こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

『見送る人々』とその一室について(「生誕110周年記念 阿部合成展 修羅をこえて~『愛』の画家」青森県立美術館、2020年11月28日(土)~2021年1月31日(日))前半

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 青森県立美術館の「生誕110周年記念 阿部合成展 修羅をこえて~『愛』の画家」を鑑賞してきた。

 私にとって阿部合成(1910-1972)は、少し前まで名前のほかはほとんど何もしらない画家だった。ただ、どこかで目にしていた代表作の『見送る人々』の印象はとても強く、漠然と時流に抗った作品だったのだろうと想像していた。美術評論家針生一郎による『修羅の画家 評伝阿部合成』という伝記があることも一応知っていて気になる画家のひとりだったが深くは追わずにいた。回顧展が開かれると聞いてせっかくなので2021年の「美術館はじめ」の展示とした。

 展示はやはり『見送る人々』を軸にまとめられており、以下ではこの作品について考えたことを中心に感想を書いた。長くなってしまったので前半と後半に分けた。前半部は主に展示の概要、後半部で『見送る人々』など個別の作品について書いている。

  

目次

 

・阿部合成の生涯

針生一郎『修羅の画家』を読む

・章立てごとの展示概要

・展示名、展示全体の印象、作品配置

・『見送る人々』について(後半)

・『見送る人々』の一室のほかの作品について(後半)

・まとめ(後半)

 

 

 
・阿部合成の生涯

 

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(展示室入口の様子)

 

 まず青森県立美術館ウェブサイトのページを参考に阿部の画業と展示内容を簡単にまとめてみた。

 阿部合成は1910年9月14日に現在の青森市浪岡に生まれ旧制青森中学を卒業。京都市立絵画専門学校で日本画を学び一度帰郷した後、上京して画家としての活動を始める。出征する兵士を見送る情景を描いた『見送る人々』は二科会に入選した出世作であり代表作だが雑誌に掲載された口絵をみた当時の駐アルゼンチン公使内山岩太郎が「頽廃不快の印象を与へ、日本人とはどうしても思へない」と取締りを要請、新聞に大きく報道されたことから「反戦画家」の烙印を捺された阿部は画壇から忌避され、また自らも画壇から距離をおいた。1943年に出征した阿部はシベリア抑留を経て1947年に帰国した。この経験は阿部の性格や作品に大きな影響を与えた。1959年に旅立ったメキシコでは日墨会館に寄宿し現地の日本人から歓待され当地の風俗などに影響をうけながら日本画やメキシコの壁画などの要素をとりいれ新たな画風を作り上げた。1960年10月帰国。1963-4年には再びメキシコに滞在。帰国直後の1965年には五所川原市金木町の芦野公園の「太宰治碑」を手掛け、以後1972年に亡くなるまで死、鎮魂、祈りをテーマとした。今回の展示では青森県立美術館が所蔵する約140点を中心にメキシコ滞在期に制作された作品も含め初期から絶筆まで油彩作品を約200点展示し、全貌を紹介する過去最大の回顧展となっている。

 

 

 

針生一郎『修羅の画家 評伝阿部合成』を読む

 

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(『修羅の画家 評伝阿部合成』書影) 

 

 今回、回顧展に行くことをきっかけに針生一郎による評伝を予習のつもりで読んだ(以下のページ数はすべてこの本からの引用箇所を示す)。

 この伝記は由利子夫人の手記を元に各種資料に当たって書き下ろされたものだ。淡々とした語り口は、やや「修羅」などという題と比較すると熱に欠け突き放したような冷静な文体だという感じを与えるが、合成が知人や夫人に宛てた手紙からの引用が却って目立つ効果を生んでいたと思う。

 伝記の最初は夫人が中年の阿部合成と出会った場面の述懐から始まり、そこで抱かせる画家の印象は「ゴリラ」(10頁)などと喩えられることからもわかるように豪快な変人の姿だ。阿部合成は太宰治と中学の同級生であり、学生の頃はどちらも作文や詩作を得意とし、しかも地主かつ政治家の息子でもあって非常に似た境遇にあった。合成はのち家業を手伝い小作人と契約を交わしたりもしていたようである。修羅とは醜く果てのない争いの意味である。画家の苦悩は芸術上のもの(自らが描くべき絵とはどのようなものか、など)ももちろん大きかったのだろうが、初めの妻との結婚関係、具体的にいえば金策も含めた家庭の維持もあり、戦後までは地主の立場への疑問でもあり、戦中の「反戦画家」の烙印、シベリア抑留を経て戻った戦後日本の姿もその悩みの対象としていたのだろう。阿部は日本でも制作のため滞在したメキシコでも一貫して民衆を描き、「修羅」を描き続けたと言ってもいいのかもしれない。評伝を読む限りでは、絵が評価されないことはもちろん人間関係や経済的な悩みの印象が強かった。ある意味で非常に俗な側面を持ち、であるからこそ切実に訴えかけてくるテーマとを持った画家なのだろう。以上がこの評伝のだいたいの感想である。

  

 

 

・章立てごとの展示概要

  

 今回の展示はモチーフごとに6つの章にわかれている。 年代順ではない。だが最初の部屋がもっとも新しい作品群で、最後の部屋で初期の代表作たる「見送る人々」へ展示を収斂させていくような構成になっていて、おぼろげに時間を遡っていくような感覚があった。各章はだいたい次のような内容になっていた。

 

  

f:id:kotatusima:20210123162524j:plain(第1章)

f:id:kotatusima:20210123201336j:plain(第1章、左から『ミイラ・声なき人々の群れB』1966年、『埋められた人々A』1966年、『埋められた人々B』1969年、青森県立美術館所蔵)

 

「第1章 祈りと鎮魂」は、晩年の亡者を描いた作品群を主に展示。太宰治碑の制作やメキシコ滞在を経て、戦争と抑留の体験が昇華されたものと位置付けている。

 

f:id:kotatusima:20210123162531j:plain(第2章)

f:id:kotatusima:20210123162852j:plain(第2章の次にくる印象的な3点。章立てとしては第1章に含まれる。左から、『インデオたちの祈り』、『マリヤ・声なき人々の群れA』、『インデオたちの祈り』いずれも1966年、青森県立美術館所蔵)f:id:kotatusima:20210123201112j:plain(左から1968年の『埋葬』(2点組)、1939年の『小さな埋葬』。どちらも栃木県立美術館所蔵)

 

 「第2章 故郷と家族」では家族や故郷の風景、祭りや民衆の生活を描いた作品を紹介。メキシコで書かれた3点は祭壇画のようで、この展示の前半のハイライトのひとつといえよう。特に埋葬を主題とする2点の作品は人物のポーズなどが共通するがそれぞれ戦前と戦後に描かれており、通底するテーマと画業の変遷を見て取れる。

 

 

f:id:kotatusima:20210123162602j:plain(第3章)

f:id:kotatusima:20210123204930j:plain(第3章、花を描いた作品を集めた壁面)

f:id:kotatusima:20210123204936j:plain(デッサンなど)

 

 「第3章 愛するものたち~様々な主題」では、動物、風景、人物、花など合成が生涯を通じて描いた様々な主題の作品を展示。阿部のモチーフの幅の広さがうかがえる一方、他の章にうまく収まらなかった作品をまとめた一角なのだな、という印象は拭えない。

 

 

f:id:kotatusima:20210123163926j:plain(第4章)

f:id:kotatusima:20210123204942j:plain(第4章、太宰治碑のための素描(スケッチブック)、青森県立美術館所蔵)

 

 「第4章 海を見る詩人 ~太宰治、山岸外史、文学者たち」は小さいコーナーで、評論家の山岸外史をモチーフとした絵や文学者たちとの交流を示す装丁の仕事、太宰治碑のエスキース新聞小説の挿絵などを展示。

 

 

f:id:kotatusima:20210123162901j:plain(第5章)

f:id:kotatusima:20210123204130j:plain(第5章、風船売りの作品群)

f:id:kotatusima:20210123204138j:plain(第5章、ピエロの作品群)

 

 「第5章 メキシコ、サーカス、道化」では板を彫り込み砂などを塗りこめて作られた特徴的なメキシコでの作品や、メキシコで目にし晩年まで描かれた闘牛士や風船売り、サーカスをモチーフにした作品を1室にまとめている。

 

f:id:kotatusima:20210123162928j:plain(第6章1室)

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(第6章、『鱈をかつぐ人』1937年頃、神奈川県立近代美術館所蔵)

f:id:kotatusima:20210123163009j:plain(第6章2室)

 

   「第6章 『見送る人々』と壁画の夢」では『見送る人々』と同時期の阿部の関心を示す作品を展開。従兄弟の常田健ルネサンス美術やメキシコ壁画運動を研究するグループを作ったころにともに旧居に描いた壁画などを展示していた。

  

 

 
・展示名、展示全体の印象、作品配置

  

 展示名「修羅をこえて~『愛』の画家」は「修羅」を針生の評伝の題からとっていて、一見「修羅」よりも「愛」の側面を強調したいようでもあるが、実際は一種の解釈の幅の中での表現で、阿部は「修羅」の画家であり「愛」の画家であると呼ぶ方が相応しかろう。どうしても針生の評伝をベースにして展示をみてしまったきらいはあるが私としては「修羅」の印象が大きく覆ることはなかった。
 作品の色合いは初期はバーントアンバー系の茶の混じったような感じで年々彩度がきつくカラフルになっていったようだ。日本画を学んだ阿部だが青森では寒くて膠がすぐ固まってしまうため卒業後は油絵を描くようになったらしい(58頁)。あえて日本画風の特徴を指摘するとすれば特に戦後の作品にみられる簡略化されたタッチには水墨画のような筆の動きへの意識が感じられるし、いくつかの絵のざらざらしたマチエールも日本画の顔料を思わせないこともない。

 展示風景で印象的なのは小作品が多いことで、例えば針生も阿部の60年代後半の制作について次のように書いている。「無名で異端の画家だった時代は、生活にも追われていたから、計画され描きこまれた少数の作品に限定せざるをえなかったが、この時期は自由な制作に集中できて大作への意欲も捨てきれない一方、当面の仮住まいを由利子のために何とかしたい、という気持ちもあったにちがいない。それだけに円熟にむかうべき時期に、彼は酔いにまかせて即興の詩を口ずさむように、筆の走るままに小品ばかり描きすぎた、という批判も周囲にはある」(210頁)。「修羅」の画家らしいと言うべきか、生活に追われつつ必死で絵を描き続けた集積だと思うと見ていて少し胸が痛くなる。小作品の多さゆえ二段で作品が掛かっている壁面もあり、同じモチーフの作品の関係性は把握しやすいもののやや窮屈で少なくとも一点一点をじっくり見せるような配置ではないと感じた。カタログレゾネのページをめくった時に羅列された小さい作品画像が目に入った時のことを思い起こさせた。

 また、4章を除くすべての章のはじめに自画像が置かれていたのが目についた。『見送る人々』は絵の右半分には阿部自身や家族、知人の姿が描きこまれており、この作品をひとつの自画像であるとすれば各章の自画像は第6章への伏線と捉えることができるだろう。

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(左から『自画像(絶筆)』1972年、『自画像』1947年、『自画像』1947年、『自画像』1960年、以上青森県立美術館、『自画像』1936年、神奈川県立近代美術館

  

  

 

 後半に続く・・・。

 

 

 

(続きはこちら)

kotatusima.hatenablog.com

 

2021.1.26. 一部主旨が変わらない範囲で言い回しを変更、語句追加