こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記④ 2019.11.11.

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(紙谷仁蔵の墓)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

 ③の続き。

 

 

 

11月11日 能代日帰り道中記

 

能代

 

 5時30分起床。外はまだ暗く寒い。10分で準備して家を出て新屋駅の方へ向かって歩いていくと左手の秋田市街の方から車内の明かりをつけていない列車が来て駅に停まった。たぶんあれに乗るのだろうと思ったがその通りだった。駅に入ると5、6人、寒いホームですでに待っていた。まもなく電車の電気がついた。電車で雄物川を渡ると街並みの向こうから鮮やかなオレンジ色が見えた。朝焼けだ。6時ころ秋田駅に着く。秋田駅前から能代へ行くバスを待つ。まだ時間は50分ほどある。昨日買っておいたパンを観光案内所のベンチで食べる。朝早くなのに以外に人がいる。旅行者らしきキャリーバッグを持った人もちらほら。

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(朝焼け)

 

 7時前に「能代ステーション」に向けてバスで出発する。座席が冷たい。バスの中で方言についてぼんやり考えた。Kおばさんと話して、秋田の方言に親近感をもってしまったが、それを例えば北海道民に伝えようとしてもなかなか難しい。改めて言うまでもなく文語と口語は違う。秋田の人は「それでは」のことを「へば」という。「へば」とプリントされたTシャツを土産物屋で売っているくらいだから秋田を代表する方言なのだろう(ちなみに「んだ」Tシャツもある)。しかし文章で「へば」と出てきてもそのことだとすぐわかるだろうか。博物館で方言の本を買ってしまったが、パラパラめくったかぎり思った以上に知っている言葉がなかった。それは秋田限定の独特な言葉を集めた本だからかもしれない。私が秋田弁に感じた親近感とはなんなのだろう。また、ここ2、3日で印象的だったのは、街を歩いて目にするのは「秋田犬」と「なまはげ」だった。秋田に来る前に私の周りの人達に秋田のイメージを訊ねたところ、だいたい返ってくるのは「なまはげ」か「秋田犬」もしくは「きりたんぽ」だった。その典型的なイメージを忠実になぞっている様は観光客としては素直に喜ぶべきものかもしれない。写真を撮れば、容易く「秋田に行ってきた」という感じにできる。だが、それもまた行き過ぎるとおかしみを越えて卑屈ささえ感じさせはしないだろうか。とはいえそれを笑ってばかりはいられない。北海道だって「ひぐま」と「きつね」ばかりなのだから…。

 

 閑話休題。バスは畑の間を走っていく。石油を採るための、シャベルのアームのような機械が並んでいた。秋田ならではの景色だろう。高速秋田道秋田北インターに入った。遠く海岸沿いに風車が並ぶのが見える。能代バスステーションにはほぼ定刻8時15分頃に着く。トイレ休憩をし、まず約束をしていた向能代稲荷神社・恵比寿神社へ向かう。

 

向能代稲荷神社・恵比寿神社

 

 米代川にかかる橋の袂から対岸の丘の上に赤い屋根が見えた。それが向能代稲荷神社・恵比寿神社であった。8時半ころ、宮司さんがすでに来ていたので自己紹介をしていると氏子総代さんがやってきた。緩やかな坂に石の参道があり正面に稲荷神社が建っていて向かって左手にある恵比寿神社とは渡り廊下で繋がっている。目当ての船絵馬は恵比寿神社に奉納されたものだが稲荷神社にも絵馬をはじめとして沢山の奉納物があった。氏子総代さんからこの神社や能代港のお話をきいた。北前船の往来がさかんだったころ港はここ向能代にあり、船頭は入港したら必ず航海安全祈願をしに訪れていたこと。ここは稲荷神社より恵比寿神社の方がお祭りが大きく盛んで、最近まで近隣から漁師がずいぶんたくさん来ていたこと。いまはもう専業の漁師はおらず自家分をとるくらいだが、以前は獲れすぎてお祭りを延期したことがあるくらい獲れたこと…。恵比寿神社の船絵馬の一部は県立博物館の展示に貸し出していると聞いていたので正直にいうとあまり期待しないで来たのだが、それでもまだまだたくさん立派な絵馬があった。

 面白かったのは1986(昭和六十一)年に江差の船頭から奉納された「辰悦丸」の船絵馬だ。江戸から明治頃の船絵馬は木版画を利用したものもあったが、これは当時の図柄を踏襲しながら全て手描きでいまも色鮮やか。お堂の中では目立つ。この船絵馬の近くに飾られた瓦には北前船が彫刻されており「淡路辰悦丸回航出展実行委員会」とあった。「辰悦丸」はゴローニン事件で有名な高田屋嘉兵衛の持ち船だった。1985(昭和六十)年に大鳴門橋の完成を祝して淡路島で開かれた「くにうみの祭典」に合わせ、造船会社「寺岡造船」が復元、北海道江差町から「実際に走らせて町まで来られないか」と要望があったため船を作り直し翌年5月から各地の北前船寄港地に立ち寄って無事江差町へ到着した、という。この船絵馬はその際の航海の無事を感謝したものだったのではないか。今年はその復元船のあゆみを記録した本も製作され、全国に配られたらしい。北前船を通した北海道と秋田と、そして全国の北前船寄港地との繋がりの意識はいまもまだまだ根強い。その繋がりの中でこうして恵比寿神社が崇敬されている、その想いになんだか胸が熱くなってくる。

 また、ここの神社にはめでたい図柄の絵馬が何点も奉納されていた。大漁祈願か大漁感謝のためのものだろう。海から漁師たちがにぎやかに網を引き上げ中から魚があふれんばかりに獲れている様を描いている。11時ころに写真を撮り終わり、親切にも総代さんに駅まで送ってもらった。「木都」とよばれた能代の街は大正〜昭和ころに秋田杉材の生産で栄えたが、その反面、屋根が木を薄く切ったもので葺いてあったから一度火がつくとなかなか止まらず、古いものは大火で焼けてしまったと言っていた。

 

f:id:kotatusima:20191228201330j:plain(橋の上から向能代を見る)

f:id:kotatusima:20191228201355j:plain向能代稲荷神社・恵比寿神社の鳥居)
f:id:kotatusima:20191228201059j:plain向能代稲荷神社・恵比寿神社
f:id:kotatusima:20191228201045j:plain(大漁の絵馬)

f:id:kotatusima:20191228201130j:plain(辰悦丸の絵馬)

f:id:kotatusima:20191228201109j:plain(狐の石像)

 

 

 

・ぎばさうどんと能代ガイド

 

 午後は街歩きガイドをお願いしていた。駅前で待っているとガイドの方がやってきた。まず駅すぐ近くの食堂で昼食にした。おすすめの「ぎばさ」(アカモクとも)という海藻がはいった「ぎばさうどん」(550円)を注文。食堂のおばさんによれば、以前テレビで紹介された際は「ぎばさうどん」を注文するお客さんですごかったという。卵黄とかまぼこと「ぎばさ」だけ載せたシンプルさがいい。12時30分頃、お腹がいっぱいになったところで電動自転車を借りた。駅前にバスケットボールをモチーフにした飾りがあったのでなぜなのか訊ねると、能代はバスケットボールが盛んで能代工業高校が全国大会で58回優勝しているという。漫画「スラムダンク」のモデルだ、ともいう。街の中心街を自転車で走っていく。防火帯として道の幅が広くなっているとのことで、そのせいでシャッターが目だっているような気もする。能代砂丘の上に町が立っているため坂が多いらしい。また、木都だったころの名残で銭湯と、なぜかパーマ屋が多い。米代川の岸に出た。川上を見ると電車が橋を渡っていった。奥羽本線がなぜ能代の街の中心部から離れた東能代駅から出ているかというと、当時、材木運ぶ時にはいかだで河口まで運び、そこから馬車に積み替えていたのだが「電車が通ると馬車の仕事がなくなる」として反対した運動があったのだという。ガイドさんが子どものころだった昭和30年代でも冬には馬橇がよく使われていてわだちがツルツルに凍ると滑って遊んだりしたという。

 

f:id:kotatusima:20191228201119j:plain(ぎばさうどん)

 

・北萬

 

 13時前、「北萬」に着く。店名は初代の「北村萬左衛門」から。ここは提灯のほか「能代凧」を今日でも唯一製作販売している。三代目のご夫婦にたくさんお話を伺った。能代凧のなかでも能代のシンボルマークともいえる図柄が「べらぼう凧」だ。「男べらぼう」は芭蕉の葉を、「女べらぼう」は牡丹をそれぞれ頭に飾り舌を出している。男べらぼうは顔に歌舞伎の隈取のような模様があり遠くから見ると黄色っぽい芭蕉の葉が烏帽子のように見えて三番叟を思い出させた。このほかに北萬のオリジナルの顔は女べらぼうだが旗をのせている「旗べらぼう」があり、昭和のはじめ北萬以外にも凧屋があったときはそれぞれの店でオリジナルのべらぼうがあったとのこと。明治後期の創業の頃は、凧は冬場の内職で提灯も並行して製作してきた。男べらぼうに描かれている芭蕉の葉は能代のような寒いところにはないから北前船かどうかはわからないけれど、やはり南の方から伝わってきたのだろう、という。能代市が作成した北前船に関するパンフレットには「能代凧は北前船灯台の代わりに使った」「その起源は、北前船の船乗りたちが腹に顔を描いた踊りともいわれる」とあるが、後者の話は北萬では聞かなかった。小さめのべらぼう凧を買った。帰りがけにガイドさんと一箱ずつティッシュを貰った。

 

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(北萬の店内)

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(北萬で買った「旗べらぼう」の絵)

 

・風の松原

 

 13時30分に北萬を出発。「風の松原」が広がる能代港方面へ向かう。

 途中で「三大春慶塗り」のひとつ「能代春慶」の店の横を通った。飴色が美しいこの漆器はただ一人の弟子にしか技法を教えない「一子相伝」を貫き、跡継ぎがなく途絶えたとのことだ。能代の街は海側からはじまったが風が強くて砂に埋もれてしまうのでだんだんと内陸、今の駅の方に町が広がっていったという。古い街区はいわゆる「うなぎのねどこ」で、間口が狭くなっている。海岸に沿って薄暗い松林を横目に自転車で走る。

 能代港のすぐ横にある「はまなす展望台」に着いた。1階には北前船に用いられたと推測される碇が置いてあった。展望台の上からは北に白神岳が見え眼下には青々とした松原が横たわっていた。南には火力発電所らしき煙突が見えた。ガイドさんによれば、砂地(まさに能代がそうだ)が多い日本海側は地下に真っ直ぐ根が張って風が強くても倒れない黒松を植え、岩場が多い太平洋側は根が横に広がる赤松を植えるらしい。「風の松原」は江戸時代中期から作られ現在では700万本もの松が植えられている砂防林だ。東西平均1キロ、南北平均14キロ、760ヘクタールに及び100メートル×100メートルの中に1000本の松が植えられている計算になる。東日本大震災の時には侵入した波の勢いを弱めたという。展望台から元来た道を戻り松原の中へ入っていく。電動自転車なので多少の悪路も坂道も平気だ。薄暗く松以外の植物もたくさん生えていて雑木林のような感じだ。ジョギングしている人もいた。

 松は年間2000から3000本「松食い虫」の被害に遭っているが、松食い虫という虫は実際にはいない。マダラカミキリという虫が松の枝を噛んで食べ、その噛み口から線虫が松に入り、導管(根から水を吸い上げる)の中に線虫が詰まって栄養分がいかなくなって一度に全体が枯れる、というのが本当のところだそうだ。対策としては防虫剤をまいているけれど、植樹はある程度広い場所がないと苗に日が当たらないから簡単には植えられないそうだ。だんだん時間が無くなってきた。ガイドさんが近道をしようと果敢に草原の中へ入っていったが、ノイバラやニセアカシアのトゲに阻まれてなかなか進めない。急に大冒険になってしまって少し面白かった。

 

f:id:kotatusima:20191229122135j:plain(風の松原)

f:id:kotatusima:20191228203836j:plainはまなす展望台から、北方)
f:id:kotatusima:20191228202155j:plainはまなす展望台から、南方)
f:id:kotatusima:20191228202200j:plain(「風の松原」の遊歩道)

f:id:kotatusima:20191228202219j:plain(風の松原)

 

日和山方角石

 

 15時ころ、やっと「日和山方角石」に着いた。日和山とはその名の通り船乗りが空模様をみたり役人が港に出入りする船を確認するのに使った高台で全国に同じ名前で呼ばれる場所がある。方角石とは、これもその名の通り方位が彫られた石のことで、多くが日和山に置かれていた。ここ能代日和山に置かれた方角石は文化年間(19世紀はじめ)に設置された全国でも二番目に古いといわれているものだ。近寄って見ればところどころ欠けているのはお守りがわりに削って持ち帰られたかららしい。いまは松でほとんど見えないが江戸時代はここから日本海を見渡すことだできたことだろう。

 松原から出る途中「景林神社」と看板に書かれていたのは松の植栽を指揮した久保田藩士の賀藤景林(かとうかげしげ・1768~1834)を祀る神社で、賀藤より前に同様に植栽を手掛けた栗田定之丞(1767~1827)の神社も秋田市内にあるらしい。それだけ松原の造成は大事業であり、松原は市民の生活に大きな役割を果たしているということだろうか。松原の外周に沿って次の目的地へ向かう。一部、雑木や草がきれいに刈り取られたところがあった。白砂青松はさすがに難しいが松原の入り口から40メートルくらいの手入れしているところがあるとのことだ。

 

f:id:kotatusima:20191228203639j:plain(方角石)
f:id:kotatusima:20191228203628j:plainf:id:kotatusima:20191228203706j:plain(松原の松)

 

・紙谷仁蔵の墓

 

 15時半頃、光久寺の「挽き臼の墓」に着く。お寺の入り口横に何基か並んだ石碑の端に急に挽臼が置いてある。付近にはそのいわれを説明するような看板なぞはなにもない。これは瀬戸内海塩飽諸島出身の北前船の船乗り紙谷仁蔵(かみやにぞう)の墓石だといわれている。仁蔵は天保の大飢饉に苦しむ人々に積み荷の米を降ろしておかゆを振る舞い、のちに能代に住んでそば屋を営んだ。そのため墓石が挽臼の形なのだという。この話に関する資料は特に残っていないらしいが、話だけが今日まで伝わり2012年にはミュージカルになっている。ここで少し石臼の絵を描いた。

 

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(紙谷仁蔵の墓)

 

・金勇

 

 16時ころ、やっと今日の最終目的地である「旧料亭金勇」に着いた。自転車を停め、すぐ隣の八幡神社を少しだけ見た。ここの御神燈は大阪の廻船問屋が奉納したものだ。境内には何本も立派な木が生えている。大火で金勇が燃えなかったのはこの鎮守の森の木々から出た水蒸気のおかげなのだという。

 16時半ころから金勇を見る。1890(明治二十三)年創業で、現在の建物は1937(昭和十二)年のものだ。秋田杉の大型木造建築であり、また当時の最先端の技術で作られたことにより国の登録有形文化財に指定されている。1000坪の敷地のうち300坪を二階建ての建物が占める。大部屋が2、小部屋が5あって部屋の名前はすべて小唄からとられている。質素な数寄屋作りではあるが、それぞれの部屋で別々の大工の腕を競わせ天井や欄間、襖も床の間も全部違うという点は非常に贅沢だ。「能代には立派な材があるのにいい建物がない、将来のためにいい材木を使った誇れる建物を建てたい」という想いから当時の営林署長の協力も得て作られた。1階の大広間の天井板は10メートルの間に節も割れもまったくない奇跡のような秋田杉の大木が使われており木に合わせて部屋の大さを決めたという。天井板は暑さ1センチと2〜5ミリで相当腕のいい職人が手で製材したことが鋸の跡からわかるのだ。

 

f:id:kotatusima:20191228204844j:plain(金勇)

 

能代を去る

 

 17時過ぎ、やや端折りながらに金勇を見終わって外に出るとぽつぽつ雨が降ってきた。急いで駅前に戻って借りていた自転車を返した。ガイドさんとはここで別れた。盛りだくさんの能代見学だった。17時47分の秋田駅行きのバスに乗る。疲れて帰りのバスでは寝てしまった。19時ころ秋田駅に着いた。改札を出て秋田駅の近くで何か食べて帰りたい気もしたが、時間を持て余しそうなので早く帰ることにした。19時19分発の酒田行きで新屋駅へ向かう。切符を買って改札を通ろうとすると駅員さんに手を突き出されハンコを捺された。この仕草でよそ者だとバレただろう。20時前に新屋の滞在施設に帰宅した。どうしてもカレーが食べたくて近所のコンビニでカレーを買ってきた。部屋の床の間に買ってきたべらぼう凧を並べて飾ってから寝た。

 

f:id:kotatusima:20191228204849j:plain秋田駅に帰って来た)

f:id:kotatusima:20191228205049j:plain(滞在先の床の間)

 

 

 

 

 ⑤に続く・・・。