こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

ー東京で北海道を探すー「新雪の時代ー江別市世田谷の暮らしと文化」見学レポート

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 北海道札幌市の隣町の江別市には「世田谷部落」と呼ばれる集落がある。なぜ東京の世田谷区と同じ名前の集落があるのだろうか。その集落はいつどのようにできたのか。そこに住む人々の暮らしはどうなっているのか…。

 

 世田谷文化生活情報センター生活工房では「新雪の時代ー江別市世田谷の暮らしと文化」と題して2019年1月26日~3月10日まで、この「北の世田谷」について展示が行われていた。私は集落の存在こそ聞いたことがあったが、その形成の経緯や実際の暮らしなどはよく知らなかった。主に暮らしの中の文化的側面にスポットを当てており、小規模ながらよくまとまって見やすい展示だった。行った日はちょうどレクチャーがあって戦中の集団移住の概要を知ることもできた。

 

 

 

※以下の文章の事実関係等は特に断らない限り会場の掲示物を参考にした。

 

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 会場はこんな感じ。

 

 「北の世田谷」こと世田谷部落(※「部落」という言葉は北海道では差別的意味を持たず集落とほぼ同じ意味で使われているため、以下それを尊重して使用する)は、1945年7月に食糧増産を目的とする「拓北農兵隊」として東京都世田谷区から33世帯が入植したことに始まる。エノケン一座の役者や音楽家、大学講師などさまざまな肩書きを持つ人々が農耕に適さない泥炭地を切り拓いていった。今回の展示は新聞記事や入植者による証言、機関誌『新雪』に関する資料、世田谷部落開拓2世の山形トムさんの絵画作品などを通して歴史を辿るものだ。

  

 

  

 ◯「北の世田谷」ができるまで

 

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 (左、会場入り口のあいさつ文 右、世田谷区民の入植をモチーフにした演劇のポスター)

 

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 (会場に掲示されたパネル)

 

 太平洋戦争中の1942年、初の日本本土空襲であった「ドーリットル空襲」以降、次第に空襲は激しさを増すばかりとなり、1945年3月の東京大空襲の2ヶ月後、5月25日と26日には世田谷を含む山の手エリアで空襲があった。世田谷区役所庁舎もこの時焼失したといわれる。都市部の戦災者たちは行き場をなくし食糧の確保も問題視されるようになった。

 それを解決するために、戦災者を集団で北海道に帰農させる計画が進められることとなった。1945年5月に「北海道疎開者戦力化実施要綱」が次官会議で決定、衆議院議員であり「日本酪農の父」と呼ばれる黒澤酉蔵らによって意見書も提出された。当時の帰農者募集の新聞記事には、移住地までの鉄道運賃無料、住宅の用意や食料の配給制度など好条件が見て取れる。この帰農者たちが後に「拓北農兵隊」と呼ばれることになる。

 拓北農兵隊の第一陣の出発は1945年7月6日。壮行式では東京都長官や開拓協会会長の千石興太郎(のち農商相)、町村金吾(北海道出身、当時警視総監、のち北海道知事など)の激励や、歌手による「拓北農兵隊を送る歌」の歌唱まであった。拓北農兵隊は入植先ごとの地名で呼ばれ、世田谷区民33世帯は江別隊と呼ばれた。終戦後も「戦後緊急開拓事業」に引き継がれるまで空襲被災者の帰農は続き、1945年7月から11月までの間で3400戸17000人の移住と帰農が行われたという。移住者の記録を見ると、電気や都市ガスのある生活から皿に油を入れて火を灯す生活になったなどと書かれており、北海道各地への短期間での急激な入植は世田谷区民の移住に限らず大変な混乱と労苦を伴うものだったろうと想像できる。

 江別隊が野幌駅に到着したのは7月9日、無事に現地の農家に迎えられた彼らだったが新聞広告で謳われていた住宅の用意はされておらず、牛舎の2階を借りて原始林から伐採した材木を往復20キロの道のりを運んで家を建てるところから始めなければならなかった。一か月後の8月15日には終戦。入植希望者の半数以上は東京に帰り、18世帯が「世田谷」に残った。

 

 この世田谷区民の入植をモチーフにした劇団「川」による公演「北の世田谷物語」のポスターも展示されて、記録映像が流れていた。ポスターには副題のように「落武者たちの記念日」とある。確かに世田谷区民は戦争で都を追われ、地方に逃げてきた者たちであっただろう。しかし、彼らは落武者なのか?と思った。この呼称が彼らの自称なのだとすれば、そこに彼らのおかれた境遇と独特のアイデンティティが読み取れるかもしれない。

 

 

 

 ◯機関紙『新雪

 

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 機関紙『新雪』が創刊されたのは1947年1月31日。この時期は移住後の生活もひと段落した頃だったのだろうか。発行者は当時17〜19歳の若者たちによるグループ「世田谷青年会」で、内容は随筆、評論、俳句に加え挿絵までついていた。最初は手書きの原稿を綴じたものだったが1949年にはガリ版刷りになり、のち1950年の休刊を挟んで1952年に『緑原』と改題復刊、1955年に『新土』と改題され継続された。『新雪』自体も息の長い活動だったようだが他にも句誌や文芸誌が作られたというから、このような同人誌的活動がとても盛んだったことがうかがえる。会場のパネルには以下のような言葉があった。

 

 ー進歩が終わったときは退歩のはじまりだと。我々は常にこの言葉をかみしめ、機関紙を中心にお互いを物質文明に恵まれないこの原野の心のよりどころとし、助け合い励まし合い、苦しみ合って教養をつんで行きたいと思ふ。ここに土に立脚した完全なる文化人が生まれ、その結合は理想的文化郷となるであらう事を確信するー

(愚生「所感」『新雪』1949年1月号p4より)。

  

 都市での暮らしから原野を切り開く暮らしに変化する中で文学や文芸が必要とされたことが興味深い。

 また、青年会の中では宮沢賢治が紹介され、その思想に共感、理想郷「イーハトーヴォ」を「北の世田谷」の地に投影していたことも指摘されていた。

  

 

 

 ◯「北の世田谷美術館

 

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(会場解説パネル)

 

 北の世田谷美術館は、入植2世の山形トムさん(1934〜)が作った私設の美術館。トムさんは1970年頃から絵画教室や江別の美術団体をきっかけに農業や酪農のかたわら絵を描き始めた。牛舎を改装し自身の作品など80点を飾った美術館のオープンは1996年。残念ながら2015年春に火事で焼失、建物だけでなく多くの作品や開拓当時の資料も失われたが、アトリエに保管されていた絵画があり2015年8月には一時的に再開館も果たした。本展で展示されている絵画はアトリエで焼失を免れた絵画7点と世田谷区が所蔵する2点だ。

 

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 (左、トムさんのアトリエの写真 右、パレットや短冊)
 

 以下、作品を紹介。

 

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「馬耕」92.0×147.0 油彩、パネル 制作年不詳

 

ブラウという農機具を馬に引かせている。北海道の開拓初期に使われた道具だが世田谷では1960年頃まで使っていたという。

 

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「家畜ビート」94.7×123.0 油彩、カンヴァス 1977(昭和52)年

 

 北海道の畑作の基幹作物であるビートを栽培する様子。

 

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「ブルドーザー」130.5×162.0 油彩、カンヴァス 制作年不詳

 

1961年に酪農機械利用組合が発足、馬耕からトラクターの利用へ移行していった。本作は牛馬への愛着と同様の視点から描かれたという。

 

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「夕暮」91.0×117.0 油彩、カンヴァス 制作年不詳

 

石狩川を背景に糸杉が立ち並び、奥には王子製紙の煙突が見える。付近の代表的な景観である。

 

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「羊群」38.0×45.5 油彩、カンヴァス 2016(平成28)年

 
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「夕暮」38.0 ×45.5 油彩、カンヴァス 1979(昭和54)年頃か

 

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「入植記念日10周年」130.0×162.0 油彩、カンヴァス 制作年不詳

 

 入植10周年記念日に撮られた写真を元にしている。右端にいるのは山形トムさんの父の山形凡平さん。

 

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「風雪」130.0×162.0  油彩、カンヴァス 制作年不詳 世田谷区所蔵

 

 

 地方と都市の関係や暮らしと文化の関係について考えるのに興味深い展示だと思った。 

 ②へ続く?…