こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

備忘録・2020年後半の良かった美術展と2020年のまとめ

・2020年前半はこちら→(備忘録・2020 年前半の良かった美術展 - こたつ島ブログ

 

・7月

 

 レジ袋有料化開始、球磨川の氾濫に代表される西日本の豪雨、「盗めるアート展」などがあった7月。まだギャラリーや美術館の予約制にも慣れず、見る側も見せる側もまだ様子見といった感を残していた。

 その中でも今年、六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートの「フェリックス・ゴンザレス・トレス 『無題(角のフォーチュン・クッキー)』」を世界で同時に展示するプロジェクトを見に行ったことはこれからも強く記憶に残っていくことと思う。このプロジェクトは、フェリックス・ゴンザレス=トレス財団と、その管理母体であるギャラリー、Andrea RosenとDavid Zwirnerが発案したもので、個人宅を中心とした世界中の1000箇所が招待されているそうだ。5月25日から7月5日までのプロジェクトなので、私の手元にあったフォーチュン・クッキーが作品であるのは7月5日までだった。人々の間に作品が拡散していく様は次のハッシュタグで見られる。

#FGT🥠exhibition  #FGTexhibition  #fgtexhibition

 


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(左、展示風景 右、持ち帰ったフォーチュンクッキー

 BANKARTSILK「アイムヒアプロジェクト/渡辺篤『修復のモニュメント」」は、ひきこもり経験者の作家が、ひきこもり当事者や経験者と対話しながら記念碑を作り、壊し、金継ぎで修復・再構築するプロジェクトの記録。そこで語られ、壊され、再構築されているものは何なのか。ウェブサイトには「伴走型の新しい当事者発信の形の模索」とあった。誰かの経験を取材し作品で取り扱う際の作家の立ち位置や作家が介入する意味、作家が取材対象に何を還元できるか、というような問題を鮮やかにクリアしているように見えた。今後のプロジェクトの展開、継続が楽しみだ。

 

・8月

 
 個人的に興味をひかれたのは日本民藝館洋風画と泥絵 異国文化から生れた工芸的絵画」。西洋の遠近法が民間で土産物の風景画に用いられている、その受容の仕方が興味深かった。閉廊時間が早まっていたが、昨年に引き続き日本画廊「山下菊二展」を見た。

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・9月

 
 東京藝術大学美術館陳列館「彼女たちは歌う」は、今年最も話題になった展示のひとつだったと思う。女性の作家のみを集めたグループ展だ。久しぶりにスプツニ子!の《生理マシーン、タカシの場合。》(2010)を見た。百瀬文《SocialDance》(2019)では、旅先での振る舞いをめぐってカップルが揉めるというよくありそうなやり取りが手話で繰り広げられる。彼氏が彼女の手を握ることで彼女の口(である手)を封じる、その見た目とは裏腹の行為の暴力性にハッとした。山城知佳子《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)は、沖縄の現在進行形の事象を具体的に扱いながら、非常に創造的な作品だった。米軍基地移設のため海を埋め立てる男と妻、その土地の精霊、土地を守る老人と孫娘が登場し、オペラであり、沖縄の伝統芸能であり、ドキュメンタリーでも家庭劇でもあるような作品だった。すごかった。

 

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(左は百瀬文《SocialDance》(2019)の一場面)

 ギャラリーアートもりもとの「柏木健佑展『イメージです』」では、柏木がvoca展に出品していた頃の寺山修司とか鈴木清順のような感じから脱してきて画面からは人間を含む動物がほぼ居なくなり、大小のキャンバスで壁を埋めるインスタレーション的な展開をしていた。絵のモチーフと似た謎の土のオブジェもあり、現在進行形の絵画の実験と苦闘が垣間見えた。作家から話を聞いた際の「像のありかが分からない」「スピード感を持って描きたい」「監視カメラのように描きたい」などの言葉が印象に残った。

 

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(左、柏木の展示風景 右、謎のオブジェ)


 ゲンロン五反田アトリエの「ゲンロン新芸術校第6期グループA かむかふかむかふかむかふかむかふ」では、堀江理人の作品に興味を惹かれた。絵画を用いたインスタレーションで、家族写真のような絵画の大作を中心に、北海道のローカルな美術史上重要な写真を絵画化したものや、彼の家族が撮ったらしい写真や北海道土産の木彫、北海道美術史の本などが周囲に点在し、ラジカセからは彼と父の話し声が聞こえている。何やら美術の話をしているらしい。彼の父は部屋に横山大観セザンヌの複製画を飾り彼が美術に興味をもつきっかけを与えた。

 会場で配布しているテキストでは、日本美術が描いてきた「くらい」「くらし」の洋画の系譜(福田和也『日本の家郷』より)に、神田日勝など北海道出身者や在住者が発表してきた作品と、彼がテーマにしてきた「堀江家」の家族の暮らしを題材にした作品を位置付けている。そしてさらに西洋美術の素朴で無自覚な受容に「くらい」「くらし」の洋画の系譜の遠因を見ている。私がこの作品を面白いと思ったのは、日本美術の本流を北海道という僻地の「くらし」を描いた絵画に見出したかにもとれる切り口とともに、堀江がその「くらし」の「くらさ」に強く共感しつつ断ち切ろうとしてもがいているからだ。出口がないように見える「くらし」をどう受け入れたりやり過ごしていくのか、そして美術作品にそれがどう表れるのかは、決してローカルな問題でも机上の空論でもなく、地に足のついた切実で興味深い論点だと思う。そこで「描くこと」「書くこと」や「撮ること」つまり「作ること」の哲学を、素朴さに頼らずどう深化させていくか、気になっている。

 

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(左、展示入口 右、堀江のインスタレーション全景)


 多摩美術大学美術館の「真喜志勉 TOM MAX Turbulence1941-2015」は展示パンフレットなどを含むオーソドックスな構成の回顧展。真喜志はアメリカの文化に深く親しみながら、沖縄を描いてきた。二階の展示室ではジャズに合わせて左官の格好をして真喜志がライブペイントやってる記録映像があって、そこから流れてくるジャズを聴きながら平面作品を見られたのがよかった。

 

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(左、展示風景 右、展示ケースには資料とともにレコードのジャケットも展示されていた)


 武蔵野市立吉祥寺美術館の企画展「岡田紅陽 富士望景ー武蔵野から」も駆け込みで見に行った。岡田の代名詞である富士山の写真をコンパクトにまとめて見られた。関東大震災の被害を撮影したり、写真が外国に送られたり、作品が千円札の絵の原画になったり、岡田紅陽は様々な語り口がある。富士山以外も含むさらに規模の大きい展示も見たい。一点気になったのは、紅陽の写真作品の額装がどこか日本画っぽくて独特だったことだ。明るい茶の木製の額の内側にベージュ系の布張りで真鍮か何かの金の縁がついたマットが入っていた。何点かは写真の上に金で「紅陽」とサインされていたから、尚更日本画っぽかった。武蔵野市が作品を所蔵する時にそうしたのだろうか。その額装にも岡田の仕事の立ち位置が表れているようだ。

 

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・10月

 
 4月末から開催予定だった、市立小樽文学館竣工50年 北海道百年記念塔展 井口健と塔を下から組む」が延期されやっと3日から始まり、初日は鼎談に登壇した。延期に伴って井口健さん往復書簡を続けたり、展示に合わせて2018年のグループ展の記録冊子を準備したりと、今年はここまで特に慌ただしかった。展示最終日の座談会は中止したが会期を全うできたことは幸いだった。

 

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(左、小樽文学館入口 右、展示風景) 

 

 500m美術館の「 vol.33 反骨の創造性」は、北海道出身・在住の代表的な現代美術作家のグループ展であった。特に写真家の露口啓二の作品に興味を惹かれた。松浦武四郎がカタカナ表記したアイヌ語の地名をもとに沢を撮影した作品。撮影は視覚的に限定された条件で行われているらしいが、さすが写真家というか、あまり撮影の条件の不自由さは感じなかった。この作品では、武四郎のカタカナという文字による記録の暴力性と、写真が出来事を瞬間に固定してしまう性質を重ねて捉えているそうだ。それは最近の私の制作にも関わることだし、前にSNS上でアイヌのビジュアルイメージについて少し話題になっていたのを見たが、そことも関わってきそうな視点と思う。


 ギャラリー58 の「中村宏 4/1について」は、ちょうど日本画廊の「山下菊二展 -collage-」と一部会期が重なっており、戦後日本美術に興味を持っている私としては堪らなかった。

 

 


11月

 茨城県陶芸美術館企画展「人間国宝 松井康成と原清展」は、偶然近くに行ったので見たが素晴らしかった。陶芸の表現の幅の広さと最高の技術を味わえた。

 

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(左、原の作品 右、松井の作品)

 

 春から延期になった「さいたま国際芸術祭2020」も10月に入ってようやく開幕した。特に興味深かったのは旧大宮図書館の会場(アネックスサイト)の、カニエ・ナハと北條知子のインスタレーション。一見なにもない、古びたがらんどうの部屋が、いくつかのテキストによってかすかな痕跡が指し示されることで、まったく違ってみえた。詩人の言葉の力を感じた。
 旧大宮区役所(メインサイト)で、ふと、テリ・ワイフェンバックの桜の写真を見ているときに、外出の「自粛」という奇妙な事態で、失われた今年の春を想ってなんとも言えず、こみ上げてくるものがあった。

 

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(左、カニエ・ナハと北條知子の展示風景 右、テリ・ワイフェンバックの展示風景)

 

 知人に勧められて見た東京国立博物館桃山―天下人の100 年」で、狩野永徳の唐獅子図屏風を見られたのは貴重な経験だった。想像の1.5倍大きかった。

 
 日本民藝館の「アイヌの美しき手仕事」は、以前札幌でも見た展示だったが行ってみた。結果、展示構成の違いから日本民藝館の独特なスタンスがわかった。

 札幌会場では柳宗悦のコレクションと芹沢銈介のコレクションをそれぞれ別の部屋で展示したり、民芸館では展示されていなかった川上澄生のコーナーなどを作って、柳や芹沢の紹介はもちろん北海道と民藝運動の関わりを丁寧に紹介していた。

 一方で民藝館会場ではほぼ解説なしでモノを見せている。これは民藝館としてはいつも通りの見せ方ではある。展示図録と今回の展示に合わせた雑誌『民藝』はすべて売り切れだったので関東でもアイヌ文化への関心が高いことが伺い知れた。展示物を虚心坦懐に見ることは鑑賞の基本であるが、美術館・博物館やそれに類する施設の使命はそれだけではない。山本浩貴が端的に指摘しているように、この展示にはアイヌ民族が辿ってきた歴史についての最低限必要な解説が欠けており、多少でもアイヌへ関心を持ってきた者は違和感を覚えざるを得ないだろうし、誤解を招く表現がない代わりに先入観の訂正もない。もし日本民藝館民藝運動の称揚や柳らの神格化だけの内向きな展示ばかりしているのだとすれば、ある程度は仕方がないにしろ、運動の本質からは逸れていくだろう。その再検証を通して民藝運動の更新をしていけるようでなければ民藝に未来はないと私は思う。

 

 

 
12月

 
 国立歴史民俗博物館性差(ジェンダー)の日本史」は、今年最も話題になった博物館展示のひとつだったのではないか。私たちの多くが内面化している女性に関するイメージや伝統・慣習として語られがちな姿が、時の流れとともにいかに移り変わってきたのか、また地域によっても違うのか、全国各地の資料を駆使して紹介していた。例えば、労働力としての女性の姿がしばしば無視されてきたこと、(地位にもよるのだが)政治的権力や財産権が平等だったり、職業の男女差や差別が少なかったことなどだ。
 展示後半は、日本における売春業の成り立ちから、特に近世以降の人身売買による売春の制度を丁寧に紹介していた。江戸時代は借金の返済のためやむを得ず…とされていた売春が、近代以後は実態とかけ離れた「自由売春」とされ、偏見の目にさらされる流れなど、興味深かった。
 

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 相模原市のパープルームギャラリーで開催された「青春と受験絵画」では、美術大学受験のための予備校で練習され、入学試験時の限られた時間と与えられたテーマで描かれる、いわゆる「受験絵画」を展示していた。私は受験絵画を通過せず大学院まで出てしまったので却って受験絵画に興味があり「『フツウの美大生』の通る道ってどんなものなんだろう」と思いながら見に行った。ある予備校が所蔵する30点ほどを見ることができるのみだったが幅広い年代の受験絵画が展示されており珍しい機会だったといえよう。それぞれの時期の出題傾向や講師によって多様な受験絵画が生まれた、その片鱗は感じられた。美術予備校を知らないで呑気に見れば様々な画風を実験した絵画群としか見えないかもしれない。その背景には「個性とは?」「優れた美術表現とは?」という問題が横たわっている(その論点については荒木慎也の論文「受験生の描く絵は芸術か」に詳しい)。意欲的な展示だと思った。

 

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(パープルームギャラリー 展示風景) 

 

  東京都写真美術館瀬戸正人 記憶の地図」は、日本人の父とベトナム人の母のもとに生まれ、タイと日本を往復しながらアジアの人々を撮影してきた写真家の回顧展。作品は年代順ではなく6つに分かれていて、はじめに最新作の「Silent Mode 2020」が展示され、続けて「Living RoomTokyo」、「Binran」、「Fukushima」、「Picnic」、「Bangkok, Hanoi」となっている。展示を見るまであまり瀬戸のことを意識したことはなく「Picnic」の印象が強かったが、人間の本質的な部分を、いかに目に見える表面的な部分から浮かび上がらせることができるか、という通底した問題意識が感じられた。

  

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・その他

 

 以上、取り上げたほかにも原爆の図丸木美術館「砂守勝巳写真展 黙示する風景」、銀座メゾンエルメス フォーラムベゾアール(結石) シャルロット・デュマ展」、Kanzan gallery 「佐藤祐治 水が立つ」、東京ステーションギャラリーもうひとつの江戸絵画 大津絵」、東京都写真美術館TOPコレクション 琉球弧の写真」など、面白かった。

 

 ・まとめ

 

 後半に特に面白い展示が多かった気がする。アイデンティティのあり方、特に複数の土地に関わるそれを扱った作家・作品に興味を持ってきたことを感じる。

 

 自身の作家活動としてはいくつかの展示が中止や延期になり結果として「北海道百年記念塔展」に関係することが一年を通して大きな比重を占めた。初めて本の編集をやってみたり、制限された中でも周囲の協力を得ながらそれなりに動けたのはよかった。

 

 映画については美術館・博物館展示以上にちゃんと見ることができていない。両手で数えられる程度だ。気が向いたら別稿で書きたい。

 

(終)

上田日帰り紀行(2020年春、農民美術を見に)

 

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  長野県上田市上田市立美術館に、「農民美術・児童自由画100年展」(2019年11月30日(土)~2020年2月24日(月)開催)を見に行った。たびたびフェイスブックなどで広告を目にして気になっているうちだんだん会期の終わりが近づいてきた。行くか迷ったがどうしても我慢できず高速バスのチケットを取って日帰りを強行することになった。先に結論を言うと「農民美術」については非常に資料が豊富で、行って良かった。

 長野県を訪れたのは数年前のゴールデンウィークに友人と軽井沢に遊びに行って以来の二度目。上田市は戦国武将の真田氏の本拠地でもある。さて、一日でどれだけのものを見られるだろうか。

 

 

 

2020.02.17.

  

上田市

 

 朝8時前、池袋駅前からバスに乗る。友達と軽井沢に出かけた時にも同じ場所からバスに乗った。席はそれなりに埋まっているが満席になりそうな気配はない。バスが出てからスーパーで買ってきたサンドイッチを食べると早起きのせいですぐ眠気が襲ってくる。空は曇って小雨が降りそうだった。半ば船を漕ぎながら、窓の外の山並みを眺めた。そのうちにいつのまにか寝ていた。

  

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 目が覚めると「しもにた」という道の駅をバスが出発するところで、空は青く晴れていた。ベンチにおじいさんが普段着でひとりだけ座っているのが窓の下に見えた。

 早春の山の斜面に真っ直ぐな杉が並び立っている。とげとげとした山脈のところどころで、頂には岩が露出していた。白っぽい山々の一部に抹茶に似た緑と古びた苔のような茶色の木々が残っている。やはり私が見慣れた北海道の山々とは違う。

 小諸高原を抜ける。とても景色が良い。眼前にあるのは浅間山だろうか。

 前の席に座っていた二人連れの若い男が急に歌いだした。イヤホンをしていて周りが見えていないのだろうか。ヘタクソで何の曲かわからなかった(よく聴くと水星だった)。でも、つい歌ってしまう気持ちがわかるくらいにはいい天気だった。

 

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上田市立美術館

 

 11時過ぎに上田駅に着いた。町の周囲がぐるり山に囲まれているのには軽井沢と近い印象を覚えた。駅前には水車と真新しい騎馬武者の銅像がある。近くで見なかったが真田幸村の像らしい。駅の外壁には大きく真田氏の家紋「六文銭」が描かれていた。トイレを済まし観光案内所で上田市立美術館への道順を訊こうとすると、嬉しいことにさっそく農民美術が出迎えてくれた。小さな木彫りの人形が透明なケースに入っていた。展示に合わせて商店街などあちこちに設置しているらしい。

 

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(観光案内所の農民美術) 

 

 駅の「温泉口」から出て突き当たりの十字路を右に進む。こちらの出口は駅前と言えどかなり人通りが少ない。10分ほど歩くと右手に大きなショッピングモールがあり、その向かいに美術館の建物が見えてきた。敷地の角に大きな看板が立っていた。

 

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 上田市立美術館(サントミューゼ)は総合的な文化施設で、円形の広場を中心に多くの小部屋が大きな廊下でつながっているような構造の建物だ。それぞれの部屋の横を通ると確定申告の会場だったり、中で楽器の練習をしていたり、版画の工房として使っていたりするのが見える。

 

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(サントミューゼ内部の様子)

  

 

 

・「農民美術児童自由画100年展」

 

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 11時半過ぎから「農民美術児童自由画100年展」を見る(以下の記述は私の感想を除き展示内の解説か展示図録に拠る)。

 そもそも「農民美術運動」とは、農民自身の手によって作られた工芸品(農民美術)の量産により農村民の生活の芸術化と生活水準の向上を目指す運動で、「児童自由画運動」とは手本によらず子どもたちの実感に基づいた創造的表現活動を学校教育の中に定着させようとするものだった。この二つの運動を主導したのが上田市ゆかりの山本鼎(1882~1946)であり、1919年にふたつの運動が始まってから100年を記念し開催された、というのが本展の位置づけになる。 展示はまさに題の通り山本鼎の農民美術運動の始まりから現在までと、自由画教育運動の二部構成で、農民美術運動のほうがかなり展示物が多かった。逆に自由画教育運動については物量がかなり少なめだったのが残念だった。

 まず山本の経歴を簡単に振り返ると、愛知県岡崎市生まれ(異論もある)で、父親が医院を開業した縁で上田を拠点とした。はじめ木口木版の工房に奉公したのち東京美術学校に入学、黒田清輝や久米桂一郎の指導を受ける。在学中は彫りや刷りなど制作の過程すべて芸術家自身が行う「創作版画」の運動に関わる。30代前半でフランスに留学、帰路にロシア革命直前のモスクワの「児童創造展覧会」で子供たちの自由闊達な絵を見、また農民による工芸品に出会ったのが山本の人生を変えた。以後、山本は教育者や美術的な社会運動家として、「農民美術」と「児童自由画」を活動の主軸とした。

 まず、「序章 山本鼎」で山本の代表的な絵画作品が紹介される(ここで展示されていた作品は図録には掲載されていない)。主に油絵や木版画である。山本は「セザンヌにおける色面、構図の重視」、「ルノワールの人物表現」、「モネの光の捉え方」に影響を受けたと解説されていたが、たしかに『平田知夫領事肖像』(1916)の色づかいなどを見るにセザンヌの影響を感じさせる。「自分の感覚を作品に映し出そうとする印象派の画家たちの表現法・・・」という説明書きもされていたが、大雑把でモヤッとした。ヨーロッパで山本は「実相主義」(この言葉は初めて聞いた)、つまり「自分が直接に感じたものを表現すること」の自覚を得たのだ、とも説明されていた。その是非は私にはわからないが、山本の言葉「自分が直接感じたものが尊い」(初出は1928年『学校美術』誌上の談話筆記という)は、農民美術にも児童自由画にも通底しているようである。

 「第1章 農民美術の胎動」は、山本が4か月滞在したロシアから持ち帰った工芸品や初期の農民美術運動の趣意書など資料が展示されていた。運動の初め頃の作業風景の写真など資料が散逸せず残っているのには驚いた。

 「第2章 農民美術の展開」では、その題の通り全国に展開していく農民美術運動を多くの実作を交え紹介していた。大正後期~昭和初期がもっとも運動が盛んで、一時樺太から鹿児島まで全国で講習会が開かれ、全国に120か所以上の農民美術生産組合があった。各地の講習会は、最初の製品デザインやサンプル製作は山本や講師たちが行い、実作や石膏デッサンによる形態把握などの基礎的講習を経て受講生が組合を作り、デザインを考案し農民美術を生み出していく、という仕組みになっていたらしい。講習は道具類の実費以外は原則無料で行われたという。

 展示物では、やはりそれぞれの地域の特色が出た「木片人形」がおもしろかった。木彫り熊のルーツの一つであるといわれる北海道八雲町の徳川農場でも講習が行われたようであるし、秋田の版画家の勝平得之が手掛けた風俗人形も興味深い。諏訪なら御柱祭秩父であればオオカミ、南多摩なら高尾山の天狗面、宇治なら茶摘み、鹿児島なら西郷さんなど、その土地らしいモチーフが見られた。

 1919年に始まった農民美術運動は主に三期に分けられ、1924~1930年の二期に大きく進展し、1931~1935の三期になると山本が東京に引き上げたり国の副業奨励助成金が打ち切られるなどして活動が停滞していく。展示図録ではほとんど触れられていないが、この模索期には都市部購買層のニーズを想定した洋風の家具等の製作も行われていたようだ。

 「第3章 戦後の農民美術」では、戦後の作品を紹介。太平洋戦争でほとんどの農民美術生産組合や関連団体が活動を停止したなか、長野県上田地域では1949年から再び製作を開始し、1955~1961年には「農民美術技能者養成制度」によって県内各地から訓練生を集め、農民美術の担い手を育てていった。

 続く「第4章 現代の農民美術」では農民美術の流れをくむ現役の作家を紹介していた。その中には農民美術の製作技術をベースに独自の技法を身に着けたり日展など公募展で彫刻家として活躍する作家も含まれる。1982年には農民美術は長野県知事指定伝統工芸品となった。

 「第5章 農民美術の可能性」では、現在の活動を取り上げ、2017年から「こっぱ人形の会」が行っている学生向けの講習会の作品や、ブランディングとして商店の看板を農民美術の作家が木彫で手掛けたものなどが展示されていた。

  

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(一部、写真撮影が可能なコーナーがあった。近年の講習で製作されたもの)

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(上田市をモデルにしたアニメ映画『サマーウォーズ』(細田守監督作品)のキャラクターをモチーフにした「農民美術」もあった。市内ではあちこちで関連グッズを見かけた)
 

 その後が「児童自由画100年」の展示コーナーだった。

 「第1章 自由画教育の議論」では児童自由画の運動にかかわる資料や「児童自由画展覧会」の作品が展示されていた。教科書の見本を見て描く「臨画」への批判から、児童が直接対象を見て描く「自由画」が提唱されたわけだが、1910年発行の教科書《新定画帖》は、臨画から描き方の細かい指導を伴いながら写生画に移行するように作られていたようだ。厳密に見ていくと「臨画」と「自由画」にはある程度共通する理念があるのではないかと感じた。また同時期に北原白秋も雑誌『赤い鳥』で「児童自由詩運動」を展開したらしい。北原の詩集「邪宗門」には山本も挿絵を描いている。

 「第2章 山本鼎と、運動をめぐる人々」では、木村荘八や倉田百羊など児童自由画の議論や運動に関わった画家などを紹介。「第3章 教育の現場にて」では、山本が20年間教育に携わった自由学園や長野県内の児童自由画教育を実践した学校の生徒作品を紹介していた。やはりこのような信州の教育運動が松澤宥を生んだのかな、と想像しながら見た。かなり偏っているけれど私にとってはどうしても長野は松澤宥のイメージが強い。

 

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(美術館から向かいのショッピングモールが見えた)

  

 14時過ぎ、展示を見終え館内のショップで図録と絵葉書を何枚か買った。図録は興味深い論考がいくつも載っているのだが、持ち帰って読み返すと、どうやら肝心の展示内の各章各展示物の解説文が収録されていないようであった。記録という意味では大きい欠陥なのではないか。

 

上田城

 

 とても天気がよい。すぐ近くの上田城へ行ってみる。

 

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 信号の向こうに城が見えてわくわく。こちらは城の南面にあたる。

 
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 この石垣の下には千曲川が流れて天然の堀となっていたそうだ。

 

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 上田城は1583(天正11)年、真田昌幸によって築かれた。上田盆地のほぼ中央に位置し、二度も徳川軍を撃退した名城だ。関ヶ原合戦後は破却され真田氏に代わり仙石氏、松平氏の居城となった。

 西櫓の脇にある急な階段を登ると眞田神社の裏手に出る。神社は観光客向けに、ゲーム内でキャラクター化された真田幸村を押し出している。また地元高校の運動部が奉納した大きな絵馬があった。

 

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 東虎口櫓門は左右の南北の櫓が昭和24年に、門が平成6年に再建されたそうだ。地域の誇りなのだろう。

 

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上田市立博物館

 

 城内には上田市立博物館があるので寄ってみた。

 春には全国の多くの博物館でも行われている雛人形の展示とともに、常設だと思われる江戸以降の上田藩主の甲冑5、6領が武具と共に展示されていた。真田家の次の城主の仙石家も家紋が銭だったのは面白い。変わり兜や長篠合戦の際の武田家からの分捕り品の槍など興味深く、とても満足した。最後の上田藩主である松平忠礼の資料もあった。忠礼は戊辰戦争前後に藩士や家族をたくさん写真に撮っており、以前古写真の本をよく見ていた僕にはおなじみだった。また幕末に活躍した赤松小三郎の資料も展示されており、その中では和洋折衷の刀が面白かった。サーベルのような鍔で、刃は両刃なのだという。

 その他、近代の養蚕の資料を見て、松澤宥の「プサイの部屋」は蚕室だったよな、と思い出した。信州は養蚕がさかんだったのだ。

 

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 博物館の別館には鉱物など自然史系の資料も一部ありつつ真田家の資料がまとまっていて、VRで上田合戦のことが学べる部屋もある。こちらの方が展示にだいぶお金がかかってる感じだ。やはり真田家は人気なのだろう。この建物はもともと山本鼎記念館だったため入り口脇に石碑がまだある。いまはサントミューゼに山本鼎の資料が移っている。

 

 

 

・農民美術を買いにいく

 

 16時半すぎ、上田城から出て「農民美術」を買い求めに夕暮れ時の町を散策した。

  

f:id:kotatusima:20200430181152j:plain(橋に不思議なマークが)

f:id:kotatusima:20200430181210j:plain(そういえば上田は真田十勇士のゆかりの地でもある)

f:id:kotatusima:20200430181227j:plain (上田城跡の向かいの小学校がとても立派だった。塀に狭間がついている)

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f:id:kotatusima:20200430181334j:plain上田市内の信濃国分寺は「蘇民将来」の護符を正月に授与している)

 

 

 
 まず着いたのは栄屋工芸店。額屋も兼ねていた。昭和期に北海道に卸していたというアイヌ文様風の彫刻が施された木製の皿も展示してあった。八雲町と農民美術のつながりを思い出す。ここでは迷った末に青い壺型のつまようじ入れと赤い鳥の頭がついたつまようじ入れを買った。箱にまかれた紙にも真田氏の家紋の六文銭や「上田獅子」をあしらっている。

 

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f:id:kotatusima:20200528115203j:imagef:id:kotatusima:20200528115210j:imagef:id:kotatusima:20200528115226j:imagef:id:kotatusima:20200528115236j:image

 

 バスまでまだ時間がある。もう少し町を歩く。大きな通りから一本中に入ると場違いな「花やしき」「あさくさ」の文字。これは大正6(1917)年創業の上田映劇といって、運営者は変わっているが現役の劇場だ。浅草などの文字やネオンは映画のセットがそのまま残されたものらしい。またいつか上田に来ることができたらここで映画や演芸を見てみたいものだ。

 

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(ここは江戸後期の学者である佐久間象山が勉強した地らしい)

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 農民美術を求めて向かった二件目はアライ工芸店。趣のある店内だった。素朴な茶匙を買った。

  

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・帰路

 
 農民美術を手に入れ、駅へ。ローソンで弁当やお茶を買う。駅前で弾き語りをしている人がいて、すぐ横で女の子をナンパしてる風のお兄さんたちがいた。

  

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 定刻より数分遅れてバスが来た。帰りの車内では疲れていたので夕食を食べてすぐ、ぐっすり寝てしまった。22時過ぎ、気が付いたら東京に着いていた。一日の滞在でも一通りの観光地は見られて充実していた。また来たい。

 

 

 (終)

 

備忘録・2020 年前半の良かった美術展

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 2020年前半は某芸術祭のアルバイトなどをしつつ、自分が企画に関わったグループ展の延期の対応、4~5月の自宅待機という変化の激しい期間だった。

 おそらくは万一感染者を出したときに叩かれることを恐れてだろう、感染リスクが少ないと言われていたにも関わらず首都圏の多くの美術館はかなり早い段階から閉まっていた。このことでかえって無駄に質の低い展示を見なくて済んだかもしれない。ただ「白髪一雄展」(東京オペラシティアートギャラリー)を見逃したのだけは心残りだ。

 図書館が使えなかったのがかなり痛手だったが、4~5月は調べものと資料のまとめに精を出しながら、だらだらと過ごした。

 まったくと言っていいほど映画を見ることができていないので、もっと見たい。

 

・1月

 今年の〈美術館初め〉は東京国立近代美術館で、企画展は特筆すべきことはなかったが常設で山下菊二の傑作『あけぼの村物語』や、中村正義が映画『怪談』(小林正樹監督作品)のために制作した連作『源平海戦絵巻』を見られてとてもよかった。東京都美術館の「松本力 記しを憶う」は、「アニメーション」や「ドローイング」について考えようとする人には必見の個展だったと思う。一枚一枚の違った絵を積み重ね一つの映像作品として統合するというよりも、その一枚一枚の差異に込められた感情が共振して増幅していくような作品群だった。

 

f:id:kotatusima:20200706135917j:image山下菊二『あけぼの村物語』

 
f:id:kotatusima:20200706135929j:image中村正義『源平海戦絵巻』第二図〈海戦〉部分
f:id:kotatusima:20200706135937j:image中村正義『源平海戦絵巻』第三図〈海戦〉部分
f:id:kotatusima:20200706135941j:image中村正義『源平海戦絵巻』第五図〈竜城煉獄〉部分

 

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東京都美術館松本力 記しを憶う」会場風景

 

 

 

・2月

 アサクサの「藪の中 日本赤軍」では、エリック・ボードレールの『重信房子、メイと足立正生のアナバシス、そしてイメージのない27年間」THE ANABASIS」と、ナイーム・モハイエメン『UnitedRedArmy』を上映していた。長野県まで足を伸ばし、上田市立美術館で「農民美術児童自由画100年展」を見て上田城なども観光できたのはよかった。日本画廊「3人の日本人展 山下菊二×中村宏×立石紘一」は、個人的にとても興味を惹かれた。展示打ち合わせのため北海道に行き若干展示を見た。北海道立文学館「砂澤ビッキの詩と本棚」は、詩人としての砂澤ビッキ再評価ともいえる視点が意欲的で、蔵書など展示物も興味深い。東京国立近代美術館ピーター・ドイグ展」は、休館前に駆け込んで見た。小企画で北脇昇の特集(「北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」)があったことで絵画というものの振り幅の広さを感じた。

 

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アサクサ「藪の中 日本赤軍」展示風景
 

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上田市立美術館「農民美術児童自由画100年展
 

f:id:kotatusima:20200706140034j:plain北海道立文学館「砂澤ビッキの詩と本棚

 

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東京国立近代美術館ピーター・ドイグ展」会場風景

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北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」会場風景

 

 

 
・3月

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館「生誕120年・没後100年 関根正二展」は、個人的に好きな画家だったので見られてよかった。会期が短縮されたのが残念だ。なおこの展示は美術館連絡協議会の「美連協大賞」を受賞している

 また偶然にも松澤宥の回顧展が、カスヤの森現代美術館「松澤宥 80年問題」と、パープルームギャラリー「松澤宥ーイメージとオブジェにあふれた世界」との二ヶ所で開催されていた。

 弘前、盛岡、青森へも行った。もりおか歴史文化館では「盛岡と北海道ー盛岡藩と蝦夷地の関係・交流史」、盛岡てがみ館では「北の大地に魅せられてー盛岡の先人と北海道」を見た。青森県立美術館や善知鳥神社にも行った。

 上野の森美術館VOCA展2020は、金サジ「女たちは旅に出、歌と肉を与えた」、藤城嘘「Lounge of ealthly delights / Oruyank'ee aux Enfers」、李晶玉「Olympia2020」が気になった。

  

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 神奈川県立近代美術館鎌倉別館「生誕120年・没後100年 関根正二展

 

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カスヤの森現代美術館、椿が咲いていた

 

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弘前市高照神社

 

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もりおか歴史文化館「盛岡と北海道ー盛岡藩と蝦夷地の関係・交流史」・盛岡てがみ館「北の大地に魅せられてー盛岡の先人と北海道

 

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青森県立美術館

 

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善知鳥神社

 

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VOCA2020より 金サジ「女たちは旅に出、歌と肉を与えた」

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VOCA2020より 李晶玉「Olympia2020」

 

 

 

・4~5月

 ほとんど開いている美術館はなかったが練馬区立美術館「生誕一四〇年記念 背く画家 津田青楓と歩む明治・大正・昭和」は、堅実な回顧展だと感じた。私が知っている範囲では首都圏の美術館で最後まで開館していたのがここだったように思う。土日の臨時休館を除いて開館していた。

 この頃はほとんど引きこもり生活だった。夜に街を徘徊したり、家に生えている雑草の絵を描いて過ごしていた。5月後半から徐々にギャラリーも開き始めた。

  

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練馬区立美術館「生誕一四〇年記念 背く画家 津田青楓と歩む明治・大正・昭和

 

 

 

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(深夜徘徊時に撮った写真)
 

 

・6月

 ミヅマアートギャラリーの「筒井伸輔展」は技法が独特だった。eitoeiko「天覧美術」(京都KUNSTARTZからの移動展)で特に気になったのは木村了子さんが『菊の皇子様』という題で天皇陛下の肖像を描いた作品だ。それを見ていまは取り壊されてしまった田舎の親戚の家の座敷に昭和天皇と家族の写真が掛かっていたのを思い出した。なぜこのような連想をしたかというと、たぶん木村さんの作品が高い位置に掛かっていて、田舎の仏壇の上の長押に故人の写真が掛かっているような位置を思い出させたからだ。昭和天皇の写真もそのような位置にあったのだ。その額はこげ茶色でよく賞状や故人の写真が入っているようなありふれたものだった。それと比べると木村さんの作品は「随分額縁が立派だなぁ」と思えて自分でも不思議だった。やはり「皇子」の額は金ぴかでいいのだろうし賞状の額は合わないと思う。でも昭和天皇の写真にはやはりあの絶妙に安っぽい茶色のシマシマの額が似つかわしい。わたしの中でそういう天皇と庶民との距離感のサンプルとして二つの天皇の肖像があまりにも好対照であった。江戸東京博物館の「奇才 江戸絵画の冒険者たち」は、蠣崎波響の『御味方蝦夷之図』(『夷酋列像』の「函館本」と呼ばれている作例)が気になって行ったのだが、まだまだ知られていない絵師が全国に数多いることがわかっておもしろかった。特に、髙井鴻山の妖怪、片山楊谷虎ののハリネズミのように過剰な毛、ネガポジの表現が独特で目がチカチカする墨江武禅の風景画など知らなかった絵師の作品を「良いとこ取り」で見られた。耳鳥斎中村芳中には癒され笑ったし、絵金の作品を東京で見られるのも貴重な機会だったのではないだろうか。個人的には祇園井特のファンなので三点も見られて感激だった。東京ステーションギャラリーの「神田日勝 大地への筆触」は、小さい頃から慣れ親しんだ画家の回顧展だったので東京で見られたのは嬉しかった。予約制の割に混んでいた。

  

f:id:kotatusima:20200706140251j:plain江戸東京博物館の「奇才 江戸絵画の冒険者たち

 f:id:kotatusima:20200706140322j:plain東京ステーションギャラリー神田日勝 大地への筆触

 

 

(終)

備忘録・2019年後半 行った展示など

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(日本画廊・山下菊二展)

 

2019年前半はこちら。

 

 2019年後半は絵画に印象的な展示が多かった。見に行ったものほとんど全部良かった。

 例えばワタリウム美術館ジョン・ルーリー展、国立ハンセン病資料館 の「キャンバスに集う〜菊池恵楓園・金陽会絵画展」、「石垣克子 基地のある風景Ⅱ」、「渡辺佑基 ねじれの回廊」、坂本繁二郎展、山下菊二展、伊庭靖子展、ハタユキコ展などだ。

 

 

7月

 

5日

ワタリウム美術館ジョン・ルーリー Walk this way」

7日

アユミギャラリー 中村 太一,野沢 裕,山根 一晃 「N/ N/Yと納屋の幽霊たち」

13日

原美術館 「THE NATURE RULES 自然国家 D reaming of Earth Project」

・KEN NAKAHASHI 「佐藤雅晴 I touch dream」

14日

・国立ハンセン病資料館 「キャンバスに集う〜菊池恵楓園・金陽会絵画展」

16日

・ギャラリー58 フクダユウヂ個展「ねじれる予感」

18日

・eitoeiko 「石垣克子 基地のある風景Ⅱ」

20日

・神奈川県立歴史博物館 「北からの開国 海がまもり、海がつないだ日本」

・関内文庫 「菊池遼・香月恵介 イメージとの距離」

25日

・LOKO gallery 「渡辺佑基 ねじれの回廊」

30日

・西武渋谷店美術画廊 「冨安由真 真夜中の訪問者」


8月

2日

サントリー美術館「遊びの流儀-遊楽図の系譜」

・オオタファインアーツ「ツァン・チョウチョイ King of Kowloon - 九龍皇帝」

・ワコウワークスオブアート「ミリアム・カーン 美しすぎることへの不安」

3日

横浜市民ギャラリー「『帝国日本』の残影 海外神社跡地写真展

7日

東京ステーションギャラリー「メスキータ」

8日

・(演劇)座・高円寺「永遠の矢(アイ)」

9日

・トオンカフェ 「timelake シングルスクリーン とりまく息を吐く瞬間 上映会」

10日

・勇武津資料館

苫小牧市立樽前小学校「樽前arty2019 芸術祭のしまい方」

12日

・三松正夫記念館

14日

・北海道立埋蔵文化財センター 「もうひとつの古代世界 オホーツク文化

・北海道博物館「アイヌ語地名と北海道」

31日

・At Kiln AOYAMA 廣田哲哉 個展

・キャノンSタワーオープンギャラリー1 「上原沙也加 写真展 The Others」

・JCⅡフォトサロン 「ペリー提督日本遠征記を追って」

・中野区立歴史民俗資料館 「井上円了没後100年展〜円了の妖怪学〜」

新宿駅西口広場イベントコーナー 「東京橋と土木展」


9月

7日

練馬区立美術館 「没後五十年 坂本繁二郎

13日

日本画廊 「山下菊二展」

14日

・加島美術 「小早川秋聲ー無限のひろがりと寂けさとー」

・ギャラリーモーツァルト 「ルイカ アオテアロアアイヌモシリをつなぐ」

・TODA BUILDING 1F 「TOKYO2021 美術展 un/real engine ー慰霊のエンジニアリング」

・表参道画廊 「村田真 平成の美術ジャーナリスティック」

・ラットホールギャラリー 「ガブリエル・オロスコ」

東京オペラシティアートギャラリー 「ジュリアン・オピー」

19日

・ギャラリー門馬「あれを見た、それを聞いた。そして触れた。」

20日

・書肆吉成「佐藤祐治写真展 地平だったもの」☆対談に出演。

21日

・武蔵野美術大学美術館くらしの造形20「手のかたち・手のちから」

22日

・(映像)イメージフォーラムフェスティバル2019 Jプログラム「★」

25日

・銀座ニコンサロン 「高橋健太郎 赤い帽子」

・靖山画廊「ハタユキコ 夏の亡霊」

・(映画)池袋humaxシネマズ 羅小黒戦記


27日〜29日

・あいちトリエンナーレ

27日

豊田市民芸館「柚木沙弥郎の染色 もようと色彩」

28日

・古川美術館「第二楽章 書だ!石川九楊展」


10月

1日

・(映画)新宿ピカデリー 「天気の子」

9日

・東京駅ステーションギャラリー 「没後90年記念 岸田劉生展」

東京都美術館 「伊庭靖子展 まなざしのあわい」

11日

ユーカリオ 「菊池遼個展 OUTLINES」


11月


8日〜18日

・秋田滞在

 

9日

秋田県立博物館「北前船と秋田」

17日

仙北市立角館平福記念美術館

18日

秋田県立近代美術館「没後130年 平福穂庵展」

19日

・新宿眼科画廊 「わざわざ印刷してみるエース明」

28日

・北海道立近代美術館 「アイヌの美しき手仕事 柳宗悦と芹沢銈介のコレクションから」

30 日

東京造形大学美術館「母体俊也 浮かぶ像ー絵画の位置」


12月

8日

東京オペラシティアートギャラリー 「カミーユ・アンロ 蛇を噛む」

14日〜 22日

・フォンテ秋田で「北海道と秋田をつなぐ」を開催、展示。

25日

千葉市美術館 「目 非常にはっきりとわからない」

 

 去年に比べると見た展示の量は減っているがこれはいい傾向だと思う。展示を見る上では「自分にとって重要な質の高い展覧会を如何に最低限見るか」を目指したい。時間は有限だから・・・。

 今年は映画を全然見られなかった。来年はたくさん見たい。

 

 

(終)

秋田日記 跋

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(左:私が秋田に来る前から時々実家で取り寄せて食べていたハタハタのいずし

 右:秋田に来てたまたま訪れた中山人形の工房で買ったハタハタの土鈴)

 

 

 

 この「秋田日記」は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。以下の文章は跋、すなわちエピローグです。SPACE LABOのコーディネーターであったFさんに向けて滞在後に送ったメールの内容になります。

 

2019.12.01.

 

Fさん

 

 10日間の滞在が終わりました。ここで忘れないうちに今回の滞在で調べたことや見たものをまとめました。ちょっと長くなりますが。
 
北前船について


 日本遺産・北前船のサイトに載っている場所を中心に文化財を見に行きました。例えば廻船問屋や船乗りたちが奉納した灯篭や鳥居がそうです。それらはもちろん北前船の往来が盛んだった当時を思い起させるものでしたが、今回の滞在ではそれ以外にも思わぬところで北海道と秋田とのつながりの証になるものを見つけました。例えば能代市の稲荷神社・恵比寿神社の船絵馬はかなり最近に北海道の漁師から奉納されたものでしたし、由利本荘市の松ヶ崎八幡宮にあったイカ釣り漁船の絵馬も北海道の様子を描いたものでした。船乗りに好まれたというアイヌの伝統的な衣服である「アットゥシ」(厚司)も何点か見ることができました。
 船絵馬については以前から北海道の神社でいくつも見たことがありましたがそれらと同様のものが秋田でもたくさん見られたことから、改めて秋田と北海道、そして日本海沿岸をつないでいた人々の存在を感じました。いわゆる髷絵馬が見られたのもよい経験でした。時に危険な北前船の航海で、神仏に祈るしかなかった船乗りたちの想いが生々しい髷として目の前にぶら下がっていると、不気味さや気持ち悪さもありつつそれ以上に、良いでも悪いでもなく幸福でも不幸でもなく「そういう人々がいた」という事実が強く目の前に突き付けられるように実感されました。
 今回は北前船が秋田にもたらしたもの、それも特に物質文化をたくさん見つけました。そうなると今度は逆に秋田から全国にもたらされたものも気になってきます。また、北前船によって秋田にもたらされた非物質文化(精神文化など)について探っていくこともできそうだと感じています。
 
平福父子のアイヌ絵について


 平福父子については角館の平福美術館と秋田県立近代美術館平福穂庵展を見ました。また生家跡や墓域などゆかりの場所にも行きました。「アイヌ絵」(アイヌ風俗画)とは江戸時代中期の小玉貞良から明治時代初期の平沢屏山(1822~1876)あたりまでの絵師を含む、和人(大和民族)がアイヌ民族を題材にして描いた絵の総称といっていいと思いますが、時に誇張や偏見に基づいて描かれ、同じ構図やモチーフが繰り返し描かれただけの粗悪な作例も多いと私は思っています。
 今回「アイヌ絵」を実見できたのは穂庵のみですが、図録で見て想像していたよりもずっとモチーフを咀嚼して絵にしているなという印象を受けました。穂庵が「アイヌ絵」を描くうえで影響を受けたとされる平沢屏山が経験したのと同様に、穂庵も浦河に滞在した際にアイヌの集落を訪れたことがあったのかもしれません。管見ながら、穂庵の「アイヌ絵」は男性が刀のつばのような首飾りをしていることが特徴ではないかと気がつきました。こういう例は僕はあまり他で見たことがありません。
 穂庵と北海道の関係でいうと「鮭之図」が興味深かったです。これは蠣崎波響(1764~1826)という円山派の絵師に倣った作品なのですが、この波響は江戸時代に北海道島にあった松前藩の家老でもありました。波響の代表作に「夷酋列像」というアイヌ民族の指導者を描いたとされる作品もあります。これについて穂庵が知っていたかどうかはわかりません。穂庵の師である武村文海(1797~1863)は四条派(四条派は円山派から出た流れ)の絵師なので、普通に理解すれば近しい流派の絵師として参考にしたということでしょう。でも、そこで敢えて穂庵が北海道へ何らかの想いを持っていたと考えてみるのも面白いかな、と私は思うのです。
 角館を訪れて良かったのは「秋田蘭画」について少し知れたことでした。百穂は秋田蘭画の研究書も執筆していますよね。秋田蘭画の代表的な作者である小田野直武(1749~1780)は司馬江漢(1747~1818)に影響を与えたらしいのですが、司馬が師事した宋紫石(1715~1786)に波響も師事していたりと、意外なつながりもあるようです。
 今回は百穂の作品はあまり見られませんでしたが、学芸員の方からご意見をお聴きしたり角館に行ったりして、かなり自分なりに問題点がはっきりしてきたように思います。当然ながら穂庵にしても百穂にしても、その作品が描かれた背景への洞察なしにはなにも考察し得ません。穂庵と百穂は近代日本画の歴史のひとつの側面を体現しているような画家だと私は思うのですが、だとすればその画業において描かれたそれぞれのアイヌの表現の違いにはある種の日本画の変化が現れているはずです。それが分かるためには日本画そのものの研究が必要でしょう。また、上記の宋紫石が教えていたのは長崎から輸入された中国の画風ですが、司馬江漢など日本の洋風画にも影響があるようです。日本と他文化との交流の視点からも広く検討すべきだということも感じました。

 

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③佐藤家について


 今回の調査ではまず初めて自分の戸籍を取り寄せて父から祖父、曾祖父へと遡りました。昔の戸籍は家単位で様々な人が入っているのに驚きました。その段階で父やKおばさんから聞いていた人名の間違いなどもいくつかわかりました。後から鷹巣に行ったときに、自分の本家筋に当たる人の名が分かっていることは役に立ちました。古い写真をかなり見せてもらいました。曾祖父母や大叔父大叔母たちの顔は、ほとんど初めて見るものでした。「自分と血がつながっている人々がこんなにたくさんいたのだ」という素朴な事実に驚きました。ただ、私が一番気になっていた曾祖父の詳しい経歴はまだ調べられていませんし、曾祖父や先祖のお墓参りも出来ていません。少し、不完全燃焼です。

 それでも収穫は大きかったですし、なにより無事滞在を終えることができてホッとしています。いま思うと、私がこうして秋田に来られたのは本当に不思議で、偶然のつながりだなと感じます。


 僕の祖父や曾祖父が秋田で生まれたということや、私がそれについて調べるということとは、いったい私にとって何なのでしょうか。ある土地に人が何らかの感情をもったり住んだりするということとは何なのでしょうか。秋田にルーツを調べにきたことは、秋田で初めて会う人と話すきっかけになったり自己紹介しやすくなったり自分に興味を持ってもらいやすかったりしました。でも、そこに人は何を見出しているのでしょうか。その土地に人が根付いたり親近感をもったりするのは偶然の出会いなのかもしれません。ただ、私にとっての秋田は僕が生まれる前から決まっていたつながりでもありました。私が秋田に来たのは、運命的なつながりだったといえるのでしょうか。
 私の家はそもそも親戚付き合いが盛んではありません。ただ偶然、祖父と父とKおばさんがお互いにお互いのことを悪く思っていなかった(それは私にとってこれ以上ないくらい幸いでした)。それは運命と呼ぶにはあまりに心許ないつながりのように感じます。
 ですが、ともかくスペースラボで私は採用されました。そして私が今回秋田で得たのは、いま秋田に来なければ永遠に失われていたかもしれないものでした。それは見たことも聞いたこともなかった先祖や親戚縁者についての話です。KおばさんやTおばさんから、私が知らなかった誰かの「人となり」を感じさせるようなエピソードをたくさん聞きました。写真の顔を見てその人が誰かわかることもかけがえのないことです(私は秋田に来るまで曾祖父母の顔も知らなかったのです)。でも、それはその人を知っているということなのでしょうか。中山人形の工房で聞いた話が今回の滞在と本当にぴったりで、出来過ぎた話のように自分でも思いました。でもそれは本当にあったことなのです。人は「二度死ぬ」のかもしれません。私がエピソードを聴いて誰かを知ったこととは、聴く人にとっても話す人にとっても、何かを取り戻すことなのだと感じています。私も今度、父や母に私が知ったことを話してみたいと思っています。そのことで私は何かを取り戻せる気がしています。
 最近、知人に「もし自分がアーティストじゃなくてもルーツを探ったか、探ったとして、アーティストじゃなくてもアウトプットをしたと思うか」と訊かれました。たぶん私はアーティストじゃなくてもいつかは自分のルーツを探っていたと思います。でも、それを文章を書いたり絵を描くことでアウトプットしようとは思わなかったかもしれません。私がいまそれをしようと思うのは、私が聴いた私につながる誰かのエピソードのようなものは世にあふれていて、しかもそれは偶然に簡単に消えてなくなるものだと知っているからかもしれません。
 

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④秋田滞在を経て


 菅江真澄については今回はあまり調べられませんでしたが、さすが秋田の地誌を書いていただけあって行く先々でその足跡に出会いました。それで思い起こすのは松浦武四郎(1818~1888)です。北海道であれば松浦が残した幕末の紀行文がしばしば市町村史に登場しますし「北海道」という地名の名付けにも関わっているといわれるのであちこちに銅像が立ったりして親しまれています。それで私なりに「北海道の武四郎はところ変わって秋田に来れば菅江真澄になるのだな」という風に思って勝手に腑に落ちていました。Kおばさんの家に泊めてもらったお礼のように絵を描いて置いて来たのも、ちょっと菅江真澄っぽい振る舞いだな、と勝手に思っています。

 
 僕がやってきたことは、たぶんわかりにくいのでしょう。それは「リサーチ(調査)」でしょうか?「制作」?それとも「観光」?。

 「美術家なのに研究?」「調査だけでなく絵もお描きになるんですね?」と同じ日に別の人に言われたりしました。自分でもなにがなんだかわからなくなることがありますが、本当のところは調査でも研究でも制作でも観光でも、なんでもやりたいのです。気になる場所があればなるべく現地に行きたい。調べ物も好きです。時に、作品をつくることがやましいと感じたり、好奇心のままに調査することに罪悪感を覚えたりすることもあります。それでも何かしらやってきています。

 今はまだ秋田の滞在がなにに結実するかわかりませんが、私がやってきたことについて、できるだけたくさんの痕跡を残そうと試みました。それを勝手ながら、ただ誰かに見てほしい。そして誰かが勝手に痕跡から何かを見出せばいい。その元になるような種は撒けるだけ撒いたのだから。滞在を終え、そういう気持ちでいます。

 

佐藤拓実

 

 

 

 

・参考文献・論文

 
北前船について
・「北前船と秋田(んだんだブックレット)」加藤貞仁著、無明舎出版、2005年
・「北前船寄港地ガイド」加藤貞仁著、無明舎出版、2018年
・「北前船おっかけ旅日記」鐙啓記著、無明舎出版、2002年
・「秋田県の船絵馬について―所在調査報告―」木崎和広著、秋田県立博物館研究報告No.2所収、1977年

平福穂庵・百穂について
・「平福百穂アイヌ』周辺」山田伸一著、北海道開拓記念館研究紀要所収、2015年
・「評伝 平福穂庵」加藤昭作著、短歌新聞社、2002年
・「特別展 生誕百年記念 平福百穂―その人と芸術―」山種美術館、1977年
・「没後一三〇年 平福穂庵展図録」鈴木京・保泉充著、秋田県立近代美術館、2019年

その他
・「菅江真澄と秋田(んだんだブックレット)」伊藤孝博著、無明舎出版、2004年
・「秋田藩(シリーズ藩物語)」渡辺英夫著、現代書館、2019年
・「秋田県内絵馬調査報告」高橋正著、秋田県立博物館研究報告第26号所収、2001年
・「青森県の船絵馬」昆政明著、青森県立郷土博物館紀要第36号所収、2012年
・「アイヌ人物六曲一双屏風(東北福祉大学コレクション)と関連するアイヌ風俗画」佐藤花菜・濱田淑子著、東北福祉大学芹沢銈介工芸館年報16所収、2014年
・「本荘市史神社仏閣調査報告書 本荘の神仏像」大矢邦宣著、本荘市史編さん室、1998

 

 

(完)

 

 

 

秋田日記⑪ 2019.11.18.

f:id:kotatusima:20191229140405j:plain(中山人形)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。

  ⑩の続き。

 

11月18日 中山人形と平福穂庵展、旅の終わり

 

横手市

 

 6時過ぎに起床。朝食の弁当を急いで食べる。会計を済ますと旅館のご主人が車で駅まで送ってくれるという。出がけに旅館のおかみさんと、最近寒くなってきましたね、などと言葉を交わした。「寒いとなかなか応えますね、でも寒いと空気が澄んで、そんなに悪くないですよ」と言っていた。私も同じ気持ちだ。これこそ雪国で暮らしてきた人間の思想だと思う。

 切符を買ってホームにある暖かい待合室で電車を待った。7時半過ぎの横手行きからはどっと学生が降りてきた。空いた座席に入れ替わりで乗り込む。途中、後三年駅を通過。「あの後三年合戦の後三年か!」と、つい駅名に反応してしまう。8時前に横手駅に着いた。改札の横には小さな熱帯魚の水槽があった。まだ観光地らしいところはどこも開いていない。ゆっくり今日の目的地である秋田県立近代美術館に歩いていこうかと考えつつ駅前のコンビニに寄ると横手の郷土玩具「中山人形」の十二支の土鈴が飾ってあった。店員さんに訊くと開いているか分からないが近くに工房があるとのことで、すぐスマホで調べてダメもとで行ってみた。駅から歩いて数分、工房のインターホンを押すと急な訪問にも関わらず快く対応していただけた。

 

・中山人形

 

 中山人形は、江戸時代後期に鍋島藩から来た野田宇吉という陶工の息子金太郎の妻よしが、もともと器などを作っていた傍らで義父から習って作ったのがはじまり。以前は横手市内の中山地区で作っていたためこの名がついている。「宇吉は全国で土人形を見てきただろうし、よしのおばあさんが殿様の乳母をやっていて歌舞伎が好きで、はじめ歌舞伎の人形を作ったところからお雛様など種類が増えていったのだろう」とのこと。人形一本になったのは明治7年ごろからだという。

 工房のガラスケースにはたくさん人形が飾られていた。「いままで作られてきた人形の種類は正確には分からず、型があっても彩色がわからなかったり、人形があっても型がないという種類もたくさんある。同じ横手市内の増田の街並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されたあと蔵からたくさん古い中山人形が出てきて、そういうものを貰うこともある」のだそうだ。いま土人形を作っているHさんは五代目。「三代目より前はわからないけれど、模様、顔、粘土の色でだいたいだれが作ったかわかる。昔の作品や人形の原型に身内の指紋が残っているのを見つけると、その時代に先祖が生きていて仕事をしていた証拠のように思える。昔と今が指紋で繋がるという他所の家では無い経験をしている。恐竜の骨を発掘する人が喜ぶ気持ちもわかるような気がする」と仰っていた。なるほどたしかに縄文土器のように土は焼けば形が何千年も残る。もちろん土鈴も土人形もその形がずっと残っていく。

 中山人形は最近は若い人にも人気が出てきたそうで「プラスチックじゃないもんで珍しがられているのかも」「もとは玩具だからピカピカなままで飾られていたものよりも、汚れたり剥げたりした人形が戻ってくると風格を感じる」とのことだった。またHさんは工房に来た若い人によく、「生きてるうちにおじいさんやおばあさんに昔のこと聞いておいた方がいいよ、お寺などを辿ってみな」と言っているという。それは仕事を継いでから中山人形という家業の歴史にわからないことが多いとわかり、自身のおじいさんからもっと昔のことを聞いておけばよかったと後悔しているからで、おじいさんが生きていれば簡単に訊けたことをいまやっと調べたり親戚のおばさんに訊いてわかってきたところだそうだ。「ルーツを探ることを求める先祖の気持ちが今の代を動かしていくのかもしれないし、それで先祖が喜んでいたりうかばれているかもしれない。よく人間は二度死ぬというけれど、ルーツを調べることが個人の仕事であり役割だとも感じる。今生きていることの厚みや深みが出てくる」という言葉は、秋田に先祖のことを調べるために来た自分にとってあまりにふさわしく、それを予定になかった訪問先で聴けたのは自分でも出来すぎた話のように思われた。自分が秋田に来た目的について説明すると「秋田県にただ観光に来るだけではなくて、目的があって何回も調べていけば、きっとそれはまず年輪のような厚みになると思う」と言葉をかけてくださった。

 Hさんは「中山地区にあった昔の仕事場の雰囲気を五感で知って体感している。それが分からないと中山人形について話せないところがあるのではないか。伝統は歴史が知識として入っていたり技術を守るだけでなく、その時代の風景、背景を、雰囲気を子供ながらに体で覚えたからこそ語れるのかなと思うし、明治時代のことを読んだり聞いたり昔の仕事場を知っているからできるのであって、ただ古い型で作れば伝統になるというものではない。お客さんにお話しするのも、調べるのも仕事だ」と仰っていた。

 せっかくなので土鈴を買って帰ろうと思った。ガラスケースには色鮮やかでかわいらしいハタハタの土鈴があった。それを見て、冬になると札幌の実家でよくハタハタの飯鮓を取り寄せて食べていたことを思い出した。それは秋田の親戚から送られたことがきっかけで取り寄せるようになったものであり、今思えばハタハタは数少ない私と秋田とのつながりの証拠のようなものだ。私はハタハタと、作り立てであろう来年の干支のねずみと、胴体に牡丹が描かれた眠り猫の土鈴を買って帰ることにした。9時半頃、工房を出て徒歩で美術館まで向かった。

 

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f:id:kotatusima:20191229134059j:plain(中山人形の工房)


秋田県立近代美術館

 

 秋田県立近代美術館は「秋田ふるさと村」という施設内にあり、プラネタリウムや工芸の工房、お土産屋街などがあるようだ。たくさん彫刻が設置されている円形の広場をぬけ、日本の柱の上に横に長い展示室が乗ったような形が特徴的な館内へ入る。館内にも見覚えのある日本の近代の彫刻作品がたくさんあった。入り口には「没後一三〇年 平福穂庵展」の文字の横に「描いて 旅して 生きてゆく」とあった。私もそのように生きてみたいと思った。企画展示室に着くまでは長い長いエスカレーターを登っていく。

 平福穂庵展は全4章に分かれていた。第一章「郷里・角館と京都ー円山四条派に立つ」では、十代で京都に遊学するまでの間に影響を受けた絵師の作品や粉本が並ぶ。絵を好んだ父・太治右衛門(1823〜1877、号は文浪)とともに四条派絵師である武村文海(1797〜1863)に学んだ穂庵(当時は文池の号を用いた)は、推されて久保田(現・秋田市)で学んだり阿仁の旧家で古画の模写に励んだ。また川口月嶺(1811〜1871)のような「移動する画家」が穂庵の旅を重ねるライフスタイルに影響を与えた可能性を指摘している。また平元謹斎(1810〜1876)という蝦夷地へ渡ったことのある儒学者との交流を示す寄せ書きも残っており、蝦夷地に渡る前の穂庵が角館でも情報を手に入れることができたことが伺える。興味深かったのはアットゥシをまとう女性が描かれた演目不明の芝居絵で、江戸時代後期の歌舞伎では異人や水を連想させる役柄でアットゥシが用いられたそうだ。

 第二章「北海道遊歴と公募展での受賞ー画家としての模索期」では、穂庵が北海道で獲得したアイヌという画題や殖産興業を目的とした官設公募展に出品した出世作「乞食図」などが展示され、画業を深化させ公的な評価を得ていく様が分かる。特に穂庵による「アイヌ絵」は私がもっとも見たかったものだ。今回見られたのは数点だが、函館滞在時の穂庵が実見したであろう平沢屏山(1822〜1876)などの手による過去のアイヌ絵を踏まえて、それらを写すだけではなく構図を練りモチーフを咀嚼した痕跡が感じられた。

 第三章「秋田から東京へー転機 東洋絵画会への参加」では、東京へ進出した穂庵の充実していく画業を紹介。上京時には、同郷(秋田市生まれ)の寺崎広業(1866〜1919)も一時、穂庵の下に滞在していたようだ。

 第四章「旅の終わり、画業の円熟」では晩年の作品とともに息子の百穂の作品も展示されている。晩年の穂庵の代表作であろう「乳虎」などが展示されていた。また展示替えで見られなかったが円山派の絵師である蠣崎波響(1764〜1826)の鮭の絵の模写も展示されるようだ。波郷は若いころにアイヌの指導者を描いた「夷酋列像」を制作している。穂庵が亡くなったのは百穂が13歳の時であり直接絵を教わる機会は少なかったようだが、百穂は「アイヌ」や「田舎の嫁入り」など穂庵と同じモチーフの作品を描き、写生を重視した近代日本画の追求という意味では穂庵の仕事を継承発展させたといえるのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191229134103j:plain秋田県立近代美術館

f:id:kotatusima:20191229134108j:plain(「描いて 旅して 生きてゆく」)

f:id:kotatusima:20191229134112j:plain(穂庵が描いたアイヌ

f:id:kotatusima:20191229134117j:plain(「百穂くん」)

・旅の終わり

 

 12時半頃に見終わり、隣接する秋田ふるさと村内の「ふるさと市場」で昼食にした。家族連れでにぎわっていた。美術館はかなり空いていたがここには親子連れがたくさんいた。横手焼きそば(550円)を注文。やきそばに半熟の卵がのっている。

 

f:id:kotatusima:20191229134128j:plain横手やきそば

 

 13時20分、横手駅行きのバスに乗る。駅に着くととたんに雨が降り出してきた。駅の中で時間を潰す。14時19分発の電車で秋田駅へ向かうも、疲れから乗車してすぐ寝てしまった。目が覚めると外はザーザーと大きな音をたてて雨が降るほどの荒天だった。空は真っ暗。15時半頃に秋田駅に到着。乗り換えて16時過ぎに新屋駅に着いた。すぐ滞在場所に戻って荷物を整理し始めたが、なかなかカバンが閉まらず苦労した。打ち合わせにだいぶ遅れてしまった。17時半頃、雨の中をFさんに迎えにきてもらえてとても助かった。大学で展示について打ち合わせて、19時過ぎに秋田駅まで車で送ってもらった。

 

 

f:id:kotatusima:20191229134136j:plain(窓の外は大雨)

 

 駅のキオスクでのみものを買い、20時過ぎにバスに乗車。まだ来ていない乗客がいるらしいが出発。疲れていたのでよく眠れた。翌朝6時半頃、予定より少しはやく東京に着いた。

 

 

 

 (完)

 

秋田日記⑩ 2019.11.17.

f:id:kotatusima:20191229131833j:plain(角館)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ⑨のつづき。

 

 

 

11月17日 平福父子の足跡

 

・角館へ

 

 Kおばさん宅で6時に起床。朝食をいただくだけでなくお昼ごはんのおにぎりまで作って貰ってしまった。昨晩に続いてまたいぶりがっこも食べた。秋田駅まで送ってもらい8時過ぎの東京行きの新幹線で角館へ。この線路がはるか東京まで繋がっているとはなかなか信じられない。大曲駅の次、角館駅には9時前に着いた。ホームでは祭ばやしが流れていた。角館に私が来たのは日本画家の平福穂庵・百穂の出身地であり、その名を冠した美術館があるからだ。せっかく秋田まで来たのだから「小京都」と名高い角館の晩秋の紅葉を見たいというミーハーな気持ちも少しあった。

 駅を出てすぐに秋田の伝統的なお菓子である「もろこし」のお店「唐土庵」があった。「小田野直武」と大きく書かれた幟が気になって入店すると、ガラスケースには小田野の絵をパッケージにしたもろこしの詰め合わせが並び、生誕270年を記念して今年作られた小冊子が置かれていた。小田野は江戸時代に秋田藩士が手掛けた洋風画である「秋田蘭画」の代表的な絵師であり、角館出身だ。店員さんに声をかけると冊子をくれた。表紙をめくると平福百穂の歌集『寒竹』から引いた「いちはやくおらんだぶりを画きしは吾が郷人よ小田野直武 壮(わか)くして逝きし人の阿蘭陀絵は世に稀なれやくりかえし見つ」という文があった。百穂は秋田蘭画の研究書『日本洋画曙光』の著者でもある。小田野は1773(安永二)年に阿仁銅山の技術指導に訪れた平賀源内に西洋画の手ほどきを受けたとされ、秋田藩八代藩主佐竹義敦(曙山)の命で江戸詰めとなり『解体新書』の挿絵を担当することになったのは翌年のことだそうだ。当時小田野は26歳、偶然にもいまの私と同じ歳だ。もろこしは小豆の粉や砂糖、水などを混ぜて型に入れ、乾燥させ焼いた菓子だ。この店の「生もろこし」は焼きを入れずに柔らかく食べやすくしたオリジナルのものだとパンフレットに書いてあった。小田野の作品をあしらったパッケージのもろこしが欲しかったのだが量が多すぎるので、小豆の「生もろこし」の小さいパックを買って店をでた。

 外は少し寒いが日が照っているのでまち歩きにはいい天気だ。だんだんと古そうな商家を改装したお土産店が目につくようになってきた。15分くらい歩いて武家屋敷の街並みの入り口に着いた。この周辺は区割りが400年間ほとんど変わっていないそうで、6.9ヘクタールが1976(昭和五十一)年に文化庁重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。武家屋敷群は後でゆっくり見ることにして、駅から行くと一番奥に位置する仙北市角館町平福記念美術館へ。

  

平福記念美術館

 

 通りを挟んで大きなシダレザクラの向かい側にある美術館の敷地は一面が銀杏の葉に覆われ、黄色の鮮やかな絨毯を敷いたようであった。入ってすぐ左手に大きな石碑があり、碑文の上部に百穂の肖像が彫られている。瓢箪型の池も黄色に埋もれていた。ここは百穂が設置にあたって尽力した県立角館中学校(現角館高等学校)の跡地である。校歌の石碑もあった。校歌の作詞は初め島木赤彦に依頼されたが亡くなってしまったので斎藤茂吉らが引き継いで完成させた。このような豪華なメンツが作成に携わったのは百穂がアララギ派歌人でもあったからだ。その校歌の歌詞の推敲最終段階で茂吉から百穂に送られた書簡が石碑になっており、添削の赤字までが黒い御影石に彫られているのがおもしろかった。銀杏の葉を踏みながら進むと木々の向こうになんとなくロマネスク建築を連想させる石造りの回廊が見えてきた。薄い緑青のような色の外壁と角ばったアーチが印象的なこの建物が日本画家の名を冠した美術館とはとても思えない。実際には北欧の古い建築様式を取り入れているらしい。建築家は秋田市出身で国立能楽堂などを手掛けた大江宏だ。

 平福記念美術館には二つの展示室があり、日本画のサークルのグループ展と常設展が開かれていた。常設展には秋田蘭画が数点と穂庵の絵が数点、百穂の絵が十数点あった。年表を見て百穂が穂庵の四男であったことを見つけて、私の曽祖父も祖父も四男だったことを思い出した。つくづく昔は兄弟姉妹が多かったのだなと思う。こちらの学芸員の方はあいにく不在だったが事前に連絡していて、穂庵と百穂の古い画集を見せてもらうことができた。百穂がアイヌを描いた作品を初めてカラー図版で見た。蠣崎波響の鮭の図を穂庵が模写した作品の図版も確認できた。小田野直武、平福穂庵、平福百穂、沈南蘋、蠣崎波響、司馬江漢円山応挙、そして秋田蘭画アイヌ絵。関わりのありそうな言葉がいくつもぼんやり浮かんできて、頭がクラクラした。

 

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平福百穂の碑)

f:id:kotatusima:20191229131530j:plain平福記念美術館)

f:id:kotatusima:20191229133054j:plain(校歌の石碑)

 

・角館散策

 

 12時頃、平福記念美術館の職員の方に平福家ゆかりの場所はないか訊いたところ生家跡に小さな石碑があるとのことだったので、ぶらぶら武家屋敷を見ながら行ってみることにした。まずぱっと目についた「石黒家」という約200年前に建てられた武家屋敷に入った。石黒家の家禄は150石であり、角館を支配した佐竹北家5000石のうち3%にあたる。この辺では上級武士らしい。公開されているのは一部であり、ここは角館の武家屋敷で唯一いまでも住居として使われているそうだ。用途によって使い分けた四つの玄関や、身分の上下によって座る位置を示す畳の並びなどが興味深かった。棟続きになっている蔵には「解体新書」(復刻版)も展示されていた。

 

f:id:kotatusima:20191229131533j:plain(角館の武家屋敷)

f:id:kotatusima:20191229131538j:plain(角館の武家屋敷)

f:id:kotatusima:20191229131548j:plain(落ち葉)


 12時半過ぎ、角館樺細工伝承館へ入った。ここも平福記念美術館と同じく大江宏の建築。外壁のレンガと鋭い勾配をもつ入り口が印象的だがよくみると入母屋風の屋根がその上に載っている。こういう和風と洋風のモチーフが並置された様も秋田蘭画を生んだ角館の土地柄を想えば理解できなくもない。入るとすぐ洋風の天井の高いホールがあり、喫茶店を併設する休憩スペースになっている。少し休んでから展示室へ向かった。角館の名産である樺細工の名品が展示され職人さんの作業を間近で見られるコーナーもあった。二階には角館の武士の甲冑と一緒に平福百穂の師である武村文海が描いた端午の節句で飾る龍の幟があった。別の展示室では「イタヤ細工」などと並んで小絵馬が展示されていた。角館の周辺の町々には寺社や屋敷内の祠等に4月8日に小絵馬を奉納する風習があり、平福百穂の弟子であった田口秋魚による、角館の小絵馬の代表的な図柄を模写した作品が展示されていた。

 

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f:id:kotatusima:20191229131600j:plain(角館樺細工伝承館)

 

平福家ゆかりの地

 

 13時半過ぎ、角館樺細工伝承館を出て紅葉の盛りの街並みを写真に撮りつつ歩いた。14時過ぎ、武家屋敷の通りから少し離れた民家の塀の前に、膝くらいの高さの「平福穂庵百穂誕生の地」の石碑にたどりついた。気が付かず通り過ぎる人も多いだろうと思われるくらい、ひっそりとそこにある。ここからどこへ行こうかと角館の観光地図を見ていると天寧寺というお寺の裏山に「百穂筆塚」の小さい文字を見つけた。

 

f:id:kotatusima:20191229131608j:plain(「平福穂庵百穂誕生地」)

 

 14時半前、天寧寺に着いた。ここは佐竹北家が角館に入る前の城主であった蘆名氏の菩提寺だ。「裏山には百穂の筆塚があり町をみおろしています」と観光地図に書いてあったので裏山にのぼってみた。木々が立ち並んで薄暗い。30分くらい坂を昇り降りして山道を歩いた。団栗や栗のイガが落ち葉に混ざってたくさん転がっていた。幼いころの穂庵や百穂もこの山を駆けまわって遊んだのだろうか。静かだが何かに見られているような気配を感じて緊張しながら歩いた。ところが筆塚はまったく見つからない。グーグルマップで確認すると、いつのまにか裏山を抜けて反対側の角館高校の近くまで来てしまっていたようだ。仕方なく来た道を引き返した。近くの草むらでガサガサと音がした気がしたので慌てて坂を下った。聞き間違いだったかもしれない。すっかり汗だくになってしまった。筆塚の場所を教えてもらおうと寺務所のインターホンをおしても不在のようだったので諦めて天寧寺を出た。

 

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f:id:kotatusima:20191229131643j:plain(天寧寺裏山)

 ふと、穂庵の墓はどこにあるのだろうと思った。百穂の墓は、数年前にたまたま東京都の多磨霊園を散歩している時に見つけてお参りしたことがあるけれど…。スマホで調べると、角館の学法寺にあることがわかった。ここから歩いて行ける距離だ。樺細工を売っているお店があったので学法寺の場所を訊いたところわざわざ調べて教えてくれた。すぐ裏手にあった。道に面して日蓮上人の小さめの銅像が建っており、敷地内、銅像の背後に十数基の墓石が並ぶ平福一族の墓域があった。穂庵の墓より先に、向かって左手手前に「平福百穂墓」を見つけた。墓域の中では新しめの墓石だったのですぐわかった。百穂の骨は多磨霊園とここに分骨されているのだろうか。穂庵の墓ははじめ分からなかったが百穂の墓の斜め後ろに建っていた。墓石の正面には「穂庵」の文字が含まれる戒名、左側面には「平福順蔵之墓」と彫られている。どの墓石も黄緑色の苔が載っていた。丁寧に手を合わせ、平福父子の画技にあやかりたかったのでお寺の賽銭箱に小銭を入れてきた。

 

f:id:kotatusima:20191229131656j:plain平福家の墓石)

 

 暗くなるまではまだ時間がある。観光地図を見て角館総鎮守の神明社に行ってみた。ここにはかつて小田野直武や平福穂庵が絵馬を奉納したらしい。15時半頃、神明社に着くと鳥居の横にいくつかの看板とそう大きくはない石碑があった。それは菅江真澄終焉の地の碑であった。角館で没しているとは。まったく意識していなかった。看板に真澄の今際のエピソードとして「北家御抱医師吉原由之氏が『久かたの月の出羽路書きしるす筆の跡こそ千代もすむらめ』と詠せられたのに対し『しるべなき月の出羽路われ迷ふつけし千鳥の跡も恥かし 真澄』と返歌している」と書かれていた。秋田の地誌を完成させる前に亡くなった真澄はさぞ無念だっただろう。社務所には誰も居そうもなかったので絵馬を見るのは諦めた。本殿の扁額の横に金の字で「神明社」と彫られた亀の甲羅が掲げられていた。

 

・夕方の角館

 

 神明社に来る途中で気になっていた安藤醸造へ行ってみた。レンガ造りの立派な蔵の内部は座敷になっていて自由に見学できる。醤油や味噌はもちろん濡れおかきもあった。さらに道を引き返して、学法寺に行く前に道を訊いた伝四郎という樺細工のお店に寄った。洗練されたデザインに惹かれて何か買いたくなった。美しい茶筒や棗を見ているとたとえ買えなくても豊かな気持ちというか、いい気持になる。コースターを見ていると店員さんが親切にたくさん在庫を出してくれたのでその中から気に入った桜皮の模様のものを選んで買った。まだ日が落ちるまでは少し時間がありそうだ。小田野直武の菩提寺の松庵寺に行く。1936(昭和十一)年に建てられた顕彰碑の裏側には当時のオランダ公使の撰文まで彫られていた。靴屋の半分に骨董品を並べている変わったお店の前を通りがかったので入ってみた。店番をしていたおばあちゃんと平福美術館の話を少しした。何年か前に平福父子の展示をやっていたらしい。店を出るともう外は真っ暗だった。角館駅へ歩いていく。角館は「小京都」と名高いが、私にはなぜわざわざ京都と比較するのかがよく分からなかった(実際のところは佐竹北家角館初代所預佐竹義隣は公家の高倉家からの養子であり京風の文化が移入された、というのが理由らしい)。石を投げれば寺社仏閣に当たるような京都と立派な門構えのお屋敷が並ぶ角館の武家屋敷街並みの外観は似ても似つかなかったので違和感があった。角館には角館なりの情趣がある、というのでいいのではないかと思う。またそれとは別に「小京都」と呼んでしまうその心性もまたおもしろいと思う。それを秋田の県民性とまで言うと言い過ぎかもしれないけれど。一日角館を散歩しただけではその心性まで理解することは難しかった。

 

f:id:kotatusima:20191229131700j:plain(安藤醸造

 

・大曲へ

 

 おなかがすいて我慢できず、かりんとうを買った。駅前のレストランは高かったので駅のキオスクで豚丼とおにぎりとお茶を買った。電車までまだだいぶ時間がある。ゆっくりご飯を食べてぼーっとした。だいぶ疲れている。待合室にはいくつかベンチがあって暖かくしてある。かりんとうを食べながら待つ。

 18時45分発の大曲行きに乗る。乗客はあまり多くはない。19時過ぎ、大曲駅に到着。途中でスーパーに寄って明日の朝食の弁当ときりたんぽ味のポテトチップスがあったので買ってみた。夜の街をあるくとホテルのネオンが目につく気がした。有名な大曲の花火を見にくる観光客が多いのだろうか。

 19時半過ぎに旅館に到着。部屋に荷物を置いて20時頃にお風呂。貸し切り状態だった。小倉遊亀の絵を思い出させる大きなタイル張りの浴槽を独り占め。足を伸ばす。きりたんぽチップスはちょっとゴボウっぽいしょうゆベースの味付けだった。これがきりたんぽっぽいのかどうかは私にはわからない。

 ふとテレビを着けると「単騎、千里を走る」が放送されていた。この映画では朴訥とした漁師役の高倉健が不仲だった病床の息子のことを知るために中国へ赴く。「もっと健一のことを聞かせてもらえませんか?」というセリフの切実さがいまなら分かる気がする。祖父や曾祖父のことを知りたくて秋田に来ている自分と高倉健が重なるように思え、つい見入ってしまった。

 

f:id:kotatusima:20191229133048j:plain高倉健

 

 

 

いよいよ最終日。⑪に続く・・・。