こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

『見送る人々』とその一室について(「生誕110周年記念 阿部合成展 修羅をこえて~『愛』の画家」青森県立美術館、2020年11月28日(土)~2021年1月31日(日))後半

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(『見送る人々』1938年、兵庫県立美術館所蔵)
 

 
 
 青森県立美術館の「生誕110周年記念 阿部合成展 修羅をこえて~『愛』の画家」の感想の続きです。

 感想前半はこちら。

kotatusima.hatenablog.com

 ※以下で示すページ数は針生一郎による『修羅の画家 評伝阿部合成』からの印象箇所です。

 

目次

 

・阿部合成の生涯(前半)

針生一郎『修羅の画家』を読む(前半)

・章立てごとの展示概要(前半)

・展示名、展示全体の印象、作品配置(前半)

・『見送る人々』について

・『見送る人々』の一室のほかの作品について

・まとめ

 

 

 

・『見送る人々』について

 

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(『見送る人々』1938年、兵庫県立美術館所蔵)

 

 展示概要で示したようにこの展覧会では最後の章に画業初期の代表作『見送る人々』を据えている。その理由のひとつは、やはり展示の最後に盛り上がりを持ってきたかったからだろう。逆に言えば回顧展でよくあるように年代順に作品を並べた時にどうしても阿部の画業は尻すぼみに見えるということを暗に示す展示構成なのかもしれない。

 『見送る人々』は、向かって左側、画面外を歩いていく出征軍人の列を見送る群衆を描いた作品である。人々が集まることが避けられマスクを着けて外出することが普及した2020年ではかえって新鮮に見えてしまう。あちこちで国旗が降られ喧噪の中の老若男女の様々な身振りと表情が描きこまれている。左下から右上へ視線を移していくと熱狂の波が引いていき、右上角では静寂の中を馬橇で遠ざかる人が描かれている。

  この作品によって「反戦画家」の烙印を捺された阿部だが実際のところどれほど「反戦」の意志を込めていたのだろうか。 先に結論を言うと阿部がこの作品に「反戦思想」を込めたとは私にはどうも思えないのである。だが戦争を賛美するような絵では全くない。

 まず制作背景にまつわる言葉を振り返ってみよう。この絵は「深夜の駅に小旗をもった群衆がひしめき、女たちの悲鳴に似たあえぎの中で、蒼白の顔をした兵士たちを満載した列車が動き出す光景を目にした経験」(63頁)にもとづいているらしい。阿部は友人への手紙でこの作品の下絵を描き始めたことに触れ、「(前略)出征兵の見送り。三十個ばかりの顔丈で構成しようと念願してゐる。熱狂した泥酔者、感動して嘆く青年、悲しみで魂をなくした女、冷静な挨拶を送る中年の男、歌ふ少年達、愚痴でしわだらけの老人、傍観者(祝出征の幟のかげに自画像と僕の不遇な従兄の顔)等の顔と手。赤ん坊は特別無関心でなければならない。(中略)色はウルトラマリンの青と褐色の反撥。日の丸の赤が点在する。全体が一つの場面として何かを予感せしめる事ができたら満足だ。」(63-64頁)と語っている。

 またこの絵が官憲に目をつけられた後で阿部が友人へ宛てた手紙では「あの絵を不快だといふ理由でケナすことができても、嘘だと誰が言へる⁉外務省よ、軍部よ、アルゼンチン公使閣下よ。貴下たちは祖国の東北端に飢饉に追い詰められながら巨豪(ママ)に生き抜いてゐる人々を、人種が違ふとおつしゃるのか、働き手を戦線に送らねばならないこれ等の人々が、陽気で有頂天でをられるのだと考へる程、貴下たちはお人好しではよもやあるまいに。天皇陛下のおん為に僕を黙らせることが出来たとしても、真実は土壌に浸みる水のやうに大地の隅々に棲息するものをいつか冬眠からよみがえへらせるだらう。この事実が僕を台なしにするか、後日のエピソードとするかは、かかつて僕自身の怠惰と否とにあるのだーと信じる」(66-67頁)と書いている。

   第6章のほかの作品や、今回は展示されていない同時期の代表作のひとつ『百姓の昼寝』(1938年、東京国立近代美術館所蔵)を見てわかるように、この時期の阿部はひとまず民衆の労働や暮らしをモチーフとしていたといえよう。『見送る人々』の左側の壁面には『顔』(1937年、東京国立近代美術館)が展示されていたが、たくさんの顔を描いた類似作として注目に値する。

 

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(『顔』1937年、東京国立近代美術館所蔵)

 

 ここで唐突だが木下惠介の映画『陸軍』(1944年)とこの絵を簡単に比較してみたい。ラストシーンで出征する息子を追いかけ走る母親の姿が陸軍から批判されたことでも有名な作品だ。木下はおそらく確信犯で「女々しい」と批判されるような母親の感情を作品で表現した。それは「映画はこうあるべき、人間を描くとすればこうあるべき」と信じていることを実行せずにはいられなかったからではないか。

 一方この絵はどうだろう。真っ黒にぽっかり開いた口などは滑稽に見えなくもないが全員がそのように描かれているわけでもない。上に引用した言葉を読むに阿部はこの時期、群衆の様々な表情を材料とした絵の構図へ関心を持っていた。『顔』もその関心の延長線上の作例だろう。木下ほど確信犯ではないにしろ阿部も画家としての関心に沿って素直に制作したように私には思える。民衆の生活を題材にするなかで農耕や漁労と、ある意味で同じような位置づけのテーマとして出征を見送る群衆があり、そこで思い描いていた構図を実現しようとしたのだろう。

 とはいえ阿部にとって民衆の生活は単なる材料ではなかったはずだ。上記の官憲への憤りを見てもわかるように「アルゼンチン公使閣下」らに比べれば、阿部はほぼ民衆の側に立って物事を考え絵を描こうとした。だからこそ自画像をそこに描きこんだのではなかったか。

 ただ、自身を「傍観者」と書いて(描いて)いることから阿部と群衆の間にある微妙な距離を、私は読み取ってしまう。やや冷めた視線で群衆をデフォルメして描きその光景が孕んでいた「何か」を「予感」させるような表現を目指す。そのような立ち位置を画家のとるべきものとして阿部は考えていた。

 

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(『見送る人々』部分)

 

  また阿部はこの絵を「嘘だと誰が言へる⁉」と言う。表現を換えれば、この絵は東北の飢饉の中で生き抜く民衆の生活の「真実」だということだろう。「アルゼンチン公使閣下」の「頽廃不快の印象を与へ、日本人とはどうしても思へない」という評価もある意味でこの絵の核を見抜いているといえるかもしれない。なぜなら当時、真実を描こうとする行為が「反戦」になってしまうことだったのだから(ここで旭川生活図画事件を思い起こしてもいい)。この絵がそもそも二科展に出品され初入選で特選になったことからもわかるように誰にでも初めから時流に抗うものとして受け取られたわけではなかった。

 『見送る人々』における「反戦思想」は阿部が込めたものではない。北海道弁でいうところの「~さる」のように意志に反して、そう織り込まれたように受け取られる、事後的な周囲の状況があった。例えば「アルゼンチン公使閣下」のように「真実」が真実のまま表されて在ると都合が悪い人が勝手に「反戦」を見出したものであるともいえ、結果として強いものになびく連中の間で広まったのだ、という言い方が正しかろう。 

  

 

 

・『見送る人々』の一室のほかの作品について

 

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f:id:kotatusima:20210123164918j:plainf:id:kotatusima:20210123164926j:plain(『見送る人々』の展示室の様子)

 

 この部屋に『見送る人々』と一緒に展示されている他の作品についても考えてみたい。

 左の壁面には先述の通り『顔』(1937年、東京国立近代美術館所蔵)が、右の壁面左側には『野ざらしA(軍歌)』(1971年、青森県立美術館所蔵)が、右側にはシベリアの風景を描いた『シベリアの思い出に』(制作年不詳、青森県立美術館所蔵)が、『見送る人々』の正面にあたる壁には『前夜(太平洋戦争)』(制作年不詳、世田谷美術館所蔵)が展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20210124032147j:plain(『野ざらしA(軍歌)』1971年、青森県立美術館所蔵)

 

 『野ざらしA(軍歌)』は、晩年の作品である。ソ連に近い中国東北地方やモンゴルの戦線で目にした光景を思い出し描いたのだろうか。タイトルにしても荒涼とした大地にしても同じく中国大陸に派遣された浜田知明(1917-2018)のシリーズ『初年兵哀歌』を彷彿とさせる。ここでは『見送る人々』のたくさんの顔と野に転がるいくつかの骸骨の対比の意図があるだろう。阿部が「予感せしめ」ようとした出征兵の未来の姿を描いたのかもしれない。

 

f:id:kotatusima:20210124032201j:plain(『シベリアの思い出に』制作年不詳、青森県立美術館

 

 『野ざらしA(軍歌)』の隣にはシベリアで目にしたと思しき教会を描いた『シベリアの思い出に』がかかっている。この絵を見る限りはシベリア抑留の辛く苦しかったであろう経験はあまり想起されない。右端の空にわずかに黄色い日が差しており希望すら感じさせる。針生の評伝の次のような一節を思い浮かべてしまう。「復員後の合成は、軍隊や抑留の時代の自分のつらさ、苦しさについては語らなかったが、「人間どんな状態でも生きられるものだよ」「あのホロンバイルの風景のすばらしさは、和唐をつれていってみせたい」などという言葉で、虜囚の状態でかいまみた絶対の自由だけは、息子の和唐につたえようとしたようだ。」(94頁)。

 

f:id:kotatusima:20210124032224j:plain(『前夜(太平洋戦争)』制作年不詳、世田谷美術館

 

 もう1枚、『見送る人々』と向かい合う位置にある作品『前夜(太平洋戦争)』は、「前夜」と言いながら「太平洋戦争とはこういうものであった」と事後に振り返った絵だろうか。黄色い空は夕刻か朝か判然としない。右側に鋭く波のような何かの軌跡が描かれ左側には何本かの木とともに1基の十字架が描かれている。私はこの絵からは戦争前夜の不穏な空気よりは嵐が過ぎ去ったあとの清々しさ感じてしまう。阿部はここでおそらく死の象徴として十字架を用いている。卒塔婆や墓石、骸骨ではない。阿部はメキシコでのキリスト教への取材から晩年の死や鎮魂、祈りのテーマへと向かうが、私はこの作品の存在を媒介として『見送る人々』と晩年(第1章)の作品が繋がっているように思った。ヨーロッパではなくメキシコを経由したキリスト教受容は阿部を特徴づけるひとつの要素であり、その方面からも作品が検討されるべきだろう。

  

 『見送る人々』と類似作例の『顔』以外の3点の作品はいずれも戦争を題材として戦後に描かれた。この1室によって「阿部にとって戦争とはなんだったのか」という問いを発しようとしているのだろう。その答えを出すのは私には難しい。  

 『見送る人々』の発表によって「反戦画家」の烙印を捺されたことは当然ながら阿部の画業に大きな影響を及ぼした。もし、この絵が軍部などに激賞されていたとしたら。あるいは特に悪い評判が立たずただの入選作として扱われていたらどうだったか。例えば今日の私たちは出征兵の見送りという題材から阿部を好戦的な画家と見たかもしれない。戦後に描かれた作品とともに『見送る人々』を見返すとき、可能性の阿部合成を、パラレルワールドの阿部合成を、ありえたはずの別の阿部合成を思い浮かべずにいられない。この展示室で私は一人の画家の運命を変えた瞬間に数十年を遡って立ち会っているような感覚を覚えた。

 

 

 

・まとめ

 
 針生一郎による評伝は多少の図版はあるものの画家のそれである以上どうしても阿部について十分に知ることができるとは言いにくい。今回、美術館の展示と併せて見ることで奥行きをもって阿部の画業を知ることができた。青森まで行った甲斐は十分にあった。

 『見送る人々』は太平洋戦争へ向かう当時の日本の雰囲気を象徴する日本美術史上重要な作品の一つに違いはないが、以前の私がそうであったように「反戦思想」の色がやや強調された状態で受け取られているように感じた。好戦でも反戦でも「絵」は変わらない。変わらずそこにある。絵に描きこもうとした阿部なりの「真実」も変わらない。変わるのは時流だ。時流が画家のひとつの可能性を潰したのだ。画家にとって戦前戦中はさぞ生きにくい時代だったろう。

 さて、いまこの21世紀の日本が、世界が、果たして画家にとって生きやすい世の中なのかというと決してそうではないだろう。「アルゼンチン公使閣下」の「頽廃不快の印象を与へ、日本人とはどうしても思へない」という評価など昨今跋扈するヘイトスピーチと絶望的なまでにそっくりである。

 生誕110年にしてこれほど大規模な回顧展が開かれていることからしても、「真実は土壌に浸みる水のやうに大地の隅々に棲息するもの」を「冬眠からよみがえへらせ」たし、『見送る人々』にまつわる騒動は「後日のエピソード」となったと言えるだろう。時流というのはごく一部の人間の好悪であってなんの根拠もない。阿部は時流におもねることなく絵を描こうとしたが困難もまた多かった。ゆえに針生が「修羅」という語を用いて阿部を評したことを改めて慧眼と言わざるを得ない。混迷を極める社会の中で自分もまた自分自身であり続けることができるだろうか、と鋭く問われる展示だった。

 展示構成からして『見送る人々』を中心に据えた展覧会だったが私個人としてもどうしても『見送る人々』にばかり目が行ってしまった。また機会があればほかの作品も見直して例えば青森の風土を通した考察などもできないかと思っている。従兄の画家である常田健との比較も面白いだろう。いずれ太宰治碑も見てみたい。また近いうちに青森へ行くことになりそうだ。

 

(終)

 

2021.1.26. 一部言い回しを変更、主旨が変わらない範囲で語句を追加

 

『見送る人々』とその一室について(「生誕110周年記念 阿部合成展 修羅をこえて~『愛』の画家」青森県立美術館、2020年11月28日(土)~2021年1月31日(日))前半

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 青森県立美術館の「生誕110周年記念 阿部合成展 修羅をこえて~『愛』の画家」を鑑賞してきた。

 私にとって阿部合成(1910-1972)は、少し前まで名前のほかはほとんど何もしらない画家だった。ただ、どこかで目にしていた代表作の『見送る人々』の印象はとても強く、漠然と時流に抗った作品だったのだろうと想像していた。美術評論家針生一郎による『修羅の画家 評伝阿部合成』という伝記があることも一応知っていて気になる画家のひとりだったが深くは追わずにいた。回顧展が開かれると聞いてせっかくなので2021年の「美術館はじめ」の展示とした。

 展示はやはり『見送る人々』を軸にまとめられておりこの作品について考えたことを中心に感想を書いた。長くなってしまったので前半と後半に分けた。前半部は主に展示の概要、後半部で『見送る人々』など個別の作品について書いている。

  

目次

 

・阿部合成の生涯

針生一郎『修羅の画家』を読む

・章立てごとの展示概要

・展示名、展示全体の印象、作品配置

・『見送る人々』について(後半)

・『見送る人々』の一室のほかの作品について(後半)

・まとめ(後半)

 

 

 
・阿部合成の生涯

 

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(展示室入口の様子)

 

 まず青森県立美術館ウェブサイトのページを参考に阿部の画業と展示内容を簡単にまとめてみた。

 阿部合成は1910年9月14日に現在の青森市浪岡に生まれ旧制青森中学を卒業。京都市立絵画専門学校で日本画を学び一度帰郷した後、上京して画家としての活動を始める。出征する兵士を見送る情景を描いた『見送る人々』は二科会に入選した出世作であり代表作だが雑誌に掲載された口絵をみた当時の駐アルゼンチン公使内山岩太郎が「頽廃不快の印象を与へ、日本人とはどうしても思へない」と取締りを要請、新聞に大きく報道されたことから「反戦画家」の烙印を捺された阿部は画壇から忌避され、また自らも画壇から距離をおいた。1943年に出征した阿部はシベリア抑留を経て1947年に帰国した。この経験は阿部の性格や作品に大きな影響を与えた。1959年に旅立ったメキシコでは日墨会館に寄宿し現地の日本人から歓待され当地の風俗などに影響をうけながら日本画やメキシコの壁画などの要素をとりいれ新たな画風を作り上げた。1960年10月帰国。1963-4年には再びメキシコに滞在。帰国直後の1965年には五所川原市金木町の芦野公園の「太宰治碑」を手掛け、以後1972年に亡くなるまで死、鎮魂、祈りをテーマとした。今回の展示では青森県立美術館が所蔵する約140点を中心にメキシコ滞在期に制作された作品も含め初期から絶筆まで油彩作品を約200点展示し、全貌を紹介する過去最大の回顧展となっている。

 

 

 

針生一郎『修羅の画家 評伝阿部合成』を読む

 

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(『修羅の画家 評伝阿部合成』書影) 

 

 今回、回顧展に行くことをきっかけに針生一郎による評伝を予習のつもりで読んだ(以下のページ数はすべてこの本からの引用箇所を示す)。

 この伝記は由利子夫人の手記を元に各種資料に当たって書き下ろされたものだ。淡々とした語り口は、やや「修羅」などという題と比較すると熱に欠け突き放したような冷静な文体だという感じを与えるが、合成が知人や夫人に宛てた手紙からの引用が却って目立つ効果を生んでいたと思う。

 伝記の最初は夫人が中年の阿部合成と出会った場面の述懐から始まり、そこで抱かせる画家の印象は「ゴリラ」(10頁)などと喩えられることからもわかるように豪快な変人の姿だ。阿部合成は太宰治と中学の同級生であり、学生の頃はどちらも作文や詩作を得意とし、しかも地主かつ政治家の息子でもあって非常に似た境遇にあった。合成はのち家業を手伝い小作人と契約を交わしたりもしていたようである。修羅とは醜く果てのない争いの意味である。画家の苦悩は芸術上のもの(自らが描くべき絵とはどのようなものか、など)ももちろん大きかったのだろうが、初めの妻との結婚関係、具体的にいえば金策も含めた家庭の維持もあり、戦後までは地主の立場への疑問でもあり、戦中の「反戦画家」の烙印、シベリア抑留を経て戻った戦後日本の姿もその悩みの対象としていたのだろう。阿部は日本でも制作のため滞在したメキシコでも一貫して民衆を描き、「修羅」を描き続けたと言ってもいいのかもしれない。評伝を読む限りでは、絵が評価されないことはもちろん人間関係や経済的な悩みの印象が強かった。ある意味で非常に俗な側面を持ち、であるからこそ切実に訴えかけてくるテーマとを持った画家なのだろう。以上がこの評伝のだいたいの感想である。

  

 

 

・章立てごとの展示概要

  

 今回の展示はモチーフごとに6つの章にわかれている。 年代順ではない。だが最初の部屋がもっとも新しい作品群で、最後の部屋で初期の代表作たる「見送る人々」へ展示を収斂させていくような構成になっていて、おぼろげに時間を遡っていくような感覚があった。各章はだいたい次のような内容になっていた。

 

  

f:id:kotatusima:20210123162524j:plain(第1章)

f:id:kotatusima:20210123201336j:plain(第1章、左から『ミイラ・声なき人々の群れB』1966年、『埋められた人々A』1966年、『埋められた人々B』1969年、青森県立美術館所蔵)

 

「第1章 祈りと鎮魂」は、晩年の亡者を描いた作品群を主に展示。太宰治碑の制作やメキシコ滞在を経て、戦争と抑留の体験が昇華されたものと位置付けている。

 

f:id:kotatusima:20210123162531j:plain(第2章)

f:id:kotatusima:20210123162852j:plain(第2章の次にくる印象的な3点。章立てとしては第1章に含まれる。左から、『インデオたちの祈り』、『マリヤ・声なき人々の群れA』、『インデオたちの祈り』いずれも1966年、青森県立美術館所蔵)f:id:kotatusima:20210123201112j:plain(左から1968年の『埋葬』(2点組)、1939年の『小さな埋葬』。どちらも栃木県立美術館所蔵)

 

 「第2章 故郷と家族」では家族や故郷の風景、祭りや民衆の生活を描いた作品を紹介。メキシコで書かれた3点は祭壇画のようで、この展示の前半のハイライトのひとつといえよう。特に埋葬を主題とする2点の作品は人物のポーズなどが共通するがそれぞれ戦前と戦後に描かれており、通底するテーマと画業の変遷を見て取れる。

 

 

f:id:kotatusima:20210123162602j:plain(第3章)

f:id:kotatusima:20210123204930j:plain(第3章、花を描いた作品を集めた壁面)

f:id:kotatusima:20210123204936j:plain(デッサンなど)

 

 「第3章 愛するものたち~様々な主題」では、動物、風景、人物、花など合成が生涯を通じて描いた様々な主題の作品を展示。阿部のモチーフの幅の広さがうかがえる一方、他の章にうまく収まらなかった作品をまとめた一角なのだな、という印象は拭えない。

 

 

f:id:kotatusima:20210123163926j:plain(第4章)

f:id:kotatusima:20210123204942j:plain(第4章、太宰治碑のための素描(スケッチブック)、青森県立美術館所蔵)

 

 「第4章 海を見る詩人 ~太宰治、山岸外史、文学者たち」は小さいコーナーで、評論家の山岸外史をモチーフとした絵や文学者たちとの交流を示す装丁の仕事、太宰治碑のエスキース新聞小説の挿絵などを展示。

 

 

f:id:kotatusima:20210123162901j:plain(第5章)

f:id:kotatusima:20210123204130j:plain(第5章、風船売りの作品群)

f:id:kotatusima:20210123204138j:plain(第5章、ピエロの作品群)

 

 「第5章 メキシコ、サーカス、道化」では板を彫り込み砂などを塗りこめて作られた特徴的なメキシコでの作品や、メキシコで目にし晩年まで描かれた闘牛士や風船売り、サーカスをモチーフにした作品を1室にまとめている。

 

f:id:kotatusima:20210123162928j:plain(第6章1室)

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(第6章、『鱈をかつぐ人』1937年頃、神奈川県立近代美術館所蔵)

f:id:kotatusima:20210123163009j:plain(第6章2室)

 

   「第6章 『見送る人々』と壁画の夢」では『見送る人々』と同時期の阿部の関心を示す作品を展開。従兄弟の常田健ルネサンス美術やメキシコ壁画運動を研究するグループを作ったころにともに旧居に描いた壁画などを展示していた。

  

 

 
・展示名、展示全体の印象、作品配置

  

 展示名「修羅をこえて~『愛』の画家」は「修羅」を針生の評伝の題からとっていて、一見「修羅」よりも「愛」の側面を強調したいようでもあるが、実際は一種の解釈の幅の中での表現で、阿部は「修羅」の画家であり「愛」の画家であると呼ぶ方が相応しかろう。どうしても針生の評伝をベースにして展示をみてしまったきらいはあるが私としては「修羅」の印象が大きく覆ることはなかった。
 作品の色合いは初期はバーントアンバー系の茶の混じったような感じで年々彩度がきつくカラフルになっていったようだ。日本画を学んだ阿部だが青森では寒くて膠がすぐ固まってしまうため卒業後は油絵を描くようになったらしい(58頁)。あえて日本画風の特徴を指摘するとすれば特に戦後の作品にみられる簡略化されたタッチには水墨画のような筆の動きへの意識が感じられるし、いくつかの絵のざらざらしたマチエールも日本画の顔料を思わせないこともない。

 展示風景で印象的なのは小作品が多いことで、例えば針生も阿部の60年代後半の制作について次のように書いている。「無名で異端の画家だった時代は、生活にも追われていたから、計画され描きこまれた少数の作品に限定せざるをえなかったが、この時期は自由な制作に集中できて大作への意欲も捨てきれない一方、当面の仮住まいを由利子のために何とかしたい、という気持ちもあったにちがいない。それだけに円熟にむかうべき時期に、彼は酔いにまかせて即興の詩を口ずさむように、筆の走るままに小品ばかり描きすぎた、という批判も周囲にはある」(210頁)。「修羅」の画家らしいと言うべきか、生活に追われつつ必死で絵を描き続けた集積だと思うと見ていて少し胸が痛くなる。小作品の多さゆえ二段で作品が掛かっている壁面もあり、同じモチーフの作品の関係性は把握しやすいもののやや窮屈で少なくとも一点一点をじっくり見せるような配置ではないと感じた。カタログレゾネのページをめくった時に羅列された小さい作品画像が目に入った時のことを思い起こさせた。

 また、4章を除くすべての章のはじめに自画像が置かれていたのが目についた。『見送る人々』は絵の右半分には阿部自身や家族、知人の姿が描きこまれており、この作品をひとつの自画像であるとすれば各章の自画像は第6章への伏線と捉えることができるだろう。

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(左から『自画像(絶筆)』1972年、『自画像』1947年、『自画像』1947年、『自画像』1960年、以上青森県立美術館、『自画像』1936年、神奈川県立近代美術館

  

  

 

 後半に続く・・・。

 

 

 

(続きはこちら)

kotatusima.hatenablog.com

 

2021.1.26. 一部主旨が変わらない範囲で言い回しを変更、語句追加 

備忘録・2020年後半の良かった美術展と2020年のまとめ

・2020年前半はこちら→(備忘録・2020 年前半の良かった美術展 - こたつ島ブログ

 

・7月

 

 レジ袋有料化開始、球磨川の氾濫に代表される西日本の豪雨、「盗めるアート展」などがあった7月。まだギャラリーや美術館の予約制にも慣れず、見る側も見せる側もまだ様子見といった感を残していた。

 その中でも今年、六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートの「フェリックス・ゴンザレス・トレス 『無題(角のフォーチュン・クッキー)』」を世界で同時に展示するプロジェクトを見に行ったことはこれからも強く記憶に残っていくことと思う。このプロジェクトは、フェリックス・ゴンザレス=トレス財団と、その管理母体であるギャラリー、Andrea RosenとDavid Zwirnerが発案したもので、個人宅を中心とした世界中の1000箇所が招待されているそうだ。5月25日から7月5日までのプロジェクトなので、私の手元にあったフォーチュン・クッキーが作品であるのは7月5日までだった。人々の間に作品が拡散していく様は次のハッシュタグで見られる。

#FGT🥠exhibition  #FGTexhibition  #fgtexhibition

 


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(左、展示風景 右、持ち帰ったフォーチュンクッキー

 BANKARTSILK「アイムヒアプロジェクト/渡辺篤『修復のモニュメント」」は、ひきこもり経験者の作家が、ひきこもり当事者や経験者と対話しながら記念碑を作り、壊し、金継ぎで修復・再構築するプロジェクトの記録。そこで語られ、壊され、再構築されているものは何なのか。ウェブサイトには「伴走型の新しい当事者発信の形の模索」とあった。誰かの経験を取材し作品で取り扱う際の作家の立ち位置や作家が介入する意味、作家が取材対象に何を還元できるか、というような問題を鮮やかにクリアしているように見えた。今後のプロジェクトの展開、継続が楽しみだ。

 

・8月

 
 個人的に興味をひかれたのは日本民藝館洋風画と泥絵 異国文化から生れた工芸的絵画」。西洋の遠近法が民間で土産物の風景画に用いられている、その受容の仕方が興味深かった。閉廊時間が早まっていたが、昨年に引き続き日本画廊「山下菊二展」を見た。

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・9月

 
 東京藝術大学美術館陳列館「彼女たちは歌う」は、今年最も話題になった展示のひとつだったと思う。女性の作家のみを集めたグループ展だ。久しぶりにスプツニ子!の《生理マシーン、タカシの場合。》(2010)を見た。百瀬文《SocialDance》(2019)では、旅先での振る舞いをめぐってカップルが揉めるというよくありそうなやり取りが手話で繰り広げられる。彼氏が彼女の手を握ることで彼女の口(である手)を封じる、その見た目とは裏腹の行為の暴力性にハッとした。山城知佳子《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)は、沖縄の現在進行形の事象を具体的に扱いながら、非常に創造的な作品だった。米軍基地移設のため海を埋め立てる男と妻、その土地の精霊、土地を守る老人と孫娘が登場し、オペラであり、沖縄の伝統芸能であり、ドキュメンタリーでも家庭劇でもあるような作品だった。すごかった。

 

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(左は百瀬文《SocialDance》(2019)の一場面)

 ギャラリーアートもりもとの「柏木健佑展『イメージです』」では、柏木がvoca展に出品していた頃の寺山修司とか鈴木清順のような感じから脱してきて画面からは人間を含む動物がほぼ居なくなり、大小のキャンバスで壁を埋めるインスタレーション的な展開をしていた。絵のモチーフと似た謎の土のオブジェもあり、現在進行形の絵画の実験と苦闘が垣間見えた。作家から話を聞いた際の「像のありかが分からない」「スピード感を持って描きたい」「監視カメラのように描きたい」などの言葉が印象に残った。

 

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(左、柏木の展示風景 右、謎のオブジェ)


 ゲンロン五反田アトリエの「ゲンロン新芸術校第6期グループA かむかふかむかふかむかふかむかふ」では、堀江理人の作品に興味を惹かれた。絵画を用いたインスタレーションで、家族写真のような絵画の大作を中心に、北海道のローカルな美術史上重要な写真を絵画化したものや、彼の家族が撮ったらしい写真や北海道土産の木彫、北海道美術史の本などが周囲に点在し、ラジカセからは彼と父の話し声が聞こえている。何やら美術の話をしているらしい。彼の父は部屋に横山大観セザンヌの複製画を飾り彼が美術に興味をもつきっかけを与えた。

 会場で配布しているテキストでは、日本美術が描いてきた「くらい」「くらし」の洋画の系譜(福田和也『日本の家郷』より)に、神田日勝など北海道出身者や在住者が発表してきた作品と、彼がテーマにしてきた「堀江家」の家族の暮らしを題材にした作品を位置付けている。そしてさらに西洋美術の素朴で無自覚な受容に「くらい」「くらし」の洋画の系譜の遠因を見ている。私がこの作品を面白いと思ったのは、日本美術の本流を北海道という僻地の「くらし」を描いた絵画に見出したかにもとれる切り口とともに、堀江がその「くらし」の「くらさ」に強く共感しつつ断ち切ろうとしてもがいているからだ。出口がないように見える「くらし」をどう受け入れたりやり過ごしていくのか、そして美術作品にそれがどう表れるのかは、決してローカルな問題でも机上の空論でもなく、地に足のついた切実で興味深い論点だと思う。そこで「描くこと」「書くこと」や「撮ること」つまり「作ること」の哲学を、素朴さに頼らずどう深化させていくか、気になっている。

 

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(左、展示入口 右、堀江のインスタレーション全景)


 多摩美術大学美術館の「真喜志勉 TOM MAX Turbulence1941-2015」は展示パンフレットなどを含むオーソドックスな構成の回顧展。真喜志はアメリカの文化に深く親しみながら、沖縄を描いてきた。二階の展示室ではジャズに合わせて左官の格好をして真喜志がライブペイントやってる記録映像があって、そこから流れてくるジャズを聴きながら平面作品を見られたのがよかった。

 

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(左、展示風景 右、展示ケースには資料とともにレコードのジャケットも展示されていた)


 武蔵野市立吉祥寺美術館の企画展「岡田紅陽 富士望景ー武蔵野から」も駆け込みで見に行った。岡田の代名詞である富士山の写真をコンパクトにまとめて見られた。関東大震災の被害を撮影したり、写真が外国に送られたり、作品が千円札の絵の原画になったり、岡田紅陽は様々な語り口がある。富士山以外も含むさらに規模の大きい展示も見たい。一点気になったのは、紅陽の写真作品の額装がどこか日本画っぽくて独特だったことだ。明るい茶の木製の額の内側にベージュ系の布張りで真鍮か何かの金の縁がついたマットが入っていた。何点かは写真の上に金で「紅陽」とサインされていたから、尚更日本画っぽかった。武蔵野市が作品を所蔵する時にそうしたのだろうか。その額装にも岡田の仕事の立ち位置が表れているようだ。

 

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・10月

 
 4月末から開催予定だった、市立小樽文学館竣工50年 北海道百年記念塔展 井口健と塔を下から組む」が延期されやっと3日から始まり、初日は鼎談に登壇した。延期に伴って井口健さん往復書簡を続けたり、展示に合わせて2018年のグループ展の記録冊子を準備したりと、今年はここまで特に慌ただしかった。展示最終日の座談会は中止したが会期を全うできたことは幸いだった。

 

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(左、小樽文学館入口 右、展示風景) 

 

 500m美術館の「 vol.33 反骨の創造性」は、北海道出身・在住の代表的な現代美術作家のグループ展であった。特に写真家の露口啓二の作品に興味を惹かれた。松浦武四郎がカタカナ表記したアイヌ語の地名をもとに沢を撮影した作品。撮影は視覚的に限定された条件で行われているらしいが、さすが写真家というか、あまり撮影の条件の不自由さは感じなかった。この作品では、武四郎のカタカナという文字による記録の暴力性と、写真が出来事を瞬間に固定してしまう性質を重ねて捉えているそうだ。それは最近の私の制作にも関わることだし、前にSNS上でアイヌのビジュアルイメージについて少し話題になっていたのを見たが、そことも関わってきそうな視点と思う。


 ギャラリー58 の「中村宏 4/1について」は、ちょうど日本画廊の「山下菊二展 -collage-」と一部会期が重なっており、戦後日本美術に興味を持っている私としては堪らなかった。

 

 


11月

 茨城県陶芸美術館企画展「人間国宝 松井康成と原清展」は、偶然近くに行ったので見たが素晴らしかった。陶芸の表現の幅の広さと最高の技術を味わえた。

 

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(左、原の作品 右、松井の作品)

 

 春から延期になった「さいたま国際芸術祭2020」も10月に入ってようやく開幕した。特に興味深かったのは旧大宮図書館の会場(アネックスサイト)の、カニエ・ナハと北條知子のインスタレーション。一見なにもない、古びたがらんどうの部屋が、いくつかのテキストによってかすかな痕跡が指し示されることで、まったく違ってみえた。詩人の言葉の力を感じた。
 旧大宮区役所(メインサイト)で、ふと、テリ・ワイフェンバックの桜の写真を見ているときに、外出の「自粛」という奇妙な事態で、失われた今年の春を想ってなんとも言えず、こみ上げてくるものがあった。

 

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(左、カニエ・ナハと北條知子の展示風景 右、テリ・ワイフェンバックの展示風景)

 

 知人に勧められて見た東京国立博物館桃山―天下人の100 年」で、狩野永徳の唐獅子図屏風を見られたのは貴重な経験だった。想像の1.5倍大きかった。

 
 日本民藝館の「アイヌの美しき手仕事」は、以前札幌でも見た展示だったが行ってみた。結果、展示構成の違いから日本民藝館の独特なスタンスがわかった。

 札幌会場では柳宗悦のコレクションと芹沢銈介のコレクションをそれぞれ別の部屋で展示したり、民芸館では展示されていなかった川上澄生のコーナーなどを作って、柳や芹沢の紹介はもちろん北海道と民藝運動の関わりを丁寧に紹介していた。

 一方で民藝館会場ではほぼ解説なしでモノを見せている。これは民藝館としてはいつも通りの見せ方ではある。展示図録と今回の展示に合わせた雑誌『民藝』はすべて売り切れだったので関東でもアイヌ文化への関心が高いことが伺い知れた。展示物を虚心坦懐に見ることは鑑賞の基本であるが、美術館・博物館やそれに類する施設の使命はそれだけではない。山本浩貴が端的に指摘しているように、この展示にはアイヌ民族が辿ってきた歴史についての最低限必要な解説が欠けており、多少でもアイヌへ関心を持ってきた者は違和感を覚えざるを得ないだろうし、誤解を招く表現がない代わりに先入観の訂正もない。もし日本民藝館民藝運動の称揚や柳らの神格化だけの内向きな展示ばかりしているのだとすれば、ある程度は仕方がないにしろ、運動の本質からは逸れていくだろう。その再検証を通して民藝運動の更新をしていけるようでなければ民藝に未来はないと私は思う。

 

 

 
12月

 
 国立歴史民俗博物館性差(ジェンダー)の日本史」は、今年最も話題になった博物館展示のひとつだったのではないか。私たちの多くが内面化している女性に関するイメージや伝統・慣習として語られがちな姿が、時の流れとともにいかに移り変わってきたのか、また地域によっても違うのか、全国各地の資料を駆使して紹介していた。例えば、労働力としての女性の姿がしばしば無視されてきたこと、(地位にもよるのだが)政治的権力や財産権が平等だったり、職業の男女差や差別が少なかったことなどだ。
 展示後半は、日本における売春業の成り立ちから、特に近世以降の人身売買による売春の制度を丁寧に紹介していた。江戸時代は借金の返済のためやむを得ず…とされていた売春が、近代以後は実態とかけ離れた「自由売春」とされ、偏見の目にさらされる流れなど、興味深かった。
 

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 相模原市のパープルームギャラリーで開催された「青春と受験絵画」では、美術大学受験のための予備校で練習され、入学試験時の限られた時間と与えられたテーマで描かれる、いわゆる「受験絵画」を展示していた。私は受験絵画を通過せず大学院まで出てしまったので却って受験絵画に興味があり「『フツウの美大生』の通る道ってどんなものなんだろう」と思いながら見に行った。ある予備校が所蔵する30点ほどを見ることができるのみだったが幅広い年代の受験絵画が展示されており珍しい機会だったといえよう。それぞれの時期の出題傾向や講師によって多様な受験絵画が生まれた、その片鱗は感じられた。美術予備校を知らないで呑気に見れば様々な画風を実験した絵画群としか見えないかもしれない。その背景には「個性とは?」「優れた美術表現とは?」という問題が横たわっている(その論点については荒木慎也の論文「受験生の描く絵は芸術か」に詳しい)。意欲的な展示だと思った。

 

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(パープルームギャラリー 展示風景) 

 

  東京都写真美術館瀬戸正人 記憶の地図」は、日本人の父とベトナム人の母のもとに生まれ、タイと日本を往復しながらアジアの人々を撮影してきた写真家の回顧展。作品は年代順ではなく6つに分かれていて、はじめに最新作の「Silent Mode 2020」が展示され、続けて「Living RoomTokyo」、「Binran」、「Fukushima」、「Picnic」、「Bangkok, Hanoi」となっている。展示を見るまであまり瀬戸のことを意識したことはなく「Picnic」の印象が強かったが、人間の本質的な部分を、いかに目に見える表面的な部分から浮かび上がらせることができるか、という通底した問題意識が感じられた。

  

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・その他

 

 以上、取り上げたほかにも原爆の図丸木美術館「砂守勝巳写真展 黙示する風景」、銀座メゾンエルメス フォーラムベゾアール(結石) シャルロット・デュマ展」、Kanzan gallery 「佐藤祐治 水が立つ」、東京ステーションギャラリーもうひとつの江戸絵画 大津絵」、東京都写真美術館TOPコレクション 琉球弧の写真」など、面白かった。

 

 ・まとめ

 

 後半に特に面白い展示が多かった気がする。アイデンティティのあり方、特に複数の土地に関わるそれを扱った作家・作品に興味を持ってきたことを感じる。

 

 自身の作家活動としてはいくつかの展示が中止や延期になり結果として「北海道百年記念塔展」に関係することが一年を通して大きな比重を占めた。初めて本の編集をやってみたり、制限された中でも周囲の協力を得ながらそれなりに動けたのはよかった。

 

 映画については美術館・博物館展示以上にちゃんと見ることができていない。両手で数えられる程度だ。気が向いたら別稿で書きたい。

 

(終)

上田日帰り紀行(2020年春、農民美術を見に)

 

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  長野県上田市上田市立美術館に、「農民美術・児童自由画100年展」(2019年11月30日(土)~2020年2月24日(月)開催)を見に行った。たびたびフェイスブックなどで広告を目にして気になっているうちだんだん会期の終わりが近づいてきた。行くか迷ったがどうしても我慢できず高速バスのチケットを取って日帰りを強行することになった。先に結論を言うと「農民美術」については非常に資料が豊富で、行って良かった。

 長野県を訪れたのは数年前のゴールデンウィークに友人と軽井沢に遊びに行って以来の二度目。上田市は戦国武将の真田氏の本拠地でもある。さて、一日でどれだけのものを見られるだろうか。

 

 

 

2020.02.17.

  

上田市

 

 朝8時前、池袋駅前からバスに乗る。友達と軽井沢に出かけた時にも同じ場所からバスに乗った。席はそれなりに埋まっているが満席になりそうな気配はない。バスが出てからスーパーで買ってきたサンドイッチを食べると早起きのせいですぐ眠気が襲ってくる。空は曇って小雨が降りそうだった。半ば船を漕ぎながら、窓の外の山並みを眺めた。そのうちにいつのまにか寝ていた。

  

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 目が覚めると「しもにた」という道の駅をバスが出発するところで、空は青く晴れていた。ベンチにおじいさんが普段着でひとりだけ座っているのが窓の下に見えた。

 早春の山の斜面に真っ直ぐな杉が並び立っている。とげとげとした山脈のところどころで、頂には岩が露出していた。白っぽい山々の一部に抹茶に似た緑と古びた苔のような茶色の木々が残っている。やはり私が見慣れた北海道の山々とは違う。

 小諸高原を抜ける。とても景色が良い。眼前にあるのは浅間山だろうか。

 前の席に座っていた二人連れの若い男が急に歌いだした。イヤホンをしていて周りが見えていないのだろうか。ヘタクソで何の曲かわからなかった(よく聴くと水星だった)。でも、つい歌ってしまう気持ちがわかるくらいにはいい天気だった。

 

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上田市立美術館

 

 11時過ぎに上田駅に着いた。町の周囲がぐるり山に囲まれているのには軽井沢と近い印象を覚えた。駅前には水車と真新しい騎馬武者の銅像がある。近くで見なかったが真田幸村の像らしい。駅の外壁には大きく真田氏の家紋「六文銭」が描かれていた。トイレを済まし観光案内所で上田市立美術館への道順を訊こうとすると、嬉しいことにさっそく農民美術が出迎えてくれた。小さな木彫りの人形が透明なケースに入っていた。展示に合わせて商店街などあちこちに設置しているらしい。

 

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(観光案内所の農民美術) 

 

 駅の「温泉口」から出て突き当たりの十字路を右に進む。こちらの出口は駅前と言えどかなり人通りが少ない。10分ほど歩くと右手に大きなショッピングモールがあり、その向かいに美術館の建物が見えてきた。敷地の角に大きな看板が立っていた。

 

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 上田市立美術館(サントミューゼ)は総合的な文化施設で、円形の広場を中心に多くの小部屋が大きな廊下でつながっているような構造の建物だ。それぞれの部屋の横を通ると確定申告の会場だったり、中で楽器の練習をしていたり、版画の工房として使っていたりするのが見える。

 

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(サントミューゼ内部の様子)

  

 

 

・「農民美術児童自由画100年展」

 

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 11時半過ぎから「農民美術児童自由画100年展」を見る(以下の記述は私の感想を除き展示内の解説か展示図録に拠る)。

 そもそも「農民美術運動」とは、農民自身の手によって作られた工芸品(農民美術)の量産により農村民の生活の芸術化と生活水準の向上を目指す運動で、「児童自由画運動」とは手本によらず子どもたちの実感に基づいた創造的表現活動を学校教育の中に定着させようとするものだった。この二つの運動を主導したのが上田市ゆかりの山本鼎(1882~1946)であり、1919年にふたつの運動が始まってから100年を記念し開催された、というのが本展の位置づけになる。 展示はまさに題の通り山本鼎の農民美術運動の始まりから現在までと、自由画教育運動の二部構成で、農民美術運動のほうがかなり展示物が多かった。逆に自由画教育運動については物量がかなり少なめだったのが残念だった。

 まず山本の経歴を簡単に振り返ると、愛知県岡崎市生まれ(異論もある)で、父親が医院を開業した縁で上田を拠点とした。はじめ木口木版の工房に奉公したのち東京美術学校に入学、黒田清輝や久米桂一郎の指導を受ける。在学中は彫りや刷りなど制作の過程すべて芸術家自身が行う「創作版画」の運動に関わる。30代前半でフランスに留学、帰路にロシア革命直前のモスクワの「児童創造展覧会」で子供たちの自由闊達な絵を見、また農民による工芸品に出会ったのが山本の人生を変えた。以後、山本は教育者や美術的な社会運動家として、「農民美術」と「児童自由画」を活動の主軸とした。

 まず、「序章 山本鼎」で山本の代表的な絵画作品が紹介される(ここで展示されていた作品は図録には掲載されていない)。主に油絵や木版画である。山本は「セザンヌにおける色面、構図の重視」、「ルノワールの人物表現」、「モネの光の捉え方」に影響を受けたと解説されていたが、たしかに『平田知夫領事肖像』(1916)の色づかいなどを見るにセザンヌの影響を感じさせる。「自分の感覚を作品に映し出そうとする印象派の画家たちの表現法・・・」という説明書きもされていたが、大雑把でモヤッとした。ヨーロッパで山本は「実相主義」(この言葉は初めて聞いた)、つまり「自分が直接に感じたものを表現すること」の自覚を得たのだ、とも説明されていた。その是非は私にはわからないが、山本の言葉「自分が直接感じたものが尊い」(初出は1928年『学校美術』誌上の談話筆記という)は、農民美術にも児童自由画にも通底しているようである。

 「第1章 農民美術の胎動」は、山本が4か月滞在したロシアから持ち帰った工芸品や初期の農民美術運動の趣意書など資料が展示されていた。運動の初め頃の作業風景の写真など資料が散逸せず残っているのには驚いた。

 「第2章 農民美術の展開」では、その題の通り全国に展開していく農民美術運動を多くの実作を交え紹介していた。大正後期~昭和初期がもっとも運動が盛んで、一時樺太から鹿児島まで全国で講習会が開かれ、全国に120か所以上の農民美術生産組合があった。各地の講習会は、最初の製品デザインやサンプル製作は山本や講師たちが行い、実作や石膏デッサンによる形態把握などの基礎的講習を経て受講生が組合を作り、デザインを考案し農民美術を生み出していく、という仕組みになっていたらしい。講習は道具類の実費以外は原則無料で行われたという。

 展示物では、やはりそれぞれの地域の特色が出た「木片人形」がおもしろかった。木彫り熊のルーツの一つであるといわれる北海道八雲町の徳川農場でも講習が行われたようであるし、秋田の版画家の勝平得之が手掛けた風俗人形も興味深い。諏訪なら御柱祭秩父であればオオカミ、南多摩なら高尾山の天狗面、宇治なら茶摘み、鹿児島なら西郷さんなど、その土地らしいモチーフが見られた。

 1919年に始まった農民美術運動は主に三期に分けられ、1924~1930年の二期に大きく進展し、1931~1935の三期になると山本が東京に引き上げたり国の副業奨励助成金が打ち切られるなどして活動が停滞していく。展示図録ではほとんど触れられていないが、この模索期には都市部購買層のニーズを想定した洋風の家具等の製作も行われていたようだ。

 「第3章 戦後の農民美術」では、戦後の作品を紹介。太平洋戦争でほとんどの農民美術生産組合や関連団体が活動を停止したなか、長野県上田地域では1949年から再び製作を開始し、1955~1961年には「農民美術技能者養成制度」によって県内各地から訓練生を集め、農民美術の担い手を育てていった。

 続く「第4章 現代の農民美術」では農民美術の流れをくむ現役の作家を紹介していた。その中には農民美術の製作技術をベースに独自の技法を身に着けたり日展など公募展で彫刻家として活躍する作家も含まれる。1982年には農民美術は長野県知事指定伝統工芸品となった。

 「第5章 農民美術の可能性」では、現在の活動を取り上げ、2017年から「こっぱ人形の会」が行っている学生向けの講習会の作品や、ブランディングとして商店の看板を農民美術の作家が木彫で手掛けたものなどが展示されていた。

  

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(一部、写真撮影が可能なコーナーがあった。近年の講習で製作されたもの)

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(上田市をモデルにしたアニメ映画『サマーウォーズ』(細田守監督作品)のキャラクターをモチーフにした「農民美術」もあった。市内ではあちこちで関連グッズを見かけた)
 

 その後が「児童自由画100年」の展示コーナーだった。

 「第1章 自由画教育の議論」では児童自由画の運動にかかわる資料や「児童自由画展覧会」の作品が展示されていた。教科書の見本を見て描く「臨画」への批判から、児童が直接対象を見て描く「自由画」が提唱されたわけだが、1910年発行の教科書《新定画帖》は、臨画から描き方の細かい指導を伴いながら写生画に移行するように作られていたようだ。厳密に見ていくと「臨画」と「自由画」にはある程度共通する理念があるのではないかと感じた。また同時期に北原白秋も雑誌『赤い鳥』で「児童自由詩運動」を展開したらしい。北原の詩集「邪宗門」には山本も挿絵を描いている。

 「第2章 山本鼎と、運動をめぐる人々」では、木村荘八や倉田百羊など児童自由画の議論や運動に関わった画家などを紹介。「第3章 教育の現場にて」では、山本が20年間教育に携わった自由学園や長野県内の児童自由画教育を実践した学校の生徒作品を紹介していた。やはりこのような信州の教育運動が松澤宥を生んだのかな、と想像しながら見た。かなり偏っているけれど私にとってはどうしても長野は松澤宥のイメージが強い。

 

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(美術館から向かいのショッピングモールが見えた)

  

 14時過ぎ、展示を見終え館内のショップで図録と絵葉書を何枚か買った。図録は興味深い論考がいくつも載っているのだが、持ち帰って読み返すと、どうやら肝心の展示内の各章各展示物の解説文が収録されていないようであった。記録という意味では大きい欠陥なのではないか。

 

上田城

 

 とても天気がよい。すぐ近くの上田城へ行ってみる。

 

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 信号の向こうに城が見えてわくわく。こちらは城の南面にあたる。

 
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 この石垣の下には千曲川が流れて天然の堀となっていたそうだ。

 

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 上田城は1583(天正11)年、真田昌幸によって築かれた。上田盆地のほぼ中央に位置し、二度も徳川軍を撃退した名城だ。関ヶ原合戦後は破却され真田氏に代わり仙石氏、松平氏の居城となった。

 西櫓の脇にある急な階段を登ると眞田神社の裏手に出る。神社は観光客向けに、ゲーム内でキャラクター化された真田幸村を押し出している。また地元高校の運動部が奉納した大きな絵馬があった。

 

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 東虎口櫓門は左右の南北の櫓が昭和24年に、門が平成6年に再建されたそうだ。地域の誇りなのだろう。

 

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上田市立博物館

 

 城内には上田市立博物館があるので寄ってみた。

 春には全国の多くの博物館でも行われている雛人形の展示とともに、常設だと思われる江戸以降の上田藩主の甲冑5、6領が武具と共に展示されていた。真田家の次の城主の仙石家も家紋が銭だったのは面白い。変わり兜や長篠合戦の際の武田家からの分捕り品の槍など興味深く、とても満足した。最後の上田藩主である松平忠礼の資料もあった。忠礼は戊辰戦争前後に藩士や家族をたくさん写真に撮っており、以前古写真の本をよく見ていた僕にはおなじみだった。また幕末に活躍した赤松小三郎の資料も展示されており、その中では和洋折衷の刀が面白かった。サーベルのような鍔で、刃は両刃なのだという。

 その他、近代の養蚕の資料を見て、松澤宥の「プサイの部屋」は蚕室だったよな、と思い出した。信州は養蚕がさかんだったのだ。

 

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 博物館の別館には鉱物など自然史系の資料も一部ありつつ真田家の資料がまとまっていて、VRで上田合戦のことが学べる部屋もある。こちらの方が展示にだいぶお金がかかってる感じだ。やはり真田家は人気なのだろう。この建物はもともと山本鼎記念館だったため入り口脇に石碑がまだある。いまはサントミューゼに山本鼎の資料が移っている。

 

 

 

・農民美術を買いにいく

 

 16時半すぎ、上田城から出て「農民美術」を買い求めに夕暮れ時の町を散策した。

  

f:id:kotatusima:20200430181152j:plain(橋に不思議なマークが)

f:id:kotatusima:20200430181210j:plain(そういえば上田は真田十勇士のゆかりの地でもある)

f:id:kotatusima:20200430181227j:plain (上田城跡の向かいの小学校がとても立派だった。塀に狭間がついている)

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f:id:kotatusima:20200430181334j:plain上田市内の信濃国分寺は「蘇民将来」の護符を正月に授与している)

 

 

 
 まず着いたのは栄屋工芸店。額屋も兼ねていた。昭和期に北海道に卸していたというアイヌ文様風の彫刻が施された木製の皿も展示してあった。八雲町と農民美術のつながりを思い出す。ここでは迷った末に青い壺型のつまようじ入れと赤い鳥の頭がついたつまようじ入れを買った。箱にまかれた紙にも真田氏の家紋の六文銭や「上田獅子」をあしらっている。

 

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 バスまでまだ時間がある。もう少し町を歩く。大きな通りから一本中に入ると場違いな「花やしき」「あさくさ」の文字。これは大正6(1917)年創業の上田映劇といって、運営者は変わっているが現役の劇場だ。浅草などの文字やネオンは映画のセットがそのまま残されたものらしい。またいつか上田に来ることができたらここで映画や演芸を見てみたいものだ。

 

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(ここは江戸後期の学者である佐久間象山が勉強した地らしい)

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 農民美術を求めて向かった二件目はアライ工芸店。趣のある店内だった。素朴な茶匙を買った。

  

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・帰路

 
 農民美術を手に入れ、駅へ。ローソンで弁当やお茶を買う。駅前で弾き語りをしている人がいて、すぐ横で女の子をナンパしてる風のお兄さんたちがいた。

  

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 定刻より数分遅れてバスが来た。帰りの車内では疲れていたので夕食を食べてすぐ、ぐっすり寝てしまった。22時過ぎ、気が付いたら東京に着いていた。一日の滞在でも一通りの観光地は見られて充実していた。また来たい。

 

 

 (終)

 

備忘録・2020 年前半の良かった美術展

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 2020年前半は某芸術祭のアルバイトなどをしつつ、自分が企画に関わったグループ展の延期の対応、4~5月の自宅待機という変化の激しい期間だった。

 おそらくは万一感染者を出したときに叩かれることを恐れてだろう、感染リスクが少ないと言われていたにも関わらず首都圏の多くの美術館はかなり早い段階から閉まっていた。このことでかえって無駄に質の低い展示を見なくて済んだかもしれない。ただ「白髪一雄展」(東京オペラシティアートギャラリー)を見逃したのだけは心残りだ。

 図書館が使えなかったのがかなり痛手だったが、4~5月は調べものと資料のまとめに精を出しながら、だらだらと過ごした。

 まったくと言っていいほど映画を見ることができていないので、もっと見たい。

 

・1月

 今年の〈美術館初め〉は東京国立近代美術館で、企画展は特筆すべきことはなかったが常設で山下菊二の傑作『あけぼの村物語』や、中村正義が映画『怪談』(小林正樹監督作品)のために制作した連作『源平海戦絵巻』を見られてとてもよかった。東京都美術館の「松本力 記しを憶う」は、「アニメーション」や「ドローイング」について考えようとする人には必見の個展だったと思う。一枚一枚の違った絵を積み重ね一つの映像作品として統合するというよりも、その一枚一枚の差異に込められた感情が共振して増幅していくような作品群だった。

 

f:id:kotatusima:20200706135917j:image山下菊二『あけぼの村物語』

 
f:id:kotatusima:20200706135929j:image中村正義『源平海戦絵巻』第二図〈海戦〉部分
f:id:kotatusima:20200706135937j:image中村正義『源平海戦絵巻』第三図〈海戦〉部分
f:id:kotatusima:20200706135941j:image中村正義『源平海戦絵巻』第五図〈竜城煉獄〉部分

 

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東京都美術館松本力 記しを憶う」会場風景

 

 

 

・2月

 アサクサの「藪の中 日本赤軍」では、エリック・ボードレールの『重信房子、メイと足立正生のアナバシス、そしてイメージのない27年間」THE ANABASIS」と、ナイーム・モハイエメン『UnitedRedArmy』を上映していた。長野県まで足を伸ばし、上田市立美術館で「農民美術児童自由画100年展」を見て上田城なども観光できたのはよかった。日本画廊「3人の日本人展 山下菊二×中村宏×立石紘一」は、個人的にとても興味を惹かれた。展示打ち合わせのため北海道に行き若干展示を見た。北海道立文学館「砂澤ビッキの詩と本棚」は、詩人としての砂澤ビッキ再評価ともいえる視点が意欲的で、蔵書など展示物も興味深い。東京国立近代美術館ピーター・ドイグ展」は、休館前に駆け込んで見た。小企画で北脇昇の特集(「北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」)があったことで絵画というものの振り幅の広さを感じた。

 

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アサクサ「藪の中 日本赤軍」展示風景
 

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上田市立美術館「農民美術児童自由画100年展
 

f:id:kotatusima:20200706140034j:plain北海道立文学館「砂澤ビッキの詩と本棚

 

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東京国立近代美術館ピーター・ドイグ展」会場風景

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北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」会場風景

 

 

 
・3月

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館「生誕120年・没後100年 関根正二展」は、個人的に好きな画家だったので見られてよかった。会期が短縮されたのが残念だ。なおこの展示は美術館連絡協議会の「美連協大賞」を受賞している

 また偶然にも松澤宥の回顧展が、カスヤの森現代美術館「松澤宥 80年問題」と、パープルームギャラリー「松澤宥ーイメージとオブジェにあふれた世界」との二ヶ所で開催されていた。

 弘前、盛岡、青森へも行った。もりおか歴史文化館では「盛岡と北海道ー盛岡藩と蝦夷地の関係・交流史」、盛岡てがみ館では「北の大地に魅せられてー盛岡の先人と北海道」を見た。青森県立美術館や善知鳥神社にも行った。

 上野の森美術館VOCA展2020は、金サジ「女たちは旅に出、歌と肉を与えた」、藤城嘘「Lounge of ealthly delights / Oruyank'ee aux Enfers」、李晶玉「Olympia2020」が気になった。

  

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 神奈川県立近代美術館鎌倉別館「生誕120年・没後100年 関根正二展

 

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カスヤの森現代美術館、椿が咲いていた

 

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弘前市高照神社

 

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もりおか歴史文化館「盛岡と北海道ー盛岡藩と蝦夷地の関係・交流史」・盛岡てがみ館「北の大地に魅せられてー盛岡の先人と北海道

 

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青森県立美術館

 

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善知鳥神社

 

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VOCA2020より 金サジ「女たちは旅に出、歌と肉を与えた」

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VOCA2020より 李晶玉「Olympia2020」

 

 

 

・4~5月

 ほとんど開いている美術館はなかったが練馬区立美術館「生誕一四〇年記念 背く画家 津田青楓と歩む明治・大正・昭和」は、堅実な回顧展だと感じた。私が知っている範囲では首都圏の美術館で最後まで開館していたのがここだったように思う。土日の臨時休館を除いて開館していた。

 この頃はほとんど引きこもり生活だった。夜に街を徘徊したり、家に生えている雑草の絵を描いて過ごしていた。5月後半から徐々にギャラリーも開き始めた。

  

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練馬区立美術館「生誕一四〇年記念 背く画家 津田青楓と歩む明治・大正・昭和

 

 

 

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(深夜徘徊時に撮った写真)
 

 

・6月

 ミヅマアートギャラリーの「筒井伸輔展」は技法が独特だった。eitoeiko「天覧美術」(京都KUNSTARTZからの移動展)で特に気になったのは木村了子さんが『菊の皇子様』という題で天皇陛下の肖像を描いた作品だ。それを見ていまは取り壊されてしまった田舎の親戚の家の座敷に昭和天皇と家族の写真が掛かっていたのを思い出した。なぜこのような連想をしたかというと、たぶん木村さんの作品が高い位置に掛かっていて、田舎の仏壇の上の長押に故人の写真が掛かっているような位置を思い出させたからだ。昭和天皇の写真もそのような位置にあったのだ。その額はこげ茶色でよく賞状や故人の写真が入っているようなありふれたものだった。それと比べると木村さんの作品は「随分額縁が立派だなぁ」と思えて自分でも不思議だった。やはり「皇子」の額は金ぴかでいいのだろうし賞状の額は合わないと思う。でも昭和天皇の写真にはやはりあの絶妙に安っぽい茶色のシマシマの額が似つかわしい。わたしの中でそういう天皇と庶民との距離感のサンプルとして二つの天皇の肖像があまりにも好対照であった。江戸東京博物館の「奇才 江戸絵画の冒険者たち」は、蠣崎波響の『御味方蝦夷之図』(『夷酋列像』の「函館本」と呼ばれている作例)が気になって行ったのだが、まだまだ知られていない絵師が全国に数多いることがわかっておもしろかった。特に、髙井鴻山の妖怪、片山楊谷虎ののハリネズミのように過剰な毛、ネガポジの表現が独特で目がチカチカする墨江武禅の風景画など知らなかった絵師の作品を「良いとこ取り」で見られた。耳鳥斎中村芳中には癒され笑ったし、絵金の作品を東京で見られるのも貴重な機会だったのではないだろうか。個人的には祇園井特のファンなので三点も見られて感激だった。東京ステーションギャラリーの「神田日勝 大地への筆触」は、小さい頃から慣れ親しんだ画家の回顧展だったので東京で見られたのは嬉しかった。予約制の割に混んでいた。

  

f:id:kotatusima:20200706140251j:plain江戸東京博物館の「奇才 江戸絵画の冒険者たち

 f:id:kotatusima:20200706140322j:plain東京ステーションギャラリー神田日勝 大地への筆触

 

 

(終)

備忘録・2019年後半 行った展示など

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(日本画廊・山下菊二展)

 

2019年前半はこちら。

 

 2019年後半は絵画に印象的な展示が多かった。見に行ったものほとんど全部良かった。

 例えばワタリウム美術館ジョン・ルーリー展、国立ハンセン病資料館 の「キャンバスに集う〜菊池恵楓園・金陽会絵画展」、「石垣克子 基地のある風景Ⅱ」、「渡辺佑基 ねじれの回廊」、坂本繁二郎展、山下菊二展、伊庭靖子展、ハタユキコ展などだ。

 

 

7月

 

5日

ワタリウム美術館ジョン・ルーリー Walk this way」

7日

アユミギャラリー 中村 太一,野沢 裕,山根 一晃 「N/ N/Yと納屋の幽霊たち」

13日

原美術館 「THE NATURE RULES 自然国家 D reaming of Earth Project」

・KEN NAKAHASHI 「佐藤雅晴 I touch dream」

14日

・国立ハンセン病資料館 「キャンバスに集う〜菊池恵楓園・金陽会絵画展」

16日

・ギャラリー58 フクダユウヂ個展「ねじれる予感」

18日

・eitoeiko 「石垣克子 基地のある風景Ⅱ」

20日

・神奈川県立歴史博物館 「北からの開国 海がまもり、海がつないだ日本」

・関内文庫 「菊池遼・香月恵介 イメージとの距離」

25日

・LOKO gallery 「渡辺佑基 ねじれの回廊」

30日

・西武渋谷店美術画廊 「冨安由真 真夜中の訪問者」


8月

2日

サントリー美術館「遊びの流儀-遊楽図の系譜」

・オオタファインアーツ「ツァン・チョウチョイ King of Kowloon - 九龍皇帝」

・ワコウワークスオブアート「ミリアム・カーン 美しすぎることへの不安」

3日

横浜市民ギャラリー「『帝国日本』の残影 海外神社跡地写真展

7日

東京ステーションギャラリー「メスキータ」

8日

・(演劇)座・高円寺「永遠の矢(アイ)」

9日

・トオンカフェ 「timelake シングルスクリーン とりまく息を吐く瞬間 上映会」

10日

・勇武津資料館

苫小牧市立樽前小学校「樽前arty2019 芸術祭のしまい方」

12日

・三松正夫記念館

14日

・北海道立埋蔵文化財センター 「もうひとつの古代世界 オホーツク文化

・北海道博物館「アイヌ語地名と北海道」

31日

・At Kiln AOYAMA 廣田哲哉 個展

・キャノンSタワーオープンギャラリー1 「上原沙也加 写真展 The Others」

・JCⅡフォトサロン 「ペリー提督日本遠征記を追って」

・中野区立歴史民俗資料館 「井上円了没後100年展〜円了の妖怪学〜」

新宿駅西口広場イベントコーナー 「東京橋と土木展」


9月

7日

練馬区立美術館 「没後五十年 坂本繁二郎

13日

日本画廊 「山下菊二展」

14日

・加島美術 「小早川秋聲ー無限のひろがりと寂けさとー」

・ギャラリーモーツァルト 「ルイカ アオテアロアアイヌモシリをつなぐ」

・TODA BUILDING 1F 「TOKYO2021 美術展 un/real engine ー慰霊のエンジニアリング」

・表参道画廊 「村田真 平成の美術ジャーナリスティック」

・ラットホールギャラリー 「ガブリエル・オロスコ」

東京オペラシティアートギャラリー 「ジュリアン・オピー」

19日

・ギャラリー門馬「あれを見た、それを聞いた。そして触れた。」

20日

・書肆吉成「佐藤祐治写真展 地平だったもの」☆対談に出演。

21日

・武蔵野美術大学美術館くらしの造形20「手のかたち・手のちから」

22日

・(映像)イメージフォーラムフェスティバル2019 Jプログラム「★」

25日

・銀座ニコンサロン 「高橋健太郎 赤い帽子」

・靖山画廊「ハタユキコ 夏の亡霊」

・(映画)池袋humaxシネマズ 羅小黒戦記


27日〜29日

・あいちトリエンナーレ

27日

豊田市民芸館「柚木沙弥郎の染色 もようと色彩」

28日

・古川美術館「第二楽章 書だ!石川九楊展」


10月

1日

・(映画)新宿ピカデリー 「天気の子」

9日

・東京駅ステーションギャラリー 「没後90年記念 岸田劉生展」

東京都美術館 「伊庭靖子展 まなざしのあわい」

11日

ユーカリオ 「菊池遼個展 OUTLINES」


11月


8日〜18日

・秋田滞在

 

9日

秋田県立博物館「北前船と秋田」

17日

仙北市立角館平福記念美術館

18日

秋田県立近代美術館「没後130年 平福穂庵展」

19日

・新宿眼科画廊 「わざわざ印刷してみるエース明」

28日

・北海道立近代美術館 「アイヌの美しき手仕事 柳宗悦と芹沢銈介のコレクションから」

30 日

東京造形大学美術館「母体俊也 浮かぶ像ー絵画の位置」


12月

8日

東京オペラシティアートギャラリー 「カミーユ・アンロ 蛇を噛む」

14日〜 22日

・フォンテ秋田で「北海道と秋田をつなぐ」を開催、展示。

25日

千葉市美術館 「目 非常にはっきりとわからない」

 

 去年に比べると見た展示の量は減っているがこれはいい傾向だと思う。展示を見る上では「自分にとって重要な質の高い展覧会を如何に最低限見るか」を目指したい。時間は有限だから・・・。

 今年は映画を全然見られなかった。来年はたくさん見たい。

 

 

(終)

秋田日記 跋

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(左:私が秋田に来る前から時々実家で取り寄せて食べていたハタハタのいずし

 右:秋田に来てたまたま訪れた中山人形の工房で買ったハタハタの土鈴)

 

 

 

 この「秋田日記」は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。以下の文章は跋、すなわちエピローグです。SPACE LABOのコーディネーターであったFさんに向けて滞在後に送ったメールの内容になります。

 

2019.12.01.

 

Fさん

 

 10日間の滞在が終わりました。ここで忘れないうちに今回の滞在で調べたことや見たものをまとめました。ちょっと長くなりますが。
 
北前船について


 日本遺産・北前船のサイトに載っている場所を中心に文化財を見に行きました。例えば廻船問屋や船乗りたちが奉納した灯篭や鳥居がそうです。それらはもちろん北前船の往来が盛んだった当時を思い起させるものでしたが、今回の滞在ではそれ以外にも思わぬところで北海道と秋田とのつながりの証になるものを見つけました。例えば能代市の稲荷神社・恵比寿神社の船絵馬はかなり最近に北海道の漁師から奉納されたものでしたし、由利本荘市の松ヶ崎八幡宮にあったイカ釣り漁船の絵馬も北海道の様子を描いたものでした。船乗りに好まれたというアイヌの伝統的な衣服である「アットゥシ」(厚司)も何点か見ることができました。
 船絵馬については以前から北海道の神社でいくつも見たことがありましたがそれらと同様のものが秋田でもたくさん見られたことから、改めて秋田と北海道、そして日本海沿岸をつないでいた人々の存在を感じました。いわゆる髷絵馬が見られたのもよい経験でした。時に危険な北前船の航海で、神仏に祈るしかなかった船乗りたちの想いが生々しい髷として目の前にぶら下がっていると、不気味さや気持ち悪さもありつつそれ以上に、良いでも悪いでもなく幸福でも不幸でもなく「そういう人々がいた」という事実が強く目の前に突き付けられるように実感されました。
 今回は北前船が秋田にもたらしたもの、それも特に物質文化をたくさん見つけました。そうなると今度は逆に秋田から全国にもたらされたものも気になってきます。また、北前船によって秋田にもたらされた非物質文化(精神文化など)について探っていくこともできそうだと感じています。
 
平福父子のアイヌ絵について


 平福父子については角館の平福美術館と秋田県立近代美術館平福穂庵展を見ました。また生家跡や墓域などゆかりの場所にも行きました。「アイヌ絵」(アイヌ風俗画)とは江戸時代中期の小玉貞良から明治時代初期の平沢屏山(1822~1876)あたりまでの絵師を含む、和人(大和民族)がアイヌ民族を題材にして描いた絵の総称といっていいと思いますが、時に誇張や偏見に基づいて描かれ、同じ構図やモチーフが繰り返し描かれただけの粗悪な作例も多いと私は思っています。
 今回「アイヌ絵」を実見できたのは穂庵のみですが、図録で見て想像していたよりもずっとモチーフを咀嚼して絵にしているなという印象を受けました。穂庵が「アイヌ絵」を描くうえで影響を受けたとされる平沢屏山が経験したのと同様に、穂庵も浦河に滞在した際にアイヌの集落を訪れたことがあったのかもしれません。管見ながら、穂庵の「アイヌ絵」は男性が刀のつばのような首飾りをしていることが特徴ではないかと気がつきました。こういう例は僕はあまり他で見たことがありません。
 穂庵と北海道の関係でいうと「鮭之図」が興味深かったです。これは蠣崎波響(1764~1826)という円山派の絵師に倣った作品なのですが、この波響は江戸時代に北海道島にあった松前藩の家老でもありました。波響の代表作に「夷酋列像」というアイヌ民族の指導者を描いたとされる作品もあります。これについて穂庵が知っていたかどうかはわかりません。穂庵の師である武村文海(1797~1863)は四条派(四条派は円山派から出た流れ)の絵師なので、普通に理解すれば近しい流派の絵師として参考にしたということでしょう。でも、そこで敢えて穂庵が北海道へ何らかの想いを持っていたと考えてみるのも面白いかな、と私は思うのです。
 角館を訪れて良かったのは「秋田蘭画」について少し知れたことでした。百穂は秋田蘭画の研究書も執筆していますよね。秋田蘭画の代表的な作者である小田野直武(1749~1780)は司馬江漢(1747~1818)に影響を与えたらしいのですが、司馬が師事した宋紫石(1715~1786)に波響も師事していたりと、意外なつながりもあるようです。
 今回は百穂の作品はあまり見られませんでしたが、学芸員の方からご意見をお聴きしたり角館に行ったりして、かなり自分なりに問題点がはっきりしてきたように思います。当然ながら穂庵にしても百穂にしても、その作品が描かれた背景への洞察なしにはなにも考察し得ません。穂庵と百穂は近代日本画の歴史のひとつの側面を体現しているような画家だと私は思うのですが、だとすればその画業において描かれたそれぞれのアイヌの表現の違いにはある種の日本画の変化が現れているはずです。それが分かるためには日本画そのものの研究が必要でしょう。また、上記の宋紫石が教えていたのは長崎から輸入された中国の画風ですが、司馬江漢など日本の洋風画にも影響があるようです。日本と他文化との交流の視点からも広く検討すべきだということも感じました。

 

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③佐藤家について


 今回の調査ではまず初めて自分の戸籍を取り寄せて父から祖父、曾祖父へと遡りました。昔の戸籍は家単位で様々な人が入っているのに驚きました。その段階で父やKおばさんから聞いていた人名の間違いなどもいくつかわかりました。後から鷹巣に行ったときに、自分の本家筋に当たる人の名が分かっていることは役に立ちました。古い写真をかなり見せてもらいました。曾祖父母や大叔父大叔母たちの顔は、ほとんど初めて見るものでした。「自分と血がつながっている人々がこんなにたくさんいたのだ」という素朴な事実に驚きました。ただ、私が一番気になっていた曾祖父の詳しい経歴はまだ調べられていませんし、曾祖父や先祖のお墓参りも出来ていません。少し、不完全燃焼です。

 それでも収穫は大きかったですし、なにより無事滞在を終えることができてホッとしています。いま思うと、私がこうして秋田に来られたのは本当に不思議で、偶然のつながりだなと感じます。


 僕の祖父や曾祖父が秋田で生まれたということや、私がそれについて調べるということとは、いったい私にとって何なのでしょうか。ある土地に人が何らかの感情をもったり住んだりするということとは何なのでしょうか。秋田にルーツを調べにきたことは、秋田で初めて会う人と話すきっかけになったり自己紹介しやすくなったり自分に興味を持ってもらいやすかったりしました。でも、そこに人は何を見出しているのでしょうか。その土地に人が根付いたり親近感をもったりするのは偶然の出会いなのかもしれません。ただ、私にとっての秋田は僕が生まれる前から決まっていたつながりでもありました。私が秋田に来たのは、運命的なつながりだったといえるのでしょうか。
 私の家はそもそも親戚付き合いが盛んではありません。ただ偶然、祖父と父とKおばさんがお互いにお互いのことを悪く思っていなかった(それは私にとってこれ以上ないくらい幸いでした)。それは運命と呼ぶにはあまりに心許ないつながりのように感じます。
 ですが、ともかくスペースラボで私は採用されました。そして私が今回秋田で得たのは、いま秋田に来なければ永遠に失われていたかもしれないものでした。それは見たことも聞いたこともなかった先祖や親戚縁者についての話です。KおばさんやTおばさんから、私が知らなかった誰かの「人となり」を感じさせるようなエピソードをたくさん聞きました。写真の顔を見てその人が誰かわかることもかけがえのないことです(私は秋田に来るまで曾祖父母の顔も知らなかったのです)。でも、それはその人を知っているということなのでしょうか。中山人形の工房で聞いた話が今回の滞在と本当にぴったりで、出来過ぎた話のように自分でも思いました。でもそれは本当にあったことなのです。人は「二度死ぬ」のかもしれません。私がエピソードを聴いて誰かを知ったこととは、聴く人にとっても話す人にとっても、何かを取り戻すことなのだと感じています。私も今度、父や母に私が知ったことを話してみたいと思っています。そのことで私は何かを取り戻せる気がしています。
 最近、知人に「もし自分がアーティストじゃなくてもルーツを探ったか、探ったとして、アーティストじゃなくてもアウトプットをしたと思うか」と訊かれました。たぶん私はアーティストじゃなくてもいつかは自分のルーツを探っていたと思います。でも、それを文章を書いたり絵を描くことでアウトプットしようとは思わなかったかもしれません。私がいまそれをしようと思うのは、私が聴いた私につながる誰かのエピソードのようなものは世にあふれていて、しかもそれは偶然に簡単に消えてなくなるものだと知っているからかもしれません。
 

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④秋田滞在を経て


 菅江真澄については今回はあまり調べられませんでしたが、さすが秋田の地誌を書いていただけあって行く先々でその足跡に出会いました。それで思い起こすのは松浦武四郎(1818~1888)です。北海道であれば松浦が残した幕末の紀行文がしばしば市町村史に登場しますし「北海道」という地名の名付けにも関わっているといわれるのであちこちに銅像が立ったりして親しまれています。それで私なりに「北海道の武四郎はところ変わって秋田に来れば菅江真澄になるのだな」という風に思って勝手に腑に落ちていました。Kおばさんの家に泊めてもらったお礼のように絵を描いて置いて来たのも、ちょっと菅江真澄っぽい振る舞いだな、と勝手に思っています。

 
 僕がやってきたことは、たぶんわかりにくいのでしょう。それは「リサーチ(調査)」でしょうか?「制作」?それとも「観光」?。

 「美術家なのに研究?」「調査だけでなく絵もお描きになるんですね?」と同じ日に別の人に言われたりしました。自分でもなにがなんだかわからなくなることがありますが、本当のところは調査でも研究でも制作でも観光でも、なんでもやりたいのです。気になる場所があればなるべく現地に行きたい。調べ物も好きです。時に、作品をつくることがやましいと感じたり、好奇心のままに調査することに罪悪感を覚えたりすることもあります。それでも何かしらやってきています。

 今はまだ秋田の滞在がなにに結実するかわかりませんが、私がやってきたことについて、できるだけたくさんの痕跡を残そうと試みました。それを勝手ながら、ただ誰かに見てほしい。そして誰かが勝手に痕跡から何かを見出せばいい。その元になるような種は撒けるだけ撒いたのだから。滞在を終え、そういう気持ちでいます。

 

佐藤拓実

 

 

 

 

・参考文献・論文

 
北前船について
・「北前船と秋田(んだんだブックレット)」加藤貞仁著、無明舎出版、2005年
・「北前船寄港地ガイド」加藤貞仁著、無明舎出版、2018年
・「北前船おっかけ旅日記」鐙啓記著、無明舎出版、2002年
・「秋田県の船絵馬について―所在調査報告―」木崎和広著、秋田県立博物館研究報告No.2所収、1977年

平福穂庵・百穂について
・「平福百穂アイヌ』周辺」山田伸一著、北海道開拓記念館研究紀要所収、2015年
・「評伝 平福穂庵」加藤昭作著、短歌新聞社、2002年
・「特別展 生誕百年記念 平福百穂―その人と芸術―」山種美術館、1977年
・「没後一三〇年 平福穂庵展図録」鈴木京・保泉充著、秋田県立近代美術館、2019年

その他
・「菅江真澄と秋田(んだんだブックレット)」伊藤孝博著、無明舎出版、2004年
・「秋田藩(シリーズ藩物語)」渡辺英夫著、現代書館、2019年
・「秋田県内絵馬調査報告」高橋正著、秋田県立博物館研究報告第26号所収、2001年
・「青森県の船絵馬」昆政明著、青森県立郷土博物館紀要第36号所収、2012年
・「アイヌ人物六曲一双屏風(東北福祉大学コレクション)と関連するアイヌ風俗画」佐藤花菜・濱田淑子著、東北福祉大学芹沢銈介工芸館年報16所収、2014年
・「本荘市史神社仏閣調査報告書 本荘の神仏像」大矢邦宣著、本荘市史編さん室、1998

 

 

(完)