こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記① 2019.11.7. ~11.8.

f:id:kotatusima:20191228181001j:plain (宝塔寺五重塔スケッチ)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした11日間の記録です。

 滞在の成果は12月14日~22日に発表されました。

 この「秋田日記」にはがあります。よければ一緒にご覧ください。

 

 まず東京から秋田へ向けての出発から日記は始まります。

 

 

 

11月7日 東京から秋田へ

 

f:id:kotatusima:20191228181105j:plain(東京・新宿駅

 

・高速バス

 

 キャリーバックに荷物をまとめ22時45分頃に家を出た。駅ビルはもうクリスマスのイルミネーションが光っていた。帰宅するサラリーマンやOLに紛れて新宿へ向かう。22時過ぎに乗る電車は乗客と同じように薄汚れてどこか疲れた風に見えた。高速バスは23時30分に出発する。集合時間には間に合ったがバスのターミナル到着が遅れているらしい。時間を潰そうとツイッターを見ていると札幌の初雪の様子を何人かの知り合いが投稿していた。今年もまた冬がやってくる。ふと秋田の天気を携帯で調べてみようと思った。この先あまり良くはないようだ。「北日本は雪」という文字も目に入る。

 

 バスは定刻より10分ほど遅れて出発した。運転手の車内アナウンスも急いでいる風で早口に聞こえる。なんだか慌ただしい旅立ちになってしまった。くれぐれも焦らず安全運転をお願いしたいなぁと思いつつ目を瞑った。移動中、何度か目を覚ましたが一度もバスから出ることはなく、疲れもあってよく寝ることができた。

 

 

 

11月8日 秋田の第一印象と秋田市北前船の遺産

 

f:id:kotatusima:20191228181619j:plain秋田駅東口) 

 

秋田駅

 

 気がつくと翌朝7時半過ぎ、横手駅付近にいた(この駅には旅の最終日にまた来ることになる)。たぶん外気が相当冷えていたのだろう、カーテンの隙間からこっそり外を眺めようとしたら窓ガラスが曇って何も見えなかった。さっそく秋田の寒さを思い知らされた。バスは9時過ぎに秋田駅東口についた。下車して今回の企画のコーディネーターであるFさんに連絡をとる。駅に隣接するNHKの前で待っているとFさんがやってきた。今日は車で案内してもらって秋田市内の北前船に関する史跡をまわる。東口から車が停めてある西口へ移動する。どこの街の駅でもふたつ入り口があれば賑やかな方とそうではない方にはっきり分かれるものだが、秋田駅の場合は西口の方が賑やかなようだ。改札の前には竿燈や提灯、秋田犬の大きな作り物(しかも2種類ある)、なまはげの面などが並ぶ。観光客の多くがここで記念写真を撮るのだろう。私もつい写真撮ってしまう。

 

f:id:kotatusima:20191228181632j:plain秋田駅改札前のでっかい秋田犬)

 

 朝食がまだだったのでコンビニに寄って暖かいお茶とパンを買った。

 西口直結の商業ビルが12月からの私の発表場所になっているので、まず下見に向かった。ふつうのビルかと思いきや私が展示するフロアーは少し雰囲気が違い、子供向けの図書館や学生が勉強しに来る自習室、秋田公立美術大学の展示スペースなどがある。テーブルや椅子が置かれてお年寄りが休憩したり談笑するような一画で展示することになりそうだ。ここを行き交う人々からは思わぬ反応が得られそうだと思う一方、見栄えがしたり展示のために整っていたりする場所ではないというのは少し手間だと感じる。

 

f:id:kotatusima:20191228182123j:plain(車で官庁街を通る)

 

 10時半頃に秋田駅を出発した。助手席から秋田の街を眺めながら秋田の県民性についてどう感じるかFさんに尋ねた。Fさんと私は共に秋田出身ではない。そういう立場から秋田がどう見えるのか気になったのだ。Fさんによれば、秋田の人はまじめで勤勉。そして保守的であり企業のトップも高齢の男性が多く、若い人は仙台や東京に出て行くことが続いていたらしい。ただ最近は少し若い人が戻ってきて仕事を始めたりする動きもあるとのこと。また他の都道府県と比べるとナンバーワンとワーストワンが多く、偏差値や自宅自習率はナンバーワンだが大学進学率は低く自殺率が高い。また日照時間は短いらしい。今回の滞在でも秋田の曇りや雨の多さは感じることが多かった。

 

・宝塔寺、西来院、高清水公園

 

 一つ目の目的地の宝塔寺には寺の名前が示す通り石で作られた五重塔がある。11時頃、住宅の間の道を抜けると「五重塔」の看板があった。車を停め、突き当たりにある山門をくぐる。門の脇にはお題目を掘った石がいくつかあり日蓮宗の寺だとわかる。仁王像は最近塗られたらしく剥げが見当たらないが像そのものは元禄頃まで遡る。坂を登って行くとお堂があり日蓮上人の銅像があった。傍に目をやると、墓石と並んで古い芭蕉の句碑もあった。さらに坂を登ってみると日蓮宗の守護神である「七面天女」やお稲荷様の小さい社があったのでお参りする。妙見菩薩の石像もあった。このあたりに石塔はないようだった。「五重塔」の看板があったところまで引き返し、看板の矢印に従って道を進むと右手に林の中へ続く細い坂道があった。木の間を抜けると視界が開け色づいた木々を背景にやや黄色がかった石塔が姿を現した。その光景にはっとさせられた。塔は高さ約9メートルあり、秋田市指定文化財になっている。

 

f:id:kotatusima:20191228182749j:plain(宝塔寺にて)

f:id:kotatusima:20191228182807j:plainf:id:kotatusima:20191228181652j:plain(宝塔寺五重塔) 

 

 近くには十字架が彫られた在日コリアンの慰霊碑もあり漢字ハングル混じりの碑文が彫られていた。ここで1時間くらい石塔の絵を描いた。一説によればこの石塔は土崎湊に来航した西国の船がこの寺院の守護神である七面大明神に祈ったために難波を逃れたお礼として大阪から船で運んで奉納したものだそうだ。まさにさっき拝んだ七面天女がきっかけで建てられたということになる。Fさんと、これからの旅の良い安全祈願になりましたねなどと話す。

 

 12時過ぎにすぐ近くの西来院へ向かった。門の左右には「庚申」「善光寺如来」などと彫られた石碑がゴロゴロしていた。ここには「三輪弥三郎」という能代の船頭が遭難して死んだ船員を供養するために彫ったという羅漢像がある。建物の中に入ると廊下の左右の壁の上の方に棚が設けられ二段になってずらっと並んでいた。30分くらい簡単にスケッチした。

 

f:id:kotatusima:20191228181959j:plain(西来院)
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 12時50分ころ高清水公園へ向かう。秋田城跡の横の駐車場に車を停める。秋田城は奈良時代から平安時代にかけておかれた地方官庁であり北方との交易・交流も担う重要な施設だったらしい。地図を見ると秋田護国神社の近くに目的の五輪塔はあるようだ。社務所で道を訊くと神社の裏手にあると教えてくれた。神職の方はなんだかいぶかしげで私が五重塔五輪塔を勘違いしているのではないかというような口ぶりだった。たしかにここまでわざわざ五輪塔を見に来る人は希だろう。五輪塔はたしかに神社裏手のまばらに松が生えた空き地にあった。球が少し下膨れでかわいらしい形をしている。2メートル以上はありそうだ。ここは少し高台になっているようで、近くの林の間からは眼下に土崎港と風車が見える。ここで13時45分ころまで絵を描いた。雨は降らないが晴れたり曇ったりして不安定な天気だ。

 

f:id:kotatusima:20191228182718j:plain護国神社裏手の空き地)
f:id:kotatusima:20191228181859j:plainf:id:kotatusima:20191228181831j:plain五輪塔付近から土崎港を見る)

 

・昼食と土崎港、大学

 

 ここで遅めの昼食にする。Fさんが「そばと定食どちらがいいですか?」というので定食屋にした。着いたのは14時過ぎ。定食屋だが蕎麦の製麺もしているらしい店だった。僕はかつ丼(730円)と、そばだんご(三つ入り、310円)を買ってみた。そばだんごというのは初めて聞く名だ。食べてみるとおはぎの中身がそばになっているようなお菓子だった。

 

f:id:kotatusima:20191228182108j:plain(そばだんご) 

 

 お腹を満たして土崎港の方へ向かう。14時30過ぎに金刀比羅神社に着いた。小さな境内には立派なイチョウの木があって、駐車している車の屋根にも銀杏がいくつか乗っかっていた。この神社は福井県から北前船が運んできた「笏谷石」という緑がかった石で作られた狛犬を所蔵していて、参道の石も笏谷石だという。社殿の柱についている象の彫刻が大きく扁額も大きかったのが印象的だった。

 

f:id:kotatusima:20191228182612j:plain金刀比羅神社f:id:kotatusima:20191228183927j:plain(木鼻の象)
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(笏谷石らしき石畳)

 

 15時頃、土崎みなと歴史伝承館へ。昨年春に開館したばかりの施設できれいだった。「日本遺産」の幟があった。入ってすぐ大きな北前船の模型が目に入る。またここではタッチパネルで「秋田街道絵巻」(荻津勝孝作、寛政年間)を解説付きで見ることができる。先ほど訪れた五輪塔も絵巻に描きこまれていた。江戸時代は周囲からよく見えランドマーク的存在だったのだろう。

 

f:id:kotatusima:20191228182236j:plain(土崎みなと歴史伝承館)
f:id:kotatusima:20191228182330j:plain(「秋田街道絵巻」部分)

 

 隣の部屋には土崎神明社祭の山車である曳山が展示され、大きなモニターではユネスコ無形文化遺産に登録されている祭りの様子が流れている。曳山で特徴的なのは、豪傑や名将の人形が載っている反対側に、世相を風刺した文句が書かれた「見返し」と呼ばれる飾りがあることだ。この「見返し」は審査され毎年グランプリが決まるという。15時半ころまで見学し、港へ向かう。

 

 「道の駅あきた港」にある地上100メートルの展望台に登った。白神山地男鹿半島鳥海山などを眺め、大まかな秋田の地形をイメージした。沿岸にはずらっと風力発電のための風車が並んで立っていた。だんだん日が落ちてきた。

 

f:id:kotatusima:20191228182338j:plain(「道の駅あきた港」)
f:id:kotatusima:20191228182343j:plain(展望台を見上げる)f:id:kotatusima:20191228182431j:plain(展望台からの眺め、南方。左手が高清水公園

 

 まだ少し時間があったので、16時頃に予定にはなかった虚空蔵尊堂へ行くことにする。幔幕に扇が描かれているのは佐竹家と関係があるのだろうか。丘の上に建てられたお堂の脇には煤で黒くなったような色合いの灯篭が二基あった。ここでは常夜燈を灯して船からの目印にしていたらしい。民家がなければ、以前はもっと見晴らしが良かっただろうと話した。階段の下に置かれた手水鉢は自然の石をそのまま残しているような変わった形をしている。側面には船乗りたちの名前がびっしり彫られている。手水鉢のすぐ横には曲がりくねった松が生えていて枝が電線に触れていた。16時半頃に大学へ向かう。だいぶ暗くなってきた。

 

f:id:kotatusima:20191228182442j:plain

(虚空蔵尊堂の灯篭)

f:id:kotatusima:20191228182629j:plain(虚空蔵尊堂から港を見る)f:id:kotatusima:20191228182702j:plain(虚空蔵尊堂参道前の手水鉢と松)

 

 途中、秋田市立体育館の横を通りがかった。この異様な建物は秋田県仙北郡角館町(現仙北市)出身の渡辺豊和(1938〜)による設計。すぐスマホで調べると、私が以前北海道で見た「上湧別町ふるさと館」も同じ設計者によるものだった。

 

 16時45分頃から17時過ぎまでFさんの案内で秋田公立美術大学を見学した。元は米倉として使われていた建物を利用しているのはさすが米どころ秋田らしい。都市部の美術大学と違いさまざまな専攻の学生が小規模なキャンパスにいるところは私が北海道で通っていた大学と似ていて親しみを覚えた。ストーブを借りて、17時半頃に大学近くの滞在施設までFさんに送ってもらった。滞在中は基本的にここに寝泊まりする。僕が割り当てられた部屋は畳敷きの和室で立派な床の間がある。小さい棚には蕗を持った「秋田おばこ」の人形が置いてある。荷物を広げ家の中を見て回る。トイレの電気がなかなか見つからなかったり、ストーブを倒して中に入っていた水をこぼしたりしたが、なんとか問題なく生活はできそう。

 

f:id:kotatusima:20191229185116j:plain(秋田おばこ) 

 

・Kおばさんの家

 

 この日は秋田市内に住む「Kおばさん」の家に泊めてもらうことになっていた。荷物をまとめて新屋駅から電車で秋田駅へ向かう。電車のドアボタンは開くボタンと開かないボタンがあるらしく、2両のうちの前の車両しかドアが開かなかった。僕が並んでいたドアは開かないドアだったらしく、おじさんのあとに並んで待っていたら、横のドアからずらずらと学生が乗っていった。慌ててその後ろに続いて乗り込む。窓の外は暗くて電灯はぽつぽつと見えるが他はなんにも見えない。建物の形や街の姿がわからない。

 18時半、Kおばさんが秋田駅まで車で迎えにきてくれた。Kおばさんは私の父の従姉にあたる人で、会ったのは十数年前の私の祖父の葬式以来だった。当時私はまだ中学生だった。それでもお互いなんとなく顔を覚えていた。

 秋田に来る前にKおばさんとは電話で話していて、今朝秋田に着いてからもすぐ電話したのだった。私が今回、「佐藤家」のルーツについて調べたくて秋田に来たという旨も伝えてある。家に着くまでの車中でも、早速私の曾祖母である「お千代さま」の話などを聴かせてくれた。「お千代さま」の生家は、「さま」をつけて呼ばれるくらい裕福な造り酒屋で弘前藩の御用を務めていたこと、鷹巣の佐藤家に嫁に来たのは東京の親類のところへ行こうとした途中にどういうわけか鷹巣で下車したのだろうということなど。

 夕食はKおばさんのご家族と一緒にいただいた。畑で採れた大根をつかったサラダがおいしかった。少しビールをもらって談笑した。

 食事のあと、Kおばさんがたくさんのアルバムと古い写真を出してきた。Kおばさんの母であり、私の祖父の姉(私にとっては大叔母)のアルバムを整理して大事に持っているのだという。この時、僕ははじめて自分の曽祖父の晩年の写真を見た。北海道の室蘭で行われたという私の曾祖父の葬式の写真や、おそらく私の家にはない祖父母の結婚式の写真があった。Kおばさんはこれらの写真を私にくれた。私にとっては何にも代えがたいものだ。後から私の父が言うには引っ越し途中に家財道具一式を盗まれたことがあり、そのせいで家に古い写真がないのだという。もし祖父母が生きていれば、目を細めてこれらの写真を眺めただろう。

 もちろん写真に写っているのは私が知らない人ばかりだ。それぞれの写真にまつわる話をKおばさんの秋田弁でずっと聴いていると、なんだか僕も秋田の人間になったような気持ちになってくる。私が秋田弁に親しみを覚えたのは、北海道弁と秋田弁に共通する部分があるからだろうが、祖父の秋田弁が父の北海道弁を通して私にも隔世遺伝のような形で伝わっているのかも、とぼんやり思ったりした。私が方言を使うとき、もちろん意識せずに方言を使ってしまう時もあるけれど、例えば実家に帰った時などしばしばそれを選び取っている意識がある。方言を用いる時、いつも自分が何者か確かめているような、探っているような、そういう気持ちになる。他の都府県民に対してはアイデンティティを誇示し、また北海道に対する反応(それは「田舎者」に対する嘲笑の時もある)を試すために、そして北海道民に対しては仲間意識を表すために方言を使っているのかもしれない。

 

 シャワーを借りて、布団の中で菅江真澄の本を読んでいたら、いつのまにか寝てしまっていた。

 

 

 

②へつづく・・・。