こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記⑤ 2019.11.12.

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(髷絵馬 象潟金刀比羅神社所蔵)


 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

 ④のつづき。

 

 

 

11月12日 象潟の船絵馬と髷絵馬

 

・象潟へ

 

 6時起床、身支度を済ませて駅へ。ちょうど朝日が登ってくるころで、だんだん明るくなってくる。駅には余裕をもって電車が出る10分前についた。7時ころ、羽越本線酒田行きに沢山の学生たちと乗り込む。小雨がぱらついているのだろう、電車の窓に水滴がついていた。外は曇り空で時々雲の切れ間から日が射している。一昨日来た松ヶ崎を通った。浜に松が生えている景観はあの砲術絵馬が奉納された頃から変わっていないのだろうかと思った。車内は席がほとんど埋まって、だんだん立つ人も出るくらいになってきた。これだけ学生が乗っていると友達と一緒に通学している人もあろうに大変静かだ。この静かさが、まじめな秋田県民の県民性と関りがあるといえるかどうか。

 由利本荘駅の手前、子吉川に架かる橋の上から虹が見えた。グーグルマップで見ていた金浦駅は「かねうら」じゃなく「このうら」なのか、と、電車の放送でこの時初めて知った。8時05分、 象潟駅に到着。どこもかしこもトイレのピクトグラムまでも、象潟出身の版画家である池田修三の作品ばかりだった。駅前を真っ直ぐ海の方へ歩いていくと、塩越湊につきあたる。浜にある「沖の棒杭」は北前船を繋いでおいた石製の杭で、いまも沖合の波間に立っているものがある。さほど寒くはないがひどく風が強く、砂山をシャベルで崩していた。絵を描こうにも紙がめくられ飛ばされそうになる。クリップを忘れてきたことを後悔するが、ボールペンのクリップ部分で代用してなんとか描いた。9時半ころまで描いたがパレットも絵の具もかばんも何もかも砂まみれになった。ちょうど昨日、能代で見てきた「風の松原」のような砂防がいかに大事か、身をもって知れたのがちょっと面白かった。

 

f:id:kotatusima:20191228211349j:plain由利本荘の虹)

f:id:kotatusima:20191228211324j:plain(塩越湊・沖の棒杭)

 

・象潟郷土資料館

 

 10時ころから象潟郷土資料館を見学。入るとすぐ右手に大きな碇が展示されていた。館長様にご挨拶して、過去の北海道や北前船と関係する展示の資料をいただいた。浜で絵を描いてきたことを伝えると、「夏はまだいいのだが秋冬は風が強く砂がたまる」と仰っていた。象潟といえば平安時代能因法師西行法師が詠んだいわゆる歌枕の地であり、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の目的地の一つでもあった。その文人墨客たちの憧れの地だった大小百前後の島が浮かぶ景観は1804(文化元)年の地震の際の隆起で失われ、今は水田の合間に島だった丘が点在している。2階の企画展示室は今年が「おくのほそ道」紀行から330年であることにちなみ、象潟の景観や象潟を訪れた与謝蕪村小林一茶菅江真澄正岡子規など文人にまつわる特集展示となっていた。「象潟図屏風」は由利の殿様が江戸でお国自慢をするために描かせたと言われるものだが、その中にも北前船を思わせる船が帆を張って描きこまれている。北前船の小さな模型も会った。3階に上がると池田修三の作品やエスキースを展示した部屋があり、さらにその奥の部屋、古い農具や民具がたくさん置かれた反対側に、昨年日本遺産の追加認定を受けてつくったという北前船のコーナーがあった。方角石や弁財船の模型、船の通行証、方位磁石、珠洲焼の壺などが所狭しと並ぶ。ここにも船絵馬がたくさんある。その中でひときわ目を引くのは「髷絵馬」だ。船乗りが航海中に嵐に遭った際、神仏に祈るため髷を切り、無事に帰ることができたのちに奉納したものだ。五角形の板に髷が何本か括り付けられている、大変生々しいものだ。展示されているのは象潟の金刀比羅神社のもので、そのほか象潟小学校近くの妙見堂にもあるとのことだ。また、ここにはアイヌの伝統的な衣服であるアットウシなども展示されていた。

 

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(アットゥシとチカラカラぺ 象潟郷土資料館所蔵)

 

 12時すぎまでじっくり見学。近くのスーパーでおにぎりを買い、食べながら次の目的地へ早歩きで向かう。ちょうど約束の13時頃、戸隠神社に到着。宮司様がもう来てくださっていた。

 

戸隠神社と古四王神社の絵馬

 

 小さな境内には松尾芭蕉の足跡を記した看板もある。ここにある1780(安永九)年奉納の「永久丸」の船絵馬は秋田県内最古の船絵馬だ。塩越湊周辺の16の神社には全部で約130点の船絵馬があるという。ここにも髷絵馬があった。「日本遺産」にはここ戸隠神社の船絵馬が登録されているが、元は古四王神社にあったものを、先々代の宮司が寂しいと言って戸隠神社に移したもので、今更戻すわけにはいかずそのままにしているとのことだ。また、ここにはおそらく巴御前を描いたらしい立派な武者絵馬もあった。1861(文久元)年の奉納で、落款はみえない。

 近くの古四王神社に移動。お堂に掲げられた扁額は亀の甲羅を使っていた。宮司様によれば以前はもっとたくさん船絵馬があったとのことだが、それでも随分多く感じる。この辺りではもっとも多くの船絵馬を持っている神社だろう。特に一枚の絵馬に船が二隻描いてある船絵馬が多いところは少ないらしい。また1933(昭和八)年奉納の白馬を描いたかなり立派な絵馬があった。お堂の内部にある「古四王」の大きな社号額は本荘藩十一代藩主の六郷政鑑(1848〜1907)の真筆。一通り船絵馬を見せてもらい、お堂から出ようと靴紐を結んだら切れてしまった。帰りがけに確認すると、1862(文久二)年奉納の石鳥居に「佐々木彌吉 佐々木小左衛門 氏子中」とあった。同姓同名の可能性もあるが、佐々木彌吉は磯谷の場所支配人、佐々木小左衛門は小樽高島や宗谷の場所支配人だった人物の名だ。鳥居の脇にも謎の石製円柱があり、棒杭のように見えるけれど宮司様には分からないとのことだ。宮司様にお礼を言って15時半頃、古四王神社を出た。

 

f:id:kotatusima:20191228211549j:plain戸隠神社

f:id:kotatusima:20191228211554j:plain(古四王神社)

 

・物見山

 

 住宅の中を進み「物見山」へ向かう。瓦屋根の街並みがなかなか立派だ。あちこちに芭蕉の足跡を示す看板があった。途中見かけた公会堂は、象潟出身で、北海道で財を成し札幌区会議員も務めた奥山角三(1864〜1936)が寄付したものだ。海岸沿いの道を歩いていくと海津見神社があり、その背後の小山は1864(元治元)年に海岸防備のため設置された「青塚山砲台跡」になっている。小山に生えた木が海からの風のせいだろう、ぐにゃっと曲がっていた。16時ころ、さらに海岸沿いを北上していくと小さな港があり、その向こうに東屋が見えた。そこが物見山だ。おそらく北前船の船頭たちもここから海を眺め、日和を見たことだろう。山の麓には小さな墓地があり、坂の途中に鳥居と自然石の屋根を持つ風変わりな石の社があった。夕暮れ時である。だいぶ風が強い。砂が入ったのか、それとも塩水でやられたのか、なんだか目が疲れた。赤から橙色、そして夜の黒色に染まっていく海を絵に描いた。美しい景色だがあまりに素早く移ろってしまう。17時前、もう暗くなってきて絵が描けなくなってきたので宿に移動した。

 

f:id:kotatusima:20191228213417j:plain青塚山砲台跡)

f:id:kotatusima:20191228213426j:plain(ねこ)

f:id:kotatusima:20191228213420j:plain(物見山の斜面にあった小さな神社)

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 夕食をスーパーで買って18時頃にホテルにチェックイン。小さなフロントには秋田犬カレンダーが掛かっていた。部屋で夕食の天丼とタラコスパゲッティサラダを食べてからお風呂へ向かう。貸し切りだった。小さな浴槽は「古代檜風呂」といい森林浴と同じ効果があるとのこと。23時ころ就寝。

 

f:id:kotatusima:20191228213430j:plain(ホテルで見た秋田の天気予報)

 

 

 

⑥に続く・・・。