先日、岩手県立博物館へ初めて行った。地質・考古・歴史・民俗・生物などの資料が展示されている総合博物館だ。2021年11月23日 から2022年2月6日 まで開催されていたテーマ展「教科書と違う岩手の歴史ー岩手の弥生~古墳時代ー」に興味を惹かれたのがきっかけだった。ついでに常設展もさらっと見学した。以下では二つの記事に分け、前編では常設展について、後編ではテーマ展について書いていこうと思う。
・岩手県立博物館の入り口
岩手県立博物館は岩手県の県制百年を記念して昭和55年(1980年)10月に開館した。入口へ向かう階段はそのため100段あるらしい。
入館すると正面には大きな毘沙門天と餓鬼の像が。一木造の毘沙門天立像の中では日本最大の兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)のレプリカだそうだ(原資料は花巻市三熊野神社境内成島毘沙門堂蔵、重要文化財)。
・1階の展示室
受付を済まし、右の生物の展示室へ。大きなサメのあごの骨や鉱物の標本、剥製が並んでいる。
大きなクモの模型があってびっくりした。虫が苦手な人だったら腰をぬかすだろう。内側に入ってクモの複眼を体験できる展示だ。館内には陸前高田市立博物館の資料の修復施設も設けられており見学できる。
二ホンオオカミの可能性がある毛皮や二ホンカワウソの剥製など珍しい展示物もあった。
早池峰山に固有種や南限種が多いのは氷河期に日本列島中部まで分布を広げた植生が後に残留したからだそうだ。このような残留した分布は例えば文化でも起きえるのだろうか?と、ふと考えてみたりした。
・2階の展示室
2階ホールには干支の虎に関するコーナーがあった。2階には歴史や民俗、現代の生物の展示室、映像室やテーマ展示室がある。
「トーテムポール様木製品」は木の棒に目や口のように見える彫刻が施されている。よくみると丸い目は木のコブのようでもある。人は何かに一度顔を見出してしまうと顔以外には見えなくなってしまうものだ。
常設展示室からテーマ展示室へ移動された資料のあとには、これもまた宮沢賢治のパロディで「特別 展示室ニ 居リマス」と書いた紙が置いてあった。
衝角付冑(しょうかくつきかぶと)は出土例の北限だ。岩手が何か文化的な北限であったり南限であるような記述にはつい注目してしまう。
中世の展示室へ。仏像のレプリカが展示してあるそばに「おさい銭をあげないでください」の掲示が。歴史資料や美術品として信仰の対象を展示してあるときに拭いきれないある種の矛盾やズレを思い出させた。
中世の展示では九戸政実の乱(南部氏の相続争いで盛岡藩初代南部信直が勝利する)の戦陣配置図のパネルに松前慶広(松前藩初代藩主)の名前を見つけた。慶広はこの戦に毒矢を用いるアイヌを率いて参陣していたといくつかの記録にある(『氏郷記』、『三河後風土記』など)。このころはちょうど豊臣秀吉に接近していた頃で前年に上洛して謁見、翌年の朝鮮侵略では肥前名護屋の陣中に馳せ参じ翌々年に蝦夷地支配公認の朱印状を得ている。これにより松前氏は津軽安東氏の支配を脱し一大名として豊臣政権、そして江戸幕府の支配下へと入っていく。
近世のコーナーではキリシタン関係が興味深かった。盛岡藩では踏み絵は確認されていないが仙台藩では行われていたという。松前藩では金山へ鉱夫としてキリシタンがたくさん入っており江戸時代のごく初めでは宣教師すら大目に見ていた(後に取締りを厳しくし100人以上を処刑している)。盛岡藩でも盛んに鉱山開発をやっていたはずだから、もしかしたらそれに踏み絵の有無が関わっているかもしれない。「マリア観音」は見たことがあったが、不動明王の剣を十字架に転用したと思われる例は初めて見ておもしろかった。
明治以降に関しては年表が掲げられているのみでほぼ展示はなく若干のパネルがあるのみで酷い有様だが、自由民権運動家の鈴木舎定の資料などは興味深かった。
民俗のコーナーでは食品サンプルがたくさんあって郷土食の紹介が充実していた。
「アマビエ」の展示も。資料を収集しているようだ。
民族の展示室にも平泉文化に関する展示やたくさんの土器、土偶、蛇の骨がいっぱいに詰まったちょっと気味の悪い土器の展示もあった。