こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

天塩川日記⑦

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(北星八幡神社の鳥居) 

 

 の続きです。恩根内滞在7日目、天塩川を辿っている。この日は南下しました。

 

 

 

2019.5.7.

 

 

 

・名寄へ

 

 滞在7日目は7時起床。

 大友さんの腰は昨日の午前中に休んだのが大きかったようで、幸い快方に向かっている。天塩川温泉も効いたのだろう。恩根内滞在も後半戦だ。外は雨だが、めげずに8時ころ出発。これからは天塩川上流を辿る。まず名寄へ向かう。

 道道760号智恵文美深線に入り、天塩川沿いに走る。

 高砂川を越え、十八線川、イオナイ川を越え、宗谷本線智北駅の対岸あたりで一枚絵を描いた。倒れた木が枝を川に浸していた。天塩川の色合いにもだんだん慣れてきた。岸に生えた柳の黄緑、水面の深い青緑、空の青と雲の灰色・・・。

 

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(曇り空)

 

 天智橋を渡り北星というエリアに出た。橋の名から思わず乙巳の変を思い出したが、「「天」塩川」と「「智」恵文(ちえぶん)」という地名からとって「天智」なのだろう。通りがかった北星八幡神社は鳥居と石碑と提灯掛けだけの小さな神社だ。鳥居に使われている木はコブを残したままで、しかも青い屋根がついているのがおもしろい。地図を見るとこの先は行き止まりになっているようだったので引き返し、さらに天塩川沿いに走る。

 

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天塩川名寄川の合流地点)

 

 11時ころ、天塩川名寄川の合流地点についた。とはいっても何かダイナミックな地形がみられるわけでもなく、静かに流れが交差していた。大友さんと「天塩川沿いの景色はどこに行ってもあまり変わり映えしないな…」と話すようになっていた。それは天塩川を辿ったからこそ言えることでもあるのだが。ここで1枚さっと絵を描き、河原のすぐ近くにエゾエンゴサクが群れて生えているところがあったのでそこでも描く。

 

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(明神子河童)

 

 ピヤシリ大橋を通って名寄市内へ向かおうとすると「河童」とだけ書かれた謎の看板が。いってみると幼稚園生くらいの背丈の河童の銅像があった。リアルな造形で不気味だった。夜にみたら大人でもかなり驚くだろう。周囲にはいくつか看板が出ていて河童の四季の生活の説明や、この「明神子河童」の「声明文」があった。このあたりの自然保護を訴えるために誰かが銅像を建てたらしい。北海道でも定山渓など河童伝説が残る場所があり、アイヌ文化でもミントゥチと呼ばれる河童に近い半人半獣の神の伝説があるけれど、名寄は特にそういった話はなく、「明神子河童」は近年の創作のようだ。

 惠内大橋を渡り、内淵エリアを通って市内へ向かう。

 さすが名寄は市だけあってにぎやかだ。ちゃんと街区らしい街区がある。別に皮肉でもなんでもなく素朴に「都会だ…!」と言ってはしゃいでしまう。

 12時頃、薬局で切らしていた頭痛薬とザルを買った。僕は頭痛持ちなので薬が欠かせない。大友さんはとうとう腰サポーターを買っていた。着けると「だいぶ楽になった」とのこと。店頭でサポーターを選んでいる様子をみていて気が付いたのだが、各種の腰サポーターのコーナーが店頭の棚のなかでも特に低い位置に置いてあるのはどうなのだろうか。

 昼食はスマホで検索して出てきたスープカレーの店に入った。僕はカレー好きを自称しているけどあまり辛すぎるものは食べられない。札幌に住んでいた時期にも数軒のスープカレーの店に入ったことがある程度だ。大友さんもカレーは好きで、辛いものもけっこういけると言っていた。店内には居酒屋のように靴を脱いで上がるようになっているのが珍しかった。薄暗い内装は雰囲気があって味もよかった。

 

 

 

・下川へ

 

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(もらったトマトジュース)

 

 お腹も満たされたところで13時から更に名寄川上流の下川町方面へ行ってみることにした。

 作品の題材を探そうと風連町にある七線橋のたもとの空き地に車を停めると、すぐ近くで発車しようとする車のトランクの扉が開けっ放しになっていた。大友さんと「おーい!」と声を出して教えてあげると、おじさんが降りて来て、お礼に下川町で作っているというトマトジュースをくれた。トマトの味が濃い。いい食後のデザートになった。

 

 車を走らせ下川町に入る。「万里の長城」と書いてある謎の看板があった。この謎はすぐあとで解けることになる。

 

 14時ころ、古びた水道橋のような何かがあったので車を停め見てみる。詳細は分からず。

 名寄川沿いから逸れ、下川パンケ川に沿って走る。道道354号を道なりに進むとどんどん山の中へ入っていく。でも道はちゃんと舗装されている。行き交う車もない。この先は下川鉱山があったところだ。いまこの道を使う人はほとんどいないだろう。途中、産業廃棄物の処理場のような工場の横を通り過ぎ、グーグルマップに「下川鉱山の五大木」とあるところの先で行き止まりになった。

 

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 14時半頃に引き返して帰り道についた。行きには見えなかった大きな建物の入り口には「小学校」とあった。とても学校を有する集落があったようには思えなかったので驚いた。建物はいま草木に覆われつつある。とはいえ、日本全国にそんな集落跡はいくらでもあるだろう、と思い直した。北海道だと特に炭鉱跡にそういうところが多いかもしれない。

 

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 桑渓橋を渡り五味温泉の方へ林道を抜けていく。この辺は林業をやっているらしい。木が伐採されて視界が開けた斜面に出た。雲間から射す午後の日差しが気持ちいい。

 

 下川町の市街へ戻る途中、通りがかった桜ケ丘公園というところに例の「万里の長城」があった。土地造成の際に出た石を町民が積み上げ15年かけてつくったという。中国領事館のお墨付きを得ているというから本格的(?)だ。公園内の道沿いにはチェーンソーで彫られたらしい木の彫刻が並んでおり、なんともいえない不思議さだった。

(参考:http://www.shimokawa-time.net/event/banri/ )

 

 

 

名寄市北国博物館

 
 名寄川沿いでときおり車を停めつつ来た道を戻り、16時頃から名寄市北国博物館を見る。

 博物館の前では「SL排雪車キマロキ」という特殊な編成の機関車が展示されている。ロビーに入ると富山県から移入した「風連獅子舞」の獅子頭があった。

 

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 展示では、石刃をつくる様子が実物大の人形を使って説明されていたり、北国の住環境の移り変わりをこれもまた実物大の家(!)を一部再現して見せたりと、なかなか凝っている。

 アイヌ文化の資料には制作者名が表示されたものがあった。こういう例は他所の博物館ではあまり見たことがない。

 

 また、名寄市は北風磯吉が住んでいた場所でもあるのだ。展示をみてその名を思い出した。

 北風磯吉(1880(明治13)年?~1969(昭和40)年)は名寄と下川の境にあるキトウシヌプリ付近で生まれ、明治31年からアイヌ給与地である内淵で農業に従事した。日露戦争では旭川第七師団に応召、伝令として活躍し金鵄勲章を受けたことでも有名で、北風の話が載った少年向け雑誌が展示されていた。除隊後も農業を続け、地区の学校の建設費を寄付するなどの一方で天塩川内陸部のアイヌ文化の伝承者として多くの調査に貢献した。晩年は炭焼きをしたあと旭川の養老院に入り亡くなった。遺品は郷土史家を通じてこの博物館に寄贈され、銅製の立派な肖像のレリーフとともに展示されている。

 午前中に通ってきた内淵の風景を思い出しながら、北風の晩年のかっこいい肖像写真を眺めた。

  

 

 

・夕暮れ時の天塩川

 

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天塩川。左手が風連別川との合流地点)

 
 博物館を出て、17時ころ天塩川と風連別川の合流点あたりでしばし絵を描く。もう夕暮れどきである。対岸の林は逆光で黒くなっている。連日の雨でペンのインクをにじまされたことを教訓に、試しに水彩絵の具を使わずにインクを水筆で伸ばしたりにじませたりして絵を描いてみた。なかなかうまくいった。

  

 恩根内に戻る途中、もうだいぶ暗くなっていたが天塩川沿いのテッシを見ようと恩根内大橋のたもとに行ってみた。しかしそれらしきものは見つからず翌日にまた探してみることにした。

 

 滞在7日目の日が暮れる。

 

 ⑧へ続く。