こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

備忘録・2020年後半の良かった美術展と2020年のまとめ

・2020年前半はこちら→(備忘録・2020 年前半の良かった美術展 - こたつ島ブログ

 

・7月

 

 レジ袋有料化開始、球磨川の氾濫に代表される西日本の豪雨、「盗めるアート展」などがあった7月。まだギャラリーや美術館の予約制にも慣れず、見る側も見せる側もまだ様子見といった感を残していた。

 その中でも今年、六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートの「フェリックス・ゴンザレス・トレス 『無題(角のフォーチュン・クッキー)』」を世界で同時に展示するプロジェクトを見に行ったことはこれからも強く記憶に残っていくことと思う。このプロジェクトは、フェリックス・ゴンザレス=トレス財団と、その管理母体であるギャラリー、Andrea RosenとDavid Zwirnerが発案したもので、個人宅を中心とした世界中の1000箇所が招待されているそうだ。5月25日から7月5日までのプロジェクトなので、私の手元にあったフォーチュン・クッキーが作品であるのは7月5日までだった。人々の間に作品が拡散していく様は次のハッシュタグで見られる。

#FGT🥠exhibition  #FGTexhibition  #fgtexhibition

 


f:id:kotatusima:20201230141858j:image

f:id:kotatusima:20201230141903j:image

(左、展示風景 右、持ち帰ったフォーチュンクッキー

 BANKARTSILK「アイムヒアプロジェクト/渡辺篤『修復のモニュメント」」は、ひきこもり経験者の作家が、ひきこもり当事者や経験者と対話しながら記念碑を作り、壊し、金継ぎで修復・再構築するプロジェクトの記録。そこで語られ、壊され、再構築されているものは何なのか。ウェブサイトには「伴走型の新しい当事者発信の形の模索」とあった。誰かの経験を取材し作品で取り扱う際の作家の立ち位置や作家が介入する意味、作家が取材対象に何を還元できるか、というような問題を鮮やかにクリアしているように見えた。今後のプロジェクトの展開、継続が楽しみだ。

 

・8月

 
 個人的に興味をひかれたのは日本民藝館洋風画と泥絵 異国文化から生れた工芸的絵画」。西洋の遠近法が民間で土産物の風景画に用いられている、その受容の仕方が興味深かった。閉廊時間が早まっていたが、昨年に引き続き日本画廊「山下菊二展」を見た。

f:id:kotatusima:20201230141954j:plain
f:id:kotatusima:20201230141950j:plain




・9月

 
 東京藝術大学美術館陳列館「彼女たちは歌う」は、今年最も話題になった展示のひとつだったと思う。女性の作家のみを集めたグループ展だ。久しぶりにスプツニ子!の《生理マシーン、タカシの場合。》(2010)を見た。百瀬文《SocialDance》(2019)では、旅先での振る舞いをめぐってカップルが揉めるというよくありそうなやり取りが手話で繰り広げられる。彼氏が彼女の手を握ることで彼女の口(である手)を封じる、その見た目とは裏腹の行為の暴力性にハッとした。山城知佳子《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)は、沖縄の現在進行形の事象を具体的に扱いながら、非常に創造的な作品だった。米軍基地移設のため海を埋め立てる男と妻、その土地の精霊、土地を守る老人と孫娘が登場し、オペラであり、沖縄の伝統芸能であり、ドキュメンタリーでも家庭劇でもあるような作品だった。すごかった。

 

f:id:kotatusima:20201230142438j:plain
f:id:kotatusima:20201230142435j:plain

(左は百瀬文《SocialDance》(2019)の一場面)

 ギャラリーアートもりもとの「柏木健佑展『イメージです』」では、柏木がvoca展に出品していた頃の寺山修司とか鈴木清順のような感じから脱してきて画面からは人間を含む動物がほぼ居なくなり、大小のキャンバスで壁を埋めるインスタレーション的な展開をしていた。絵のモチーフと似た謎の土のオブジェもあり、現在進行形の絵画の実験と苦闘が垣間見えた。作家から話を聞いた際の「像のありかが分からない」「スピード感を持って描きたい」「監視カメラのように描きたい」などの言葉が印象に残った。

 

f:id:kotatusima:20201230142545j:plain
f:id:kotatusima:20201230142548j:plain

(左、柏木の展示風景 右、謎のオブジェ)


 ゲンロン五反田アトリエの「ゲンロン新芸術校第6期グループA かむかふかむかふかむかふかむかふ」では、堀江理人の作品に興味を惹かれた。絵画を用いたインスタレーションで、家族写真のような絵画の大作を中心に、北海道のローカルな美術史上重要な写真を絵画化したものや、彼の家族が撮ったらしい写真や北海道土産の木彫、北海道美術史の本などが周囲に点在し、ラジカセからは彼と父の話し声が聞こえている。何やら美術の話をしているらしい。彼の父は部屋に横山大観セザンヌの複製画を飾り彼が美術に興味をもつきっかけを与えた。

 会場で配布しているテキストでは、日本美術が描いてきた「くらい」「くらし」の洋画の系譜(福田和也『日本の家郷』より)に、神田日勝など北海道出身者や在住者が発表してきた作品と、彼がテーマにしてきた「堀江家」の家族の暮らしを題材にした作品を位置付けている。そしてさらに西洋美術の素朴で無自覚な受容に「くらい」「くらし」の洋画の系譜の遠因を見ている。私がこの作品を面白いと思ったのは、日本美術の本流を北海道という僻地の「くらし」を描いた絵画に見出したかにもとれる切り口とともに、堀江がその「くらし」の「くらさ」に強く共感しつつ断ち切ろうとしてもがいているからだ。出口がないように見える「くらし」をどう受け入れたりやり過ごしていくのか、そして美術作品にそれがどう表れるのかは、決してローカルな問題でも机上の空論でもなく、地に足のついた切実で興味深い論点だと思う。そこで「描くこと」「書くこと」や「撮ること」つまり「作ること」の哲学を、素朴さに頼らずどう深化させていくか、気になっている。

 

f:id:kotatusima:20201230142614j:plain
f:id:kotatusima:20201230142617j:plain

(左、展示入口 右、堀江のインスタレーション全景)


 多摩美術大学美術館の「真喜志勉 TOM MAX Turbulence1941-2015」は展示パンフレットなどを含むオーソドックスな構成の回顧展。真喜志はアメリカの文化に深く親しみながら、沖縄を描いてきた。二階の展示室ではジャズに合わせて左官の格好をして真喜志がライブペイントやってる記録映像があって、そこから流れてくるジャズを聴きながら平面作品を見られたのがよかった。

 

f:id:kotatusima:20201230142650j:plain
f:id:kotatusima:20201230142645j:plain

(左、展示風景 右、展示ケースには資料とともにレコードのジャケットも展示されていた)


 武蔵野市立吉祥寺美術館の企画展「岡田紅陽 富士望景ー武蔵野から」も駆け込みで見に行った。岡田の代名詞である富士山の写真をコンパクトにまとめて見られた。関東大震災の被害を撮影したり、写真が外国に送られたり、作品が千円札の絵の原画になったり、岡田紅陽は様々な語り口がある。富士山以外も含むさらに規模の大きい展示も見たい。一点気になったのは、紅陽の写真作品の額装がどこか日本画っぽくて独特だったことだ。明るい茶の木製の額の内側にベージュ系の布張りで真鍮か何かの金の縁がついたマットが入っていた。何点かは写真の上に金で「紅陽」とサインされていたから、尚更日本画っぽかった。武蔵野市が作品を所蔵する時にそうしたのだろうか。その額装にも岡田の仕事の立ち位置が表れているようだ。

 

f:id:kotatusima:20201230142705j:image

 

 

・10月

 
 4月末から開催予定だった、市立小樽文学館竣工50年 北海道百年記念塔展 井口健と塔を下から組む」が延期されやっと3日から始まり、初日は鼎談に登壇した。延期に伴って井口健さん往復書簡を続けたり、展示に合わせて2018年のグループ展の記録冊子を準備したりと、今年はここまで特に慌ただしかった。展示最終日の座談会は中止したが会期を全うできたことは幸いだった。

 

f:id:kotatusima:20201230142803j:plain
f:id:kotatusima:20201230142807j:plain

(左、小樽文学館入口 右、展示風景) 

 

 500m美術館の「 vol.33 反骨の創造性」は、北海道出身・在住の代表的な現代美術作家のグループ展であった。特に写真家の露口啓二の作品に興味を惹かれた。松浦武四郎がカタカナ表記したアイヌ語の地名をもとに沢を撮影した作品。撮影は視覚的に限定された条件で行われているらしいが、さすが写真家というか、あまり撮影の条件の不自由さは感じなかった。この作品では、武四郎のカタカナという文字による記録の暴力性と、写真が出来事を瞬間に固定してしまう性質を重ねて捉えているそうだ。それは最近の私の制作にも関わることだし、前にSNS上でアイヌのビジュアルイメージについて少し話題になっていたのを見たが、そことも関わってきそうな視点と思う。


 ギャラリー58 の「中村宏 4/1について」は、ちょうど日本画廊の「山下菊二展 -collage-」と一部会期が重なっており、戦後日本美術に興味を持っている私としては堪らなかった。

 

 


11月

 茨城県陶芸美術館企画展「人間国宝 松井康成と原清展」は、偶然近くに行ったので見たが素晴らしかった。陶芸の表現の幅の広さと最高の技術を味わえた。

 

f:id:kotatusima:20201230143134j:plain
f:id:kotatusima:20201230143139j:plain

(左、原の作品 右、松井の作品)

 

 春から延期になった「さいたま国際芸術祭2020」も10月に入ってようやく開幕した。特に興味深かったのは旧大宮図書館の会場(アネックスサイト)の、カニエ・ナハと北條知子のインスタレーション。一見なにもない、古びたがらんどうの部屋が、いくつかのテキストによってかすかな痕跡が指し示されることで、まったく違ってみえた。詩人の言葉の力を感じた。
 旧大宮区役所(メインサイト)で、ふと、テリ・ワイフェンバックの桜の写真を見ているときに、外出の「自粛」という奇妙な事態で、失われた今年の春を想ってなんとも言えず、こみ上げてくるものがあった。

 

f:id:kotatusima:20201230143210j:plain
f:id:kotatusima:20201230143233j:plain

(左、カニエ・ナハと北條知子の展示風景 右、テリ・ワイフェンバックの展示風景)

 

 知人に勧められて見た東京国立博物館桃山―天下人の100 年」で、狩野永徳の唐獅子図屏風を見られたのは貴重な経験だった。想像の1.5倍大きかった。

 
 日本民藝館の「アイヌの美しき手仕事」は、以前札幌でも見た展示だったが行ってみた。結果、展示構成の違いから日本民藝館の独特なスタンスがわかった。

 札幌会場では柳宗悦のコレクションと芹沢銈介のコレクションをそれぞれ別の部屋で展示したり、民芸館では展示されていなかった川上澄生のコーナーなどを作って、柳や芹沢の紹介はもちろん北海道と民藝運動の関わりを丁寧に紹介していた。

 一方で民藝館会場ではほぼ解説なしでモノを見せている。これは民藝館としてはいつも通りの見せ方ではある。展示図録と今回の展示に合わせた雑誌『民藝』はすべて売り切れだったので関東でもアイヌ文化への関心が高いことが伺い知れた。展示物を虚心坦懐に見ることは鑑賞の基本であるが、美術館・博物館やそれに類する施設の使命はそれだけではない。山本浩貴が端的に指摘しているように、この展示にはアイヌ民族が辿ってきた歴史についての最低限必要な解説が欠けており、多少でもアイヌへ関心を持ってきた者は違和感を覚えざるを得ないだろうし、誤解を招く表現がない代わりに先入観の訂正もない。もし日本民藝館民藝運動の称揚や柳らの神格化だけの内向きな展示ばかりしているのだとすれば、ある程度は仕方がないにしろ、運動の本質からは逸れていくだろう。その再検証を通して民藝運動の更新をしていけるようでなければ民藝に未来はないと私は思う。

 

 

 
12月

 
 国立歴史民俗博物館性差(ジェンダー)の日本史」は、今年最も話題になった博物館展示のひとつだったのではないか。私たちの多くが内面化している女性に関するイメージや伝統・慣習として語られがちな姿が、時の流れとともにいかに移り変わってきたのか、また地域によっても違うのか、全国各地の資料を駆使して紹介していた。例えば、労働力としての女性の姿がしばしば無視されてきたこと、(地位にもよるのだが)政治的権力や財産権が平等だったり、職業の男女差や差別が少なかったことなどだ。
 展示後半は、日本における売春業の成り立ちから、特に近世以降の人身売買による売春の制度を丁寧に紹介していた。江戸時代は借金の返済のためやむを得ず…とされていた売春が、近代以後は実態とかけ離れた「自由売春」とされ、偏見の目にさらされる流れなど、興味深かった。
 

f:id:kotatusima:20201230143837j:plain


 相模原市のパープルームギャラリーで開催された「青春と受験絵画」では、美術大学受験のための予備校で練習され、入学試験時の限られた時間と与えられたテーマで描かれる、いわゆる「受験絵画」を展示していた。私は受験絵画を通過せず大学院まで出てしまったので却って受験絵画に興味があり「『フツウの美大生』の通る道ってどんなものなんだろう」と思いながら見に行った。ある予備校が所蔵する30点ほどを見ることができるのみだったが幅広い年代の受験絵画が展示されており珍しい機会だったといえよう。それぞれの時期の出題傾向や講師によって多様な受験絵画が生まれた、その片鱗は感じられた。美術予備校を知らないで呑気に見れば様々な画風を実験した絵画群としか見えないかもしれない。その背景には「個性とは?」「優れた美術表現とは?」という問題が横たわっている(その論点については荒木慎也の論文「受験生の描く絵は芸術か」に詳しい)。意欲的な展示だと思った。

 

f:id:kotatusima:20201230143842j:plain

(パープルームギャラリー 展示風景) 

 

  東京都写真美術館瀬戸正人 記憶の地図」は、日本人の父とベトナム人の母のもとに生まれ、タイと日本を往復しながらアジアの人々を撮影してきた写真家の回顧展。作品は年代順ではなく6つに分かれていて、はじめに最新作の「Silent Mode 2020」が展示され、続けて「Living RoomTokyo」、「Binran」、「Fukushima」、「Picnic」、「Bangkok, Hanoi」となっている。展示を見るまであまり瀬戸のことを意識したことはなく「Picnic」の印象が強かったが、人間の本質的な部分を、いかに目に見える表面的な部分から浮かび上がらせることができるか、という通底した問題意識が感じられた。

  

f:id:kotatusima:20201230143647j:image

 

 

・その他

 

 以上、取り上げたほかにも原爆の図丸木美術館「砂守勝巳写真展 黙示する風景」、銀座メゾンエルメス フォーラムベゾアール(結石) シャルロット・デュマ展」、Kanzan gallery 「佐藤祐治 水が立つ」、東京ステーションギャラリーもうひとつの江戸絵画 大津絵」、東京都写真美術館TOPコレクション 琉球弧の写真」など、面白かった。

 

 ・まとめ

 

 後半に特に面白い展示が多かった気がする。アイデンティティのあり方、特に複数の土地に関わるそれを扱った作家・作品に興味を持ってきたことを感じる。

 

 自身の作家活動としてはいくつかの展示が中止や延期になり結果として「北海道百年記念塔展」に関係することが一年を通して大きな比重を占めた。初めて本の編集をやってみたり、制限された中でも周囲の協力を得ながらそれなりに動けたのはよかった。

 

 映画については美術館・博物館展示以上にちゃんと見ることができていない。両手で数えられる程度だ。気が向いたら別稿で書きたい。

 

(終)