こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

天塩川日記⑨

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 (牛と目があう)

 

 の続き。恩根内滞在9日目。天塩川を辿る旅も大詰めです。

 

 

 

2019.5.9.

 

 

 

天塩川下流ふたたび

 

 9日目。6時半ころ起床、8時ころ出発。

 この日は再び下流方面へ。問寒別や雄信内を巡る。このあたりは何日か前に通ったエリアだが車を停めてみることはしなかった。

 地図上で眺めても実際に辿ってみても、天塩川はずいぶんくねくねした川だという印象を受ける。その様を描いてみたいと思っていた。

 

 音威子府を通り抜け、中川町へ。

 空は危うい感じの曇り空で、「まるで僕が屋外に立ってペンを持ったら降り出しそうな天気だ」と言って笑った。なんとか雨が降らないよう耐えてくれと祈る。時々車を停め大友さんが写真を撮る。

 

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(木の生えた柵)

 

 9時ころ佐久橋を渡って中川町の佐久エリアを抜け、川を左手に見ながら北上する。

 パンケナイ川と天塩川の合流点で一枚描く。ここはちょうど天塩川がカーブしている部分でありながら、カーブの手前まではかなり直線的に流れているところでもある。天塩川ほどの大河になると流れの表情も様々だと感じる。10時ころまで描いた。

 ウトナイ川を通りぬけ、宗谷本線と幌延町の問寒別駅前を過ぎ平成橋を渡る。

 このあたりは天塩川のカーブのきついところがショートカットされた結果できたと思しき三日月型の池が何箇所にもある。しかし、なかなか池の様子が見渡せるような良い場所がない。

 新問寒大橋を渡って国道40号に戻り、11時ころから12時ころまで雄信内トンネルすぐ脇の天塩川がカーブしているところで絵を描いた。

 雄信内から安牛駅を過ぎ、幌延町を通る。13時前に幌延駅近くで車を停め、昼食にした。

 駅前の通りを歩いているとパン屋さんを見つけた。僕はコーヒークッキーパン(150円)と、カスタードメロンパン(180円)、塩パン(100円)を買った。どれも表面はサクサクしていて中は柔らかく、うまい。

 

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 幌延の駅舎で座って食べた。駅内に「深層地層研究センター」の広告が。放射性廃棄物の処理研究施設らしい。やはりこういう施設は広告もいかにもお金がかかっている感じだ。

 

 

 

天塩川河口ふたたび

 

 ここまでくると天塩川河口まではそう遠くない。せっかくなので前来た時とは違う道で河口を再訪することにした。今度は北からサロベツ原野を通り抜けていく。サロベツ原野(サロベツ湿原)は「利尻礼文サロベツ国立公園」に含まれる高層湿原で、枯れた植物が6千年をかけて泥炭となって積み重なってできた。ラムサール条約湿地になっている。

 まずサロベツ原野にある幌延ビジターセンターめがけて出発。

 ビジターセンターではそれぞれの季節の動植物のパネル展示や泥炭地を輪切りにした資料を見た。ヒシクイという鳥のぬいぐるみが置いてあり、その鳥が食べる菱の実の標本を見ると前に天塩川河口に来た時に拾った謎の種子とそっくりであった。思わぬところで正体を知ることになった。

 

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ヒシクイのぬいぐるみ。なんと手作り)

 

 サロベツ原野を抜け、海岸沿いに河口へ向かう。原野のすぐ近くで砂を採取しているらしきところがあって重機が動いていた。

 

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 海に出ると左手に大きな風力発電のプロペラがずらっと並んでいるのが見えた。20機以上あっただろうか。オトンルイ風力発電所だ。

 原野を背景に白いプロペラが海に向かってそびえたっている。

 この嘘のような光景を天塩川河口から見つけたとき、僕は蜃気楼が現れたのかと思った。

 

 14時半ころ、5月3日以来6日ぶりで天塩川河口についた。

 前に来た時は絵の具を忘れて来てしまった。この日は思う存分、色をつけて描くことができ大変満足だった。30分そこそこで描いたにしてはうまく描けた。

 前回は寄らなかった鏡沼公園に行き松浦武四郎銅像を見る。武四郎が「天塩日誌」にまとめた天塩川を遡る旅も、ここ天塩から始まり天塩で終わったのだった。僕たちも天塩川を辿る旅ではじめに河口に来て、また終わりに河口に来ている。図らずも武四郎の旅をなぞるような恰好になった。

 15時半ころ帰路についた。帰り道では牛と目が合ったりキツネがやぶから飛び出してきたりした。僕はいままであまり野生のキツネと遭ったことはなかったが、今回の旅では10日ほどの間で3回以上遭った。

  

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 中川町まで戻ってきて、橋のたもとで一枚描いた。

 

 恩根内へは18時過ぎに到着。明日は札幌に帰らなければならない(とは言っても僕は助手席に乗っているだけなのだが)。

 もう一度天塩川温泉へ行き疲れをとろう、ということになった。黒い色をした音威子府そばを食べ湯に浸かる。いよいよ、明日で滞在が終わると思うと急にさみしくなってきた。20時半に帰宅。

 22時就寝。

  

 

 

 ⑩に続く。いよいよ最終回。

 

 

 

天塩川日記⑧

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(岩尾内湖畔にて)

 

 の続き。天塩川を辿る旅も、とうとう8日目。

 

 

 

2019.5.8.

 

・「恩根内テッシ」

 

 滞在8日目。7時起床。朝ごはんを作ろうと寝ぼけながら台所に立つとどこからともなく脚の長いバッタがでてきてびっくり。これで目が覚めた。

 

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(恩根内テッシ付近?)

 

 8時過ぎに出発。前日から天塩川の由来になった「テッシ」を見たいと思っていた。恩根内大橋のすぐ近くにテッシがあるはずだ。こういう天塩川の情報は川下りをする人たちが共有しているようで、検索するとカヌーの上から撮影したらしい動画も出てくる。

 大友さんと川のすぐ近くまで行って歩いてみるも、それらしきものは何も見えず。雪溶け水やここ何日かの雨による増水で見えなくなっているのかもしれないと思う。

 

 気を取り直して、道の駅美深のオートキャンプ場内にあるテッシの碑と復元テッシを見に行く。復元テッシは本来は小さい池の中にあるはずなのだが水が抜かれていてかなりみすぼらしかった。

 天気が不安定だ。雨が少し降ってきたが出かけよう。

 

 

 

・士別へ

 

 今日は昨日に引き続き天塩川上流へ向かい、その源流を探ることに。

 名寄へ向かうのに高速道路に乗ると、そのすぐわきの大きな空き地でショベルカーが雪山を崩しているのを見かけた。途中、急に雨が強くなったりしていて先行きが不安になる。

 名寄で高速道路を降り、士別市へ。北海道には東の方に同じ読みの標津という地名があるので、こっちの士別を道民はしばしば「サムライしべつ」と呼んでいる。10時前には士別市内の天塩川沿いに出た。まだ雨は降っている。ずっと川に沿うように走っていく。

 西内大部川(にしないだいぶがわ)を越えた先で浄水場のような河川管理施設があった。近くまで行ってみる。やはり天塩川の水量は多い。流れは速く、大きな音を立てている。この辺は美深などの下流に比べると、だいぶ川幅が狭くなってきているように思える。

 

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(兼成橋から)

 

 上士別町にある兼成橋(けんせいはし)の付近で車を停めた。大友さんは写真を撮り、僕は橋の上から絵を描いた。やや黄土色に濁った水が岩に当たって白く波を立てていた。この岩こそが「テッシ」なのだろうか。橋の上から川をのぞき込むと、岸から大友さんが現れて躊躇なく川の中まで入りながら写真を撮っていた。11時半前まで絵を描く。

 

 

 

・岩尾内ダム

 

 岩尾内湖へ向かう。

 岩尾内湖は天塩川をせき止めて作られたダム湖だ。士別市朝日町の市街を通り抜け、12時ころ岩尾内ダムに着いた。

 管理棟に寄ると、入り口に「ダムカードあります」の掲示が。なんでもそれぞれのダムでは「ダムカード」というダムの情報をまとめたトレーディングカードのようなものを配っているらしい。せっかくなので事務所に貰いに行くと、「こちらがダムカード、こちらは記念ダムカードです」と言って二枚くれた。一枚は通常版で、もう一枚は「天皇陛下御在位三十周年」と書いてあった。ダムと天皇陛下にどういう関係があるのだろう?

 

 岩尾内湖をぐるっと巡るように走り、下川愛別線からさらに源流、天塩岳へ向かう。ずっと曇り空だったがやはり山の天気は変わりやすいのだろう、急に曇ってきて雨がぱらついたりした。途中、天塩川がぐっとカーブしているところで絵を描き始めたのだが、雨がひどくなりとても絵が描ける状態じゃなくなってやむを得ず車に退避した。

 

 

 

天塩岳

 

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天塩川上流) 

 

 13時ころ、「天塩岳登山口」と書かれた看板を過ぎた。みぞれ混じりの雨が降ってきた。だいぶ細くなった天塩川と並行して道が走っている。この辺までくると岸には雪が積もっている。

 傘を持って車から出るがどうにもペンだと雨でにじんで絵の描きようがない。鉛筆に持ち替えて描いてみたものの上手くいかず、もどかしい。

 

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(ポンテシオダム周辺)

 

 坂をしばらく上っていくと小さなダムがあった。「ポンテシオダム」といい、ダム湖は「ポンテシオ湖」という。

 山はすっかり雪景色で、5月だということを忘れそうな天気だ。その先のダム湖の脇で道は行き止まりになっていた。14時ころから、大友さんにお願いして車内でダム湖を描かせてもらった。雨が降ったり寒くなってきたら窓を閉め、1時間くらい絵と格闘した。

 

 15時ころ下山したら、ぱたと雨が止んだ。もしかして雪が降っているのは山の上だけなのだろうかと思った。

 麓の沢でも時おり車を停めて撮影。雨に濡れてしっとりとした緑が濃くみえ、鮮やかに映える。

 

 

 

・岩尾内湖の景色

 

 来た道を戻ってまた岩尾内湖へ。

 キャンプ場の駐車場に車を停め、大友さんと二人で寒い寒いと言いながらダム湖の写真を撮るなどする。砂利道は湖水の中に入って消えていた。この先に湖の底に沈んだ集落があるのだろうか。大友さんはずんずん水のあるところにも入っていく。湖面に反射した木々や山々がきれいだった。

 

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(岩尾内湖)

 

 16時過ぎ、ダム湖に隣接する展望台から見える景色をペン画で一枚描いた。またぽつぽつ雨が降ってきてインクをにじませた。16時半過ぎには帰路へ着く。夕日が射してきた。帰り道は雨上がりの気持ちの良い空だった。

 

 

 

・サフォーク

 

 17時半過ぎ、士別市街へ戻ってきた。夕食は「展示成功の前祝に・・・」などと言いながら名物のサフォークを食べられる店を探した。サフォークとは顔が黒い種類の羊だ。

 アイフォーンでちょっと調べて適当な居酒屋に入った。二人前のセットを頼む。ジンギスカン鍋で、もやしなどと一緒に特製のタレにつけて食べた。普通の羊肉よりだいぶ癖が少なく食べやすかった。僕は調子に乗ってチャーハンも平らげた。

 以前よりは楽になっているようだが、まだまだ腰が痛そうな大友さんを見かねて、居酒屋のおじさんが「テレビでみたんですよ」などと言いながら腰にあててゴロゴロするための、水が入ったペットボトルを貸してくれた。

 すっかり満腹になり18時半過ぎに士別市を出発。

 

 19時半ころ恩根内に到着した。

早く寝たいが我慢してもう一仕事。大友さんと相談しながら6月からの展示のフライヤーをつくった。

 23時ころ就寝。

 

 

 

⑨に続く。

  

 

  

天塩川日記⑦

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(北星八幡神社の鳥居) 

 

 の続きです。恩根内滞在7日目、天塩川を辿っている。この日は南下しました。

 

 

 

2019.5.7.

 

 

 

・名寄へ

 

 滞在7日目は7時起床。

 大友さんの腰は昨日の午前中に休んだのが大きかったようで、幸い快方に向かっている。天塩川温泉も効いたのだろう。恩根内滞在も後半戦だ。外は雨だが、めげずに8時ころ出発。これからは天塩川上流を辿る。まず名寄へ向かう。

 道道760号智恵文美深線に入り、天塩川沿いに走る。

 高砂川を越え、十八線川、イオナイ川を越え、宗谷本線智北駅の対岸あたりで一枚絵を描いた。倒れた木が枝を川に浸していた。天塩川の色合いにもだんだん慣れてきた。岸に生えた柳の黄緑、水面の深い青緑、空の青と雲の灰色・・・。

 

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(曇り空)

 

 天智橋を渡り北星というエリアに出た。橋の名から思わず乙巳の変を思い出したが、「「天」塩川」と「「智」恵文(ちえぶん)」という地名からとって「天智」なのだろう。通りがかった北星八幡神社は鳥居と石碑と提灯掛けだけの小さな神社だ。鳥居に使われている木はコブを残したままで、しかも青い屋根がついているのがおもしろい。地図を見るとこの先は行き止まりになっているようだったので引き返し、さらに天塩川沿いに走る。

 

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天塩川名寄川の合流地点)

 

 11時ころ、天塩川名寄川の合流地点についた。とはいっても何かダイナミックな地形がみられるわけでもなく、静かに流れが交差していた。大友さんと「天塩川沿いの景色はどこに行ってもあまり変わり映えしないな…」と話すようになっていた。それは天塩川を辿ったからこそ言えることでもあるのだが。ここで1枚さっと絵を描き、河原のすぐ近くにエゾエンゴサクが群れて生えているところがあったのでそこでも描く。

 

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(明神子河童)

 

 ピヤシリ大橋を通って名寄市内へ向かおうとすると「河童」とだけ書かれた謎の看板が。いってみると幼稚園生くらいの背丈の河童の銅像があった。リアルな造形で不気味だった。夜にみたら大人でもかなり驚くだろう。周囲にはいくつか看板が出ていて河童の四季の生活の説明や、この「明神子河童」の「声明文」があった。このあたりの自然保護を訴えるために誰かが銅像を建てたらしい。北海道でも定山渓など河童伝説が残る場所があり、アイヌ文化でもミントゥチと呼ばれる河童に近い半人半獣の神の伝説があるけれど、名寄は特にそういった話はなく、「明神子河童」は近年の創作のようだ。

 惠内大橋を渡り、内淵エリアを通って市内へ向かう。

 さすが名寄は市だけあってにぎやかだ。ちゃんと街区らしい街区がある。別に皮肉でもなんでもなく素朴に「都会だ…!」と言ってはしゃいでしまう。

 12時頃、薬局で切らしていた頭痛薬とザルを買った。僕は頭痛持ちなので薬が欠かせない。大友さんはとうとう腰サポーターを買っていた。着けると「だいぶ楽になった」とのこと。店頭でサポーターを選んでいる様子をみていて気が付いたのだが、各種の腰サポーターのコーナーが店頭の棚のなかでも特に低い位置に置いてあるのはどうなのだろうか。

 昼食はスマホで検索して出てきたスープカレーの店に入った。僕はカレー好きを自称しているけどあまり辛すぎるものは食べられない。札幌に住んでいた時期にも数軒のスープカレーの店に入ったことがある程度だ。大友さんもカレーは好きで、辛いものもけっこういけると言っていた。店内には居酒屋のように靴を脱いで上がるようになっているのが珍しかった。薄暗い内装は雰囲気があって味もよかった。

 

 

 

・下川へ

 

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(もらったトマトジュース)

 

 お腹も満たされたところで13時から更に名寄川上流の下川町方面へ行ってみることにした。

 作品の題材を探そうと風連町にある七線橋のたもとの空き地に車を停めると、すぐ近くで発車しようとする車のトランクの扉が開けっ放しになっていた。大友さんと「おーい!」と声を出して教えてあげると、おじさんが降りて来て、お礼に下川町で作っているというトマトジュースをくれた。トマトの味が濃い。いい食後のデザートになった。

 

 車を走らせ下川町に入る。「万里の長城」と書いてある謎の看板があった。この謎はすぐあとで解けることになる。

 

 14時ころ、古びた水道橋のような何かがあったので車を停め見てみる。詳細は分からず。

 名寄川沿いから逸れ、下川パンケ川に沿って走る。道道354号を道なりに進むとどんどん山の中へ入っていく。でも道はちゃんと舗装されている。行き交う車もない。この先は下川鉱山があったところだ。いまこの道を使う人はほとんどいないだろう。途中、産業廃棄物の処理場のような工場の横を通り過ぎ、グーグルマップに「下川鉱山の五大木」とあるところの先で行き止まりになった。

 

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 14時半頃に引き返して帰り道についた。行きには見えなかった大きな建物の入り口には「小学校」とあった。とても学校を有する集落があったようには思えなかったので驚いた。建物はいま草木に覆われつつある。とはいえ、日本全国にそんな集落跡はいくらでもあるだろう、と思い直した。北海道だと特に炭鉱跡にそういうところが多いかもしれない。

 

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 桑渓橋を渡り五味温泉の方へ林道を抜けていく。この辺は林業をやっているらしい。木が伐採されて視界が開けた斜面に出た。雲間から射す午後の日差しが気持ちいい。

 

 下川町の市街へ戻る途中、通りがかった桜ケ丘公園というところに例の「万里の長城」があった。土地造成の際に出た石を町民が積み上げ15年かけてつくったという。中国領事館のお墨付きを得ているというから本格的(?)だ。公園内の道沿いにはチェーンソーで彫られたらしい木の彫刻が並んでおり、なんともいえない不思議さだった。

(参考:http://www.shimokawa-time.net/event/banri/ )

 

 

 

名寄市北国博物館

 
 名寄川沿いでときおり車を停めつつ来た道を戻り、16時頃から名寄市北国博物館を見る。

 博物館の前では「SL排雪車キマロキ」という特殊な編成の機関車が展示されている。ロビーに入ると富山県から移入した「風連獅子舞」の獅子頭があった。

 

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 展示では、石刃をつくる様子が実物大の人形を使って説明されていたり、北国の住環境の移り変わりをこれもまた実物大の家(!)を一部再現して見せたりと、なかなか凝っている。

 アイヌ文化の資料には制作者名が表示されたものがあった。こういう例は他所の博物館ではあまり見たことがない。

 

 また、名寄市は北風磯吉が住んでいた場所でもあるのだ。展示をみてその名を思い出した。

 北風磯吉(1880(明治13)年?~1969(昭和40)年)は名寄と下川の境にあるキトウシヌプリ付近で生まれ、明治31年からアイヌ給与地である内淵で農業に従事した。日露戦争では旭川第七師団に応召、伝令として活躍し金鵄勲章を受けたことでも有名で、北風の話が載った少年向け雑誌が展示されていた。除隊後も農業を続け、地区の学校の建設費を寄付するなどの一方で天塩川内陸部のアイヌ文化の伝承者として多くの調査に貢献した。晩年は炭焼きをしたあと旭川の養老院に入り亡くなった。遺品は郷土史家を通じてこの博物館に寄贈され、銅製の立派な肖像のレリーフとともに展示されている。

 午前中に通ってきた内淵の風景を思い出しながら、北風の晩年のかっこいい肖像写真を眺めた。

  

 

 

・夕暮れ時の天塩川

 

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天塩川。左手が風連別川との合流地点)

 
 博物館を出て、17時ころ天塩川と風連別川の合流点あたりでしばし絵を描く。もう夕暮れどきである。対岸の林は逆光で黒くなっている。連日の雨でペンのインクをにじまされたことを教訓に、試しに水彩絵の具を使わずにインクを水筆で伸ばしたりにじませたりして絵を描いてみた。なかなかうまくいった。

  

 恩根内に戻る途中、もうだいぶ暗くなっていたが天塩川沿いのテッシを見ようと恩根内大橋のたもとに行ってみた。しかしそれらしきものは見つからず翌日にまた探してみることにした。

 

 滞在7日目の日が暮れる。

 

 ⑧へ続く。

 

 

 

天塩川日記⑥

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(埋もれたシカの角)

 

 の続き。「アートヴィレッジ恩根内」で10日間の滞在制作をした記録、その6日目です。

 

 

 

2019.5.6.

 

 

 

・恩根内散策

  

 滞在6日目。朝起きて携帯を見ると大友さんから「腰痛のため午前は休みにしたい」と連絡が入っていた。やはり連日の移動と撮影の疲れがたまってきているのだろう。心配だ。寝ているのが一番楽だ、とのことだった。ちょうど滞在も折り返し地点を過ぎた。小休憩をとるべき時期なのかもしれない。僕も寝ていたい気持ちだったがあまり制作が進んでいないこともあり、恩根内の徒歩圏内でのんびり絵を描くことにした。8時半ころ出発。

  

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 (カラフルな牛)

 

 携帯で音楽を聴きながらぶらぶら歩く。5月2日にも訪れた恩根内大橋が見える天塩川沿いにもう一度向かった。前に描いたときはまだあまり絵の具を使い慣れず色が濁って酷い絵になってしまったので、リベンジした。一度描いたことがある場所は描きやすい。先日の絵には描き込んでいた対岸の雪は溶けてなくなっていた。

  

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天塩川沿いにて)

 

 11時過ぎに一度アートヴィレッジに戻って休憩、再度天塩川沿いを歩いてみる。恩根内大橋を越え、川のカーブ近くで下流の方を向いて一枚絵を描いた。このあたりには天塩川の由来となった「テッシ」があると聞いていたのだが見つからない。

 

 14時半頃にアートヴィレッジに戻って無事に復活した大友さんとケーキを食べた。今日は近場の美深町内を回ってみることにした。

 

 

 

・美深散策

 

 まず、恩根内駅に来る途中に車窓から見えた天塩川のダイナミックなカーブを絵に描きたいと思い紋穂内駅付近まで行ってみた。だが川沿いにはなかなか良い場所が見つからない。

 

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(この先で天塩川がカーブしているはず・・・)

 

 近くに改装したばかりらしい石造りの家があった。二棟が渡り廊下で繋がりシンプルでおしゃれな看板が出ている。牧草地や畑ばかりの中では新築はどうしても目立つ。しかし元あった家を活かしているせいか風景の中では意外に馴染んでいるようにも見える。家の中から人が出てきたのでお話しすると、ここは近いうちに開業するホテルらしかった。図書室もあるそうで居心地が良さそうだ。

 

 美深の市街へ向かう。

 美深と言えば日本を代表する写真家の一人である深瀬昌久(1934~2012)の出身地であり生家の深瀬写真館があった。その話が大友さんの口から出るまで恥ずかしながら深瀬の出身地は東川町だと思っていた。深瀬写真館はかなり大きな建物だったらしい。検索すると教会や本屋の近くにあったという情報が得られる。それらしい空き地はあるものの、その痕跡はいまはどこにもない。

 

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 その後「文化会館COM100」という生涯学習を目的とした複合施設へ行った。ここに郷土資料室や図書室もある。

 まず郷土資料室を見る。予想外に立派だ。剥製を用いて動植物について解説する原寸大のジオラマがあり、大きな黒曜石の石器や土器があり、アイヌ文化の紹介があり、町の農業、林業、木材加工、でんぷん加工など各種産業の説明があり、といった具合だ。町の年表は松浦武四郎からはじまっていた。「天塩日誌」を紹介するコーナーは昨年のいわゆる「北海道命名150年」に合わせて作ったらしく新しかった。また、昭和20年7月に戦災帰農開拓者として入植し10年ほどで東京に戻った大島駒蔵という日展系の彫刻家の作品がいくつかあった。深瀬昌久に関する言及はなかった。

 

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 図書室で郷土誌をぱらぱらめくっていると、上野山清貢が若いころ代用教員として美深で務めていたことなどを見つけた。閉館の17時までいた。

 

 

 

天塩川温泉

 

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ミズバショウの群生地)

 

 一度アートヴィレッジに戻った。連日の疲れを癒そうと音威子府天塩川温泉へ行くことにする。天塩川温泉駅のすぐ近くの湿地ではおびただしい数のミズバショウが生えていたのを見た。

 まだ少し明るかったので温泉に入る前にあたりを少し散策した。畑ばかりだ。大きなため池のようなくぼ地があった。メイノ川という小川が天塩川に合流していた。

 その近くで大友さんがシカの角を見つけ、遠くから僕に声をかけて譲ってくれた。いままでシカの角を拾ったことはなかったのでとても嬉しかった。これも天塩川の恵みだと言っていいかもしれない。大事に持ち帰った。

 

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天塩川温泉)

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(シカの剥製)

 

 18時半頃に天塩川温泉へ。浴場へ向かう途中にあったのは角のないシカの剥製だった。ふと、さっき拾った角はこのシカが落とした角だったのではないか、という気分になって、不思議な気持ちになった。

 露天風呂からは天塩川が見える。といっても僕は目が悪すぎてほとんどわからない。大友さんに訊ねて確認しただけだ。温泉もまた天塩川の恵みと言えるだろうか。

 温泉から出るとすっかり日は落ちて真っ暗だった。恩根内に戻ろうとするも景色が変わっていて道がわからず行き過ぎてしまった。

 

 夜ご飯に先日Nさんにもらった魚を大友さんと一緒に食べた。

 

 23時前に就寝。

 

 

 

 ⑦に続く。

 

 

 

天塩川日記⑤

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(ピンネシリ) 

 

 

 

 の続き。恩根内滞在5日目は番外編。なんとオホーツク海へ。

 

 

  

2019.5.5.

 

 

 

・オホーツクへ

 

 滞在5日目は朝8時半頃に起床。

 午前中、大友さんは札幌に戻るご家族を名寄まで車で送ってくるとのことで、9時ころお見送りした。大友さんの子どもたちとお別れするのはちょっと寂しい。

 簡単に朝食を食べ、洗濯したあとでカフェでコーヒーを飲みながらNさんと雑談。天塩川河口で拾ってきた貝などの絵を鉛筆で描く。

 

 ふと壁をみると完成した展示のポスターが貼られていた。もう会期まで1ヶ月を切っている。ちゃんと形になるのか少し不安になる。

 Nさんは今日はオホーツク海に面した浜頓別町の方に向かうとのことだった。

 ちょっと横道に逸れるけれど、天塩川河口から日本海を見た後にオホーツク海を見るのも悪くないな、と思って同乗させてもらうことにする。名寄から戻ってきた大友さんと3人で12時前に出発する。

 

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(旧丹波屋旅館)

 

  中頓別では「旧丹波屋旅館」という文化財の横を通りがかった。かつて天北線の小頓別駅前の旅館だった建物で、大正期の建築である和館と昭和期に建築された洋館が連なっていて独特だ。このあたりもにぎやかだったのだろう。

 

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(ピンネシリ)

 

 晴れて気持ちがいい。初めて見るピンネシリは少し赤みがかって見えた。堂々としていて、スマートというよりは重量感のあるどっしりとした山だった。眺める位置によって山肌が次々と表情を変えるのも魅力的だ。

 道の駅ピンネシリには「砂金ラーメン」の幟が立っていた。知らない人が聞いたらチキンラーメンと間違うだろう。

 

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(牛魂碑)

 

 途中、道路わきにあった牛魂碑や馬頭観音を見るなどしつつ車は進む。13時頃に中頓別の食堂で昼食。650円のざるラーメンを食べる。風が強く、店の入り口があくたびに麺の上に載った刻み海苔が飛ばされそうになって慌てた。麺を食べた後に残ったそばつゆをお湯で割って飲みながら、「こういうものは蕎麦湯といわずラー湯とでもいうのだろうか・・・」などと考えつつ完食。

 

 Nさんは植生に詳しく、道すがらあちらこちらの山や林を指さしては説明してくださるので勉強になった。「美深は標高が高く、恩根内で63メートルだ」とか「白樺は二次林で戦前戦中に切られた後に生えて戦後70年くらい経っているのだ」とか「川沿いの柳は保水のために残しているのだ」とか。少しでも知識があれば風景を見る目が変わってくる。

  

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(エサヌカ原生花園にて)

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(自由なシカたち)

  

  

 

・エサヌカ原生花園

 

 知らぬ間に車はオホーツク海に近づいていた。牧草地にいるシカたちを横目にずーっとまっすぐ海への道を行く。あたりには高い建物は何もなく、地平線が感じられる。

 

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(道が貝殻で真っ白だった)

 

 14時半過ぎに「エサヌカ原生花園」に到着。ちなみにここは浜頓別町ではなく猿払村だ。

 いくつか貝殻や石を拾いながら海岸を歩く。ふにゃふにゃとやわらかな砂がビーズクッションのようで足の裏に心地よい。「網走番外地」の歌詞にあるように、僕にとってオホーツクと言えばハマナスなのだが、花が咲く時期にはまだちょっとだけ早かったようで残念だった。

 

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(シカと戯むる)

 

 車で来た道を引き返す途中、二頭のシカが道の左手からでてきてこちらの様子を伺っていた。しばしシカと私たち人間とが見つめ合い、道の譲り合いになったのがおかしかった。やがて道路を横切って右手の牧草地に避けたシカは緊張の糸が切れたようにピョンピョンと跳ね回って戯れていた。その様は全身で春の陽気を浴びているようで、見ているだけで楽しくあたたかな気持ちになる。

 

 近くのベニヤ原生花園へ移動。赤茶色のイソツツジを見た。本州では高山植物とされるらしい。この辺りは次々と木の種類などが変わり、植生がエリアごとに違うのが僕でもなんとなく分かる。Nさんによれば、木の密度が高いところはまだ森が若く、時間がたつにつれ間引きされるように木が淘汰されて日当たりがちょうどよくなるのだという。また、木の小ささは風の影響があると想像される、とのこと。

 

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(ベニヤ原生花園

 

 

 

・帰り道

 

 16時頃、浜頓別道の駅で休憩。オープンしたばかりで賑わっていたが夕方だったからかパンなど軽食は売り切れ。自動販売機で飲み物だけ買った。恩根内に戻ろう。

 

 途中、道路わきに黄色い花がたくさん咲いているのを見た。エゾノリュウキンカだ。ヤチブキともいう。かわいらしい。車を止めて写真を撮っているひとがいたのも納得だ。

 

 17時前に上頓別会館近くで獣魂碑と地蔵が並んでいるのを見た。地蔵さんはヘルメットをかぶっていた。

 

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 (ビッキのトーテムポール)

 

 音威子府ではコンビニに寄って、ビッキのトーテムポールの近くまで行って見てきた。裏面には制作に関わった人々の名が彫られていた。

 

 18時頃に恩根内に到着。ここまでいろいろ連れて行ってもらったNさんが帰宅するのを見送る。

 夕食には麻婆春雨を作って食べた。

 

 

 

 ⑥に続く。

 

 

 

天塩川日記④

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弘法寺の線刻仏)

  

 の続き。恩根内滞在4日目が始まります。

 

 

  

2019.5.4.

 

 

 

・白樺を描く

 

 滞在4日目。7時起床。なんとなく頭がいたい。疲れが溜まってきているのかもしれないと思いつつも「むしろこういう時は動いた方が元気がでるのだ」と自分に言い聞かせつつ朝食を済まし、朝8時頃から、再び5月2日にペンだけで描いた白樺の風景を描きに行った。結局この時に描いた絵を今回の展示のポスターとチラシに使うことになった。

 

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(制作風景)

 

 よく見ると前描いた時より少し雪が溶けている。集中して描いているといつのまにか太陽の光が射す位置が変わっている。刻一刻と季節は移り変わり道北の遅い春が訪れてきているのだと実感する。

 

 アートヴィレッジに戻ってはやめの昼食にピラフを食べる。白樺の絵はさっそく大友さんが写真に撮り、データを渡すと工藤さんがすぐポスターにしてくれた。仕事がはやい。大友さんと本日のスケジュールについて相談する。

 

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・恩穂山へ

 

 大友さんが事前に情報を入手していた「紋穂山」について工藤さんに確認したところ、「恩穂山ではないか?」「このあたりに四国八十八か所を模した石仏があり、それがあるのが恩穂山だ」とのこと。さらに「八十八か所があるといえば…」と近くのお寺を案内された。

 

 この日は大友さんのお子さんたちも2人ついてきて一緒にフィールドワークだ。にぎやかで楽しい。13時ごろ出発。

 まず、アートヴィレッジから車ですぐの天塩山弘法寺に来てみた。ここは北海道八十八か所霊場の第十八番札所である。たしかに八十八ケ所を模した石仏はあったのだが、思っていたよりずっと立派だった。その八十八か所の石仏が並ぶ端に自然石に素朴な線刻で仏の姿を彫ったものが何個かあった。

 想像と違う気がするな・・・と思い帰ろうとすると、ちょうどよく住職さんらしき方がいたので訊いてみたところ、立派な八十八か所の石仏は下川町のお寺で維持できなくなったのを持ってきたもので軟石を使った珍しいつくりなのだという。

 「ではあの線刻の石仏は?」と訊ねると「明治35年に開拓に入った方が畑から出てきた石に彫ったものだ」という。その方がこのお寺の檀家さんなのでここにそれがあるとのこと。道の駅近くの高台にある公園には自然石に線刻した石仏がもっとたくさん置かれているとのこと。その高台こそが恩穂山で、どうやら話に聞いていた石仏はほとんどそこにあるらしい。ちなみに後から調べるとその入植者は神野槌之丈さんといい、やはりというべきか四国の愛媛県の出身者であった。

  

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(恩穂山の石仏)

 

 恩穂山の公園の石碑には「びふか森林公園」の文字が彫られていた。

 町の功労者の銅像などいくつかの碑と並んで八十八か所の石仏がずらっと並んでいた。しかも2タイプある。一方は自然石に線刻されもう一方は成形された石に浮き彫りになっている。いずれも素朴な印象を受ける。不動堂や大師堂もある。お堂にお邪魔して拝ませてもらう。大師堂の祭壇にあった仏像は自然石に線刻されたうえでチョークのようなものを使って青や黄色で輪郭がなぞられていた。不動明王は立体的に彫られているが朴訥とした表情で顔が大きい。不動堂は神野さんとはまた別のいわれがあるようだ。

  

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(雪の重さで折れたらしい木)

 

 山の上へ登っていくとまだ雪が少し残り、階段に木が倒れて覆い被さっていた。

 

 

・アトリエ3モア

 

 その後15時頃から音威子府へ向かう。砂澤ビッキのアトリエであった「アトリエ3モア」を再訪、見学した。ここはアトリエになる前は小学校だったらしい。

 中は木のチップを床に敷き詰めたり暗室で作品をライトアップしたりとかなりギャラリーとしての改装が施されているが、アトリエなどは使われていた当時のままだ。

 作品は年代順並んでいるわけではなく、なんとなくテーマごとに並ぶ。いわゆるビッキ文様が施された器物のドローイングや動物、荒々しい木彫り熊、のみ跡を活かした抽象彫刻、長い巻物状のドローイングなどがある。初期のシリーズ「ANIMAL」に属する作品を見られたのが嬉しい。カフェスペースではバーの装飾に使われていた看板などが展示されている。音威子府村の入り口に立っていたビッキ作のトーテムポールもここにある。もちろん、愛用の品の数々やデスマスクも展示されている。

 

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(アトリエ3モア、館内の様子) 

 

 僕が展示を見ている間、大友さんの子どもたちはカフェスペースでおとなしく動物の映像を見ていた。とても居心地の良い場所だ。

 

 アトリエ3モアを見終え、すぐ近くのJR筬島駅に行ってみる。客車を改造した駅舎を通り抜け線路に出ようとすると、足元に5センチほどの蛾が落ちていて驚いた。「ビッキは蛾をモチーフに作品を作っていた」という説明を読んだばかりだったので、ふいに会ったこともないビッキと出会えたような気がした。

 

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(筬島の蛾)

 

 その後、天塩川に出る。大友さんは写真を撮り、僕は川岸を描いた。ビッキは飼っていたアヒル天塩川で水葬したこともあったという。時々、大友さんの子どもたちが絵を描く僕の両側に座った。見られながら絵を描くのは緊張するし気恥ずかしい気持ちもあるが、それ以上に今さらながら絵を描いていることで注目されるのが嬉しかった。

 

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 (音威子府駅前にて)

 

 恩根内に戻る途中、JR音威子府駅にも寄る。駅の外のスロープに並ぶ柱にはフクロウが彫られ、駅名の看板も木彫だった。ビッキの作だろうか。構内の一角には音威子府から浜頓別を通り南稚内につながっていたJR天北線の資料があった。駐車場の片隅には高さ2メートル以上あろうかという雪山がまだ残っており、除雪機で崩しながら溶かしていた。

 

 

 夜、大友さんと共通の知り合いの美術家のNさんが来て泊まっていくことになった。お土産に魚の干物をくれた。3人で少しお酒を飲みながらよもやま話をして1時頃に就寝。

 

 

 

 ⑤に続く。

 

 

 

天塩川日記③

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 (「北海道命名の地」の近くにて)

 

 の続き。北海道の美深町にある「アートヴィレッジ恩根内」というところで10日間の滞在制作を行った記録です。天塩川という全国第4位の大河をたどっています。

 

 

 

2019.5.3.

 

 

 

天塩川河口への道

 

 滞在3日目。

 6時前に起床。前日の夕方はかなり寒かったことを思い出してタイツを履いた。手に持ちながら絵を描くのがしんどいことも分かったのでアートヴィレッジの備品からイーゼルを借りた。今日も曇り空だが幸いまだ雨は降っていない。

 今日は天塩川河口へ向かう。8時に恩根内を出発。行きがけに音威子府セイコーマートに寄りカメラのメモリーカードを買う。

 

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音威子府天塩川

 

 少し進むと天塩川に出た。橋の手前に車を停める。上流の恩根内からの流れが橋を越え、その先で左に曲がって山の中へ向かっている。ここで絵を描こうとしたとき、なんと買ったばかりの携帯水彩絵の具と筆を忘れてきたことに気がついた。すぐ引き返せるような距離でもなく、幸いにもペンは持っていたので、今日は諦めてペンのみで勝負しようと決めた。

 

 9時頃、橋を渡り筬島地区を過ぎ物満内地区へ。砂澤ビッキのアトリエだった「アトリエ3モア」の看板が出ていたので、近くまで行ってみるがまだ開館前だった。日を改めて来ることにする。

 

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音威子府付近)

 

 そのまま道なりに進み、中川町に入ってしばらくいくと道路の右側に「安政四年六月十日 松浦武四郎踏査地」と書かれた大きな木柱が立っていた。砂利が敷かれて坂がついており、天塩川のすぐ近くまで行けそうなので車を停めた。岸まで歩いて降りる。ここで一枚絵を描いた。

 後から調べると、安政四年六月十日の松浦武四郎は川でたくさんのチョウザメを見たらしい。

 

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 (中川の天塩川

 

 天塩川左岸を通り、啓徳小学校を過ぎ、雄信内を経て幌延を通る。天塩市街へ向かう。

 

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天塩川河口近くにて)

 

 11時頃、天塩川の河口近くの漁港に着いた。晴れていても風は冷たい。近くには運上屋跡の看板があった。

  

 お昼ご飯を食べようかという話になったが、食べてから展示を見ると眠くなりそうなので、先に天塩川歴史資料館へ行く。

  

 

 

天塩川歴史資料館

 

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天塩川歴史資料館)

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(「牛」馬頭観音の碑)

 

 展示物は天塩川沿いの産業についてが主。林業、漁業、酪農の資料が中心。特に興味深かったのは馬頭観音の碑だ。畑作から酪農に生業が転換する中で馬頭観音信仰は牛の安全祈願と供養のためのものに変わっていった。そこで大胆にも石碑に「牛」の字が書き加えられ「「牛」馬頭観音」とされた。生きた宗教はいつでも人々のニーズに応えるものなのかもしれないと思った。

  

 

 

・天塩の昼食

 

 昼食。「以前来た時に食べたラーメンがしょっぱくていまいちだった」と大友さんが言っていたので、ラーメンの幟は避けて歩く。とはいえ飲食店がたくさんあるわけではない。町は静かでほとんど人通りもない。大きな通りに面した角にいかにも昔ながらという感じの喫茶店があったので入ってみる。

 中では地元の方らしいおじいさんがこちらに背中を向けてテレビで野球を見ていた。常連らしいおじさんはご飯を食べながらカウンターのおばあさんと言葉を交わしていた。

 

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(大きいカツカレーと小さい普通のカレー)

 

 席の上に置かれた雑誌にカツカレーがおすすめと書いてあったので、注文する。大友さんは普通のカレーを食べていた。出てきたカレーはボリュームがあって900円以上の値段がするだけはある。お腹いっぱいになった。おばあさんが出がけに缶の緑茶を二本テーブルに置いて「ポケットに入れて持って帰んなさい!」と言った。小さなサービスが嬉しい。

 

 

 

厳島神社

 

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(参道)

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(金毘羅さんの社)

 
 昼食を済まし厳島神社へ。建立は文化年間に遡るようだが、場所も移動しているようで当時の様子を示すものは見当たらない。社殿は北海道特有の神明造だそうだ。大きな鳥居の向こうに背の低い林が続き、まっすぐ社殿まで参道が伸びている。

 本殿の手前にはいくつかの灯篭や石碑、手水舎のほかには小さく簡素な稲荷社と金比羅社がある。カラス除けらしいCDが無造作に取り付けられていたのがおもしろかった。

 

 

 

・海のような川

 

 この厳島神社は道路を挟んですぐ海沿いにある。とはいってもこのあたりは海に沿って天塩川が流れているところなので川沿いともいえる。

 海のように流れる天塩川を見に行くことにする。

 

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(謎の黒い種子)

 

 海沿い(のような川沿い)は公園になっており「遺跡」と看板にあったのでその方向に歩いて行ってみた。しかし舗装された道は途中で途切れ、漂着物が打ち上げられた空き地に出た。いい感じの石や貝があれば拾おうとして下を向いてうろうろしていると、黒くてぼこぼこした昆虫の顔のような何かを見つけた。最初はプラモデルの部品かと思ったが、ブラシのような房があり、種子のようでもある。少し不気味だが持ち帰ることにした。

 遺跡が見つからないので車に戻って海沿いをしばらく北上すると「川口遺跡風景林」の大きな看板があった。

 防風保安林の中に竪穴住居跡がたくさんあるらしい。復元された竪穴住居も1棟あった。中にも入れるようになっている。天井が高く意外と住み心地が良さそうだと感じた。

  

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(左が天塩川、右が日本海

 

 またさらに北上すると道が左に折れて天塩川を越え、海沿いに出る。このあたりの陸地はちょうど天塩川日本海の境になる。防波堤が作られており、片側は砂浜になっていて海がある。反対側は天塩川である。海と川が近くにあるのが面白くて、川と海とを一つの画面に収めるような絵を描いた。そして少し石を拾った。

 

 

 

・「北海道命名の地」

 

 国道40号から恩根内に戻る。

 

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(「北海道命名の地」の木柱)

 

 帰りがけ、まだ明るかったので音威子府で「北海道命名の地」に寄る。なにもこんなところに作らなくとも・・・と思ってしまうようなところにある。あたりには人家も何もない。林を抜けると立派な木柱と看板が天塩川に面して立っている。ここは山の陰になっていて薄暗い。大きな水たまりに周囲の風景が写り込んでいた。

  後から調べると音威子府商工会の方のコメントが見つかった。それによれば、わざわざこのような場所に木柱を建てたのは、武四郎が丸木舟で川を上って来たであろうことや、カヌーや釣りを楽しむ人に見てもらいたいから、とのことだった。

 またここを「北海道命名の地」とするのはアカデミックな見地からは疑問符がつくが、そのうえで宣伝の方法の一つとしてやっている、とのことだ。

 昨年の「北海道150年」の武四郎顕彰の流れを見るに、あくまで「宣伝の一つ」だった「北海道命名」が随分とまことしやかに語られるようになってしまったなと感じる。

  (参考:テッシペディア 138ページhttp://www.kamikawa.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/tesshi_sanpo/shiryou/file/tessi05.pdf

  

 

 

 帰ってきて、今回の展示ポスターについて大友さんと少し相談してから23時半に就寝。

 

 

 

 ④へ続く。