こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

岩手県立博物館の常設展とテーマ展「教科書と違う岩手の歴史」後編

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前編の続き。岩手県立博物館のテーマ展示室へ向かう。

kotatusima.hatenablog.com

 

・「教科書と違う岩手の歴史ー岩手の弥生~古墳時代ー」の概要 

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 今回、博物館にわざわざ来たのはテーマ展「教科書と違う岩手の歴史ー岩手の弥生~古墳時代ー」を見たいがためだった。

 チラシには銅鐸や鉾、北海道島と北東北の地図の形に切り取られた稲の写真があしらわれ、背景は稲作を行う大規模集落のイラストになっている。展示を見た後だとこれらのモチーフの重要さが分かる。

 この展示では、縄文時代のあと飛鳥~奈良時代蝦夷(えみし)として岩手が日本史に「再登場」するまでの間、弥生~古墳時代の「空白期間」の歴史はどのようなものだったのかを、主に考古遺物から考察する。

 展示全体の構成としてはプロローグ「問題提起」から始まり、第1章で教科書に書かれている弥生~古墳時代の様相を、第2章で縄文時代の岩手の状況を確認したあと、第3章「弥生時代前半の岩手」から第6章「古墳時代の岩手」まで特に詳しく説明し、第7章「その後の岩手」までで通時的に中世までの岩手が辿ってきた歴史を紹介する。その後で補足的に「続縄文文化ー北海道の弥生~古墳時代」というコーナーがある。この構成から既に垣間見えるように北海道島の弥生~古墳時代の文化もこの展示のポイントのひとつである。

 

・プロローグ「問題提起」、第1章「教科書に描かれている弥生~古墳時代

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 ここからは会場のパネルの図や解説文、配布物などによって展示を概観していく。まずプロローグと第1章。

 岩手を含む北東北が教科書の歴史と最も違うのは弥生~古墳時代だという。この頃日本列島は朝鮮半島から稲作や金属器が伝わり中央集権国家へと向かう国家の形成期にあたる。

 縄文土器から弥生土器への移り変わりで言っても東日本の弥生時代の土器には縄文があり、西日本の縄文時代末期の土器にはすでに縄文が無いらしい。つまり「時代」より「地域」の伝統の方が強かったというわけだ。テストで出題されるような弥生時代の出土品では、例えば青銅器の代表格である銅鐸であれば近畿地方を中心に出土するのであり関東以北にはそもそも青銅器は無かった。このような農耕に関わる祭祀の道具は東北地方に見られず、北東北では木製の農具も見つかっていないとのことだ。地域によってそれだけのズレがあるのだ。

 

・第2章「縄文時代の岩手」

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 では弥生時代以前、縄文時代晩期の岩手は?といえば土偶の出土数が全国一位であることからもわかるように青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡を中心として北日本一帯に影響を及ぼした「亀ヶ岡文化」圏の中心地のひとつであった。縄文時代の岩手はほぼ教科書通りの狩猟採集生活で、当時は北日本の方が南よりも自然の恵みが豊かであったので余暇を土器など工芸品の作成や交易に費やすことができ定住生活でも頻繁に遠くへ移動していた。パネルの解説では文化的に「東高西低」だった、とまとめられていた。

  

f:id:kotatusima:20220214233118j:plain(中央:縄文晩期土偶、一関市相ノ沢遺跡、岩手県蔵 左:縄文晩期鼻曲型土面レプリカ、一戸町蒔前遺跡、一戸町教育委員会蔵)

 

・第3章「弥生時代前半の岩手」

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 ここ第3章から展示の本題に入る。弥生時代以後の岩手や北東北はどうなっていくのか?

 まず、弥生文化の定義をこの展示では「稲作を中心とした大陸由来の文化を核とする西日本に顕著にみられる文化」としており稲作の痕跡がひとつのポイントだということを押さえておきたい。

 北東北の稲作の伝播は地域差があった。意外にも津軽は海流のおかげで中部や関東より早く伝わっているとされ、北に向かう暖流によって稲作が可能であった(このことは展示の最後でまた触れることになる)。稲作以外の弥生文化日本海ルートをとり北東北へ伝わったとされ、その日本海ルートから外れている岩手には八戸を経由して最後にやってくるのだという。言い換えれば、朝鮮半島から岩手は最も遠かったのだ。

 弥生時代前半で顕著にみられる岩手の弥生文化の影響下にある産物は大陸系の管玉だけだという。弥生時代初期の土器の形式である「遠賀川式」の影響は一部要素を取り入れるに留まり、岩手で出土する石斧は必ずしも関東以南からの弥生文化が起源ではなく、北海道島が起源の説もあるらしい。

 弥生時代中期の岩手は、やはり水田跡はなく住居や石器は縄文時代と同じだが土偶は出土しなくなった。

 この時期にはクマを模した工芸品が出土するが解説パネルでは「北海道産品の模倣ではない」とされている。ブタみたいで手足が短く丸っこくてかわいい。弘前市の尾上山遺跡出土の青森県立郷土館蔵のクマ型土製品を思い出した。

 

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・第4章「弥生時代後半の岩手」

 

 弥生時代後半に入ると、ゲルマン民族の大移動や後漢の滅亡へつながる地球規模の寒冷期へ移行し、北東北は集落が激減する。胆沢川下流からは石包丁が出土し北上川との合流地点の南方では水田跡も発見されている。稲作が行われていたようだ。

 一方で南東北、特に仙台では弥生時代を通して水田が作られていたらしい。

 

・第5章「弥生時代終末~古墳時代初頭の岩手」

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 弥生時代末期~古墳時代初頭(3世紀頃)の岩手は最も教科書と違う時代だという。 

 この頃に特徴的なのは、地元岩手の形式である赤穴(あかあな)式の土器と北海道島の土器形式である後北(こうほく)式土器が一緒に出土し後北式墓地の跡も発掘されていることや、毛皮を加工するためと推測される黒曜石の石器が発掘されることだ。この毛皮加工も北海道島に住んでいた人々から来た習慣と言われている。

 これら当時の北海道島由来の文物は大規模な移民によってもたらされたのではないか、と指摘されていた。赤穴式土器は北海道でも出土するが歪んでいたり作りが薄く雑なものも多いらしい。一方で後北式土器は丁寧な作りで補修されている例もあり、東北と北海道で技術の差があったと考えられ、土器の出来栄えや出土量を考えると東北人の模倣ではなく移民による製作と推測されるというのだ。また、東北に数多くある「ナイ」や「ペツ」(川を意味する)が用いられたアイヌ語的な地名の広がりは後北式土器の分布と似ているらしく、後北式文化の人々がサケを中心とした河川漁労を主な生業としたことと通ずる。

 移民の理由にはいくつかの説がある。まず鉄製品が目的だったという説は、この頃の北東北に鉄器は伝わっていたものの豊富だったとは言い難く否定される。温かい地域に移動したのでは?という説に関しては、北へ向かう移民もいたことから理由にはならない。この展示では、後北式文化の人々が毛皮を加工し古墳文化の品々と交換していたことから獲物を求めて南下してきたか、後北式文化の人々が寒さに適応し出来栄えの良い土器を製作していたため技術指導で招いたのではないか、とされていた。

 

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・第6章「古墳時代の岩手」

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 古墳時代になると赤穴式土器は消滅し、関東以西で弥生土器に代わって使われるようになった土師器を東北でも使用するようになる。後北式土器は装飾が変化し北大式と名が変わる。古墳時代中期(5世紀)の墓からは土師器と北大式が出土するが墓制は後北式のままだ。後期(6世紀)には、ほぼ土師器のみが出土するようになる。

 古墳は大和政権とのつながりを示す墳丘墓のことだが、北東北では5世紀後半の角塚遺跡(岩手県奥州市)のみで、太平洋側のまとまった数の前方後円墳の北限である宮城県北部の大崎平野から50キロ北に位置する。これは北限の前方後円墳であり人型埴輪も出土している。この展示のプロローグでは角塚遺跡と胆沢城やアテルイの戦跡との関連性が示唆されていたが、それ以上のことは特に示されていなかった(アテルイらと朝廷の戦いは記録によれば8世紀末~9世紀)。周囲では角塚遺跡から2キロ北の胆沢川のほとりにある中半入遺跡は角塚遺跡の被葬者の居館とされ、ガラス玉、琥珀玉、大阪で作られた須恵器など古墳文化の産物が多くみられる一方、宮城県湯の倉産の黒曜石を使った皮革加工も行われており、さらに北海道に由来する土器も出土するため北海道から来た人々と地元の古墳文化の人々が一緒に住んでいた可能性もあるらしい。

 そのほか古墳文化の北上を示す文物に石製模造品があり、剣や鏡、日用品などをやわらかい石で作り古墳で死者にお供えしたり神事で用いたとされている。また、5世紀前後の近畿地方の古墳からは久慈産の琥珀玉が出土する。当時から採掘が行われていたことを示す遺跡があるという。

 

・第7章「その後の岩手」

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 ここからは古墳時代以降の岩手について。飛鳥時代(7世紀)には寒冷な気候が回復し竪穴住居や集落が増加、中央では仏教に影響を受けた飛鳥文化が花開くが全国的には「終末期古墳」と呼ばれる古墳が作られ続ける。岩手もその例外ではなく、特殊な地域ではなく一地方になっていく。ただし北東北では平安時代(9世紀)まで全国とは違う竪穴式の「末期古墳」が作られている。この頃、後北式土器は出土しなくなっているが北海道島との文化的な交流はうかがえる。7~8世紀頃の擦文文化(続縄文時代の後の文化)の影響を受けた文様が入った土師器が東北北部で作られていたり、北海道島の黒曜石が出土したり、北海道島で「末期古墳」が作られたりもしている。

 そして大化の改新(645年)後、朝廷から東北地方への支配が強まり8世紀後半にはアテルイ蝦夷(えみし)と呼ばれる人々と朝廷との戦いが起こり、岩手が教科書に「再登場」する。

 9世紀後半には戦費の増大から朝廷は税を納める限り蝦夷自治を認めるようになり蝦夷の中で覇権争いが起こる。その中で台頭してきた安部氏、そして安部氏が滅ぼされた後はその流れをくむ奥州藤原氏の時代となる。

 この展示では、中尊寺毛越寺に代表される平泉文化は岩手第二の繁栄期ではあるが中国や京都の真似をし価値が担保されている文化ともいえ、地元の技術で優れた工芸品を残した縄文晩期の亀ヶ岡文化のような、価値の担保と無縁な芸術品とは意味合いが違う、としている。

 藤原氏の滅亡後、中世の岩手は地方としては意外なほど教科書と同じであることに触れ、武士の居館の遺跡を紹介して第7章は終わる。

 

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(北海道島の文化の影響が指摘されている沈線文土器。盛岡市台太郎遺跡、岩手県蔵)

 

・「続縄文文化ー北海道の弥生~古墳時代」と研究史

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(北大Ⅲ式土器、江別市坊主山遺跡、岩手県立博物館所蔵) 

 

 さらにこの展示の補足として、章立てされていない「続縄文文化ー北海道の弥生~古墳時代」というコーナーが設けられ北海道島で縄文時代の後に続く「続縄文文化」や「恵山文化」、「後北式文化」の解説があった。遺跡の名づけについて、普通本州では小字を付けるところ、近代に「日本」に組み入れられた北海道には小字がなく便宜的に記号で付けられることが多いなど、こんなところにも北海道の特徴が表れるのかと思い面白かった。

 

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 さらにさらに、順路の最後には研究史に関するパネルがあった。

 「縄文学の父」と呼ばれる山内清男は精緻な土器型式編年網を作り、北海道島の縄文時代後の狩猟採集文化を「続縄文」と名付け、北海道島南部の恵山式土器に似ていることから、青森県津軽平野中央部にある田舎館村で出土する田舎館式土器を続縄文文化に含めた。山内はあくまで土器を問題とし続縄文と弥生の境を日本海側は秋田、太平洋側は青森としていた。

 その山内の薫陶を受けた伊東信雄は田舎館村垂柳遺跡の水田跡の発見(1981~1982、昭和56~57年ころ)を決定的な発見として田舎館式土器を弥生文化に位置付けた。この水田遺跡発見は当時冷害に悩まされていた北東北では驚きをもって迎えられたが、冷害が少なくなり後に「続縄文文化では稲作ができなかったのではなく選ばなかったのだ」という研究者さえ現れたという。発見から40年経った今日でも北東北での水田遺跡は津軽地方に限られており、上記第3章で説明されていたように、地球規模の寒冷化によって弥生時代中期後半以降は津軽でも稲作が継続されていなかった。

 ここまで確認してきたように一部でしか水田が発見されていないにも関わらず、北東北の弥生時代は一括で扱われがちで、日本海側と太平洋側の気候の違いなど地域によって異なる事情が考慮されていない。解説文の最後で、このような扱いは「白河以北一山百文」と同様であると難じて、展示は終わる。

 

 

・展示の感想

 

 ここまで長々と展示の様子を説明してきた。ここからは理解不足を恐れつつも展示を見た感想を書いていきたい。

 

 ここで最初に見たチラシを振り返ってみよう。岩手の弥生時代には存在しない銅鐸や鉾などの青銅器、寒冷であったためあまり行われていなかった稲作を行う集落のイラストが用いられていた。展示には不在のものがチラシに載っていることで逆に教科書でつくられたイメージの存在が浮かび上がってくる。北東北と北海道島の地図が稲穂の写真を背景にしていたのは、稲作に不向きだった地域同士の盛んな交流を思わせる。簡素な作りながら面白いチラシだった。

 
 この展示で私が特に興味を惹かれたのは弥生中期のクマ型土製品だ。解説では「北海道島産品の模倣ではない」とされている。熊にまつわる信仰と言えば、岩手県大迫町のアバクチ洞窟には儀礼の対象の可能性がある縄文後期のツキノワグマの遺体があったり、上でも触れたようにクマ型の意匠をもつ土製品が北東北で出土している。ヒグマであれツキノワグマであれその地に住む人々にとっては脅威だろうから北海道島の文化の影響があろうとなかろうと信仰の対象になることは想像に難くない。私が興味を惹かれるのは弥生中期のクマ型土製品以後の歴史だ。弥生末期~古墳初期の北海道島からの移民の信仰と北東北の在地のクマ信仰は交わっていたのか?それが後の北東北やアイヌ文化におけるクマ信仰にどう影響していったのか?同じ「クマ文化圏」としての共通点や相違点が今後、明らかになるといい。

 

 後北式土器の分布と、東北の「ナイ」や「ペツ」(川を意味する)が用いられたアイヌ語的な地名の重なりが指摘されており地図も掲示されていた。この説は興味深いものの、それをアイヌ語と呼んでいいのか、アイヌ語と日本の古代語や現在の日本語の関係などもっと説明しなければならない部分があると思う。例えばアイヌ文化についてしばしば誤解されがちなのが、アイヌ文化が成立したと言われる12~13世紀ころの文化と現在のアイヌ文化は、受け継いでいる部分はありながら違う、ということだ。日本の文化においても平安~鎌倉時代大和民族の文化と現代の大和民族の文化が、受け継いでいる部分がありながら違っているのと同じように。私はアイヌ語についての知識は皆無だがおそらく同じような関係性があろう。そのような解説や注意書きがないのは研究が進んでおらず説明できることが無いのか、説明が不要だと思うほど来場者を信用しているのかは分からないけれども、私には不親切に感じられた。

 

 また北海道島と北東北との文化的なつながりの深さについても改めて認識させられる機会となった。特に興味深いのが、寒冷化した気候条件が北海道島の住民と北東北の住民を近づけたところだ。この展示で「縄文のない縄文時代の土器」などで示されていたのと同様に、おかれた環境がいかに文化を規定するのかという好例だったのではないだろうか。

 

 この展示の後半では平泉文化と亀ヶ岡文化について、どのような価値観に基づいて何を模倣し形成されたかを軸に比較し後者を「芸術品」として評価している。私は平泉文化についても亀ヶ岡文化についても全く知識はないけれど、この評価が妥当なのか若干の疑いをもった。というのもあまりにオリジナル性について無批判に信用しすぎているように思えたからだ。不幸にして今回取り上げていたのは縄文時代(亀ヶ岡文化)でも平安時代(平泉文化)でもなく、弥生~古墳時代であったのでそれを確かめるヒントは無かった。この展示を見れば分かるように文化というのは不変ではない。土地の性質に影響されるし、異なった習慣をもつ人間同士の交わりなどでもいくらでも変化する。ではそこに果たして優劣があるとすればどのようにその判断は可能なのか?例えば、影響をより強く及ぼした方が優れた文化なのか?評価軸はいろいろ考えられよう。今後、このテーマを掘り下げた展示があれば見てみたいと思う。

 

 展示の最後の研究史の解説パネルにある「白河以北~」の言い回しから分かるように、企画者は北東北の地域差をないがしろにしている日本の歴史研究の偏りを「教科書」という語で象徴し俎上に載せようとしている。具体的には日本海側と太平洋側の気候の違いや海上交通が盛んだった時代の文化の伝来しやすさで、関東以南や南東北はもちろん北東北という括りでも津軽や八戸、岩手でも辿ってきた歴史に違いがあることが示されていた。薩摩藩長州藩出身者ら戊辰戦争における「官軍」からの東北への侮蔑の視線を表す「白河以北~」の表現がここで用いられるのは、現在の青森県岩手県の成り立ちや現在へつながる東北への扱いを想えば通ずるものがある。

 この展示を報じたある記事で、見出しに「岩手史の特異性」という文字を使ったものを目にした。「特異」という語は、はっきりと特別に他と違っていたり特別に優れていることを指すが、やや違和感のある言葉の選択だと私には感じられた。なぜなら「特異」という表現は教科書的な歴史観を基準にしたときに出てくる発想だと思えるからだ。だとすれば、まさに批判されている視点でこの展示を語ってしまっているところに教科書的な見方の根深さがよく現れているともいえよう。

 岩手の弥生~古墳時代が教科書に載っていないのは特別だからではない。それは岩手では普通だったのだから、この展示の題のように単に教科書と「違う」とか、「異なる」「差異がある」「相違がある」などと言い表すべきだろう。違っていることは特別なことではない。おそらく岩手以外にも教科書と違った歴史をもつ地域はたくさんあるだろうから。

 とはいえ、教科書で語られる平均化された歴史は大雑把な流れを把握する上では有用であり、そのような素地があればこそ今回のような差異に注目した展示が可能でもあるのだから全て否定することもできないだろう。

 しかし、繰り返しになるが、程度の差こそあれ教科書と違う要素を持つ歴史はありふれており「普通」であるとも言えるのだからどの地域とも通底する性質とすら捉えられなくもない。その意味で普遍的なのであり、教科書だけでは必ず見誤る事態があり掬いきれない状況がある、というのがこの展示の主旨だろう。

 

 テーマ展「教科書と違う岩手の歴史」は、歴史を測るのに大まかな物差しと細かな物差しとがあるとすれば後者の重要性が特によくわかる展示だった。

 

 

 (終)