こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

秋田日記② 2019.11.9.

f:id:kotatusima:20191228191418j:plain(女潟で見たガンの絵)

 

 この日記は「秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACE LABO」への応募企画「秋田と北海道をつなぐ」の際に秋田で滞在調査・制作をした10日間の記録です。

  ①の続き。2日目です。

 

 

 

11月9日 秋田県立博物館

 

・秋田の朝

 

 Kおばさんの家で7時30分頃に起床。朝食をご馳走になる。前日の夜は暗くて分からなかったが家はすぐ裏手まで秋田杉の美しい森になっていた。カモシカが出ることもあるという。私は大変酒が弱い。私の父も弱い。Kおばさんは昨晩の私の飲みっぷり(数時間かけて缶ビール一本)について「佐藤の兄弟(私の祖父の兄弟姉妹のこと)は全部酒が飲めない人だ。8人兄弟の8番目でおばさんだけ酒が飲めない。それは佐藤の血なのだろう」と言っていた。昨晩の余韻冷めやらぬというように、朝食後にコーヒーを飲みつつアルバムをめくってまた昔話をしながら「写真って面白いね」と言ったKおばさんの一言が妙に私の心に残った。

 9時頃に車ででかけた。曇り空だが雨は降っていない。紅葉で色づいた山々は素晴らしかった。車中で 16日に佐藤家のルーツがある鷹巣へ行くことを約束した。11時頃に秋田県立博物館に着いた。なぜか冷やし中華を売っている食堂で早めの昼食を食べた。僕はせっかく秋田に来たのだからと、稲庭うどんを注文した。なめこが載っていた。他にも行くところがあるKおばさんが気を使って「ゆっくり見なさい」と言ってくれたので、今日はここでお別れ。

 

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稲庭うどん

 

菅江真澄と秋田の先覚者

 

 秋田県立博物館はいわゆる総合博物館だが、人文展示室、自然展示室のほか子供向けの体験スペースに加え、菅江真澄資料センターと秋田の先覚記念室をもっている。土曜にも関わらずかなり空いていた。まずは菅江真澄資料センターへ。昨晩の予習(睡眠学習?)のおかげで内容がすっと頭に入った。菅江真澄は1754(宝暦四)年に三河国渥美郡(今の愛知県豊橋市付近)で生まれ、国学、和歌、本草学などを学び、中部から北陸、東北を旅し北海道南部にも4年間滞在している。江戸時代、北海道南部の「和人地」より北は「蝦夷地」として関所が設けられ人の出入りが制限されていたが真澄はその蝦夷地にも足を踏み入れており、アイヌの暮らしや昆布を採る道具などを記録している。この北海道旅行からは「えみしのさえき」、「えぞのてぶり」、「ちしまのいそ」、「ひろめかり」という本が生まれた。北海道から本州に戻った真澄は一時津軽藩に勤めた後で秋田藩領に入り、九代藩主佐竹義和(さたけよしまさ・1775〜1815)の意向もあって1811(文化八)年、真澄数えで58歳の年から秋田六郡の地誌編纂に従事した。1829(文政十二)年に76歳で亡くなるまで秋田をくまなく歩き記録した人生は、まさに旅に生きた生涯だったと誰もが言うだろう。「秋田を旅することは真澄の旅路を追いかけることだ」とでも言いたくなるほど、このあとの私の道中でもあちこちで真澄の足跡に出会った。

 

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菅江真澄資料センターの入り口では菅江真澄がお出迎えしてくれる)

 

 その後、上階の「秋田の先覚記念室」へ。秋田県で生まれ各分野で業績を残した偉人たちの経歴を書いたパネルや資料が展示されている。タッチパネルと小さいプリンターが設置されていて、人名を検索して略歴や肖像が一枚にまとまった資料を印刷して持ち帰ることができる。今回の私の滞在でも調査しようとしている平福穂庵・百穂父子の展示もあった。もちろん資料も印刷した。北海道との関係でいえば、いわゆる「義経蝦夷渡り伝説」や「義経ジンギスカン説」を広めた『成吉思汗は源義経也』を著した小谷部全一郎(おやべぜんいちろう・1867〜1941)がアイヌ民族の教育に関わっていたとはじめて知った。同室の企画コーナーはにかほ市出身の農政家である斎藤宇一郎(1866〜1926)とその子であり電気機器製造会社TDKの創業者斎藤憲三(1898〜1970)を紹介していたのでさらっと見た(斎藤父子については、この後にかほ市でまた一瞬出会うことになる)。

 

・「北前船と秋田」展

 

 秋田県立博物館に来た一番の目的である企画展「北前船と秋田」を見る。企画展会場内は撮影可能だった。

 入ってすぐ秋田の北前船に関わる文化財をまとめた掲示物があった。方角石や恵比寿神社、紙谷仁蔵の墓、弁天丸などなど、結局このあと私は滞在中にこれらほとんどすべての文化財を見ることになった。

 

f:id:kotatusima:20191228184337j:plain秋田県立博物館にて)

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(会場の様子)

 会場はいくつかの章に分かれている。まず北前船の概要や船主の例、「日本遺産北前船」についてや北前船として用いられた船について紹介され、船の模型、船箪笥、方位磁石などが並ぶ。次の「つながる地域」では、土崎港の入船記録のマッピングや全国に配られた引き札、などが紹介されていた。「海の道・川の道」では、海と連結した内陸への輸送路であった川に焦点を当てている。例えば秋田では米代川雄物川子吉川が、それぞれ能代湊、土崎湊、古雪湊・石脇湊の貨物を運んだ。「港の商人たち」では、海の道や川の道の流通を支配していた商人たちを、廻船問屋の帳簿などによって紹介。「船のある風景」では土崎湊などを描いた「秋田風俗絵巻」や、古い写真(港を写した葉書)を展示していた。明治・大正頃の象潟や金浦、本荘の港の古写真に和船が写っているのを見ると北前船がとても身近に思える。「秋田の廻船」では、秋田県内の各地から船絵馬を集めてきて展示していた。「北をめざす人々」では、幕末から松前方面へ東北から出稼ぎに行く漁民が多かったこと、明治以降の北海道への移住者は青森に次いで秋田からが多かったこと、北前船の主力商品だった鰊の生産に秋田出身者が場所請負人や出稼ぎ漁師として深く関わっていたことなどに触れていた。特に、別海町にある加賀家文書を遺したアイヌ語通詞の加賀伝蔵(1804〜1874)が八峰町八森出身だとは知らなかった。また展示ケースの最後には八峰町から北海道に出稼ぎに行った漁師が持ち帰ったという明治中期頃の「アツシ(アットゥシ、厚司とも書かれる)があった。本来はアイヌの伝統的衣服であるが、江戸後期から船乗りが着るようになり、松前にはアツシを売る店もあったという。船絵馬でもよくアツシらしき服を着た船乗りが描き込まれている。わざわざこのような章が設けられていたことからも、北海道と秋田の浅からぬ縁を再確認することができた。

f:id:kotatusima:20191228185000j:plain(船絵馬が並ぶ展示室)

f:id:kotatusima:20191228184850j:plain(アツシ(アットゥシ/厚司)、秋田県立博物館蔵)f:id:kotatusima:20191228185009j:plain(船絵馬の部分 (船絵馬・幸運丸 にかほ市金刀比羅神社蔵))

 

 その後、常設の人文展示室と自然展示室を見た。自然展示室のみ写真撮影可。アキタブキが展示されているのが秋田らしい。フキノトウは秋田の県花であるとのこと。

 

f:id:kotatusima:20191228185013j:plain(自然展示室のアキタブキ)

 

 帰りにミュージアムショップへ寄る。古書を売っているのは珍しいし需要もありそう。しかし企画展の図録がまったく見当たらない。作成していないのだろうか。北前船関係の本もあまり見当たらない。そのかわりなぜか全国の陶器をちょっと売っていて、民藝の本が目につく。特に民藝運動に関りが深いということでもないようだ。昨日から方言について考えていて、つい秋田方言の本を買ってしまった。

 

f:id:kotatusima:20191228185226j:plain秋田県立博物館)

 

・小泉潟公園

 

 16時の閉館とともに外に出る。ちょっと風が冷たい。日の暮れかかった小泉潟公園を歩いた。近くの東屋でネックウォーマーをつけ、帽子を被り、外歩き用の防寒をする。すぐ近くの日本庭園・水心苑も博物館と同じく16時で閉まっていた。

 トイレに行きたくなったので小泉潟公園管理センターに寄る。幸いここは17時まで開いている。熊出没注意のチラシがあり、北海道出身者としては身近に感じる問題なのでつい手に取ってしまった。「女性」と強調されて書かれたスタッフ募集の貼り紙は、なぜ女性なのかわからないが、昨日Fさんがしていた保守的な秋田県の話の裏付けのようにも思えた。

 ここから歩いて追分駅に向かう。電車まではまだ1時間近く時間がある。防寒もしたことなので一周30分程度らしい女潟を散歩することにした。柵の向こうから2メートルくらいの釣り竿をもって道路にあがってきた人を見かけた。すぐ車で立ち去ってしまった。女潟は県指定天然記念物に指定されている自然保護区であるはずなのだが。だんだんと薄暗くなってきた。水面を覆うススキのような細高い草原を見ていると心細くなってきた。すると、急に鳥のギャアギャアと叫ぶような声がして、後方からガンだろうか、水鳥が6羽か7羽が飛んできた。逆三角形の編隊はカメラを構える暇もなく、見惚れているうちにまだオレンジかかっている夕空の向こう側へ行ってしまった。一瞬の出来事だったが鮮烈な光景で家に帰ってすぐ記憶を辿りながら自分が見た光景を絵に描いた。私はこの光景をたぶん一生忘れないだろう、と思った。

 

f:id:kotatusima:20191228190853j:plain(女潟)f:id:kotatusima:20191228190920j:plain水草がたくさん生えていた)
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(道路を挟んで男潟を見る)

 

 金足高校の横を通りがかる。もうだいぶ暗い。グラウンドで運動部の掛け声が聞こえる。それにかぶさるように遠くからまだ鳥の鳴く声がしていた。追分駅から秋田駅へ向かい、乗り換えで少し待つ。屋外よりはマシだけれど秋田駅構内もなかなか寒い。新屋駅に着き、スーパーに寄って帰宅したのは19時ころだった。晩ご飯は質素におにぎりなど。食後に梅味の柿ピーを食べ、借りている布団にカバーを掛けた。隣室の作家が帰って来たようなので軽く挨拶だけした。明日設営してすぐ帰ってしまうのだという。22時就寝。

 

 

 ③へ続く・・・。