こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記④ 2019.11.11.

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(紙谷仁蔵の墓)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

 ③の続き。

 

 

 

11月11日 能代日帰り道中記

 

能代

 

 5時30分起床。外はまだ暗く寒い。10分で準備して家を出て新屋駅の方へ向かって歩いていくと左手の秋田市街の方から車内の明かりをつけていない列車が来て駅に停まった。たぶんあれに乗るのだろうと思ったがその通りだった。駅に入ると5、6人、寒いホームですでに待っていた。まもなく電車の電気がついた。電車で雄物川を渡ると街並みの向こうから鮮やかなオレンジ色が見えた。朝焼けだ。6時ころ秋田駅に着く。秋田駅前から能代へ行くバスを待つ。まだ時間は50分ほどある。昨日買っておいたパンを観光案内所のベンチで食べる。朝早くなのに以外に人がいる。旅行者らしきキャリーバッグを持った人もちらほら。

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(朝焼け)

 

 7時前に「能代ステーション」に向けてバスで出発する。座席が冷たい。バスの中で方言についてぼんやり考えた。Kおばさんと話して、秋田の方言に親近感をもってしまったが、それを例えば北海道民に伝えようとしてもなかなか難しい。改めて言うまでもなく文語と口語は違う。秋田の人は「それでは」のことを「へば」という。「へば」とプリントされたTシャツを土産物屋で売っているくらいだから秋田を代表する方言なのだろう(ちなみに「んだ」Tシャツもある)。しかし文章で「へば」と出てきてもそのことだとすぐわかるだろうか。博物館で方言の本を買ってしまったが、パラパラめくったかぎり思った以上に知っている言葉がなかった。それは秋田限定の独特な言葉を集めた本だからかもしれない。私が秋田弁に感じた親近感とはなんなのだろう。また、ここ2、3日で印象的だったのは、街を歩いて目にするのは「秋田犬」と「なまはげ」だった。秋田に来る前に私の周りの人達に秋田のイメージを訊ねたところ、だいたい返ってくるのは「なまはげ」か「秋田犬」もしくは「きりたんぽ」だった。その典型的なイメージを忠実になぞっている様は観光客としては素直に喜ぶべきものかもしれない。写真を撮れば、容易く「秋田に行ってきた」という感じにできる。だが、それもまた行き過ぎるとおかしみを越えて卑屈ささえ感じさせはしないだろうか。とはいえそれを笑ってばかりはいられない。北海道だって「ひぐま」と「きつね」ばかりなのだから…。

 

 閑話休題。バスは畑の間を走っていく。石油を採るための、シャベルのアームのような機械が並んでいた。秋田ならではの景色だろう。高速秋田道秋田北インターに入った。遠く海岸沿いに風車が並ぶのが見える。能代バスステーションにはほぼ定刻8時15分頃に着く。トイレ休憩をし、まず約束をしていた向能代稲荷神社・恵比寿神社へ向かう。

 

向能代稲荷神社・恵比寿神社

 

 米代川にかかる橋の袂から対岸の丘の上に赤い屋根が見えた。それが向能代稲荷神社・恵比寿神社であった。8時半ころ、宮司さんがすでに来ていたので自己紹介をしていると氏子総代さんがやってきた。緩やかな坂に石の参道があり正面に稲荷神社が建っていて向かって左手にある恵比寿神社とは渡り廊下で繋がっている。目当ての船絵馬は恵比寿神社に奉納されたものだが稲荷神社にも絵馬をはじめとして沢山の奉納物があった。氏子総代さんからこの神社や能代港のお話をきいた。北前船の往来がさかんだったころ港はここ向能代にあり、船頭は入港したら必ず航海安全祈願をしに訪れていたこと。ここは稲荷神社より恵比寿神社の方がお祭りが大きく盛んで、最近まで近隣から漁師がずいぶんたくさん来ていたこと。いまはもう専業の漁師はおらず自家分をとるくらいだが、以前は獲れすぎてお祭りを延期したことがあるくらい獲れたこと…。恵比寿神社の船絵馬の一部は県立博物館の展示に貸し出していると聞いていたので正直にいうとあまり期待しないで来たのだが、それでもまだまだたくさん立派な絵馬があった。

 面白かったのは1986(昭和六十一)年に江差の船頭から奉納された「辰悦丸」の船絵馬だ。江戸から明治頃の船絵馬は木版画を利用したものもあったが、これは当時の図柄を踏襲しながら全て手描きでいまも色鮮やか。お堂の中では目立つ。この船絵馬の近くに飾られた瓦には北前船が彫刻されており「淡路辰悦丸回航出展実行委員会」とあった。「辰悦丸」はゴローニン事件で有名な高田屋嘉兵衛の持ち船だった。1985(昭和六十)年に大鳴門橋の完成を祝して淡路島で開かれた「くにうみの祭典」に合わせ、造船会社「寺岡造船」が復元、北海道江差町から「実際に走らせて町まで来られないか」と要望があったため船を作り直し翌年5月から各地の北前船寄港地に立ち寄って無事江差町へ到着した、という。この船絵馬はその際の航海の無事を感謝したものだったのではないか。今年はその復元船のあゆみを記録した本も製作され、全国に配られたらしい。北前船を通した北海道と秋田と、そして全国の北前船寄港地との繋がりの意識はいまもまだまだ根強い。その繋がりの中でこうして恵比寿神社が崇敬されている、その想いになんだか胸が熱くなってくる。

 また、ここの神社にはめでたい図柄の絵馬が何点も奉納されていた。大漁祈願か大漁感謝のためのものだろう。海から漁師たちがにぎやかに網を引き上げ中から魚があふれんばかりに獲れている様を描いている。11時ころに写真を撮り終わり、親切にも総代さんに駅まで送ってもらった。「木都」とよばれた能代の街は大正〜昭和ころに秋田杉材の生産で栄えたが、その反面、屋根が木を薄く切ったもので葺いてあったから一度火がつくとなかなか止まらず、古いものは大火で焼けてしまったと言っていた。

 

f:id:kotatusima:20191228201330j:plain(橋の上から向能代を見る)

f:id:kotatusima:20191228201355j:plain向能代稲荷神社・恵比寿神社の鳥居)
f:id:kotatusima:20191228201059j:plain向能代稲荷神社・恵比寿神社
f:id:kotatusima:20191228201045j:plain(大漁の絵馬)

f:id:kotatusima:20191228201130j:plain(辰悦丸の絵馬)

f:id:kotatusima:20191228201109j:plain(狐の石像)

 

 

 

・ぎばさうどんと能代ガイド

 

 午後は街歩きガイドをお願いしていた。駅前で待っているとガイドの方がやってきた。まず駅すぐ近くの食堂で昼食にした。おすすめの「ぎばさ」(アカモクとも)という海藻がはいった「ぎばさうどん」(550円)を注文。食堂のおばさんによれば、以前テレビで紹介された際は「ぎばさうどん」を注文するお客さんですごかったという。卵黄とかまぼこと「ぎばさ」だけ載せたシンプルさがいい。12時30分頃、お腹がいっぱいになったところで電動自転車を借りた。駅前にバスケットボールをモチーフにした飾りがあったのでなぜなのか訊ねると、能代はバスケットボールが盛んで能代工業高校が全国大会で58回優勝しているという。漫画「スラムダンク」のモデルだ、ともいう。街の中心街を自転車で走っていく。防火帯として道の幅が広くなっているとのことで、そのせいでシャッターが目だっているような気もする。能代砂丘の上に町が立っているため坂が多いらしい。また、木都だったころの名残で銭湯と、なぜかパーマ屋が多い。米代川の岸に出た。川上を見ると電車が橋を渡っていった。奥羽本線がなぜ能代の街の中心部から離れた東能代駅から出ているかというと、当時、材木運ぶ時にはいかだで河口まで運び、そこから馬車に積み替えていたのだが「電車が通ると馬車の仕事がなくなる」として反対した運動があったのだという。ガイドさんが子どものころだった昭和30年代でも冬には馬橇がよく使われていてわだちがツルツルに凍ると滑って遊んだりしたという。

 

f:id:kotatusima:20191228201119j:plain(ぎばさうどん)

 

・北萬

 

 13時前、「北萬」に着く。店名は初代の「北村萬左衛門」から。ここは提灯のほか「能代凧」を今日でも唯一製作販売している。三代目のご夫婦にたくさんお話を伺った。能代凧のなかでも能代のシンボルマークともいえる図柄が「べらぼう凧」だ。「男べらぼう」は芭蕉の葉を、「女べらぼう」は牡丹をそれぞれ頭に飾り舌を出している。男べらぼうは顔に歌舞伎の隈取のような模様があり遠くから見ると黄色っぽい芭蕉の葉が烏帽子のように見えて三番叟を思い出させた。このほかに北萬のオリジナルの顔は女べらぼうだが旗をのせている「旗べらぼう」があり、昭和のはじめ北萬以外にも凧屋があったときはそれぞれの店でオリジナルのべらぼうがあったとのこと。明治後期の創業の頃は、凧は冬場の内職で提灯も並行して製作してきた。男べらぼうに描かれている芭蕉の葉は能代のような寒いところにはないから北前船かどうかはわからないけれど、やはり南の方から伝わってきたのだろう、という。能代市が作成した北前船に関するパンフレットには「能代凧は北前船灯台の代わりに使った」「その起源は、北前船の船乗りたちが腹に顔を描いた踊りともいわれる」とあるが、後者の話は北萬では聞かなかった。小さめのべらぼう凧を買った。帰りがけにガイドさんと一箱ずつティッシュを貰った。

 

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(北萬の店内)

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(北萬で買った「旗べらぼう」の絵)

 

・風の松原

 

 13時30分に北萬を出発。「風の松原」が広がる能代港方面へ向かう。

 途中で「三大春慶塗り」のひとつ「能代春慶」の店の横を通った。飴色が美しいこの漆器はただ一人の弟子にしか技法を教えない「一子相伝」を貫き、跡継ぎがなく途絶えたとのことだ。能代の街は海側からはじまったが風が強くて砂に埋もれてしまうのでだんだんと内陸、今の駅の方に町が広がっていったという。古い街区はいわゆる「うなぎのねどこ」で、間口が狭くなっている。海岸に沿って薄暗い松林を横目に自転車で走る。

 能代港のすぐ横にある「はまなす展望台」に着いた。1階には北前船に用いられたと推測される碇が置いてあった。展望台の上からは北に白神岳が見え眼下には青々とした松原が横たわっていた。南には火力発電所らしき煙突が見えた。ガイドさんによれば、砂地(まさに能代がそうだ)が多い日本海側は地下に真っ直ぐ根が張って風が強くても倒れない黒松を植え、岩場が多い太平洋側は根が横に広がる赤松を植えるらしい。「風の松原」は江戸時代中期から作られ現在では700万本もの松が植えられている砂防林だ。東西平均1キロ、南北平均14キロ、760ヘクタールに及び100メートル×100メートルの中に1000本の松が植えられている計算になる。東日本大震災の時には侵入した波の勢いを弱めたという。展望台から元来た道を戻り松原の中へ入っていく。電動自転車なので多少の悪路も坂道も平気だ。薄暗く松以外の植物もたくさん生えていて雑木林のような感じだ。ジョギングしている人もいた。

 松は年間2000から3000本「松食い虫」の被害に遭っているが、松食い虫という虫は実際にはいない。マダラカミキリという虫が松の枝を噛んで食べ、その噛み口から線虫が松に入り、導管(根から水を吸い上げる)の中に線虫が詰まって栄養分がいかなくなって一度に全体が枯れる、というのが本当のところだそうだ。対策としては防虫剤をまいているけれど、植樹はある程度広い場所がないと苗に日が当たらないから簡単には植えられないそうだ。だんだん時間が無くなってきた。ガイドさんが近道をしようと果敢に草原の中へ入っていったが、ノイバラやニセアカシアのトゲに阻まれてなかなか進めない。急に大冒険になってしまって少し面白かった。

 

f:id:kotatusima:20191229122135j:plain(風の松原)

f:id:kotatusima:20191228203836j:plainはまなす展望台から、北方)
f:id:kotatusima:20191228202155j:plainはまなす展望台から、南方)
f:id:kotatusima:20191228202200j:plain(「風の松原」の遊歩道)

f:id:kotatusima:20191228202219j:plain(風の松原)

 

日和山方角石

 

 15時ころ、やっと「日和山方角石」に着いた。日和山とはその名の通り船乗りが空模様をみたり役人が港に出入りする船を確認するのに使った高台で全国に同じ名前で呼ばれる場所がある。方角石とは、これもその名の通り方位が彫られた石のことで、多くが日和山に置かれていた。ここ能代日和山に置かれた方角石は文化年間(19世紀はじめ)に設置された全国でも二番目に古いといわれているものだ。近寄って見ればところどころ欠けているのはお守りがわりに削って持ち帰られたかららしい。いまは松でほとんど見えないが江戸時代はここから日本海を見渡すことだできたことだろう。

 松原から出る途中「景林神社」と看板に書かれていたのは松の植栽を指揮した久保田藩士の賀藤景林(かとうかげしげ・1768~1834)を祀る神社で、賀藤より前に同様に植栽を手掛けた栗田定之丞(1767~1827)の神社も秋田市内にあるらしい。それだけ松原の造成は大事業であり、松原は市民の生活に大きな役割を果たしているということだろうか。松原の外周に沿って次の目的地へ向かう。一部、雑木や草がきれいに刈り取られたところがあった。白砂青松はさすがに難しいが松原の入り口から40メートルくらいの手入れしているところがあるとのことだ。

 

f:id:kotatusima:20191228203639j:plain(方角石)
f:id:kotatusima:20191228203628j:plainf:id:kotatusima:20191228203706j:plain(松原の松)

 

・紙谷仁蔵の墓

 

 15時半頃、光久寺の「挽き臼の墓」に着く。お寺の入り口横に何基か並んだ石碑の端に急に挽臼が置いてある。付近にはそのいわれを説明するような看板なぞはなにもない。これは瀬戸内海塩飽諸島出身の北前船の船乗り紙谷仁蔵(かみやにぞう)の墓石だといわれている。仁蔵は天保の大飢饉に苦しむ人々に積み荷の米を降ろしておかゆを振る舞い、のちに能代に住んでそば屋を営んだ。そのため墓石が挽臼の形なのだという。この話に関する資料は特に残っていないらしいが、話だけが今日まで伝わり2012年にはミュージカルになっている。ここで少し石臼の絵を描いた。

 

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(紙谷仁蔵の墓)

 

・金勇

 

 16時ころ、やっと今日の最終目的地である「旧料亭金勇」に着いた。自転車を停め、すぐ隣の八幡神社を少しだけ見た。ここの御神燈は大阪の廻船問屋が奉納したものだ。境内には何本も立派な木が生えている。大火で金勇が燃えなかったのはこの鎮守の森の木々から出た水蒸気のおかげなのだという。

 16時半ころから金勇を見る。1890(明治二十三)年創業で、現在の建物は1937(昭和十二)年のものだ。秋田杉の大型木造建築であり、また当時の最先端の技術で作られたことにより国の登録有形文化財に指定されている。1000坪の敷地のうち300坪を二階建ての建物が占める。大部屋が2、小部屋が5あって部屋の名前はすべて小唄からとられている。質素な数寄屋作りではあるが、それぞれの部屋で別々の大工の腕を競わせ天井や欄間、襖も床の間も全部違うという点は非常に贅沢だ。「能代には立派な材があるのにいい建物がない、将来のためにいい材木を使った誇れる建物を建てたい」という想いから当時の営林署長の協力も得て作られた。1階の大広間の天井板は10メートルの間に節も割れもまったくない奇跡のような秋田杉の大木が使われており木に合わせて部屋の大さを決めたという。天井板は暑さ1センチと2〜5ミリで相当腕のいい職人が手で製材したことが鋸の跡からわかるのだ。

 

f:id:kotatusima:20191228204844j:plain(金勇)

 

能代を去る

 

 17時過ぎ、やや端折りながらに金勇を見終わって外に出るとぽつぽつ雨が降ってきた。急いで駅前に戻って借りていた自転車を返した。ガイドさんとはここで別れた。盛りだくさんの能代見学だった。17時47分の秋田駅行きのバスに乗る。疲れて帰りのバスでは寝てしまった。19時ころ秋田駅に着いた。改札を出て秋田駅の近くで何か食べて帰りたい気もしたが、時間を持て余しそうなので早く帰ることにした。19時19分発の酒田行きで新屋駅へ向かう。切符を買って改札を通ろうとすると駅員さんに手を突き出されハンコを捺された。この仕草でよそ者だとバレただろう。20時前に新屋の滞在施設に帰宅した。どうしてもカレーが食べたくて近所のコンビニでカレーを買ってきた。部屋の床の間に買ってきたべらぼう凧を並べて飾ってから寝た。

 

f:id:kotatusima:20191228204849j:plain秋田駅に帰って来た)

f:id:kotatusima:20191228205049j:plain(滞在先の床の間)

 

 

 

 

 ⑤に続く・・・。

 

 

 

秋田日記③ 2019.11.10.

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(松ヶ崎八幡神社狛犬

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

 ②のつづき。

 

 

 

11月10日 松ヶ崎八幡神社とスペースラボツアー

 

・松ヶ崎へ

 

 あさがた、寒さで目を覚ましたらどうやらブレーカーがおちていたらしい。震えながらブレーカーをつけて二度寝した。6時半頃起床。昨日買った、あきたこまち米粉を使ったシフォンケーキを食べてみる。結構甘い。この日は電話で事前に連絡していた松ヶ崎八幡神社文化財を見せていただき午後には私が参加しているスペースラボの作品を巡るツアーに参加することになっている。バスに乗る前に神社に奉納するお酒にのしを巻き筆ペンで「奉納」と書いた。7時半過ぎに由利本荘市へ向かうバスに乗り込んだ。乗客は僕ひとり。林を抜けると桂浜海水浴場のあたりで海が見えた。浜辺のあちこちに重機があり、砂を盛って浜伝いに道路を作っているようだ。8時過ぎに秋田市から由利本荘市に入った。海沿いに生えている木々の緑色と海の青色は、江戸時代後期に異国船への脅威から幕府の命令で秋田藩が作成した海岸図の色合いを思い出させた。言われていたバス停で降りると宮司様が待っていて車に乗せてくれた。

 

・松ヶ崎八幡神社

 

 まず、すぐ近くの稲荷社まで行く。そこには海上交通安全祈願の石の鳥居があった。いまも近くでお稲荷様はお祀りされているが、宮司様が小さい頃は鳥居とともに社がまだあったらしい。おそらくこの付近の船頭たちはここの稲荷社に様々なものを奉納していたと思われ、石鳥居も北前船に関わる奉納物だろうとのことだった。車で八幡宮まで向かう。社殿は山の上にある。麓の鳥居を車でくぐり、石段の手前で車を降りて手水をしてから階段を上がっていく。森の中に建つ社殿は手前から拝殿、幣殿と本殿覆屋が棟続きになっていて覆屋の中に本殿がある。社殿が現在の形になったのは藩から地元住民に管理が移った後の明治31年だと推測され、それ以前はずっと広かったようだ。宮司様は2.5倍くらいあったと言っていた。そのことを示すように絵馬も扁額も、今の建物に対しては随分大きい。

 

f:id:kotatusima:20191228195143j:plain(稲荷社の鳥居)

f:id:kotatusima:20191228195207j:plain(参道)

 

 そもそも江戸時代にここを治めていた亀田藩岩城家は、元は現在の福島県浜通り南部いわき市のあたりを支配していた。関ヶ原の合戦以後に領地替えされたことで、殿様に伴って八幡宮もこの地に移動してきたわけで、非常に政治的な色合いが強い神社だといえる。

 私がこの神社について初めて知ったのは北前船で運ばれてきた笏谷石で作られた狛犬がある神社として、だった。しかし来てみると本殿はもちろん、その他にも興味深いものがたくさんあった。まず、社殿のなかに並ぶのは亀田藩の武士たちが奉納した剣術、砲術、柔術など武術に関わる絵馬だ。江戸時代後期に異国船に備えた海防のため武術が奨励されたのだという。海は大地と大地を隔てもするが繋ぎもする。江戸時代後期の東北諸藩によるロシアの南下に備えた蝦夷地警備については知っていたが、亀田藩でもそれと連動した動きがあったわけだ。『海国兵談』で工藤平助が「江戸、唐、オランダまで境なしの水路」などと喝破していたことを思い出す。何点かの絵馬には海岸の絵図が描かれており、当時の砲術訓練の様子とともに松ヶ崎の集落の様子もわかる。また別の絵馬は居合道に関わるもので、たすき掛けをした武士がふたり、緊張感を持って相対している様を描いている非常に立派なものだ。これは以前博物館で絵馬の展示をした際に図録の表紙を飾ったそうである。県指定有形文化財である笏谷石の狛犬は本殿左右に透明なケースに入って置いてあった。写真を撮るときにはケースから出してもらった。よく見ると阿吽の顔も髪型も違っていて一揃いではないことがわかる。欠けているせいか両方とも吽形のようにも見える。製作年代は16世紀末から17世紀初頭だという。宮司様によれば狛犬は元は神明社にあったものではないかとのこと。また、今の宮司様の自宅には以前神明社が建っており、そこにあった笏谷石の石材を再利用しているとも仰っていた。神明社やその他の合祀された神社の物が八幡社に集まってきているのかもしれない。本殿は江戸時代後期のものと推定され、「八幡宮」、「天満宮」、「惣社宮」の扁額が掛かっている。総欅造りで総漆塗りの大変立派なものだ。装飾はあるものの赤茶色の扉や柱からは武家の神社らしい力強さが印象に残る。なお、幣殿、拝殿も含めて国の登録有形文化財である。北海道との関りとしては、なんと大正時代に奉納された松前でのイカ釣り漁の様子を描いた絵馬があった。実際の漁の道具の使用状況がわかる点で貴重なものだとのこと。思わぬところで北海道と秋田の繋がりを発見し驚いて話をしていると宮司様の父方の祖母は北海道西部の古平町の網元の家柄だとのことで、さらに驚いた。

  

f:id:kotatusima:20191228200105j:plain八幡神社の扁額)
f:id:kotatusima:20191228195330j:plainf:id:kotatusima:20191228200039j:plain八幡神社内部の様子)

f:id:kotatusima:20191228200113j:plain(石製狛犬

f:id:kotatusima:20191228200119j:plain(提灯には岩城家の家紋が)

f:id:kotatusima:20191228200414j:plain(昔の松ヶ崎の様子がわかる砲術絵馬)

f:id:kotatusima:20191228200418j:plainイカ釣り絵馬)


 その他、賽銭泥棒についての苦労話などもたくさん聞いた。改めてこの神社を守ってきた人々がいること、いまここに神社があって見せてもらえていることのありがたみを感じる。一通り写真を撮らせてもらい、狛犬のスケッチもした。宮司様が駅まで送っていくよと言ってくださったのでお言葉に甘えた。

 鳥居を車でくぐると日が射してきた。気持ちの良い天気だ。入り口の鳥居は昔は赤かったのだが20年くらい前に石のものにしたという。この辺は塩害がひどく、放っておくと網戸に塩が溜まるくらいだとか。海岸に風車がいっぱい建っているのが気になったので尋ねると、震災以後増えたのだという。松ヶ崎の集落は昔はもっと大きく宮司様が子供の時より五十メートルくらい海岸線が後退していて、漁網に寺の井戸が引っかかると漁師さんが言っているそうだ。宮司様が駅まで送っていってくれる途中、なんとコンビニに立ち寄ってコーヒーまで買ってくれた。ちょうど電車が来るころに岩城みなと駅に着き、すぐ切符を買って小走りで改札を通ったらタイミングを合わせたようにホームに電車が来た。席に座って車窓から海を眺めながらあたたかいコーヒーを飲んだ。

 

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宮司様にもらったコーヒー)

 

 11時半頃、予定よりはやく秋田駅に着いてしまったので、街中を少し歩いて千秋公園の中にある秋田市立中央図書館明徳館へ行ってみた。レファレンスコーナーで先祖のことを調べていると伝えると、「県立図書館は130年間戦災で焼けていないからここよりいい資料があるかもしれない」とのこと。ひとまず鷹巣町史や秋田の地名の本に目を通したが、ほとんど私の先祖に関するヒントは得られなかった。

 

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・スペースラボツアー

 

 14時頃から今回僕が参加している企画「スペースラボ」の参加作家を紹介するツアーがあった。居村浩平さんは「目があった人の真似をする」というパフォーマンスをすでに実施、その記録映像を展示していた。通りがかった人が急に見ず知らずの人に真似されたら嫌だろうなと思っていたが、もちろんそれだけではなくて、逆に真似される側が自分の動作によって真似する側を操作することもできるのだ。居村さんは過去に道ゆく人にひたすら挨拶するというパフォーマンスもやっていたという。「真似る」と「学ぶ」の関係性はよく言われることだ。普段とは違ったある種の過剰なコミュニケーションが今回の展示場所である商業施設の中で発生するのは面白い。別の会場では酒井和泉さんが「ないものねだりフェスティバル」というプロジェクトを行なっている。秋田に「いるもの」「いらないもの」を聞き、「いるもの」をぬいぐるみにして大きな秋田の地図上に設置していくという。「いらないもの」をどうするかについては考え中とのこと。壁に貼ってある秋田に「いるもの」、「いらないもの」が書かれた紙を読んでいくと秋田に住む人々が秋田のことをいまどう思っていてどうなってほしいと願っているかを想像することができる。もうすでにぬいぐるみのディズニーランドが数か所秋田にできる予定だ、というのが面白かった。そのあと、自分のこれからの計画についても少し喋ってツアーはお開きとなった。

 

 16時20分ころからコーディネーターのFさんと11月14日に行く予定の男鹿半島のリサーチについて打ち合わせ。いくつか北前船に関する文化財などを候補に挙げて問い合わせなどした。以前から気になっていた「蝦夷錦」(中国が北方の民族に下賜した豪華な刺繍が施された役人の制服で、江戸時代にアイヌを通して日本でも流通していた)については所蔵先の許可が降りず、今回見るのは難しそうで残念だ。打ち合わせあとは本屋を物色したり、秋田駅の観光案内所へ行ったりした。秋田の郷土玩具である八橋人形が売っている場所について訊いたのだが、この時まで僕は恥ずかしながら「やつはし人形」と読んでいたが、正しくは「やはせ人形」だ。教えてもらった近くの物産館へ行ってみた。やはりなまはげグッズや樺細工が目立つ。いずれ日本酒も買って飲んでみたい。米どころ秋田の日本酒が美味しくないわけがない(この希望は13日に叶うことになる)。18時半ころの電車で新屋の滞在施設へ帰った。途中、スーパーに寄って夕食の弁当と明日の朝食のパン、明日奉納するお酒を買った。かわいいヒヨコ柄のマッチがあったので衝動買いした。19時半前に帰宅し夕食。食後に少しスナック菓子も食べる。お風呂に入って22時ころ就寝。

 

 

 

 ④へ続く・・・。

 

 

 

秋田日記② 2019.11.9.

f:id:kotatusima:20191228191418j:plain(女潟で見たガンの絵)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ①の続き。2日目です。

 

 

 

11月9日 秋田県立博物館

 

・秋田の朝

 

 Kおばさんの家で7時30分頃に起床。朝食をご馳走になる。前日の夜は暗くて分からなかったが家はすぐ裏手まで秋田杉の美しい森になっていた。カモシカが出ることもあるという。私は大変酒が弱い。私の父も弱い。Kおばさんは昨晩の私の飲みっぷり(数時間かけて缶ビール一本)について「佐藤の兄弟(私の祖父の兄弟姉妹のこと)は全部酒が飲めない人だ。8人兄弟の8番目でおばさんだけ酒が飲めない。それは佐藤の血なのだろう」と言っていた。昨晩の余韻冷めやらぬというように、朝食後にコーヒーを飲みつつアルバムをめくってまた昔話をしながら「写真って面白いね」と言ったKおばさんの一言が妙に私の心に残った。

 9時頃に車ででかけた。曇り空だが雨は降っていない。紅葉で色づいた山々は素晴らしかった。車中で 16日に佐藤家のルーツがある鷹巣へ行くことを約束した。11時頃に秋田県立博物館に着いた。なぜか冷やし中華を売っている食堂で早めの昼食を食べた。僕はせっかく秋田に来たのだからと、稲庭うどんを注文した。なめこが載っていた。他にも行くところがあるKおばさんが気を使って「ゆっくり見なさい」と言ってくれたので、今日はここでお別れ。

 

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稲庭うどん

 

菅江真澄と秋田の先覚者

 

 秋田県立博物館はいわゆる総合博物館だが、人文展示室、自然展示室のほか子供向けの体験スペースに加え、菅江真澄資料センターと秋田の先覚記念室をもっている。土曜にも関わらずかなり空いていた。まずは菅江真澄資料センターへ。昨晩の予習(睡眠学習?)のおかげで内容がすっと頭に入った。菅江真澄は1754(宝暦四)年に三河国渥美郡(今の愛知県豊橋市付近)で生まれ、国学、和歌、本草学などを学び、中部から北陸、東北を旅し北海道南部にも4年間滞在している。江戸時代、北海道南部の「和人地」より北は「蝦夷地」として関所が設けられ人の出入りが制限されていたが真澄はその蝦夷地にも足を踏み入れており、アイヌの暮らしや昆布を採る道具などを記録している。この北海道旅行からは「えみしのさえき」、「えぞのてぶり」、「ちしまのいそ」、「ひろめかり」という本が生まれた。北海道から本州に戻った真澄は一時津軽藩に勤めた後で秋田藩領に入り、九代藩主佐竹義和(さたけよしまさ・1775〜1815)の意向もあって1811(文化八)年、真澄数えで58歳の年から秋田六郡の地誌編纂に従事した。1829(文政十二)年に76歳で亡くなるまで秋田をくまなく歩き記録した人生は、まさに旅に生きた生涯だったと誰もが言うだろう。「秋田を旅することは真澄の旅路を追いかけることだ」とでも言いたくなるほど、このあとの私の道中でもあちこちで真澄の足跡に出会った。

 

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菅江真澄資料センターの入り口では菅江真澄がお出迎えしてくれる)

 

 その後、上階の「秋田の先覚記念室」へ。秋田県で生まれ各分野で業績を残した偉人たちの経歴を書いたパネルや資料が展示されている。タッチパネルと小さいプリンターが設置されていて、人名を検索して略歴や肖像が一枚にまとまった資料を印刷して持ち帰ることができる。今回の私の滞在でも調査しようとしている平福穂庵・百穂父子の展示もあった。もちろん資料も印刷した。北海道との関係でいえば、いわゆる「義経蝦夷渡り伝説」や「義経ジンギスカン説」を広めた『成吉思汗は源義経也』を著した小谷部全一郎(おやべぜんいちろう・1867〜1941)がアイヌ民族の教育に関わっていたとはじめて知った。同室の企画コーナーはにかほ市出身の農政家である斎藤宇一郎(1866〜1926)とその子であり電気機器製造会社TDKの創業者斎藤憲三(1898〜1970)を紹介していたのでさらっと見た(斎藤父子については、この後にかほ市でまた一瞬出会うことになる)。

 

・「北前船と秋田」展

 

 秋田県立博物館に来た一番の目的である企画展「北前船と秋田」を見る。企画展会場内は撮影可能だった。

 入ってすぐ秋田の北前船に関わる文化財をまとめた掲示物があった。方角石や恵比寿神社、紙谷仁蔵の墓、弁天丸などなど、結局このあと私は滞在中にこれらほとんどすべての文化財を見ることになった。

 

f:id:kotatusima:20191228184337j:plain秋田県立博物館にて)

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(会場の様子)

 会場はいくつかの章に分かれている。まず北前船の概要や船主の例、「日本遺産北前船」についてや北前船として用いられた船について紹介され、船の模型、船箪笥、方位磁石などが並ぶ。次の「つながる地域」では、土崎港の入船記録のマッピングや全国に配られた引き札、などが紹介されていた。「海の道・川の道」では、海と連結した内陸への輸送路であった川に焦点を当てている。例えば秋田では米代川雄物川子吉川が、それぞれ能代湊、土崎湊、古雪湊・石脇湊の貨物を運んだ。「港の商人たち」では、海の道や川の道の流通を支配していた商人たちを、廻船問屋の帳簿などによって紹介。「船のある風景」では土崎湊などを描いた「秋田風俗絵巻」や、古い写真(港を写した葉書)を展示していた。明治・大正頃の象潟や金浦、本荘の港の古写真に和船が写っているのを見ると北前船がとても身近に思える。「秋田の廻船」では、秋田県内の各地から船絵馬を集めてきて展示していた。「北をめざす人々」では、幕末から松前方面へ東北から出稼ぎに行く漁民が多かったこと、明治以降の北海道への移住者は青森に次いで秋田からが多かったこと、北前船の主力商品だった鰊の生産に秋田出身者が場所請負人や出稼ぎ漁師として深く関わっていたことなどに触れていた。特に、別海町にある加賀家文書を遺したアイヌ語通詞の加賀伝蔵(1804〜1874)が八峰町八森出身だとは知らなかった。また展示ケースの最後には八峰町から北海道に出稼ぎに行った漁師が持ち帰ったという明治中期頃の「アツシ(アットゥシ、厚司とも書かれる)があった。本来はアイヌの伝統的衣服であるが、江戸後期から船乗りが着るようになり、松前にはアツシを売る店もあったという。船絵馬でもよくアツシらしき服を着た船乗りが描き込まれている。わざわざこのような章が設けられていたことからも、北海道と秋田の浅からぬ縁を再確認することができた。

f:id:kotatusima:20191228185000j:plain(船絵馬が並ぶ展示室)

f:id:kotatusima:20191228184850j:plain(アツシ(アットゥシ/厚司)、秋田県立博物館蔵)f:id:kotatusima:20191228185009j:plain(船絵馬の部分 (船絵馬・幸運丸 にかほ市金刀比羅神社蔵))

 

 その後、常設の人文展示室と自然展示室を見た。自然展示室のみ写真撮影可。アキタブキが展示されているのが秋田らしい。フキノトウは秋田の県花であるとのこと。

 

f:id:kotatusima:20191228185013j:plain(自然展示室のアキタブキ)

 

 帰りにミュージアムショップへ寄る。古書を売っているのは珍しいし需要もありそう。しかし企画展の図録がまったく見当たらない。作成していないのだろうか。北前船関係の本もあまり見当たらない。そのかわりなぜか全国の陶器をちょっと売っていて、民藝の本が目につく。特に民藝運動に関りが深いということでもないようだ。昨日から方言について考えていて、つい秋田方言の本を買ってしまった。

 

f:id:kotatusima:20191228185226j:plain秋田県立博物館)

 

・小泉潟公園

 

 16時の閉館とともに外に出る。ちょっと風が冷たい。日の暮れかかった小泉潟公園を歩いた。近くの東屋でネックウォーマーをつけ、帽子を被り、外歩き用の防寒をする。すぐ近くの日本庭園・水心苑も博物館と同じく16時で閉まっていた。

 トイレに行きたくなったので小泉潟公園管理センターに寄る。幸いここは17時まで開いている。熊出没注意のチラシがあり、北海道出身者としては身近に感じる問題なのでつい手に取ってしまった。「女性」と強調されて書かれたスタッフ募集の貼り紙は、なぜ女性なのかわからないが、昨日Fさんがしていた保守的な秋田県の話の裏付けのようにも思えた。

 ここから歩いて追分駅に向かう。電車まではまだ1時間近く時間がある。防寒もしたことなので一周30分程度らしい女潟を散歩することにした。柵の向こうから2メートルくらいの釣り竿をもって道路にあがってきた人を見かけた。すぐ車で立ち去ってしまった。女潟は県指定天然記念物に指定されている自然保護区であるはずなのだが。だんだんと薄暗くなってきた。水面を覆うススキのような細高い草原を見ていると心細くなってきた。すると、急に鳥のギャアギャアと叫ぶような声がして、後方からガンだろうか、水鳥が6羽か7羽が飛んできた。逆三角形の編隊はカメラを構える暇もなく、見惚れているうちにまだオレンジかかっている夕空の向こう側へ行ってしまった。一瞬の出来事だったが鮮烈な光景で家に帰ってすぐ記憶を辿りながら自分が見た光景を絵に描いた。私はこの光景をたぶん一生忘れないだろう、と思った。

 

f:id:kotatusima:20191228190853j:plain(女潟)f:id:kotatusima:20191228190920j:plain水草がたくさん生えていた)
f:id:kotatusima:20191228185235j:plain

(道路を挟んで男潟を見る)

 

 金足高校の横を通りがかる。もうだいぶ暗い。グラウンドで運動部の掛け声が聞こえる。それにかぶさるように遠くからまだ鳥の鳴く声がしていた。追分駅から秋田駅へ向かい、乗り換えで少し待つ。屋外よりはマシだけれど秋田駅構内もなかなか寒い。新屋駅に着き、スーパーに寄って帰宅したのは19時ころだった。晩ご飯は質素におにぎりなど。食後に梅味の柿ピーを食べ、借りている布団にカバーを掛けた。隣室の作家が帰って来たようなので軽く挨拶だけした。明日設営してすぐ帰ってしまうのだという。22時就寝。

 

 

 ③へ続く・・・。

 

 

 

秋田日記① 2019.11.7. ~11.8.

f:id:kotatusima:20191228181001j:plain (宝塔寺五重塔スケッチ)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。

 滞在の成果は12月14日~22日に発表されました。

 この「秋田日記」にはがあります。よければ一緒にご覧ください。

 

 まず東京から秋田へ向けての出発から日記は始まります。

 

 

 

11月7日 東京から秋田へ

 

f:id:kotatusima:20191228181105j:plain(東京・新宿駅

 

・高速バス

 

 キャリーバックに荷物をまとめ22時45分頃に家を出た。駅ビルはもうクリスマスのイルミネーションが光っていた。帰宅するサラリーマンやOLに紛れて新宿へ向かう。22時過ぎに乗る電車は乗客と同じように薄汚れてどこか疲れた風に見えた。高速バスは23時30分に出発する。集合時間には間に合ったがバスのターミナル到着が遅れているらしい。時間を潰そうとツイッターを見ていると札幌の初雪の様子を何人かの知り合いが投稿していた。今年もまた冬がやってくる。ふと秋田の天気を携帯で調べてみようと思った。この先あまり良くはないようだ。「北日本は雪」という文字も目に入る。

 

 バスは定刻より10分ほど遅れて出発した。運転手の車内アナウンスも急いでいる風で早口に聞こえる。なんだか慌ただしい旅立ちになってしまった。くれぐれも焦らず安全運転をお願いしたいなぁと思いつつ目を瞑った。移動中、何度か目を覚ましたが一度もバスから出ることはなく、疲れもあってよく寝ることができた。

 

 

 

11月8日 秋田の第一印象と秋田市北前船の遺産

 

f:id:kotatusima:20191228181619j:plain秋田駅東口) 

 

秋田駅

 

 気がつくと翌朝7時半過ぎ、横手駅付近にいた(この駅には旅の最終日にまた来ることになる)。たぶん外気が相当冷えていたのだろう、カーテンの隙間からこっそり外を眺めようとしたら窓ガラスが曇って何も見えなかった。さっそく秋田の寒さを思い知らされた。バスは9時過ぎに秋田駅東口についた。下車して今回の企画のコーディネーターであるFさんに連絡をとる。駅に隣接するNHKの前で待っているとFさんがやってきた。今日は車で案内してもらって秋田市内の北前船に関する史跡をまわる。東口から車が停めてある西口へ移動する。どこの街の駅でもふたつ入り口があれば賑やかな方とそうではない方にはっきり分かれるものだが、秋田駅の場合は西口の方が賑やかなようだ。改札の前には竿燈や提灯、秋田犬の大きな作り物(しかも2種類ある)、なまはげの面などが並ぶ。観光客の多くがここで記念写真を撮るのだろう。私もつい写真撮ってしまう。

 

f:id:kotatusima:20191228181632j:plain秋田駅改札前のでっかい秋田犬)

 

 朝食がまだだったのでコンビニに寄って暖かいお茶とパンを買った。

 西口直結の商業ビルが12月からの私の発表場所になっているので、まず下見に向かった。ふつうのビルかと思いきや私が展示するフロアーは少し雰囲気が違い、子供向けの図書館や学生が勉強しに来る自習室、秋田公立美術大学の展示スペースなどがある。テーブルや椅子が置かれてお年寄りが休憩したり談笑するような一画で展示することになりそうだ。ここを行き交う人々からは思わぬ反応が得られそうだと思う一方、見栄えがしたり展示のために整っていたりする場所ではないというのは少し手間だと感じる。

 

f:id:kotatusima:20191228182123j:plain(車で官庁街を通る)

 

 10時半頃に秋田駅を出発した。助手席から秋田の街を眺めながら秋田の県民性についてどう感じるかFさんに尋ねた。Fさんと私は共に秋田出身ではない。そういう立場から秋田がどう見えるのか気になったのだ。Fさんによれば、秋田の人はまじめで勤勉。そして保守的であり企業のトップも高齢の男性が多く、若い人は仙台や東京に出て行くことが続いていたらしい。ただ最近は少し若い人が戻ってきて仕事を始めたりする動きもあるとのこと。また他の都道府県と比べるとナンバーワンとワーストワンが多く、偏差値や自宅自習率はナンバーワンだが大学進学率は低く自殺率が高い。また日照時間は短いらしい。今回の滞在でも秋田の曇りや雨の多さは感じることが多かった。

 

・宝塔寺、西来院、高清水公園

 

 一つ目の目的地の宝塔寺には寺の名前が示す通り石で作られた五重塔がある。11時頃、住宅の間の道を抜けると「五重塔」の看板があった。車を停め、突き当たりにある山門をくぐる。門の脇にはお題目を掘った石がいくつかあり日蓮宗の寺だとわかる。仁王像は最近塗られたらしく剥げが見当たらないが像そのものは元禄頃まで遡る。坂を登って行くとお堂があり日蓮上人の銅像があった。傍に目をやると、墓石と並んで古い芭蕉の句碑もあった。さらに坂を登ってみると日蓮宗の守護神である「七面天女」やお稲荷様の小さい社があったのでお参りする。妙見菩薩の石像もあった。このあたりに石塔はないようだった。「五重塔」の看板があったところまで引き返し、看板の矢印に従って道を進むと右手に林の中へ続く細い坂道があった。木の間を抜けると視界が開け色づいた木々を背景にやや黄色がかった石塔が姿を現した。その光景にはっとさせられた。塔は高さ約9メートルあり、秋田市指定文化財になっている。

 

f:id:kotatusima:20191228182749j:plain(宝塔寺にて)

f:id:kotatusima:20191228182807j:plainf:id:kotatusima:20191228181652j:plain(宝塔寺五重塔) 

 

 近くには十字架が彫られた在日コリアンの慰霊碑もあり漢字ハングル混じりの碑文が彫られていた。ここで1時間くらい石塔の絵を描いた。一説によればこの石塔は土崎湊に来航した西国の船がこの寺院の守護神である七面大明神に祈ったために難波を逃れたお礼として大阪から船で運んで奉納したものだそうだ。まさにさっき拝んだ七面天女がきっかけで建てられたということになる。Fさんと、これからの旅の良い安全祈願になりましたねなどと話す。

 

 12時過ぎにすぐ近くの西来院へ向かった。門の左右には「庚申」「善光寺如来」などと彫られた石碑がゴロゴロしていた。ここには「三輪弥三郎」という能代の船頭が遭難して死んだ船員を供養するために彫ったという羅漢像がある。建物の中に入ると廊下の左右の壁の上の方に棚が設けられ二段になってずらっと並んでいた。30分くらい簡単にスケッチした。

 

f:id:kotatusima:20191228181959j:plain(西来院)
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 12時50分ころ高清水公園へ向かう。秋田城跡の横の駐車場に車を停める。秋田城は奈良時代から平安時代にかけておかれた地方官庁であり北方との交易・交流も担う重要な施設だったらしい。地図を見ると秋田護国神社の近くに目的の五輪塔はあるようだ。社務所で道を訊くと神社の裏手にあると教えてくれた。神職の方はなんだかいぶかしげで私が五重塔五輪塔を勘違いしているのではないかというような口ぶりだった。たしかにここまでわざわざ五輪塔を見に来る人は希だろう。五輪塔はたしかに神社裏手のまばらに松が生えた空き地にあった。球が少し下膨れでかわいらしい形をしている。2メートル以上はありそうだ。ここは少し高台になっているようで、近くの林の間からは眼下に土崎港と風車が見える。ここで13時45分ころまで絵を描いた。雨は降らないが晴れたり曇ったりして不安定な天気だ。

 

f:id:kotatusima:20191228182718j:plain護国神社裏手の空き地)
f:id:kotatusima:20191228181859j:plainf:id:kotatusima:20191228181831j:plain五輪塔付近から土崎港を見る)

 

・昼食と土崎港、大学

 

 ここで遅めの昼食にする。Fさんが「そばと定食どちらがいいですか?」というので定食屋にした。着いたのは14時過ぎ。定食屋だが蕎麦の製麺もしているらしい店だった。僕はかつ丼(730円)と、そばだんご(三つ入り、310円)を買ってみた。そばだんごというのは初めて聞く名だ。食べてみるとおはぎの中身がそばになっているようなお菓子だった。

 

f:id:kotatusima:20191228182108j:plain(そばだんご) 

 

 お腹を満たして土崎港の方へ向かう。14時30過ぎに金刀比羅神社に着いた。小さな境内には立派なイチョウの木があって、駐車している車の屋根にも銀杏がいくつか乗っかっていた。この神社は福井県から北前船が運んできた「笏谷石」という緑がかった石で作られた狛犬を所蔵していて、参道の石も笏谷石だという。社殿の柱についている象の彫刻が大きく扁額も大きかったのが印象的だった。

 

f:id:kotatusima:20191228182612j:plain金刀比羅神社f:id:kotatusima:20191228183927j:plain(木鼻の象)
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(笏谷石らしき石畳)

 

 15時頃、土崎みなと歴史伝承館へ。昨年春に開館したばかりの施設できれいだった。「日本遺産」の幟があった。入ってすぐ大きな北前船の模型が目に入る。またここではタッチパネルで「秋田街道絵巻」(荻津勝孝作、寛政年間)を解説付きで見ることができる。先ほど訪れた五輪塔も絵巻に描きこまれていた。江戸時代は周囲からよく見えランドマーク的存在だったのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228182236j:plain(土崎みなと歴史伝承館)
f:id:kotatusima:20191228182330j:plain(「秋田街道絵巻」部分)

 

 隣の部屋には土崎神明社祭の山車である曳山が展示され、大きなモニターではユネスコ無形文化遺産に登録されている祭りの様子が流れている。曳山で特徴的なのは、豪傑や名将の人形が載っている反対側に、世相を風刺した文句が書かれた「見返し」と呼ばれる飾りがあることだ。この「見返し」は審査され毎年グランプリが決まるという。15時半ころまで見学し、港へ向かう。

 

 「道の駅あきた港」にある地上100メートルの展望台に登った。白神山地男鹿半島鳥海山などを眺め、大まかな秋田の地形をイメージした。沿岸にはずらっと風力発電のための風車が並んで立っていた。だんだん日が落ちてきた。

 

f:id:kotatusima:20191228182338j:plain(「道の駅あきた港」)
f:id:kotatusima:20191228182343j:plain(展望台を見上げる)f:id:kotatusima:20191228182431j:plain(展望台からの眺め、南方。左手が高清水公園

 

 まだ少し時間があったので、16時頃に予定にはなかった虚空蔵尊堂へ行くことにする。幔幕に扇が描かれているのは佐竹家と関係があるのだろうか。丘の上に建てられたお堂の脇には煤で黒くなったような色合いの灯篭が二基あった。ここでは常夜燈を灯して船からの目印にしていたらしい。民家がなければ、以前はもっと見晴らしが良かっただろうと話した。階段の下に置かれた手水鉢は自然の石をそのまま残しているような変わった形をしている。側面には船乗りたちの名前がびっしり彫られている。手水鉢のすぐ横には曲がりくねった松が生えていて枝が電線に触れていた。16時半頃に大学へ向かう。だいぶ暗くなってきた。

 

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(虚空蔵尊堂の灯篭)

f:id:kotatusima:20191228182629j:plain(虚空蔵尊堂から港を見る)f:id:kotatusima:20191228182702j:plain(虚空蔵尊堂参道前の手水鉢と松)

 

 途中、秋田市立体育館の横を通りがかった。この異様な建物は秋田県仙北郡角館町(現仙北市)出身の渡辺豊和(1938〜)による設計。すぐスマホで調べると、私が以前北海道で見た「上湧別町ふるさと館」も同じ設計者によるものだった。

 

 16時45分頃から17時過ぎまでFさんの案内で秋田公立美術大学を見学した。元は米倉として使われていた建物を利用しているのはさすが米どころ秋田らしい。都市部の美術大学と違いさまざまな専攻の学生が小規模なキャンパスにいるところは私が北海道で通っていた大学と似ていて親しみを覚えた。ストーブを借りて、17時半頃に大学近くの滞在施設までFさんに送ってもらった。滞在中は基本的にここに寝泊まりする。僕が割り当てられた部屋は畳敷きの和室で立派な床の間がある。小さい棚には蕗を持った「秋田おばこ」の人形が置いてある。荷物を広げ家の中を見て回る。トイレの電気がなかなか見つからなかったり、ストーブを倒して中に入っていた水をこぼしたりしたが、なんとか問題なく生活はできそう。

 

f:id:kotatusima:20191229185116j:plain(秋田おばこ) 

 

・Kおばさんの家

 

 この日は秋田市内に住む「Kおばさん」の家に泊めてもらうことになっていた。荷物をまとめて新屋駅から電車で秋田駅へ向かう。電車のドアボタンは開くボタンと開かないボタンがあるらしく、2両のうちの前の車両しかドアが開かなかった。僕が並んでいたドアは開かないドアだったらしく、おじさんのあとに並んで待っていたら、横のドアからずらずらと学生が乗っていった。慌ててその後ろに続いて乗り込む。窓の外は暗くて電灯はぽつぽつと見えるが他はなんにも見えない。建物の形や街の姿がわからない。

 18時半、Kおばさんが秋田駅まで車で迎えにきてくれた。Kおばさんは私の父の従姉にあたる人で、会ったのは十数年前の私の祖父の葬式以来だった。当時私はまだ中学生だった。それでもお互いなんとなく顔を覚えていた。

 秋田に来る前にKおばさんとは電話で話していて、今朝秋田に着いてからもすぐ電話したのだった。私が今回、「佐藤家」のルーツについて調べたくて秋田に来たという旨も伝えてある。家に着くまでの車中でも、早速私の曾祖母である「お千代さま」の話などを聴かせてくれた。「お千代さま」の生家は、「さま」をつけて呼ばれるくらい裕福な造り酒屋で弘前藩の御用を務めていたこと、鷹巣の佐藤家に嫁に来たのは東京の親類のところへ行こうとした途中にどういうわけか鷹巣で下車したのだろうということなど。

 夕食はKおばさんのご家族と一緒にいただいた。畑で採れた大根をつかったサラダがおいしかった。少しビールをもらって談笑した。

 食事のあと、Kおばさんがたくさんのアルバムと古い写真を出してきた。Kおばさんの母であり、私の祖父の姉(私にとっては大叔母)のアルバムを整理して大事に持っているのだという。この時、僕ははじめて自分の曽祖父の晩年の写真を見た。北海道の室蘭で行われたという私の曾祖父の葬式の写真や、おそらく私の家にはない祖父母の結婚式の写真があった。Kおばさんはこれらの写真を私にくれた。私にとっては何にも代えがたいものだ。後から私の父が言うには引っ越し途中に家財道具一式を盗まれたことがあり、そのせいで家に古い写真がないのだという。もし祖父母が生きていれば、目を細めてこれらの写真を眺めただろう。

 もちろん写真に写っているのは私が知らない人ばかりだ。それぞれの写真にまつわる話をKおばさんの秋田弁でずっと聴いていると、なんだか僕も秋田の人間になったような気持ちになってくる。私が秋田弁に親しみを覚えたのは、北海道弁と秋田弁に共通する部分があるからだろうが、祖父の秋田弁が父の北海道弁を通して私にも隔世遺伝のような形で伝わっているのかも、とぼんやり思ったりした。私が方言を使うとき、もちろん意識せずに方言を使ってしまう時もあるけれど、例えば実家に帰った時などしばしばそれを選び取っている意識がある。方言を用いる時、いつも自分が何者か確かめているような、探っているような、そういう気持ちになる。他の都府県民に対してはアイデンティティを誇示し、また北海道に対する反応(それは「田舎者」に対する嘲笑の時もある)を試すために、そして北海道民に対しては仲間意識を表すために方言を使っているのかもしれない。

 

 シャワーを借りて、布団の中で菅江真澄の本を読んでいたら、いつのまにか寝てしまっていた。

 

 

 

②へつづく・・・。

 

 

 

秋田日記 序

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 この「秋田日記」は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。

 この企画では、①北前船平福穂庵・百穂のアイヌ絵③佐藤家 という3つのテーマについて調べ、秋田と北海道との繋がりについて探り、考えました。

 以下の文章は序、プロローグです。SPACE LABOのコーディネーターであったFさんに向けて送ったメールの内容になります。

 

 

 

2019.11.6.

 

Fさん

 
 お疲れ様です。SAPCELABO、いよいよ始まりましたね。フェイスブックで情報拝見しました。お忙しいとは思いますが、プロローグとして僕がいままでやってきたリサーチの下調べについてご報告します。

北前船について
 
 まず「日本遺産・北前船」のサイトを見ました。このサイトによれば秋田県内で北前船関連文化財があるのは、能代市男鹿市秋田市由利本荘市にかほ市です。文化財の内実としては、狛犬や灯篭、船絵馬、日和山船乗りが天候を判断する山)が多いようです。ここから、各市町村の観光課や教育委員会文化財担当部署に公開状況について問い合わせたりしました。「日本遺産・北前船については各市町村のホームページでも載せている情報がバラバラで、メールの返信の有無も、返信の速さも、教えてくれる内容の親切さもまちまちでした。立派なサイトがあるにも関わらず細かい所在地や公開状況すらよくわからない現状ではサイトにあるような「北前船トラベル」をしようと思うような観光客はほとんどいないだろうというのが正直な感想です。
 今回は日程を長くとったのでほとんどの市町村で博物館や文化財を見ることができそうです。能代市由利本荘市ではガイドさんをお願いしているので、ホームページでは得られないようなその場所で暮らしてきた方ならではのお話が聴けそうで、特に楽しみです。また、にかほ市戸隠神社由利本荘市の宮下神社、松ヶ崎八幡神社能代市向能代恵比寿神社稲荷神社は宮司さんや総代さんに船絵馬など文化財を見せていただけることになりました。タイミングいいのか悪いのか、上記の神社のいくつかは所蔵品を秋田県立博物館の企画展「北前船と秋田」に貸しているらしく、現地で見られないのが少し残念です。それでも、船絵馬などが奉納された現場に行って、どのような場所なのか見てくることには少なくない価値があると思います。
 また、いま気になっているのは「日和山」です。船乗りが天候を判断する丘のような場所で、港に近く見晴らしがよい場所なのでしょう。各地の「日和山に立って、そこから見える景色はどのようなものなのか。どう違うのか。
 ひとまず今回の滞在では、まず早い段階で企画展「北前船と秋田」を見、北前船について全体の概要を掴みます。それから各地に行ってその場所場所の北前船の痕跡を見てくるようなつもりです。
 文献としては、
北前船と秋田 (んだんだブックレット)」(加藤 貞仁著、無明舎出版、2005年)
北前船おっかけ旅日記」(鐙 啓記著、無明舎出版、2002年)
 を読んでいるところです。
 
 

平福父子について

 平福穂庵(1844~1890)、平福百穂(1877~1933)は角館出身の日本画家の親子ですが、二人とも北海道を訪れてアイヌ民族を描いています。その理由はなんなのか。

 まず文献を調べました。
・「平福百穂アイヌ』の周辺」(山田伸一著、北海道開拓記念館研究紀要、2015年)
・「北海道の平福穂庵」(加藤昭作著、「北域」第三十八、第三十九号)
が見つかりました。「平福百穂アイヌ』の周辺」では百穂がアイヌを描いたわけや描いた場所について考察され、「北海道の平福穂庵」には穂庵の渡道の詳しい経緯や函館での生活、函館でアイヌ絵を描いた平澤屏山との関係について書かれていました。

 ちょうど11月半ばからは秋田県立近代美術館平福穂庵の展示が開かれるタイミングであり、また仙北市角館町平福記念美術館にも行こうと思っていたので、「平福父子の作品になぜアイヌが描かれたのか」「平福父子の北海道滞在はそれぞれどのようなものだったか」学芸員の方に訊いてみています。

 なんとなくポイントとなりそうなのは、平福父子の二人とも、きちんと(?)北海道に来て取材を経てから「アイヌを描いていることです。アイヌを見ずに粉本などに拠って「アイヌ」を描くことも一応はできたはずなのにです。
 と、ここまで書いて、自分がまだ平福父子の作品をほとんどみたことがないことに改めて気がつきました。今回は秋田県立近代美術館アイヌを描いた作品の出品もあるそう)仙北市角館町平福記念美術館で、じっくりと作品を眺め、二人の故郷の角館にも行ってみて、そこから平福父子と北海道・アイヌとの関係について考えてみたいと思います。
 学芸員の方からは「評伝 平福百穂」(加藤 昭作 著、短歌新聞社、2002年)を教えていただいて入手しましたが、まだ読めていません。

③佐藤のルーツについて
 
 秋田市にいる私の父のいとこに電話で連絡しました。父のいとこ「Kおばさん」は、私の祖父母にむかしお世話になっていたといい、話したのは私が中学生だったころにあった祖父の葬式以来でした。

 私の父は「佐藤のルーツは大館とか鷹巣とか秋田の北の方らしい」佐藤の先祖は昔大きな農家か米問屋をやっていたが借金の肩代わりをしたり騙されたりして没落したらしい」くらいのことしか知らなかったし、そもそもそういうことに興味がない人なのですが、Kおばさんはわりあいそういうことが好きな人のようで、高祖父の父の名前まで知っており、電話口で簡単に話してくれました。

 私の高祖父「佐藤よねぞう」(米蔵?米造?)は、勤勉で優しい人で、鷹巣ではじめて機械式?の精米機を導入して繁盛した米問屋だったが、やはり借金の肩代わりなどをして没落し、満州に渡ることになったこと。高祖母「佐藤ちよ」は、弘前藩御用達の造り酒屋の娘で「おちよ様」とよばれるような令嬢で、その弘前の家からは東京にでて新聞社をつくるような人も輩出していること。高祖父の父「佐藤とりのすけ」(酉之助?)は、佐藤の本家に当たる人で、働かない人だったが高祖父「よねぞう」はそんな父も大事にしていたこと。佐藤の本家は現在の北秋田市小森にあったらしいが、跡を継ぐ人はなく家屋などもないこと。唯一、鷹巣に佐藤の親戚筋のひとが一人だけいること。

 Kおばさんはだいたいこのような内容を教えてくれました。先祖に興味のない私の父が知っていたくらいなので、「米問屋で没落した高祖父」の話は佐藤家の歴史として欠くべからざるエピソードなのでしょう
 Kおばさんから、私の知っていることは全部話す、一度泊まりにおいで、鷹巣にも連れて行ってあげる、と言っていただいたので、滞在中に行ってこようと思います。
 今は、先祖の顔を想像してドローイングを描いたりしています。それから、北秋田市から古い戸籍を取り寄せているところなので、それが届けばまた何かわかるでしょう。
 
 そのほか、文献としては
菅江真澄と秋田 (んだんだブックレット)」(伊藤 孝博著、無明舎出版、2004年)
秋田藩 (シリーズ藩物語)」(渡辺 英夫著、現代書館、2019年)
に目を通したところです。

 以上、それぞれ①、②、③のテーマで個展でもできそうな濃厚な内容になってきたと感じていますが・・・。
 無理にまとめる必要もないとは思いますが、現実問題として展示が控えているわけで、ひとまずの落としどころをさぐりながら、秋田をうろうろしようと思います。

佐藤拓実
 
 
 
 
 
 
・2019.11.08~11.18. 秋田滞在スケジュール
 
・11.07.東京を出発 深夜バスで秋田へ
・11.08.秋田市 宝塔寺、西来院、高清水公園、昼食、土崎みなと歴史伝承館、
 土崎港、道の駅あきた港、虚空蔵尊堂、大学、Kおばさんの家
・11.09.秋田市 秋田県立博物館「北前船と秋田」、小泉潟公園
・11.10.由利本庄市 松ヶ崎八幡神社
 秋田市 スペースラボツアー
・11.11.能代市 向能代稲荷神社・恵比寿神社、北萬、風の松原、はまなす展望台、
 日和山方角石、紙谷仁蔵の墓、八幡神社、金勇
・11.12.にかほ市 沖の棒杭、象潟郷土資料館、戸隠神社、古四王神社、物見山
・11.13.由利本荘市 由利本荘郷土資料館、
 にかほ市 金浦湊(日枝神社、方角石)、高昌寺、三王森の方角石、
 丁刄森の方角石、仁賀保勤労青少年ホーム(恵比寿森の方角石)、飛良泉本舗
・11.14.男鹿市 なまはげ館、真山神社、田沼家土蔵、戸賀八幡神社、寒風山展望台、
 道の駅、秋田県立図書館
・11.15.由利本荘市 宮下神社、本荘八幡神社、石脇湊、アクアパル、
 由利本荘市文化交流館
 秋田市 Kおばさんの家
・11.16.北秋田市 鷹巣町立図書館、大太鼓の館、Tおばさんの家、お寺、米屋跡、
 一番古い本籍地
 秋田市 Kおばさんの家
・11.17.仙北市 唐土庵、平福記念美術館、石黒家、角館樺細工伝承館、天寧寺裏山、
 学法寺、神明社、安藤醸造、伝四郎
・11.18.横手市 中山人形の工房、秋田県立近代美術館秋田ふるさと村
 秋田駅前から深夜バスで東京へ
・11.19.早朝 東京着
 
 
 
 
 
 
 

備忘録・2019年前半 行った展示など

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(町田市立国際版画美術館・特に内容には関係ないです)

 

 2019年前半 行った展示などの備忘録。

 

  改めて見てみると、行きたかった美術展はおおむね行けていて満足。しかし何年たっても思い出すような自分にとって重要になりそうな展示はほぼなかった。また美術展に行けたかわりに映画や演劇の類は全く見れていない。本もほとんど読めていない。情けない。

 

 印象深い美術展を挙げていきたい。

 まず、マイケル・ケンナ展(東京都写真美術館)。マイケル・ケンナの作品は札幌で見て以来大ファンだったので見られてよかった。無意識にひいき目に見てしまっているのだと思うが、北海道を撮った作品群が特によいと思った。

 「闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s-2010s」(アーツ前橋)は、アジア各地で用いられてきた木版画を俯瞰する試み。現在進行形の運動で横断幕などに使われている木版画を見ると、美術館に飾られているだけの作品は霞んで見えてしまう。

 「美しいぼろ布展 ~都築響一が見たBORO~」(アミューズミュージアム)は、施設閉館を耳にして急遽行った。貴重な資料を見られてよかったのだが展示が安っぽくお粗末だったので、今後はもう少し改善してほしい。 資料がかわいそうだ。

 「二人のカラリストの出会い デイビット・ホックニー 福田平八郎」(THE CLUB)は全体で20点もないほどの小規模な展示だったが、その手があったか!と思わせるような組み合わせの妙で印象に残った。こういうのをキュレーションというのではないかと思った。

 「ハーヴィン・アンダーソン They have a mind of their own」(ラットホールギャラリー)は、内容的に北海道出身の自分に重なる部分があり、興味深かった。植民地出身であるということ、そこから絵を描くということ、とは。

 「志賀理江子 ヒューマン・スプリング」(東京都写真美術館)は、志賀さんにもともと興味があったので念願だった。「螺旋海岸」を初めて見たときの衝撃には及ばないが、ネットで怖い話を読んだ時のような恐怖感というか、禁足地に入ってしまった時に化け物に出会った時の感情というか・・・そういう何とも言えない感じの写真は相変わらずよかった。。凝った会場構成も楽しめた。

 「六本木クロッシング2019:つないでみる」(森美術館)や、東京都現代美術館 リニューアルオープン記念展は、思っていたより面白くなかった。

 

 寺社はあまり行けなかったが、鷽替えは行き過ぎるくらいに行ってしまった。武蔵御嶽神社や上岡観音絵馬市、深大寺だるま市は行ってよかった。

 

 2019年前半に見た展示などは以下の通り(なお、見て面白くなかった展示や通りすがりに詣でた寺社などはメモしていない)。

 
1月

 

3日

東京国立博物館 「博物館に初もうで」

寛永寺根本中堂(特別拝観徳川15代将軍肖像画

・平河天満宮

・新井天神北野神社

6日

・武蔵御嶽神社

15日

・BLUM&POE 「ヒュー・スコット・ダグラス」

・AKIO NAGASAWA 青山 「オロール・ドゥ・ラ・モリヌリ 『オマージュ・ア・アライア』」

・MISA SHIN GALLERY 「高山明 マクドナルド放送大学

20日 

東京藝術大学 横浜校地 元町中華街校舎 「東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻 修士課程修了制作展」

全労済ホール スペース・ゼロ 「赤城修司 個展 Fukusima Traces,2018」

22日

東京都写真美術館  マイケル・ケンナ

 24日

亀戸天神 鷽替え

25日

五條天神社 鷽替え

湯島天神 鷽替え


2月

 

2日

・アーツ前橋 「闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s-2010s」 

・nap gallery 「露口啓二 『自然史』」

11日

・世田谷文化生活情報センター 生活工房「新雪の時代-江別市世田谷の暮らしと文化」

14日

東京国立博物館顔真卿

15日

・メゾン・エルメス 「ピアニスト 向井山朋子

16日

・小金井アートスポットシャトー2F 「『35th parallel north 』」

・パープルームギャラリー 「オブジェを消す前に 松澤宥 1950-1960年代の知られざるドローイング 」

・salon 文家 「exhibition49」

17日

岡本太郎記念館 「弓指寛治 『太郎は戦場へ行った』」

・TAV gallery 「高田冬彦&仁藤建人 『不可能な人』」

18日

・ギャラリーエークワッド 「木下直之全集ー近くても遠い場所へー」

19日

・上岡観音 絵馬市

・原爆の図丸木美術館 「原田裕規 写真の壁」

20日

名古屋市美術館 「辰野登恵子 ON PAPERS」

碧南市藤井達吉現代美術館「佐藤玄々(朝山)展」

25日

国立新美術館美大

国立新美術館「21st DOMANI 明日展

 30日

・志茂熊野神社


3月

 

1日

YUKI- SIS 「菊池史子個展 “TELLING A STORY” 」

3日

深大寺だるま市

9日

日本民藝館柳宗悦の『直観』」

・四谷未確認スタジオ  「中川元晴個展『おとなしいファンクション』」

東京国際フォーラムアートフェア東京

・ギャラリーFREAKOUT 「ドリル3」

14日

ヒルサイドフォーラム「もの・かたりー手繰りよせる言葉を超えて」

・ギャラリーなつか 「阿部智子 what's floating?」

15日

・KEN NAKAHASHI 「佐藤雅晴 死神先生」

21日

埼玉県立近代美術館 「インポッシブルアーキテクチャ

23日

・TOKAS hongo 「霞はじめてたなびく」

26日

・photographersgallery「大友真志 Mourai」

28日

・EUKARYOTE 「ユアサエボシ プラパゴンの馬」

29日

アミューズミュージアム 「美しいぼろ布展 ~都築響一が見たBORO~」

上野の森美術館VOCA展2019」

・kanzan gallery 「山霊の庭 野村恵子」

30日

・THE CLUB 「二人のカラリストの出会い デイビット・ホックニー 福田平八郎」

 


4月

 

3日

・Gallery蚕室 「五福文様展」

11日

日本橋三越本店 「久松知子絵画展」

13日

・メゾンエルメス「うつろひ、たゆたひといとなみ 湊茉莉展」

14日

松屋銀座デザインギャラリー1953 「菅俊一展 正しくは、想像するしかない。」

15日

・ギャラリーアーモ 「櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展」

17日

東京国立近代美術館 「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」

19日

東京造形大学 助手展

21日

・THE CLUB「コア・ポア Returnee」

・銀座蔦屋書店 ARTPARTY2019.04 「磯村暖『わたしたちの防犯グッズ』」

24日

東京都写真美術館志賀理江子 ヒューマン・スプリング」

東京都写真美術館「写真の起源 英国」

25日

・佐藤美術館「TOHOKU CALLING」

・GalleryK「大地と人と街 西村卓 安田萌人」

26日

・北海道立近代美術館 「相原求一朗 の軌跡 ー大地への挑戦ー」

・北海道立近代美術館「近美コレクション 風雅の人 蠣崎波響展」

・北海道文化財団アートスペース「葛西由香 201号室、傍らの些事」

28日

市立函館博物館「描かれたアイヌ 市立函館博物館所蔵資料に見るアイヌの姿」

 


5月

 

1日~10日

・恩根内滞在制作

10日

・salon cojica 「大橋鉄郎個展 いえい、頑張っていこうよ。」

11日

・札幌芸術の森美術館「砂澤ビッキ 風」

・本郷新記念札幌彫刻美術館「砂澤ビッキ 樹」

・書肆吉成GATEギャラリー「露口啓二 写真展」

18日

・ファーガスマカフリー「白髪一雄」

・ラットホールギャラリー 「ハーヴィン・アンダーソン They have a mind of their own」

・ヴォイドプラス「田口和奈 エウリュディケーの眼」

・NEWLD Cassette tapes & Arts. 「RETRO MACHINISM」

・美術愛住館 「アンドリュー・ワイエス

23日

・LOKO gallery 「加茂昴 境界線を吹き抜ける風」

24日

・神奈川県立歴史博物館「横浜浮世絵」

・横田茂ギャラリー 「山口勝弘 日はまた昇る

25日

森美術館六本木クロッシング2019:つないでみる」

・OTAFINEARTS「アキラ・ザ・ハスラー+チョン・ユギョン『パレードへようこそ』」

ニコンTHEGALLERY新宿「北島敬三 UNTITLEDRECORDS2018」

 
6月

 

1日 

・二人展「天塩川 鼎談」に参加 

12日

川村記念美術館ジョゼフ・コーネル コラージュ&モンタージュ

14日

東京都現代美術館 リニューアルオープン記念展

20日

・町田市立国際版画美術館 「ーTHE BODYー 身体の宇宙」

・パープルームギャラリー 「韓国からの8人」

26日

東京大学総合研究博物館 「愛で、育て、屠る 家畜」

日中友好会館美術館 「金山農民画展 中国のレトロ&ポップ」

・銀座ヒロ画廊 「ヴァシリス・アブラミディス新作個展『Host』」

・銀座メディカルビル 「ティンリン個展 ロンジー・プロジェクト」

29日

・株式会社数寄和「ホリグチシンゴ vapor under the city」

  

 

 

(終)

 

 

ー東京で北海道を探すー「新雪の時代ー江別市世田谷の暮らしと文化」見学レポート

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 北海道札幌市の隣町の江別市には「世田谷部落」と呼ばれる集落がある。なぜ東京の世田谷区と同じ名前の集落があるのだろうか。その集落はいつどのようにできたのか。そこに住む人々の暮らしはどうなっているのか…。

 

 世田谷文化生活情報センター生活工房では「新雪の時代ー江別市世田谷の暮らしと文化」と題して2019年1月26日~3月10日まで、この「北の世田谷」について展示が行われていた。私は集落の存在こそ聞いたことがあったが、その形成の経緯や実際の暮らしなどはよく知らなかった。主に暮らしの中の文化的側面にスポットを当てており、小規模ながらよくまとまって見やすい展示だった。行った日はちょうどレクチャーがあって戦中の集団移住の概要を知ることもできた。

 

 

 

※以下の文章の事実関係等は特に断らない限り会場の掲示物を参考にした。

 

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 会場はこんな感じ。

 

 「北の世田谷」こと世田谷部落(※「部落」という言葉は北海道では差別的意味を持たず集落とほぼ同じ意味で使われているため、以下それを尊重して使用する)は、1945年7月に食糧増産を目的とする「拓北農兵隊」として東京都世田谷区から33世帯が入植したことに始まる。エノケン一座の役者や音楽家、大学講師などさまざまな肩書きを持つ人々が農耕に適さない泥炭地を切り拓いていった。今回の展示は新聞記事や入植者による証言、機関誌『新雪』に関する資料、世田谷部落開拓2世の山形トムさんの絵画作品などを通して歴史を辿るものだ。

  

 

  

 ◯「北の世田谷」ができるまで

 

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 (左、会場入り口のあいさつ文 右、世田谷区民の入植をモチーフにした演劇のポスター)

 

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 (会場に掲示されたパネル)

 

 太平洋戦争中の1942年、初の日本本土空襲であった「ドーリットル空襲」以降、次第に空襲は激しさを増すばかりとなり、1945年3月の東京大空襲の2ヶ月後、5月25日と26日には世田谷を含む山の手エリアで空襲があった。世田谷区役所庁舎もこの時焼失したといわれる。都市部の戦災者たちは行き場をなくし食糧の確保も問題視されるようになった。

 それを解決するために、戦災者を集団で北海道に帰農させる計画が進められることとなった。1945年5月に「北海道疎開者戦力化実施要綱」が次官会議で決定、衆議院議員であり「日本酪農の父」と呼ばれる黒澤酉蔵らによって意見書も提出された。当時の帰農者募集の新聞記事には、移住地までの鉄道運賃無料、住宅の用意や食料の配給制度など好条件が見て取れる。この帰農者たちが後に「拓北農兵隊」と呼ばれることになる。

 拓北農兵隊の第一陣の出発は1945年7月6日。壮行式では東京都長官や開拓協会会長の千石興太郎(のち農商相)、町村金吾(北海道出身、当時警視総監、のち北海道知事など)の激励や、歌手による「拓北農兵隊を送る歌」の歌唱まであった。拓北農兵隊は入植先ごとの地名で呼ばれ、世田谷区民33世帯は江別隊と呼ばれた。終戦後も「戦後緊急開拓事業」に引き継がれるまで空襲被災者の帰農は続き、1945年7月から11月までの間で3400戸17000人の移住と帰農が行われたという。移住者の記録を見ると、電気や都市ガスのある生活から皿に油を入れて火を灯す生活になったなどと書かれており、北海道各地への短期間での急激な入植は世田谷区民の移住に限らず大変な混乱と労苦を伴うものだったろうと想像できる。

 江別隊が野幌駅に到着したのは7月9日、無事に現地の農家に迎えられた彼らだったが新聞広告で謳われていた住宅の用意はされておらず、牛舎の2階を借りて原始林から伐採した材木を往復20キロの道のりを運んで家を建てるところから始めなければならなかった。一か月後の8月15日には終戦。入植希望者の半数以上は東京に帰り、18世帯が「世田谷」に残った。

 

 この世田谷区民の入植をモチーフにした劇団「川」による公演「北の世田谷物語」のポスターも展示されて、記録映像が流れていた。ポスターには副題のように「落武者たちの記念日」とある。確かに世田谷区民は戦争で都を追われ、地方に逃げてきた者たちであっただろう。しかし、彼らは落武者なのか?と思った。この呼称が彼らの自称なのだとすれば、そこに彼らのおかれた境遇と独特のアイデンティティが読み取れるかもしれない。

 

 

 

 ◯機関紙『新雪

 

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 機関紙『新雪』が創刊されたのは1947年1月31日。この時期は移住後の生活もひと段落した頃だったのだろうか。発行者は当時17〜19歳の若者たちによるグループ「世田谷青年会」で、内容は随筆、評論、俳句に加え挿絵までついていた。最初は手書きの原稿を綴じたものだったが1949年にはガリ版刷りになり、のち1950年の休刊を挟んで1952年に『緑原』と改題復刊、1955年に『新土』と改題され継続された。『新雪』自体も息の長い活動だったようだが他にも句誌や文芸誌が作られたというから、このような同人誌的活動がとても盛んだったことがうかがえる。会場のパネルには以下のような言葉があった。

 

 ー進歩が終わったときは退歩のはじまりだと。我々は常にこの言葉をかみしめ、機関紙を中心にお互いを物質文明に恵まれないこの原野の心のよりどころとし、助け合い励まし合い、苦しみ合って教養をつんで行きたいと思ふ。ここに土に立脚した完全なる文化人が生まれ、その結合は理想的文化郷となるであらう事を確信するー

(愚生「所感」『新雪』1949年1月号p4より)。

  

 都市での暮らしから原野を切り開く暮らしに変化する中で文学や文芸が必要とされたことが興味深い。

 また、青年会の中では宮沢賢治が紹介され、その思想に共感、理想郷「イーハトーヴォ」を「北の世田谷」の地に投影していたことも指摘されていた。

  

 

 

 ◯「北の世田谷美術館

 

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(会場解説パネル)

 

 北の世田谷美術館は、入植2世の山形トムさん(1934〜)が作った私設の美術館。トムさんは1970年頃から絵画教室や江別の美術団体をきっかけに農業や酪農のかたわら絵を描き始めた。牛舎を改装し自身の作品など80点を飾った美術館のオープンは1996年。残念ながら2015年春に火事で焼失、建物だけでなく多くの作品や開拓当時の資料も失われたが、アトリエに保管されていた絵画があり2015年8月には一時的に再開館も果たした。本展で展示されている絵画はアトリエで焼失を免れた絵画7点と世田谷区が所蔵する2点だ。

 

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 (左、トムさんのアトリエの写真 右、パレットや短冊)
 

 以下、作品を紹介。

 

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「馬耕」92.0×147.0 油彩、パネル 制作年不詳

 

ブラウという農機具を馬に引かせている。北海道の開拓初期に使われた道具だが世田谷では1960年頃まで使っていたという。

 

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「家畜ビート」94.7×123.0 油彩、カンヴァス 1977(昭和52)年

 

 北海道の畑作の基幹作物であるビートを栽培する様子。

 

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「ブルドーザー」130.5×162.0 油彩、カンヴァス 制作年不詳

 

1961年に酪農機械利用組合が発足、馬耕からトラクターの利用へ移行していった。本作は牛馬への愛着と同様の視点から描かれたという。

 

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「夕暮」91.0×117.0 油彩、カンヴァス 制作年不詳

 

石狩川を背景に糸杉が立ち並び、奥には王子製紙の煙突が見える。付近の代表的な景観である。

 

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「羊群」38.0×45.5 油彩、カンヴァス 2016(平成28)年

 
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「夕暮」38.0 ×45.5 油彩、カンヴァス 1979(昭和54)年頃か

 

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「入植記念日10周年」130.0×162.0 油彩、カンヴァス 制作年不詳

 

 入植10周年記念日に撮られた写真を元にしている。右端にいるのは山形トムさんの父の山形凡平さん。

 

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「風雪」130.0×162.0  油彩、カンヴァス 制作年不詳 世田谷区所蔵

 

 

 地方と都市の関係や暮らしと文化の関係について考えるのに興味深い展示だと思った。 

 ②へ続く?…