こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記⑧ 2019.11.15.

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑦のつづき。

 

 

 

11月15日 由利本荘と大雨

 

・宮下神社

 

 5時半起床。天気が悪くなると聞いていたが幸い雨は降っていなかった。コンビニで朝食とお神酒を買い、駅へ向かう。

 7時前の電車で羽後本荘駅へ向かう。着いたらすぐ由利高原鉄道に乗り換えて7時46分発の矢島行きに乗った。整理券を出す機械には「秋田おばこ」のキャラクターのステッカーが貼られ「えぐ乗ってけだなー」と吹き出しに書かれているのがかわいかった。予定より早く着きそうだなぁと思いながら車窓の風景を眺めているうちに子吉駅についた。しかし降り方がよくわからず、もたもたしていると電車は出発してしまった。次の鮎川駅で降りる。幸い引き返す電車がすぐ来るようだ。鮎川駅は「おもちゃの博物館」が近いらしく、子どもサイズの小さい駅舎がホームにあった。すぐ8時15分の電車で引き返して子吉駅で降りた。空はだいぶ曇っているが雨はやんでいる。歩いて10分ほどの神社へ。

 

f:id:kotatusima:20191229125605j:plain(発券機)
f:id:kotatusima:20191229124106j:plain由利高原鉄道

 

 約束の9時より少し早く着いた。近くには宮下神社前というバス停があるようだが神社の前にはその名前を示すような石碑や看板は見たらない。ただ朱の鳥居や忠魂碑、秋葉大権現の碑などがある。お堂の正面の扉は閉じられたままだが、脇の勝手口のような戸の前に脱いだ靴が置いてあった。戸を開けると氏子総代さんがいらっしゃったのでご挨拶をしてお神酒を置き、今回の私の滞在や調査の話をした。するとすぐ後から近くにお住まいのおじいさんがやってきてご本尊様を拝んでいた。ここは神社と言っているが、実は本尊は大日如来らしい。脇の社にはお稲荷さんが祀られていたり、集落から転居した人が置いていった天照大神の神棚が置いてあったり。なんという神仏習合の在り方だろう。きっと長い年月の間に様々な神様仏様がここに祀られ、集落の人の心の支えになったことだろう。私が宮下神社を知ったのは「日本遺産・北前船」のサイトで市内最古の船絵馬があると紹介されていたからで、市の文化課を通して氏子総代さんに電話した際に「船絵馬は既に秋田県立博物館に貸し出されている」とも聞いていた。それでもここに来たかったのは船絵馬が奉納された場所を見てみたかったということと、船絵馬以外にも絵馬があると聞いたからだった。実際に来てみると何点も馬を描いた絵馬や句額が奉納され、壁にまで唐獅子牡丹や梅が描かれていた。田んぼのなかの小さな社に詰め込まれるように過去の人々の信仰の痕跡が残っているのだ。総代さんも、「豪農がいる集落でもないのに立派な奉納物があるのは不思議だ」と仰っていた。馬が描かれた絵馬が沢山あるのはやはり馬のための健康祈願だろうか。ここでは馬頭観音はお祀りしていないが、昔はこの辺りではよく農耕馬を飼っていたらしい。

 写真を撮り終わると総代さんがわざわざ羽後本荘駅まで送っていってくれるというので、お言葉に甘えて車に乗せてもらった。途中、子吉川支流の石沢川を見せてもらった。宮下神社に船絵馬があるのは、子吉川の海運とも関わっているのだろう。秋田に自分のルーツを調べに来たのだと話すと総代さんは「ある時期になると先祖のこと調べたくなるもんだ」と仰っていた。10時頃、羽後本荘駅に着きお礼を言って車から降りた。

 

f:id:kotatusima:20191229124150j:plain(宮下神社内部)

f:id:kotatusima:20191229124311j:plain(油絵?の絵馬)

f:id:kotatusima:20191229124316j:plain(宮下神社内部)

f:id:kotatusima:20191229124324j:plain(石沢川)


・本荘八幡神社

 

 予定よりだいぶはやく宮下神社を見終わった。本荘八幡神社へ向かうことにする。古本屋があったので寄ってみた。ちょうど由利本荘市文化財調査をまとめた本があったので買った。中には先ほどみてきた宮下神社の絵馬や前に見た松ヶ崎八幡神社の絵馬も掲載されていた。ぽつぽつと小雨が降ってきた。折り畳み傘を出す。早起きしたせいか、もうお腹がすいてきた。弁当屋でカレーを注文して、すぐその場で食べていたらサービスでインスタントコーヒーが出てきたのが妙に嬉しかった。11時半ころ、本荘八幡神社に着いた。ここは福井県から北前船で運ばれた笏谷石製の狛犬がある。先に本殿にお参りしようとすると、「右側からお入りください」と書いてあったので、中に入って拝ませてもらうことにした。軒先の彫刻も「八幡宮」の扁額も立派だ。靴を脱いで入ると、頭上には2メートル級の大きな絵馬がずらっと掲げられていた。多くは本荘藩主が奉納したものらしい。絵馬をじっくり見た後で、狛犬を見に行った。お堂の左右に一体ずつケースに入って置かれていた。ぽつぽつ雨が降ってきた。

 

f:id:kotatusima:20191229124416j:plain(インスタントコーヒー)
f:id:kotatusima:20191229124338j:plain(本荘八幡神社

f:id:kotatusima:20191229124421j:plain狛犬

 

・石脇のまち歩き

 

 13時ころ、由利本荘市郷土資料館に到着。町歩きの会の会長さんと待ち合わせ。さっそく、いくつか資料を見ながらこれから行く場所について解説していただいた。

 いま、由利本荘市になっている地域は、江戸時代は子吉川を挟んで北側が亀田藩、南側が本荘藩だった。江戸時代以前、亀田藩では子吉川を村附川と、本荘藩では本荘川と呼んでいた。北の石脇湊と南の古雪湊は河川港として栄え、どちらも子吉川沿岸や支流にいくつか番所を置き、船の出入りや積み荷の管理を行っていた。いま居る側は北側の亀田藩側になる。1623年の亀田藩の岩城氏と本荘藩の六郷氏入部以後は子吉川が藩の境になったが、ときどき境界についてもめ事が起こるとき以外は通行止めになることもなく、野菜を売りに行ったりしていたという。往来は渡し船で行われ運賃は十六文だった。また、石脇において北前船の遺産として特徴的なのは「石脇讃物」(いしわきさんぶつ)という祝い唄だ。これは例えば帆を上げ下げする「みなわ」(身縄、水縄)や帆柱を安定させるのは「はんじ」(はずな、端綱)のような弁財船の各部の名称が歌詞になっており今でも生活に根付き歌い継がれているという。同様に弁財船の各部の名称を歌詞にした歌は全国各地に残っており北前船の往来で伝わっていったものだとのことだ。ただし不思議なことに対岸の古雪では歌われていないらしい。

 14時前に出発。雨なので、ありがたいことに車で案内してくださった。まず郷土資料館前の坂を下って左折し川岸に出て「大渡御番所跡」へ。昔は堤防がなく河川敷が広がっていたという。江戸時代には渡し舟がここから出ており亀田から本荘へ行く際の関所だった。本荘にも「大渡御番所」があった。すぐそばにある水難事故の慰霊のための地蔵堂は戦前は堤防の向こうの川側にあったそうだ。近くの住宅前にはコンクリートの円柱が道沿いに立っていた。これは井戸で、昭和30年頃まで飲料水として利用し今でも生活用水で使っているそうだ。勢いよく水が吹き出ていた。来た道を引き返し突き当りを右へ。日本酒の「雪の茅舎」などを製造する齋彌酒造のような醸造業を営む商店がいまでも何軒か並んでいる。石脇の湧水は11〜13度で冬でも生暖かいらしい。左折した先、東山の麓に光徳寺跡があった。明治以後は公徳館と名を変えて地域の集会所となったここは山上の新山神社に行けない人が利用する里宮であった。ここには「鳥海山」(海は異字体)の石碑があり、鳥海山の修験と深い関りがあるそうだ。次にもとの道へ戻り芋川橋まできた。ここには「上町御番所跡」があった。渡し船の往来の取り調べや芋川上流から米が運ばれると「上町御番所」で陸揚げし米が九千石入る「お蔵屋敷」に一時蓄えた。Uターンして由利橋を過ぎたあたりは間口が三間あった。いまは三軒町という地名だ。河岸に出ると「西ノ口御番所跡」にでた。ここにも堤防は昔無かった。「西ノ口御番所」で上方から運んできたものを陸揚げし三軒町で売っていた。子吉川の水深はこのあたりが最も深く、ここで川船から荷物を積み替えて上方へ運んだ。そのほか塩越湊で積み替えて日本海を航海するなど上方まではいろんなルートがあった。亀田藩では下浜や石脇から米を上方に運んだが本荘藩はもっぱら古雪湊を使ったといい石脇より古雪のほうが扱う米の量は多かった。この日は行かなかったが河口近くには「唐船御番所」があり異国船のチェックや子吉川に入ってくる船を帆印で確認していたそうだ。

 14時半頃、車を停めて標高148メートルの東山の石の階段を登っていく。この一帯は新山公園になっており頂上には新山神社がある。公園内に見られる安山岩の巨石は石脇(江戸時代は石ノ脇)の名前の由来ともいわれる。江戸時代はランドマーク的役割を果たしていた場所だ。東山のふもとまで新山神社の神域であり明治時代に作られた第一鳥居は廻船問屋の名が残っているそうだ。だんだん風と雨がひどくなってきた。この辺りは鉄道(いまの羽越本線)の敷設が遅く拝殿脇にある灯篭は常夜燈として使われたもので大正期まで船の往来があったことをしめしている。大雨の中を車で下山する。斜面に広がる松林は、江戸時代後期から明治時代にわたって海から続く浜辺の砂地に植林を続けた石川家五代と村人の手によって砂防のため作られた。北前船の往来が始まった江戸中期頃の東山はまだ剥げ山だったのだ。今でも松は植え替えされている。明治以後の両湊の日本海の物流は統合された。対岸の古雪には本荘米の検査場ができ船で東京や大阪に送られた。いまは本荘漁港となり漁船の係留地として県が管理している。一方、石脇湊は石脇河岸場に格下げされ明治10年代以降衰退した。

 15時頃、子吉川の古雪側にある「アクアパル」へ。ここにはボートやカヌーをしまう倉庫やフィットネスジムがあり一部が子吉川についての展示施設になっている。由利本荘はボート競技がさかんで市民ボート大会がある。面白かったのは1877(明治十)年に本荘と石脇を結ぶ最初の橋として作られた「船橋」だ。並べた小船のうえに板を渡したもので、その龍がわだかまっているような姿から蟠龍橋(ばんりゅうばし)という名で呼ばれた。大水の際には両岸で橋を繋ぎとめている鎖を調節して橋が流されないようにしていた。また、ここには北前船に関する展示もあり郷土資料館での展示の際にSさんがつくったパネルが流用されているものだと言っていた。明治頃に書かれた古雪港の絵を見ながら、「今日回ってきた場所はこの辺で…」「この絵はこの辺りからみて描いたものだろうか…」などということも短い時間とはいえきちんとガイドされ説明を受けるとなんとなく分かるようになる。昨日まで知らなかった由利本荘のたくさんのことをいま私は知っている。そのことが改めて不思議だった。16時頃、由利本荘市文化交流館で車からおろしてもらう。ここはお土産物屋などもある複合施設になっている。図書館で少し本を漁る。

 

f:id:kotatusima:20191229125014j:plain(井戸)

f:id:kotatusima:20191229125018j:plain子吉川

f:id:kotatusima:20191229125618j:plain(新山神社参道)
f:id:kotatusima:20191229125023j:plain(新山神社の灯篭)

f:id:kotatusima:20191229125715j:plain(窓の外は大雨)

f:id:kotatusima:20191229125719j:plain(アクアパル)

 

秋田市

 

 その後16時41分の秋田行きの電車に乗ったのだがつい連日の移動の疲れからか居眠りしてしまい、新屋で降りられず乗り過ごした。一度家に戻り荷物をまとめ直して秋田駅へ。この日は再びKおばさんのお宅に泊めてもらう。夕食はもつ煮込み、ふろふき大根など。美味しかった。ビールを飲みながら、Kおばさんの息子(私のはとこ)のお兄さんに「もし時間があったらこの家の絵を描いて欲しい」と言われた。自分の絵を誰かが欲しいと言ってくれる、こんなに嬉しいことはない。一宿一飯の恩義という言葉が浮かんだ(僕はすでに2泊お世話になろうとしているところだが)。翌朝早起きして描くことにした。22時30 分就寝。

 

 

⑨へ続く。