こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記⑩ 2019.11.17.

f:id:kotatusima:20191229131833j:plain(角館)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑨のつづき。

 

 

 

11月17日 平福父子の足跡

 

・角館へ

 

 Kおばさん宅で6時に起床。朝食をいただくだけでなくお昼ごはんのおにぎりまで作って貰ってしまった。昨晩に続いてまたいぶりがっこも食べた。秋田駅まで送ってもらい8時過ぎの東京行きの新幹線で角館へ。この線路がはるか東京まで繋がっているとはなかなか信じられない。大曲駅の次、角館駅には9時前に着いた。ホームでは祭ばやしが流れていた。角館に私が来たのは日本画家の平福穂庵・百穂の出身地であり、その名を冠した美術館があるからだ。せっかく秋田まで来たのだから「小京都」と名高い角館の晩秋の紅葉を見たいというミーハーな気持ちも少しあった。

 駅を出てすぐに秋田の伝統的なお菓子である「もろこし」のお店「唐土庵」があった。「小田野直武」と大きく書かれた幟が気になって入店すると、ガラスケースには小田野の絵をパッケージにしたもろこしの詰め合わせが並び、生誕270年を記念して今年作られた小冊子が置かれていた。小田野は江戸時代に秋田藩士が手掛けた洋風画である「秋田蘭画」の代表的な絵師であり、角館出身だ。店員さんに声をかけると冊子をくれた。表紙をめくると平福百穂の歌集『寒竹』から引いた「いちはやくおらんだぶりを画きしは吾が郷人よ小田野直武 壮(わか)くして逝きし人の阿蘭陀絵は世に稀なれやくりかえし見つ」という文があった。百穂は秋田蘭画の研究書『日本洋画曙光』の著者でもある。小田野は1773(安永二)年に阿仁銅山の技術指導に訪れた平賀源内に西洋画の手ほどきを受けたとされ、秋田藩八代藩主佐竹義敦(曙山)の命で江戸詰めとなり『解体新書』の挿絵を担当することになったのは翌年のことだそうだ。当時小田野は26歳、偶然にもいまの私と同じ歳だ。もろこしは小豆の粉や砂糖、水などを混ぜて型に入れ、乾燥させ焼いた菓子だ。この店の「生もろこし」は焼きを入れずに柔らかく食べやすくしたオリジナルのものだとパンフレットに書いてあった。小田野の作品をあしらったパッケージのもろこしが欲しかったのだが量が多すぎるので、小豆の「生もろこし」の小さいパックを買って店をでた。

 外は少し寒いが日が照っているのでまち歩きにはいい天気だ。だんだんと古そうな商家を改装したお土産店が目につくようになってきた。15分くらい歩いて武家屋敷の街並みの入り口に着いた。この周辺は区割りが400年間ほとんど変わっていないそうで、6.9ヘクタールが1976(昭和五十一)年に文化庁重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。武家屋敷群は後でゆっくり見ることにして、駅から行くと一番奥に位置する仙北市角館町平福記念美術館へ。

  

平福記念美術館

 

 通りを挟んで大きなシダレザクラの向かい側にある美術館の敷地は一面が銀杏の葉に覆われ、黄色の鮮やかな絨毯を敷いたようであった。入ってすぐ左手に大きな石碑があり、碑文の上部に百穂の肖像が彫られている。瓢箪型の池も黄色に埋もれていた。ここは百穂が設置にあたって尽力した県立角館中学校(現角館高等学校)の跡地である。校歌の石碑もあった。校歌の作詞は初め島木赤彦に依頼されたが亡くなってしまったので斎藤茂吉らが引き継いで完成させた。このような豪華なメンツが作成に携わったのは百穂がアララギ派歌人でもあったからだ。その校歌の歌詞の推敲最終段階で茂吉から百穂に送られた書簡が石碑になっており、添削の赤字までが黒い御影石に彫られているのがおもしろかった。銀杏の葉を踏みながら進むと木々の向こうになんとなくロマネスク建築を連想させる石造りの回廊が見えてきた。薄い緑青のような色の外壁と角ばったアーチが印象的なこの建物が日本画家の名を冠した美術館とはとても思えない。実際には北欧の古い建築様式を取り入れているらしい。建築家は秋田市出身で国立能楽堂などを手掛けた大江宏だ。

 平福記念美術館には二つの展示室があり、日本画のサークルのグループ展と常設展が開かれていた。常設展には秋田蘭画が数点と穂庵の絵が数点、百穂の絵が十数点あった。年表を見て百穂が穂庵の四男であったことを見つけて、私の曽祖父も祖父も四男だったことを思い出した。つくづく昔は兄弟姉妹が多かったのだなと思う。こちらの学芸員の方はあいにく不在だったが事前に連絡していて、穂庵と百穂の古い画集を見せてもらうことができた。百穂がアイヌを描いた作品を初めてカラー図版で見た。蠣崎波響の鮭の図を穂庵が模写した作品の図版も確認できた。小田野直武、平福穂庵、平福百穂、沈南蘋、蠣崎波響、司馬江漢円山応挙、そして秋田蘭画アイヌ絵。関わりのありそうな言葉がいくつもぼんやり浮かんできて、頭がクラクラした。

 

f:id:kotatusima:20191229131523j:plain

平福百穂の碑)

f:id:kotatusima:20191229131530j:plain平福記念美術館)

f:id:kotatusima:20191229133054j:plain(校歌の石碑)

 

・角館散策

 

 12時頃、平福記念美術館の職員の方に平福家ゆかりの場所はないか訊いたところ生家跡に小さな石碑があるとのことだったので、ぶらぶら武家屋敷を見ながら行ってみることにした。まずぱっと目についた「石黒家」という約200年前に建てられた武家屋敷に入った。石黒家の家禄は150石であり、角館を支配した佐竹北家5000石のうち3%にあたる。この辺では上級武士らしい。公開されているのは一部であり、ここは角館の武家屋敷で唯一いまでも住居として使われているそうだ。用途によって使い分けた四つの玄関や、身分の上下によって座る位置を示す畳の並びなどが興味深かった。棟続きになっている蔵には「解体新書」(復刻版)も展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20191229131533j:plain(角館の武家屋敷)

f:id:kotatusima:20191229131538j:plain(角館の武家屋敷)

f:id:kotatusima:20191229131548j:plain(落ち葉)


 12時半過ぎ、角館樺細工伝承館へ入った。ここも平福記念美術館と同じく大江宏の建築。外壁のレンガと鋭い勾配をもつ入り口が印象的だがよくみると入母屋風の屋根がその上に載っている。こういう和風と洋風のモチーフが並置された様も秋田蘭画を生んだ角館の土地柄を想えば理解できなくもない。入るとすぐ洋風の天井の高いホールがあり、喫茶店を併設する休憩スペースになっている。少し休んでから展示室へ向かった。角館の名産である樺細工の名品が展示され職人さんの作業を間近で見られるコーナーもあった。二階には角館の武士の甲冑と一緒に平福百穂の師である武村文海が描いた端午の節句で飾る龍の幟があった。別の展示室では「イタヤ細工」などと並んで小絵馬が展示されていた。角館の周辺の町々には寺社や屋敷内の祠等に4月8日に小絵馬を奉納する風習があり、平福百穂の弟子であった田口秋魚による、角館の小絵馬の代表的な図柄を模写した作品が展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20191229133046j:plain

f:id:kotatusima:20191229131600j:plain(角館樺細工伝承館)

 

平福家ゆかりの地

 

 13時半過ぎ、角館樺細工伝承館を出て紅葉の盛りの街並みを写真に撮りつつ歩いた。14時過ぎ、武家屋敷の通りから少し離れた民家の塀の前に、膝くらいの高さの「平福穂庵百穂誕生の地」の石碑にたどりついた。気が付かず通り過ぎる人も多いだろうと思われるくらい、ひっそりとそこにある。ここからどこへ行こうかと角館の観光地図を見ていると天寧寺というお寺の裏山に「百穂筆塚」の小さい文字を見つけた。

 

f:id:kotatusima:20191229131608j:plain(「平福穂庵百穂誕生地」)

 

 14時半前、天寧寺に着いた。ここは佐竹北家が角館に入る前の城主であった蘆名氏の菩提寺だ。「裏山には百穂の筆塚があり町をみおろしています」と観光地図に書いてあったので裏山にのぼってみた。木々が立ち並んで薄暗い。30分くらい坂を昇り降りして山道を歩いた。団栗や栗のイガが落ち葉に混ざってたくさん転がっていた。幼いころの穂庵や百穂もこの山を駆けまわって遊んだのだろうか。静かだが何かに見られているような気配を感じて緊張しながら歩いた。ところが筆塚はまったく見つからない。グーグルマップで確認すると、いつのまにか裏山を抜けて反対側の角館高校の近くまで来てしまっていたようだ。仕方なく来た道を引き返した。近くの草むらでガサガサと音がした気がしたので慌てて坂を下った。聞き間違いだったかもしれない。すっかり汗だくになってしまった。筆塚の場所を教えてもらおうと寺務所のインターホンをおしても不在のようだったので諦めて天寧寺を出た。

 

f:id:kotatusima:20191229131613j:plain

f:id:kotatusima:20191229131619j:plain

f:id:kotatusima:20191229131625j:plain

f:id:kotatusima:20191229131650j:plain

f:id:kotatusima:20191229131643j:plain(天寧寺裏山)

 ふと、穂庵の墓はどこにあるのだろうと思った。百穂の墓は、数年前にたまたま東京都の多磨霊園を散歩している時に見つけてお参りしたことがあるけれど…。スマホで調べると、角館の学法寺にあることがわかった。ここから歩いて行ける距離だ。樺細工を売っているお店があったので学法寺の場所を訊いたところわざわざ調べて教えてくれた。すぐ裏手にあった。道に面して日蓮上人の小さめの銅像が建っており、敷地内、銅像の背後に十数基の墓石が並ぶ平福一族の墓域があった。穂庵の墓より先に、向かって左手手前に「平福百穂墓」を見つけた。墓域の中では新しめの墓石だったのですぐわかった。百穂の骨は多磨霊園とここに分骨されているのだろうか。穂庵の墓ははじめ分からなかったが百穂の墓の斜め後ろに建っていた。墓石の正面には「穂庵」の文字が含まれる戒名、左側面には「平福順蔵之墓」と彫られている。どの墓石も黄緑色の苔が載っていた。丁寧に手を合わせ、平福父子の画技にあやかりたかったのでお寺の賽銭箱に小銭を入れてきた。

 

f:id:kotatusima:20191229131656j:plain平福家の墓石)

 

 暗くなるまではまだ時間がある。観光地図を見て角館総鎮守の神明社に行ってみた。ここにはかつて小田野直武や平福穂庵が絵馬を奉納したらしい。15時半頃、神明社に着くと鳥居の横にいくつかの看板とそう大きくはない石碑があった。それは菅江真澄終焉の地の碑であった。角館で没しているとは。まったく意識していなかった。看板に真澄の今際のエピソードとして「北家御抱医師吉原由之氏が『久かたの月の出羽路書きしるす筆の跡こそ千代もすむらめ』と詠せられたのに対し『しるべなき月の出羽路われ迷ふつけし千鳥の跡も恥かし 真澄』と返歌している」と書かれていた。秋田の地誌を完成させる前に亡くなった真澄はさぞ無念だっただろう。社務所には誰も居そうもなかったので絵馬を見るのは諦めた。本殿の扁額の横に金の字で「神明社」と彫られた亀の甲羅が掲げられていた。

 

・夕方の角館

 

 神明社に来る途中で気になっていた安藤醸造へ行ってみた。レンガ造りの立派な蔵の内部は座敷になっていて自由に見学できる。醤油や味噌はもちろん濡れおかきもあった。さらに道を引き返して、学法寺に行く前に道を訊いた伝四郎という樺細工のお店に寄った。洗練されたデザインに惹かれて何か買いたくなった。美しい茶筒や棗を見ているとたとえ買えなくても豊かな気持ちというか、いい気持になる。コースターを見ていると店員さんが親切にたくさん在庫を出してくれたのでその中から気に入った桜皮の模様のものを選んで買った。まだ日が落ちるまでは少し時間がありそうだ。小田野直武の菩提寺の松庵寺に行く。1936(昭和十一)年に建てられた顕彰碑の裏側には当時のオランダ公使の撰文まで彫られていた。靴屋の半分に骨董品を並べている変わったお店の前を通りがかったので入ってみた。店番をしていたおばあちゃんと平福美術館の話を少しした。何年か前に平福父子の展示をやっていたらしい。店を出るともう外は真っ暗だった。角館駅へ歩いていく。角館は「小京都」と名高いが、私にはなぜわざわざ京都と比較するのかがよく分からなかった(実際のところは佐竹北家角館初代所預佐竹義隣は公家の高倉家からの養子であり京風の文化が移入された、というのが理由らしい)。石を投げれば寺社仏閣に当たるような京都と立派な門構えのお屋敷が並ぶ角館の武家屋敷街並みの外観は似ても似つかなかったので違和感があった。角館には角館なりの情趣がある、というのでいいのではないかと思う。またそれとは別に「小京都」と呼んでしまうその心性もまたおもしろいと思う。それを秋田の県民性とまで言うと言い過ぎかもしれないけれど。一日角館を散歩しただけではその心性まで理解することは難しかった。

 

f:id:kotatusima:20191229131700j:plain(安藤醸造

 

・大曲へ

 

 おなかがすいて我慢できず、かりんとうを買った。駅前のレストランは高かったので駅のキオスクで豚丼とおにぎりとお茶を買った。電車までまだだいぶ時間がある。ゆっくりご飯を食べてぼーっとした。だいぶ疲れている。待合室にはいくつかベンチがあって暖かくしてある。かりんとうを食べながら待つ。

 18時45分発の大曲行きに乗る。乗客はあまり多くはない。19時過ぎ、大曲駅に到着。途中でスーパーに寄って明日の朝食の弁当ときりたんぽ味のポテトチップスがあったので買ってみた。夜の街をあるくとホテルのネオンが目につく気がした。有名な大曲の花火を見にくる観光客が多いのだろうか。

 19時半過ぎに旅館に到着。部屋に荷物を置いて20時頃にお風呂。貸し切り状態だった。小倉遊亀の絵を思い出させる大きなタイル張りの浴槽を独り占め。足を伸ばす。きりたんぽチップスはちょっとゴボウっぽいしょうゆベースの味付けだった。これがきりたんぽっぽいのかどうかは私にはわからない。

 ふとテレビを着けると「単騎、千里を走る」が放送されていた。この映画では朴訥とした漁師役の高倉健が不仲だった病床の息子のことを知るために中国へ赴く。「もっと健一のことを聞かせてもらえませんか?」というセリフの切実さがいまなら分かる気がする。祖父や曾祖父のことを知りたくて秋田に来ている自分と高倉健が重なるように思え、つい見入ってしまった。

 

f:id:kotatusima:20191229133048j:plain高倉健

 

 

 

いよいよ最終日。⑪に続く・・・。