こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記 跋

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(左:私が秋田に来る前から時々実家で取り寄せて食べていたハタハタのいずし

 右:秋田に来てたまたま訪れた中山人形の工房で買ったハタハタの土鈴)

 

 

 

 この「秋田日記」は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。以下の文章は跋、すなわちエピローグです。SPACE LABOのコーディネーターであったFさんに向けて滞在後に送ったメールの内容になります。

 

2019.12.01.

 

Fさん

 

 10日間の滞在が終わりました。ここで忘れないうちに今回の滞在で調べたことや見たものをまとめました。ちょっと長くなりますが。
 
北前船について


 日本遺産・北前船のサイトに載っている場所を中心に文化財を見に行きました。例えば廻船問屋や船乗りたちが奉納した灯篭や鳥居がそうです。それらはもちろん北前船の往来が盛んだった当時を思い起させるものでしたが、今回の滞在ではそれ以外にも思わぬところで北海道と秋田とのつながりの証になるものを見つけました。例えば能代市の稲荷神社・恵比寿神社の船絵馬はかなり最近に北海道の漁師から奉納されたものでしたし、由利本荘市の松ヶ崎八幡宮にあったイカ釣り漁船の絵馬も北海道の様子を描いたものでした。船乗りに好まれたというアイヌの伝統的な衣服である「アットゥシ」(厚司)も何点か見ることができました。
 船絵馬については以前から北海道の神社でいくつも見たことがありましたがそれらと同様のものが秋田でもたくさん見られたことから、改めて秋田と北海道、そして日本海沿岸をつないでいた人々の存在を感じました。いわゆる髷絵馬が見られたのもよい経験でした。時に危険な北前船の航海で、神仏に祈るしかなかった船乗りたちの想いが生々しい髷として目の前にぶら下がっていると、不気味さや気持ち悪さもありつつそれ以上に、良いでも悪いでもなく幸福でも不幸でもなく「そういう人々がいた」という事実が強く目の前に突き付けられるように実感されました。
 今回は北前船が秋田にもたらしたもの、それも特に物質文化をたくさん見つけました。そうなると今度は逆に秋田から全国にもたらされたものも気になってきます。また、北前船によって秋田にもたらされた非物質文化(精神文化など)について探っていくこともできそうだと感じています。
 
平福父子のアイヌ絵について


 平福父子については角館の平福美術館と秋田県立近代美術館平福穂庵展を見ました。また生家跡や墓域などゆかりの場所にも行きました。「アイヌ絵」(アイヌ風俗画)とは江戸時代中期の小玉貞良から明治時代初期の平沢屏山(1822~1876)あたりまでの絵師を含む、和人(大和民族)がアイヌ民族を題材にして描いた絵の総称といっていいと思いますが、時に誇張や偏見に基づいて描かれ、同じ構図やモチーフが繰り返し描かれただけの粗悪な作例も多いと私は思っています。
 今回「アイヌ絵」を実見できたのは穂庵のみですが、図録で見て想像していたよりもずっとモチーフを咀嚼して絵にしているなという印象を受けました。穂庵が「アイヌ絵」を描くうえで影響を受けたとされる平沢屏山が経験したのと同様に、穂庵も浦河に滞在した際にアイヌの集落を訪れたことがあったのかもしれません。管見ながら、穂庵の「アイヌ絵」は男性が刀のつばのような首飾りをしていることが特徴ではないかと気がつきました。こういう例は僕はあまり他で見たことがありません。
 穂庵と北海道の関係でいうと「鮭之図」が興味深かったです。これは蠣崎波響(1764~1826)という円山派の絵師に倣った作品なのですが、この波響は江戸時代に北海道島にあった松前藩の家老でもありました。波響の代表作に「夷酋列像」というアイヌ民族の指導者を描いたとされる作品もあります。これについて穂庵が知っていたかどうかはわかりません。穂庵の師である武村文海(1797~1863)は四条派(四条派は円山派から出た流れ)の絵師なので、普通に理解すれば近しい流派の絵師として参考にしたということでしょう。でも、そこで敢えて穂庵が北海道へ何らかの想いを持っていたと考えてみるのも面白いかな、と私は思うのです。
 角館を訪れて良かったのは「秋田蘭画」について少し知れたことでした。百穂は秋田蘭画の研究書も執筆していますよね。秋田蘭画の代表的な作者である小田野直武(1749~1780)は司馬江漢(1747~1818)に影響を与えたらしいのですが、司馬が師事した宋紫石(1715~1786)に波響も師事していたりと、意外なつながりもあるようです。
 今回は百穂の作品はあまり見られませんでしたが、学芸員の方からご意見をお聴きしたり角館に行ったりして、かなり自分なりに問題点がはっきりしてきたように思います。当然ながら穂庵にしても百穂にしても、その作品が描かれた背景への洞察なしにはなにも考察し得ません。穂庵と百穂は近代日本画の歴史のひとつの側面を体現しているような画家だと私は思うのですが、だとすればその画業において描かれたそれぞれのアイヌの表現の違いにはある種の日本画の変化が現れているはずです。それが分かるためには日本画そのものの研究が必要でしょう。また、上記の宋紫石が教えていたのは長崎から輸入された中国の画風ですが、司馬江漢など日本の洋風画にも影響があるようです。日本と他文化との交流の視点からも広く検討すべきだということも感じました。

 

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③佐藤家について


 今回の調査ではまず初めて自分の戸籍を取り寄せて父から祖父、曾祖父へと遡りました。昔の戸籍は家単位で様々な人が入っているのに驚きました。その段階で父やKおばさんから聞いていた人名の間違いなどもいくつかわかりました。後から鷹巣に行ったときに、自分の本家筋に当たる人の名が分かっていることは役に立ちました。古い写真をかなり見せてもらいました。曾祖父母や大叔父大叔母たちの顔は、ほとんど初めて見るものでした。「自分と血がつながっている人々がこんなにたくさんいたのだ」という素朴な事実に驚きました。ただ、私が一番気になっていた曾祖父の詳しい経歴はまだ調べられていませんし、曾祖父や先祖のお墓参りも出来ていません。少し、不完全燃焼です。

 それでも収穫は大きかったですし、なにより無事滞在を終えることができてホッとしています。いま思うと、私がこうして秋田に来られたのは本当に不思議で、偶然のつながりだなと感じます。


 僕の祖父や曾祖父が秋田で生まれたということや、私がそれについて調べるということとは、いったい私にとって何なのでしょうか。ある土地に人が何らかの感情をもったり住んだりするということとは何なのでしょうか。秋田にルーツを調べにきたことは、秋田で初めて会う人と話すきっかけになったり自己紹介しやすくなったり自分に興味を持ってもらいやすかったりしました。でも、そこに人は何を見出しているのでしょうか。その土地に人が根付いたり親近感をもったりするのは偶然の出会いなのかもしれません。ただ、私にとっての秋田は僕が生まれる前から決まっていたつながりでもありました。私が秋田に来たのは、運命的なつながりだったといえるのでしょうか。
 私の家はそもそも親戚付き合いが盛んではありません。ただ偶然、祖父と父とKおばさんがお互いにお互いのことを悪く思っていなかった(それは私にとってこれ以上ないくらい幸いでした)。それは運命と呼ぶにはあまりに心許ないつながりのように感じます。
 ですが、ともかくスペースラボで私は採用されました。そして私が今回秋田で得たのは、いま秋田に来なければ永遠に失われていたかもしれないものでした。それは見たことも聞いたこともなかった先祖や親戚縁者についての話です。KおばさんやTおばさんから、私が知らなかった誰かの「人となり」を感じさせるようなエピソードをたくさん聞きました。写真の顔を見てその人が誰かわかることもかけがえのないことです(私は秋田に来るまで曾祖父母の顔も知らなかったのです)。でも、それはその人を知っているということなのでしょうか。中山人形の工房で聞いた話が今回の滞在と本当にぴったりで、出来過ぎた話のように自分でも思いました。でもそれは本当にあったことなのです。人は「二度死ぬ」のかもしれません。私がエピソードを聴いて誰かを知ったこととは、聴く人にとっても話す人にとっても、何かを取り戻すことなのだと感じています。私も今度、父や母に私が知ったことを話してみたいと思っています。そのことで私は何かを取り戻せる気がしています。
 最近、知人に「もし自分がアーティストじゃなくてもルーツを探ったか、探ったとして、アーティストじゃなくてもアウトプットをしたと思うか」と訊かれました。たぶん私はアーティストじゃなくてもいつかは自分のルーツを探っていたと思います。でも、それを文章を書いたり絵を描くことでアウトプットしようとは思わなかったかもしれません。私がいまそれをしようと思うのは、私が聴いた私につながる誰かのエピソードのようなものは世にあふれていて、しかもそれは偶然に簡単に消えてなくなるものだと知っているからかもしれません。
 

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④秋田滞在を経て


 菅江真澄については今回はあまり調べられませんでしたが、さすが秋田の地誌を書いていただけあって行く先々でその足跡に出会いました。それで思い起こすのは松浦武四郎(1818~1888)です。北海道であれば松浦が残した幕末の紀行文がしばしば市町村史に登場しますし「北海道」という地名の名付けにも関わっているといわれるのであちこちに銅像が立ったりして親しまれています。それで私なりに「北海道の武四郎はところ変わって秋田に来れば菅江真澄になるのだな」という風に思って勝手に腑に落ちていました。Kおばさんの家に泊めてもらったお礼のように絵を描いて置いて来たのも、ちょっと菅江真澄っぽい振る舞いだな、と勝手に思っています。

 
 僕がやってきたことは、たぶんわかりにくいのでしょう。それは「リサーチ(調査)」でしょうか?「制作」?それとも「観光」?。

 「美術家なのに研究?」「調査だけでなく絵もお描きになるんですね?」と同じ日に別の人に言われたりしました。自分でもなにがなんだかわからなくなることがありますが、本当のところは調査でも研究でも制作でも観光でも、なんでもやりたいのです。気になる場所があればなるべく現地に行きたい。調べ物も好きです。時に、作品をつくることがやましいと感じたり、好奇心のままに調査することに罪悪感を覚えたりすることもあります。それでも何かしらやってきています。

 今はまだ秋田の滞在がなにに結実するかわかりませんが、私がやってきたことについて、できるだけたくさんの痕跡を残そうと試みました。それを勝手ながら、ただ誰かに見てほしい。そして誰かが勝手に痕跡から何かを見出せばいい。その元になるような種は撒けるだけ撒いたのだから。滞在を終え、そういう気持ちでいます。

 

佐藤拓実

 

 

 

 

・参考文献・論文

 
北前船について
・「北前船と秋田(んだんだブックレット)」加藤貞仁著、無明舎出版、2005年
・「北前船寄港地ガイド」加藤貞仁著、無明舎出版、2018年
・「北前船おっかけ旅日記」鐙啓記著、無明舎出版、2002年
・「秋田県の船絵馬について―所在調査報告―」木崎和広著、秋田県立博物館研究報告No.2所収、1977年

平福穂庵・百穂について
・「平福百穂アイヌ』周辺」山田伸一著、北海道開拓記念館研究紀要所収、2015年
・「評伝 平福穂庵」加藤昭作著、短歌新聞社、2002年
・「特別展 生誕百年記念 平福百穂―その人と芸術―」山種美術館、1977年
・「没後一三〇年 平福穂庵展図録」鈴木京・保泉充著、秋田県立近代美術館、2019年

その他
・「菅江真澄と秋田(んだんだブックレット)」伊藤孝博著、無明舎出版、2004年
・「秋田藩(シリーズ藩物語)」渡辺英夫著、現代書館、2019年
・「秋田県内絵馬調査報告」高橋正著、秋田県立博物館研究報告第26号所収、2001年
・「青森県の船絵馬」昆政明著、青森県立郷土博物館紀要第36号所収、2012年
・「アイヌ人物六曲一双屏風(東北福祉大学コレクション)と関連するアイヌ風俗画」佐藤花菜・濱田淑子著、東北福祉大学芹沢銈介工芸館年報16所収、2014年
・「本荘市史神社仏閣調査報告書 本荘の神仏像」大矢邦宣著、本荘市史編さん室、1998

 

 

(完)