain(中山人形)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。

  ⑩の続き。

 

11月18日 中山人形と平福穂庵展、旅の終わり

 

横手市

 

 6時過ぎに起床。朝食の弁当を急いで食べる。会計を済ますと旅館のご主人が車で駅まで送ってくれるという。出がけに旅館のおかみさんと、最近寒くなってきましたね、などと言葉を交わした。「寒いとなかなか応えますね、でも寒いと空気が澄んで、そんなに悪くないですよ」と言っていた。私も同じ気持ちだ。これこそ雪国で暮らしてきた人間の思想だと思う。

 切符を買ってホームにある暖かい待合室で電車を待った。7時半過ぎの横手行きからはどっと学生が降りてきた。空いた座席に入れ替わりで乗り込む。途中、後三年駅を通過。「あの後三年合戦の後三年か!」と、つい駅名に反応してしまう。8時前に横手駅に着いた。改札の横には小さな熱帯魚の水槽があった。まだ観光地らしいところはどこも開いていない。ゆっくり今日の目的地である秋田県立近代美術館に歩いていこうかと考えつつ駅前のコンビニに寄ると横手の郷土玩具「中山人形」の十二支の土鈴が飾ってあった。店員さんに訊くと開いているか分からないが近くに工房があるとのことで、すぐスマホで調べてダメもとで行ってみた。駅から歩いて数分、工房のインターホンを押すと急な訪問にも関わらず快く対応していただけた。

 

・中山人形

 

 中山人形は、江戸時代後期に鍋島藩から来た野田宇吉という陶工の息子金太郎の妻よしが、もともと器などを作っていた傍らで義父から習って作ったのがはじまり。以前は横手市内の中山地区で作っていたためこの名がついている。「宇吉は全国で土人形を見てきただろうし、よしのおばあさんが殿様の乳母をやっていて歌舞伎が好きで、はじめ歌舞伎の人形を作ったところからお雛様など種類が増えていったのだろう」とのこと。人形一本になったのは明治7年ごろからだという。

 工房のガラスケースにはたくさん人形が飾られていた。「いままで作られてきた人形の種類は正確には分からず、型があっても彩色がわからなかったり、人形があっても型がないという種類もたくさんある。同じ横手市内の増田の街並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されたあと蔵からたくさん古い中山人形が出てきて、そういうものを貰うこともある」のだそうだ。いま土人形を作っているHさんは五代目。「三代目より前はわからないけれど、模様、顔、粘土の色でだいたいだれが作ったかわかる。昔の作品や人形の原型に身内の指紋が残っているのを見つけると、その時代に先祖が生きていて仕事をしていた証拠のように思える。昔と今が指紋で繋がるという他所の家では無い経験をしている。恐竜の骨を発掘する人が喜ぶ気持ちもわかるような気がする」と仰っていた。なるほどたしかに縄文土器のように土は焼けば形が何千年も残る。もちろん土鈴も土人形もその形がずっと残っていく。

 中山人形は最近は若い人にも人気が出てきたそうで「プラスチックじゃないもんで珍しがられているのかも」「もとは玩具だからピカピカなままで飾られていたものよりも、汚れたり剥げたりした人形が戻ってくると風格を感じる」とのことだった。またHさんは工房に来た若い人によく、「生きてるうちにおじいさんやおばあさんに昔のこと聞いておいた方がいいよ、お寺などを辿ってみな」と言っているという。それは仕事を継いでから中山人形という家業の歴史にわからないことが多いとわかり、自身のおじいさんからもっと昔のことを聞いておけばよかったと後悔しているからで、おじいさんが生きていれば簡単に訊けたことをいまやっと調べたり親戚のおばさんに訊いてわかってきたところだそうだ。「ルーツを探ることを求める先祖の気持ちが今の代を動かしていくのかもしれないし、それで先祖が喜んでいたりうかばれているかもしれない。よく人間は二度死ぬというけれど、ルーツを調べることが個人の仕事であり役割だとも感じる。今生きていることの厚みや深みが出てくる」という言葉は、秋田に先祖のことを調べるために来た自分にとってあまりにふさわしく、それを予定になかった訪問先で聴けたのは自分でも出来すぎた話のように思われた。自分が秋田に来た目的について説明すると「秋田県にただ観光に来るだけではなくて、目的があって何回も調べていけば、きっとそれはまず年輪のような厚みになると思う」と言葉をかけてくださった。

 Hさんは「中山地区にあった昔の仕事場の雰囲気を五感で知って体感している。それが分からないと中山人形について話せないところがあるのではないか。伝統は歴史が知識として入っていたり技術を守るだけでなく、その時代の風景、背景を、雰囲気を子供ながらに体で覚えたからこそ語れるのかなと思うし、明治時代のことを読んだり聞いたり昔の仕事場を知っているからできるのであって、ただ古い型で作れば伝統になるというものではない。お客さんにお話しするのも、調べるのも仕事だ」と仰っていた。

 せっかくなので土鈴を買って帰ろうと思った。ガラスケースには色鮮やかでかわいらしいハタハタの土鈴があった。それを見て、冬になると札幌の実家でよくハタハタの飯鮓を取り寄せて食べていたことを思い出した。それは秋田の親戚から送られたことがきっかけで取り寄せるようになったものであり、今思えばハタハタは数少ない私と秋田とのつながりの証拠のようなものだ。私はハタハタと、作り立てであろう来年の干支のねずみと、胴体に牡丹が描かれた眠り猫の土鈴を買って帰ることにした。9時半頃、工房を出て徒歩で美術館まで向かった。

 

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f:id:kotatusima:20191229134059j:plain(中山人形の工房)


秋田県立近代美術館

 

 秋田県立近代美術館は「秋田ふるさと村」という施設内にあり、プラネタリウムや工芸の工房、お土産屋街などがあるようだ。たくさん彫刻が設置されている円形の広場をぬけ、2本の柱の上に横に長い展示室が乗ったような形が特徴的な館内へ入る。館内にも見覚えのある日本の近代の彫刻作品がたくさんあった。入り口には「没後一三〇年 平福穂庵展」の文字の横に「描いて 旅して 生きてゆく」とあった。私もそのように生きてみたいと思った。企画展示室に着くまでは長い長いエスカレーターを登っていく。

 平福穂庵展は全4章に分かれていた。第一章「郷里・角館と京都ー円山四条派に立つ」では、十代で京都に遊学するまでの間に影響を受けた絵師の作品や粉本が並ぶ。絵を好んだ父・太治右衛門(1823〜1877、号は文浪)とともに四条派絵師である武村文海(1797〜1863)に学んだ穂庵(当時は文池の号を用いた)は、推されて久保田(現・秋田市)で学んだり阿仁の旧家で古画の模写に励んだ。また川口月嶺(1811〜1871)のような「移動する画家」が穂庵の旅を重ねるライフスタイルに影響を与えた可能性を指摘している。また平元謹斎(1810〜1876)という蝦夷地へ渡ったことのある儒学者との交流を示す寄せ書きも残っており、蝦夷地に渡る前の穂庵が角館でも情報を手に入れることができたことが伺える。興味深かったのはアットゥシをまとう女性が描かれた演目不明の芝居絵で、江戸時代後期の歌舞伎では異人や水を連想させる役柄でアットゥシが用いられたそうだ。

 第二章「北海道遊歴と公募展での受賞ー画家としての模索期」では、穂庵が北海道で獲得したアイヌという画題や殖産興業を目的とした官設公募展に出品した出世作「乞食図」などが展示され、画業を深化させ公的な評価を得ていく様が分かる。特に穂庵による「アイヌ絵」は私がもっとも見たかったものだ。今回見られたのは数点だが、函館滞在時の穂庵が実見したであろう平沢屏山(1822〜1876)などの手による過去のアイヌ絵を踏まえて、それらを写すだけではなく構図を練りモチーフを咀嚼した痕跡が感じられた。

 第三章「秋田から東京へー転機 東洋絵画会への参加」では、東京へ進出した穂庵の充実していく画業を紹介。上京時には、同郷(秋田市生まれ)の寺崎広業(1866〜1919)も一時、穂庵の下に滞在していたようだ。

 第四章「旅の終わり、画業の円熟」では晩年の作品とともに息子の百穂の作品も展示されている。晩年の穂庵の代表作であろう「乳虎」などが展示されていた。また展示替えで見られなかったが円山派の絵師である蠣崎波響(1764〜1826)の鮭の絵の模写も展示されるようだ。波郷は若いころにアイヌの指導者を描いた「夷酋列像」を制作している。穂庵が亡くなったのは百穂が13歳の時であり直接絵を教わる機会は少なかったようだが、百穂は「アイヌ」や「田舎の嫁入り」など穂庵と同じモチーフの作品を描き、写生を重視した近代日本画の追求という意味では穂庵の仕事を継承発展させたといえるのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191229134103j:plain秋田県立近代美術館

f:id:kotatusima:20191229134108j:plain(「描いて 旅して 生きてゆく」)

f:id:kotatusima:20191229134112j:plain(穂庵が描いたアイヌ

f:id:kotatusima:20191229134117j:plain(「百穂くん」)

・旅の終わり

 

 12時半頃に見終わり、隣接する秋田ふるさと村内の「ふるさと市場」で昼食にした。家族連れでにぎわっていた。美術館はかなり空いていたがここには親子連れがたくさんいた。横手焼きそば(550円)を注文。やきそばに半熟の卵がのっている。

 

f:id:kotatusima:20191229134128j:plain横手やきそば

 

 13時20分、横手駅行きのバスに乗る。駅に着くととたんに雨が降り出してきた。駅の中で時間を潰す。14時19分発の電車で秋田駅へ向かうも、疲れから乗車してすぐ寝てしまった。目が覚めると外はザーザーと大きな音をたてて雨が降るほどの荒天だった。空は真っ暗。15時半頃に秋田駅に到着。乗り換えて16時過ぎに新屋駅に着いた。すぐ滞在場所に戻って荷物を整理し始めたが、なかなかカバンが閉まらず苦労した。打ち合わせにだいぶ遅れてしまった。17時半頃、雨の中をFさんに迎えにきてもらえてとても助かった。大学で展示について打ち合わせて、19時過ぎに秋田駅まで車で送ってもらった。

 

 

f:id:kotatusima:20191229134136j:plain(窓の外は大雨)

 

 駅のキオスクでのみものを買い、20時過ぎにバスに乗車。まだ来ていない乗客がいるらしいが出発。疲れていたのでよく眠れた。翌朝6時半頃、予定より少しはやく東京に着いた。

 

 

 

 (完)