こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記⑥ 2019.11.13.

 

f:id:kotatusima:20191228221404j:plain(丁刃森方角石)

 
 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。⑤の続き。

 

 

 

11月13日 にかほ北前船紀行

 

由利本荘市郷土資料館へ

 

 6時過ぎに起床。せっかくホテルに泊まっているのだからと、贅沢に6時半ころから朝風呂に入った。7時から朝食。卵焼きは冷たかったが味は悪くない。朝食後、ホテルの小さなロビーに象潟町史があったのでぱらぱらめくってみた。8時ころ出発。この日は朝から象潟、金浦、仁賀保と北上していき最後に由利本荘の郷土資料館を見るというハードスケジュールの予定だったが、郷土資料館にどのくらい時間がかかるか読めないのと、とにかく仁賀保に見るところが多いので後まわしにしたかったのと、なるべく金浦や仁賀保で絵を描く時間を稼ぎたかったので先に由利本荘に行って資料館を見てから金浦、仁賀保に行くことにした。いずれにしろハードスケジュールには変わりないが、この選択が吉と出るか凶と出るか…?

 電車で象潟駅から羽後本荘駅に移動、駅からは歩いて由利本荘市郷土資料館へ向かい、9時20分ころに着いた。ここでは藩政時代の資料はもちろん、鳥海山信仰の資料や伝統工芸である「ごてんまり」や「本荘刺し子」、「本荘こけし」のほか、北前船関係では松前から深浦、能代、土崎、古雪、平沢、金浦、象潟、酒田などの沿岸部の地域間交流で活躍した「帆前舟」の模型や北前船の碇、船箪笥などがある。企画展示室は建設中の鳥海ダムに沈んでしまう予定の百宅という集落のマタギに関する資料を展示していた。だいたい1時間くらいで見終わった。後日11月15日にガイドの方をお願いして由利本荘市には来ることになるのだが…。

  

f:id:kotatusima:20191228221920j:plain(ごてんまり)

f:id:kotatusima:20191228221935j:plain(帆前舟)f:id:kotatusima:20191228221940j:plain(越前瓦)

 

・金浦湊

 

 由利本荘市内から金浦駅へバスで向かう。本荘第一病院前のバス停に少し早めに着くと、すぐ象潟行きと書いてあるバスが来た。少し早いのでおかしいなと思いながらも行き先は合っていたため乗車した。機械から整理券がうまく出なかったが運転手さんが横の蓋を開けて何やらいじるとすぐ出てきた。不安になって運転手さんに「にかほの方行きますか」と訊ねると「いぐいぐ」と答えた。近くの大きい病院まで行ってお年寄りをたくさん乗せるとバスは元来た道を引き返した。一部循環線になっているということらしい。うとうとして気が付くと仁賀保駅の近くだった。建物の外壁にはTDKの文字があった。空は気持ちの良い快晴。潮の香りがバスの中にも漂ってくるような気がする。

 11時半頃、金浦の「上町」というバス停で下車し港へ向かって歩き出す。ここ金浦湊での目当ては方角石と、廻船問屋が奉納したという日枝神社の鳥居や石像だ。昨日、象潟郷土資料館でも訊いたのでだいたいの目星はついているが、正確な場所は行ってみないとわからない。

 

f:id:kotatusima:20191228222544j:plain(瓦屋根のむこうに鳥海山が見えた)

 

 港近くに二つの小山をもつ公園があった。草木にだいぶ覆われていたが道だけは植物が刈られていた。低い松の枝の下をくぐって這うように小山の石段を登っていくと扉の閉まった小さな神社があった。なんの看板もなくどのような神様をお祀りしているのかもわからない。林を抜けると急に開けて、もう一つの小山へ行ける。階段を降りると白瀬矗(1861〜1946)の大きな顕彰碑が設置されていた。南極探検で有名な白瀬はこの近くの出身で記念館もある。

 

f:id:kotatusima:20191228222528j:plain(松のトンネル)

f:id:kotatusima:20191228222554j:plain(白瀬の顕彰碑と鳥海山


 もう一つの小山に登ると竹藪に埋もれるように石碑があり、その下の坂を下ると日枝神社の裏手に出た。お堂の周りにはいくつか小さな社があり、灯篭のそばに阿吽の猿の石像があった。日枝神社には必ずある独特な形の山王鳥居の向こうには水路が見えた。猿の石像を描いたあと、予定のバスを一本遅らせて13時過ぎまで山王鳥居の絵も描いた。

f:id:kotatusima:20191228222627j:plain(すごい竹藪)

f:id:kotatusima:20191228223115j:plain(山王鳥居が見える)

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 方角石があるのは港から橋で渡った先の灯台が建つ島だ。「沖の弁天大橋」という橋を渡ると十二支が彫られた方角石があった。すぐ近くの小さな社には素朴な恵比寿様の石像が祀られていた。バス停へ向かう。港には小舟がたくさん係留され、野良猫が食パンの欠片にかじりついていた。暖かい。汗が出そうなくらいの陽気だ。

 

f:id:kotatusima:20191228222806j:plain(金浦湊の灯台

f:id:kotatusima:20191228223254j:plain(方角石と小さい恵比寿社)

f:id:kotatusima:20191228223307j:plain(金浦港)


 

・高昌寺と方角石

 

 13時46分に「上町」のバス停まで戻り10分ほどバスに乗り、「三ツ森入口」で降りた。そこは近くに人家の見当たらない草ぼうぼうの空き地のただなかの一本道沿いだった。

 不安になりながらもグーグルマップを頼りに海辺の集落へ向かって歩いていく。風になびく薄の向こうに鳥海山が見えた。稲を刈り終わった田んぼの中にぽこぽこといくつか小山があり、そのうちの一つに斜面に墓石がずらっと並んでいるのが遠くからでもよく見えた。その麓に森嶽山高昌寺がある。文政年間(1818〜1831)に住職が佐竹藩の御用船を救助した功により「弁天丸」という立派な北前船の模型が贈られたという。当時のものは火災で焼失しているが、明治時代に作られた現在の弁天丸は毎年御神輿として使われ町内を一周している。お堂のなかには本尊と並んで弁天丸が置かれていた。ただの模型というよりは厨子のように使われている。祭壇に賽銭箱や経典、太鼓や蝋燭立てが置かれ、ちゃんと弁天様の像が載っている。さぞ船乗りたちの信仰を集めたことだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228223833j:plain鳥海山

f:id:kotatusima:20191228223612j:plain(弁天丸)

 

 高昌寺の寺僧さんに北前船に関する史跡や文化財を見て回っているという話をすると、近くの山に方角石があるというので行ってみた。まず、恵比寿神社のある山に登ってみたがここには方角石はなかった。

 もうひとつ、高昌寺の背後の小山の上には「三王森の方角石」と呼ばれる方角石があった。案内板のようなものは何もなく地面に埋もれるようにして置かれているので注意しないと気が付かないかもしれない。振り返るといくつか石碑とほこらが並んでおり、「鳥海山」と彫られた石碑の向こうにはまさに堂々と鳥海山がそびえていた。階段を降りていくと「避難場所 山王森」と書かれた看板があった。きっとこの山も日和山として使われたのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228223619j:plain恵比寿神社のある小山)
f:id:kotatusima:20191228223602j:plain(鳥居は鉄パイプを溶接して作られていた)

f:id:kotatusima:20191228224055j:plain(三王森の方角石)

f:id:kotatusima:20191228224058j:plain鳥海山

 

・にかほ散歩

 

 15時頃から仁賀保の街中へ向かって歩いていく。象潟でも金浦でも感じたことだが、海沿いの集落は揃って黒い瓦を乗せた屋根が続く立派な街並みをもっている。鯱鉾を載せた家も見かけた。もっともこれは海からの強い風に備えてのことでもあるのだろう。

 海辺の道を歩いていると、傾いた鳥居のある小さい社を見つけた。弁天様が祀られているのか、それとも恵比寿様かと思って鳥居をくぐると社の中にはただ大きな石が置かれていた。これはだれがいつどうして祀ったものなのか。気味が悪いような、それでいて厳粛な、不思議な気持ちに駆られてそっと10円玉を置いて手を合わせてきた。テトラポッドが途切れたところで浜におり波で洗われた石を拾ったりしつつ歩いた。ついつい寄り道が多くなる。

 

f:id:kotatusima:20191228223948j:plain(黒い瓦)

f:id:kotatusima:20191228223859j:plain(小さな社)

f:id:kotatusima:20191228223958j:plain仁賀保の海)


 高昌寺から40分ほど歩くと左手の海沿いに東屋のある小山を見つけた。大沢橋を渡ると「建武碑・方角石入口」と書かれた標柱がたっていた。様々な石碑がごろごろ置かれている小山の階段を登ると立派な屋根に守られた石碑があった。これにはなんでも建武四(西暦1338)年の年号が彫られているそうだ。「丁刃森の方角石」と呼ばれる方角石はさらにこの建武碑の横の階段を登った上にあった。この小山はTDKの資料館の向かって左手にある。自分で予定していたより30分くらい遅く着いてしまったけれど、まだ明るい。必死で絵を描く。だんだんと暗くなってくる。30分そこそこで方角石と一緒に小山の北側の港を描く。描きながら能代港の展望台からみた白神岳のことを思い出した。この先に北海道もあるのだなぁとぼんやりと考えながら手を動かした。描き終えようとすると地元のひとだろうか、階段を若い女性が登ってきたので会釈した。夕暮れ時の海をスマホで写真に撮っていた。僕がもし仁賀保の町に住んでいたら夕方には度々ここに来て海を眺めるだろう。そう思えるくらい気持ちのいい場所だった。

 

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(丁刃森の方角石)

 

 16時20分頃、暗くなる前に飛良泉本舗の外観の写真だけ撮って、すぐ向かいの仁賀保勤労青少年ホームへ行った。ここには「恵比寿森の方角石」があるとだけ聞いていたが、それは斎藤宇一郎記念館の中にあるらしい(斎藤宇一郎・憲三父子については秋田県立博物館でもちょうど展示されており、ここから貸し出された資料もあるようだった)。記念館といっても一部屋だけの小さな記念室程度のものだろうとたかを括っていたが、斎藤の事績を紹介する記念室とは別に上階にそれなりの広さの展示室が二つあって仁賀保の遺跡や城跡、大名の仁賀保家やTDKの資料をちゃんと紹介している。展示物は30年くらい更新されていなさそうだが立派な歴史博物館だった。これは誤算だった。頑張って駆け足で見学する。仁賀保地域には平沢湊と三森湊があったが決して地理的な条件は十分ではなかった。それでも多くの廻船問屋があり沖に停泊した船と取引していたという。展示物としては上方から運ばれた瓦のほか、明治時代に三森の今井三之助という人物が樺太(サハリン)と交易していたことを示す函館税関の書類が興味深かった(秋田は函館税関の所管なのだ)。ここにある「恵比寿森の方角石」はおそらく高昌寺の寺僧さんが言っていた恵比寿神社のある山に以前あったものだろう。農機具の展示室には「農民画家」の荘司玉宛(臣作)氏による昔の農作業の様子を描いた素朴な絵がたくさん並んでいたが、あまりしっかり見る時間がなく残念だ。

 

f:id:kotatusima:20191228225334j:plain(恵比寿森の方角石)

f:id:kotatusima:20191228230009j:plain(函館税関の書類)

 

・飛良泉と帰り道

 

 17時ころ、酒造の飛良泉本舗へ行く。室町時代の1487(長享元)年創業で、日本で3番目に古いと言われる老舗中の老舗だ。江戸時代は廻船問屋を営んでいた。漆喰の壁を持つ立派な店舗は薄暗く、中で蔵と繋がっていた。この蔵は遠縁にあたる斎藤宇一郎家から貰ったもので、ごろごろと曳家をして持ってきたとのことだ。実際に酒造りをしている蔵の内部は見学できないのだが、平沢港に漂着した亀の甲羅に飛良泉と彫られたものが飾られ、酒林がぶら下がっていた。小売りもしている。ついでに日本酒をいくつか試飲した。リンゴ酸が強く働くことで果物のようなすっぱい味になったのものや蔵に飾られていた破魔矢から採取したオリジナルの酵母を使ったものなど味が全然違うのがおもしろかった。17時半過ぎ、ほろ酔い気分で飛良泉を出て仁賀保駅へ向かう。しかし駅前に来てみてもコンビニひとつないので、唯一空いていたパン屋で明日の朝のためにあんぱんやら焼きそばパンやらを買い、夕食かわりに唐揚げパンとかぼちゃあんの入ったパンを買って、電車を待ちながら食べた。18時30分過ぎの秋田行きに乗車。窓の外は真っ暗。うとうとしてつい居眠りした。新屋駅で降り、滞在場所に着いたのは20時前だった。明日から天気が悪くなると聞いていたのでコインランドリーで洗濯して乾燥までやってしまうことにした。洗濯が終わるまでの間、平福百穂の評伝を読んでいた。洗濯を袋に詰め込んで歩きだしたら急に強い雨が降り出した。近くの民家で雨宿りをしつつ帰った。着いたら21時半だった。シャワーを浴びて、布団に横になりながら佐藤家の家系図を書いてみた。0時ころ就寝。

 

f:id:kotatusima:20191228225246j:plain(飛良泉本舗の外観)

f:id:kotatusima:20191228225252j:plain(日本酒の試飲)


 

⑦に続く・・・。