こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

山形日記 ② 最上徳内記念館と巨大ぞうり

 

 の続き。立石寺から村山市へ。

 

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 ・村山駅

 

 14時ごろ村山駅に着く。

 「ようこそ バラ・そば・徳内の街 村山市へ」という幕があった。「徳内」だけは聞きなれない言葉だという人も多かろう。これはなにか農作物とか名産品の名前なのではない。いわゆる郷土の偉人というやつで、数学者であり探検家の最上徳内(宝暦四~天保七(1754~1836))のことだ。私が村山市に来た目的も何を隠そう「最上徳内記念館」を見るためだ。最上徳内蝦夷地を「探検」し、その成果は幕府の意思決定に影響を及ぼした。私は昨年北海道の厚岸町へ行き、徳内の活動の痕跡を何ヶ所かで見ている(詳細は→厚岸日記① - こたつ島ブログ厚岸日記② - こたつ島ブログを参照)。厚岸町村山市姉妹都市である。

 

 山寺駅ではSuicaで入場したのだが、村山駅ではタッチで清算できず駅員さんに窓口で清算してもらった。Suicaの取り扱いは、機械があっても清算できなかったりそもそも機械がなかったりと駅によっていろいろだ。地方だと大きい駅でもタッチできる改札すらないこともある。急いでいる時などは切符を買っておくのが無難だ。

  

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 駅構内には大きなわらじが飾ってあった。どこかで見たことがあるなぁと思うものの思い出せない。この後も何度か大きなわらじを見ることになった。

  

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 駅前には二体の人物彫刻が駅を背にして立っており、まっすぐ道が伸びている。駅に隣接するホテルを除いて周囲に高い建物は見当たらず住宅街の間を抜け駅前の道を進んだ。幹線道路らしい片側二車線くらいの大きな道路に突き当たる。ちょうど午後のいちばん暑い時間帯。街路樹のような遮るものは何もなく日差しがきつい。

 

 その道を右方向へ進むと道路の向こう側に「北方探検の先駆者 最上徳内記念館」の看板が見えた。看板の前まで来ても入り口がどこにあるか分からず、間違えて隣接する警察署の駐車場に入ってしまった。館の正面は大きい通りに面していない。建物の横から大きく回り込んで正面入口へ。

 

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  やっと14時30分頃に到着、入館した。

 建物は地下に受付やメインの展示室があり、まずそこを見る。順路の通り階段を上がると明治時代の古民家に行くことができ、さらに古民家を出ると屋外で、最上徳内銅像や顕彰碑などが庭にある。庭を抜け、アイヌ文化を紹介するチセへ行き、また館の入り口へと続く渡り廊下を通ったのち螺旋階段を下りて、これで館内を一周したことになる。

 最上徳内の事績を顕彰するのみでなく、市の歴史博物館も兼ねている施設のようだ。

  

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 ・徳内記念館

 

  館内に入ると初めに階段がある。地下だからか館内は薄暗い。

 受付に声をかけるとお姉さんが出てきて「どこから来たんですか?」「外は暑いですか?」などと会話しながら麦茶をだしてくれた。暑かったのですぐ飲み干してしまうと、すかさずワンコそばのようにお代わりをくれた。

 「時間があればまずこちらから・・・」ということで20分ほどで最上徳内を紹介する「白き虹を見た」というタイトルのVTRをエントランスで見せてもらうことになった。「白き虹」とは徳内の号「白虹斎」からとっているのだろう。エントランスにはスクリーンが立てられ、椅子がいくつか置いてある。傍らには土器が入った古そうなガラスケースもあった。

 

  映像は、「山形は紅花やタバコの生産が盛んで武士より商人が強く自由な気風があった」というような説明からはじまる。最上川の水運は酒田へ、そして北前船へと荷物を運んだ。徳内が赴くことになる北の地と山形はしっかりつながっていたわけだ。

 現・山形県村山市楯岡の貧しい農家に生まれた徳内はタバコの行商に従事していたが数学が得意で、27歳で江戸へ出、経世家で数学者の本多利明の塾で天文、地理を身に着けた。芝の愛宕神社算額を奉納したこともあった。本多の推薦で、田沼意次の発意による北方探検に測量の助手として参加したのは31歳の時。以後9回蝦夷地に渡航した。この時に厚岸の総乙名イコトイの協力を得て、国後島択捉島、得撫島を探検、ロシア人イジュヨらとも会っている。渡航4回目には厚岸に神明宮を建立、渡航6回目には近藤重蔵らとともに択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。蝦夷地での勤めを終えた後は八王子の製蝋事業に携わったりシーボルトと交流して日独アイヌ語辞典を作ったりしていた。この時に渡した地図がのちにシーボルト事件に発展する。徳内は82歳で江戸で没した。

 

 

 

 館内(撮影禁止)は様々な蝦夷地の地図や、徳内の著書、愛用の品など各種資料で事蹟を紹介していた。この時は運悪く学芸員の方はお休みだったが、職員の方が親切に一通り解説してくださった。

 職員さんとお話していて、「徳内まつり」の話になった。20数年前、村山市のお祭りでは何の変哲もない仮装行列をやっていたらしい。ある時に友好都市の厚岸町へ市の関係者が行き、そこで祭りのお囃子や山車を見て感動して真似をし、「徳内ばやし」が生まれたそうだ。今では山車や踊りのチームも随分増え、近隣の市町村からも人が集まるイベントになっているらしい。徳内がつないだ不思議な縁である。

 それを聞いて斜里町ねぷた祭りを思い出した。斜里町の場合は、幕末に警備のため駐留した津軽藩士72名が飢えと寒さで死んだことがあり、弘前市ねぷたが伝授された経緯がある。

 

 興味深い資料としては「蝦夷風俗人情之沙汰付図」があり、これには竹島が日本と同じ色で塗られているという。徳内が紹介されたシーボルトの著書や択捉島の標柱のレプリカもあった。

 また、「徳内先生を讃える歌」という、1943年に大政翼賛会山形支部が設立一周年を記念し歌人たちに依頼した歌も掲示されていた。

 

 「ますらをや 命おもわず 皇國の 北の門邉の 穢れはらいし」相馬御風

 

 「甑岳の いただき立ちて 遥かなる 天雲に寄せぬ 大きこころは」前田夕暮

 

 「最上川 ながるるくにに すぐれ人 あまた居れども この君われは」斎藤茂吉

 

 徳内の業績は国境問題に直接関わるものであり、明治四十四(1911)年に正五位が追贈され、北海道神宮開拓神社に祀られていることなどもナショナリズムの観点からも考える必要があろう。

 

 企画展も開かれており、山形市生まれで「最上流」を興した和算家の会田安明について特集されていた。安明は当時の主流だった「関流」に対し約20年に及ぶ論争を起こし、和算の発展に寄与したらしい。徳内を本多利明に紹介したのも同郷の先輩であった安明だったともいわれている。

 

 館内にはやはり北方領土返還の署名コーナーもあった。

 

 地下の展示室を見終え、屋外へ。

 

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 明治時代の古民家が移築されている。

 

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 徳内の胸像。地元出身の彫刻家・村岡久作の作。

 

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 徳内の視線の先には北海道の形の島が浮かぶ池があった。

 

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 顕彰碑。碑文の揮毫は金田一京助レリーフは新海竹蔵。

 

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 チセがあった。ガラス窓がはまっているがたぶん適当に作ったものではない。建てたときにアイヌの方が儀式をした様子を撮ったらしい写真があった。アイヌの民具や厚岸から寄贈された熊の剥製のほか、近藤重蔵、イコトイ、ロシア人イジュヨの三人が地図を見ながら語らう様子を再現した小さい人形などがあった。

 

 

 

 「徳内グッズ」でもありそうだと思ったがほとんど物販はなかった。ただ「私の徳内紀行」という冊子を売っており、郷土史家が調べた足跡がかなり詳しく載っていた。

 

 

 

 ・村山市役所

 

 閉館の17時近くまで居て、お礼を言って帰ろうとすると「市役所に大きいぞうりがあるから是非見るように」と言われた。村山市役所は道路を挟んで隣接していた。

 入ってすぐに吹き抜けになった大きいホールがある。

 

 「デカっ・・・!!!」

 

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 ちょっとした船よりぜんぜん大きい。どこかで見たなぁと思っていたが、これは浅草寺の門に飾られることになる大ぞうりだそうだ。おおよそ10年に一度、戦前から奉納し今回で8回目とのことだ。役所が17時15分まで開いているおかげで見られてよかった。

 

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 徳内ばやしでは鳴子を使うらしい(よさこいソーランみたいだな・・・)。

 

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 今年の徳内まつりは8月24日~26日開催。

 

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 役所の入り口脇には徳内まつりの像まであった。

 

 

 ・山形市へ戻る 

 

 この日は山形市に宿をとっていた。電車の時間を調べるとまだ1時間は余裕がある。周囲を散策。日が暮れてきた。

  

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 道の駅でも「徳内ばやし」(やはりよさこいソーランに似ている・・・)。

 村山駅へ戻る。

 

 

 

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 村山駅に戻ってきた。着いたときはまったく意識していなかったが駅前の像は「徳内まつり」の像だった。

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 駅の反対側には「徳内先生誕生之処」の碑。実際は生家があったのは駅から少し東の方向らしい。

 

 

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 駅近くの看板。  

 

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 駅のホームにも徳内まつりの絵が。

 

 

 

 18時30分頃、山形駅に到着。古本屋を漁った後ホテルへ荷物を置きに行った。地元の料理を居酒屋か何かで食べたい気持ちもあったが我慢して近所のスーパーでセールの弁当を買いこんだ。

 

 グーグルマップを活用して翌日の計画をした。かなり早起きしなければならないことが判明した。日付が変わるころ寝た。

 

 

 

 に続く。翌日は朝からまたもや村山市へ来ることになる。

 

 

 

山形日記 ① 若松観音と逆回しの立石寺

 

 

  

 山形県に一泊二日の強行軍で行ってみた。

 

 私は東北六県の中では福島県いわき市より北に行ったことがなかった。いよいよ本格的に東北に足を踏み入れたという変な実感があった。そのなかで今回は、みちのく山形の主に内陸の文化の一端を垣間見た、ということになる。

  

 

 

・東京から山形へ

 

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 日付が変わるころに小雨の降る東京を出発した。夜空に光る時計塔がぼやけて見える。

 私はいつも体力を温存するため目的地へ向かう時は広めの三列シートの高速バスを選ぶ。いつものアイマスクもばっちり用意し寝る準備は整っている。なのについ旅先でどこに行こうかなどと考えてしまう。最近は旅することに慣れてきて、ドキドキすることもあまりない。今回は少しはそういう気持ちがあるのだと思うと嬉しかった。そのかわりぐっすりと寝られなかったのは痛手だが。

 翌朝、寝たか寝ないかのうちにぱっとバス車内の電気がついた。アイマスクを外してカーテンを細くあけるとすっかり明るくなっていて、窓の下にはビルやマンションが立ち並んでいる。なんの変哲もない、いかにも地方という感じの見知らぬ街が山形市だった。

 

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 山形駅前に到着したのは6時半ごろ。駅に入る。山形駅は線路の上に改札があってホームへ降りていくタイプの駅舎だ。駅そのものの規模の割に改札や切符売り場が小さいように思った。次の電車まで時間があるので腹ごしらえしようと売店へ。お土産用のお菓子ばかりで、駅弁もまだほとんど入荷していない。結局コンビニのパスタをイートインでさっと食べた。

 

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 まず、歌川広重の美術館や将棋の駒の生産で有名な天童市へ。東京から持ってきたお菓子を食べながら電車で向かう。あまり旅行客のような人は見当たらず、通学する中学生や高校生が多かった。7時半ごろ天童駅に着く頃にはほとんど学生ばかりの満員電車になっていた。下車したのもほぼ学生だった。

 駅前の郵便ポストの上には「王将」の駒が載っている。

 

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 タクシー乗り場へ向かう。何台か並んだ先頭のタクシーの運転手のおじさんは、すっかり新聞に夢中で乗客(私)があらわれたことに気が付かない。数十秒経っても気が付く様子がまったくない。声をかけようとすると後続するタクシーから「ビーッ」とクラクションがなった。すると、運転手は飛び起きるようにこっちを振り返って驚きながら「どちらまで?」と。

 

 

 

 ・若松寺

 

 朝一番に向かったのは開山千三百年を数える若松寺(じゃくしょうじ)だ。通称を若松観音(わかまつかんのん)といい、花笠音頭で「めでため~で~た~の 若〜松様よ♪」と歌われるあの若松様である。

(ホームページ:http://www.wakamatu-kannon.jp/

 

 運転手のおじさんが、「行ったら五重塔?か何かがあるから、そこに扉があるから行って開けてみて、勝手に開けていいよ」と説明してくれるが、なんのことかよくわからず。街中をぬけ、畑を横切り、車はどんどん山の中の一本道へと入っていく。まわりの杉の木立は私にとってあまり見慣れないもので、それだけでも十分わくわくする。一瞬、緑の中に埋もれるように鳥居や碑があるのが見えた。15分ほどで到着した。

 私は滅多にタクシーには乗らない。しかしここは最寄りのバス停まででも徒歩で一時間以上かかるうえ本数が少なく、しかも平坦な道のりではない。タクシー代は2000円くらいかかったが止むをえまい。

 たぶん私がこの日一番目の参拝者だったろう。

 

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 (地蔵堂

 

 境内には誰もいないかった。入ってすぐ左に地蔵堂があった。ここには乳房を布で立体的につくった絵馬が何枚も奉納されていた。

 

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 (観音堂

 

 靴を脱ぎ中にあがって重文の観音堂を参拝。室町時代後期の建築で慶長年間(1596~1615)に最上義光が大修理を行ったという。江戸時代の絵馬が何枚もあったので見上げていると、寺僧らしきおじいさんが来たので挨拶した。「早いねぇ、タクシーで来たの?」などと言って親切に境内ガイド用の道具を貸してくれた。日本語、英語、中国語を選択してから写真をペンでタッチすると音声が流れるという優れモノだ。

 この寺は他に重文の鎌倉時代聖観音懸仏や、これまた重文の室町時代に奉納された絵馬があるが、いずれも保存のためふだん近くで見られるようにはなっていない。

 

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 (境内ガイド)

 

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 景色がよい。眼下にタクシーで登って来たらしき道が見える。

 

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 (鐘楼)

 

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 (縁福大風鈴)

 

 縁福大風鈴。パンフレットには「二人で鳴らせば結ばれる」とある。そもそもこの場に来て二人で鳴らすような人たちはもう結ばれていると思う。お守りがたくさんぶら下がっていた。

 

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 私がここに来たの理由は今回の旅の目的のひとつでもある「ムカサリ絵馬」を見たかったから、だった。

 ここは縁結びの寺として有名で平日朝早くなのにもかかわらず、それほど多くはないけれど私の後にも何人も参拝者が来ていた。中には「住職さんいませんか」と訊く人がいて、それはこの寺の住職と会って握手すると良縁に恵まれると言われているかららしい。

 そういう対応に追われているのを目にしていたのもあって、寺の人になかなか声をかけにくかった。幸いにも私は朝一番に来ていて、すでに観音堂で絵馬に興味があるという話をしたときに寺僧さんには本坊にも来るようにと言われていた。

 

 そして本坊にある最近のムカサリ絵馬を見せてもらった。

 

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 (本坊)

 

 ムカサリ絵馬とは江戸時代からの山形県最上地方の風習で、結婚せず亡くなった死者のため架空の結婚相手を死者と共に描き奉納するもの。ムカサリとは婚姻とかお嫁さんをさす方言だ。

 絵師に依頼することも多いけれども、今は寺の方針として、下手くそでも出来るだけ故人の縁者に描いてもらうようにしているという。奉納されたものは千数百点にもなる。すべて保存し、いつでも供養できるようにしてある。「東日本大震災のあとは増えましたか」と訊くと寺僧さんは「何枚かあったが、まだ生活が落ち着いていなくてそれどころではないのだろう」と。

 男女が一対で描いてあるほかは画材も大きさも描き方もいろいろだ。共通するのは、それぞれの絵馬に描かれた人はすでに故人であり、しかも架空の人物と共に表されているということ。彼岸と此岸の境目にあるようなひとつひとつの絵馬に込められた供養の思いに息が詰まりそうだった。私はムカサリ絵馬を見ていて、やましいことをしているような気持ちにもなった。絵馬の中の人々は多くがこちらを見ているが、この絵は全くもって私たちのためのものではなく、故人の冥福のため、また観音様に祈願するため、そして縁者の故人への思いを形にするためにある。私たちがいくらこれを見たところで、また絵の中の人物にいくら見返されたように感じたところで、その視線は存在する意味のないような、宙に浮いたものになってしまうのかもしれない。

 

 タクシーのおじさんが是非開けてみてと言っていたのは、古いムカサリ絵馬があるお堂のことだった。元三大師堂の下がコンクリート製のお堂のようになっているのだ。

 こちらの絵馬は割と古いものが多く、本坊の最近のものと比べるとあまり生々しさが感じられなかった。新しいムカサリ絵馬は結婚式の晴れ着をまとって記念写真を撮ったような、肖像画のような形式が多く、一方で古いものは寺社に参拝する様子を描いているものが多いように感じた。

  

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 (元三大師堂の下のムカサリ絵馬堂)

 

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 算額も。

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  ムカサリ絵馬を見ていると先ほどの寺僧さんがやってきて「ここから山寺まで行く無料の観光バスがあるよ」と教えてくれた。本当は翌日に山寺を参拝しようと考えていたのだが「これもなにかの縁かなぁ、観音様の導きかなぁ」などと思って、そのバスに乗ってみることにした。

 まだすこし時間があったので、古参道の方にも行ってみた。いかにも、な古い道だ。ここに来る途中で見た鳥居はこの参道の入り口だったようだ。

 

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 ・立石寺

 

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 (バス停代わりの幟)

 

  小さな10人乗りくらいのバスは寺僧さんに教えられた通り定刻の10時04分に坂を登ってきた。乗ってすぐおじいさんの運転手には「どうやってここまできたの?タクシー?」と訊かれた。他に老婦人が2人乗っていた。山寺までの道すがら運転手はずっと乗客に向かって喋っていた。私には「ムカサリ絵馬見ました?若い人はどう思うのかなぁ、気持ち悪くなかった?」と言われたので、わざわざ東京から見にきて感動したとも言えず、「そうですね、変わってますね…」と曖昧な返事を返すより仕方がなかった。

 運転手は「ここからだと鳥海山は見えないんだけど、今日は月山は見えるかなぁ」などと話しながら、老婦人相手には「今の日本は年寄りが頑張ったおかげでできた、そうでなければ日本はもっと貧しい国だったはずだ、若者はもっと年寄りを労らなければならない」などと本心なのか、接待トークなのか、そういう話をしていた。私は年寄りは尊重するタチだが、ここで返答を求められても困るので空気のように気配を消していた。

 山裾の道を走って行くとだんだんとさくらんぼ農家が道の両側に増えてきた。運転手はさくらんぼ狩りの話をし始めた「やはりビニールのかかっていないさくらんぼの方がおいしいし、木の上の方になっている方がおいしい」「うまくさくらんぼをもぐには蟹の足のように反対側(?)に引っ張ると簡単に採れる」などなど。

 

 

 

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 (山寺駅

 

 山寺駅前にバスが着いたのは10時半前。下車して案内板を見ていたら先ほどの運転手がすぐ追いかけてきて「時間があって登るなら、最初に一番上の奥の院まで登ってしまって、降りてくるときにゆっくり見たほうがいいよ。登りながら見ると億劫になるから。旦那さん若いから15分くらいで登れると思う」「この先を行った右側に観光案内所があるから、地図貰うといいよ」と親切に教えてくれた。こういう気づかいは本当にうれしい。

 せっかく教えてもらったので、郷に入っては郷に従えで、地図を貰って休みなく一番上まで登ることにした。

  

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 通称を山寺という宝珠山立石寺は、貞観二(862)年に清和天皇の勅願により慈覚大師が開いた天台宗の寺院。松尾芭蕉が元禄二(1689)年、旧暦五月二十七日(新暦七月十三日)にここを訪れ「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだのはあまりにも有名だ。

 この涼しげな句から想像するに、芭蕉がここに来た日はそれほど暑くなかったのではないか。私が訪れた日は天気が良く暑かった。セミの鳴き声は聞こえなかった。

 

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 (芭蕉曾良の像)

 

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 (こけし塚)

 
 一息に登ろうと思いつつも、降りてきてまた見るのは面倒そうだと思ったので、境内に入ってすぐにあった宝物館だけ先に見ることにした。

 館内は山の岩穴に納められた石塔婆や、神仏分離令で山寺に移された日枝神社の本尊の三尊(釈迦如来阿弥陀如来薬師如来)、慈覚大師が中国での巡礼の際求めた財宝で作った如意宝珠、お経を一字一字書いた卒塔婆をまとめた笹塔婆(杮経)、天狗や烏天狗のぞうなど、狭い館内ながら天台密教修験道神仏習合のありようが垣間見える宝物がいろいろあった。

 あとは汗をだらだらかきながら、ひたすら登る。写真も撮らず、無心で登る。 

 

 

立石寺境内のいろいろ 

 

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 (奥の院の様子)

 

  その後は休みなく一気に奥の院まで登った。11時を過ぎていた。海外の様々な国から来たらしい観光客がいっぱいいて騒がしかった。これでは岩に蝉の声はしみ入りそうもない。私も観光客に違いないので修行者などに比べればここに来るべきではないのかもしれない。だがそれなりに神聖な場所を尊重し、またそれを楽しみたいとも思うので、この喧騒は最悪だった。やはり朝早く来るべきだったか。

 

 加えて、今流行りの御朱印について思うことがあった。

 奥の院御朱印を貰う人の様子を見ていると、寺僧との間でこういうやりとりをしている。まず僧が「お経は?ないの?」と訊く。御朱印帳の持ち主は当然「え、ないです」という。本来、御朱印はお経を寺院に納めた証としてもらうものだと言われている。現在は一種のブームでもあり、それを忠実にやる人はおそらくほとんどいない。私もしたことはない。すると僧は「そんなお経を納めることもしないで御朱印だけもらうのは本当はできないんだ」「御朱印をもらうなら仏の教えを広めなければ」と言い「仕方ないから御朱印書くけど、家に帰ったら一字ずつでいいからお経を書きなさい、どうせ言ったって全部は書かないでしょ」と言って書いて御朱印帳を返していた。そのようなやり取り何人かを相手にずっとやっていた。

 私は御朱印帳は一応持っていたけれど、これに違和感を感じたので貰うのをやめた。

 まず、御朱印の本来の意味から言えば、確かにお経を納めない人は貰うべきではない。私もお経をもっていない。それが貰わなかった第一の理由だ。しかし、多くの寺社ではお経なしでも参拝の証として御朱印を貰える。そのことの是非は各寺社が判断すればよいと私は思う。それが立石寺の場合では寺僧は小言を言いながらも御朱印を書いていた。そこでは確かに参拝者が経を書くことが約束されていた。だけれども、本来のあり方を説教しながらも結局書いてしまう御朱印とはいったいなんなのだろう。もったいぶってありがたく見せているだけの偽物ではないのか。書くなら書く、書かないなら書かない。そういう態度でいるべきではないのか。こういう違和感を覚えたのが貰わなかった第二の理由である。

 

 山寺の奥の院にもムカサリ絵馬があると聞いたていたがとても見られる雰囲気ではなかった。

 

 モヤモヤした気持ちを切り替え、山を下りながら堂宇を見て時にはお賽銭をあげて拝みながら歩いた。ここからバシバシ写真を撮っていったので、登った順とは逆回しで記録することになった。

 

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 (こちらを見ているお地蔵さん)

 

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 まるで斜面に寺院がひとつの町を形作っているようだ。

 

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 (五大堂とそこからの眺め。絶景)

 

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 (開山堂と納経堂)

 

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 (仁王門)

 

 獅子が口に牡丹?の花を咥えている。

 

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 あちこちに小石が積んであった。

 

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 ここを弥陀洞といい、一丈六尺(約4.8メートル)の阿弥陀如来の姿を見ることができるものには幸福が訪れるとか訪れないとか。

 

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 いっぱい並べてあるこれは「後生車」といい、若くして亡くなった人の供養のためのもの。山寺の至る所にある。南無阿弥陀仏と唱えながら回すと仏がはやく人間に生まれて来られるのだとか。

 

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 せみ塚。芭蕉の句をしたためた短冊を埋めて上に塚をたてたもの。

 

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 左にある石は慈覚大師が雨宿りしたといわれる。

 

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 (姥堂

 

 姥堂、奪衣婆を祀る。ここから下は地獄で上は極楽。地獄への坂を下っていくわけか・・・。

 

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 山門までやっと下ってきた。あとは麓でまだ見ていないところを。

 

 

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 羅漢さん。立石寺本坊の脇に立っていた。手から水が垂れ流されていた。背後にはレリーフもあった。

 

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 (根本中堂前にあった)

 

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 (根本中堂)

  

 根本中堂は重文。ひっきりなしに御朱印を求める人が来ていた。参拝だけして内陣までは見なかった。

  

 

 
 見終えたころには13時前になっていた。あまりおなかがすいていなかったので目についたお店で「山寺」の焼き印が捺された手のひらくらいの大きさの素朴な饅頭を買って食べながら電車を待った。

  

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 駅に小さな展望台があった。山寺を振り返ってみた。

 

 

 

 電車で一時間ほど移動。次は村山駅へ向かう。

 

 

 

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 (はたしてこの大わらじは?に続く)

 

 

 

「長万部写真道場 再考」⑤ シンポジウム③

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 (長万部の海)

 

 の続き。

 

 

 

 1.パネルディスカッション

 

  2018.2.25.③

 

 12時55分頃から第2部。中村、倉石、高橋の三名によるパネルディスカッションが行われた。題は「北海道における写真記録のこれから」。以下要約。

 

 

 

 (中村)まず講演の主旨の説明を。長万部写真道場の人々と同時期に道内では、掛川源一郎や東川町の飛騨野数右衛門、共和町の前川茂利、夕張市の安藤文雄ら、アマチュアカメラマンが活躍していた。また、明治時代に北海道の「開拓」を記録した写真もある。北海道は写真に撮られ続けてきた土地だ。長万部写真道場の写真は郷土資料として貴重だが、他の写真家についてなど周辺も知ることで、さらに価値が広がるのではないかという狙いがある。

 では最初に、展示についてお二人から感想を伺いたい。

 

 (高橋)驚いたのは、個人名がついていない「写真道場」という集団で撮る写真としての価値が見出されていたこと。一人の作家の限界を超えて集団で町を記録していく動きの具体的な例を目にして新鮮だった。今回の展示の写真選びもあっただろうが、町の漁業、酪農、温泉、国鉄など、あらゆる風俗産業がまんべんなく記録されていて「町の今を記録する」ことに力を注いでいたことが伝わってくる。町の営みの中に写真があった。それを中村さんが見出したこともまた素晴らしい。

 

(倉石)台紙の赤い「長万部写真道場」の字がとても目を引く。カメラクラブが名前を変えた「道場」とは切磋琢磨して剣道のように研鑽する場であることを示す。名前は重要だ。

 近代の芸術は作品を個人の表現だとし、その価値を作家性として一義的に考える。それに対して、60年代半ば以降、中央で活動していた写真家の間では先鋭的な問いとして作品や作者への疑義が露出してくる。具体的には、東松照明森山大道中平卓馬らがアノニマスの価値を語っていた。個人の表現や作品、一人の表現主体としての写真家への疑問は、写真家自身よりも、映し出す対象、すなわち風景や人々、場所の方が大事という考え方につながる。これは示唆的だ。

 50年代に地方で地道に集団制作を展開した写真道場の集団性や匿名性の重要さを感じる一方、60年代の中央の作家との間に温度差を感じた。それらの共通性と差異についても考えたい。少なくとも写真道場の表現は、作品や作者について振り返り、「自己」に内省的になることの価値について考えさえてくれるとはいえる。

 それは中村さんの写真道場の作家たちへの共感と、適切な写真のセレクトに加え、素晴らしい丁寧な解説があったからこそ。自己表現としての芸術写真は「写真がすべて物語る」とされ、被写体の解説がしばしば軽視される。適切な解説の真摯さは見る人に伝わる。

 

 (中村)私が解説を書いた。山の稜線でだいたいの場所を同定したりはできたが、ほぼ平成生まれなので分からないことが多く、町史や長万部の歴史写真集等々を調べた。意外と60代の方でも分からないことがあった。

 

 

 

・ここで長万部写真道場の元会員だった守田さんと、写真道場主宰者の一人である澤博氏の娘で今展の写真を保管していた澤薫さんから一言ずつコメントがあった。

 

 

 

 (守田さん)写真道場の活動時期は戦後まもなくから昭和40年くらいと、私が入って写真道場に改称するまで二期に分けられる。二期の間は休止していた。生活を撮ることを重視したグループ活動だった。道場だったので、河東が師範代、澤が指南役、というようにちゃんと位があり、小学生は級だった。

 (中村)新たな事実が!

 (澤薫さん)写真は「負の遺産」とでもいうようなものだったが、埃とカビ臭い写真道場に一筋の光明が差した。感謝申し上げます。

 (中村)本当にこの二人のおかげで写真展ができた。見に来てくれた町の人もよく残ってたなと仰る方が多い。

 (澤薫さん)みなさんの記憶の中に残ってくれたら幸いです。

 (中村)町史は普通、建物の写真やかしこまった集合写真が多い。長万部町史では写真道場の写真がよく使われている。町の歴史への写真道場による影響や、写真道場というキーワードで町の歴史がよくわかった。

 

 ・続き。

 

 (中村)最初は掛川について調べていた。そこから長万部写真道場を調べるようになった。

 質問。道外に道内の写真の歴史はどのように捉えられているのか。例えば「沖縄プリズム」展(参考:展覧会情報沖縄・プリズム 1872-2008では掛川の写真が「沖縄村」とだけ展示されていたが、(高橋さんの講演にあった「小島一郎の写真で南部が津軽と書かれた」例を受けて)長万部町のことなども併せて提示されていたらよかったなと思った、それらについて。

 

 (倉石)「沖縄村」については私も同意する。

 掛川への関心としては、講演でも触れた大日方欣一さん(フォトアーキビスト)が函館の熊谷孝太郎など地方の写真家の研究をしている。いわゆるローカルに徹し生涯を全うした作家への関心はここ20年くらいで研究者間で共有されてきている。掛川は写真集「genー掛川源一郎が見た戦後北海道」(2004年出版、北海道新聞社)で再評価された。

 沖縄のことでいうと、私が関わった写真集「沖縄写真家シリーズ」(未来社)の中で、アメリカによる占領時代から戦後の沖縄を撮っていた山田實がいる(参考:故郷は戦場だった - 山田實 写真 / 仲里効 タイラジュン 解説|未來社)。この人には中央との関わり方など掛川と似た面もある。中央から来た人の身請け人にもなっている。そこには「中央ー地方」という非対称性もあるが、ひとつの交流のパターンを見出すことができる。ローカリティに徹する意味の再評価の中で、北海道にはアーカイブされるべき人がまだまだいると思われる。

 逆に中村さんに質問したい。自分が生まれる以前の写真にアプローチするために地形とか空気から考えるという話があった。土地の形は大災害がなければ形をとどめている。夾雑物を捨てて残るのは地形と気象。一枚の写真を見ていくときの植生、地形等の意味など、どういうアプローチをしているのか詳しくお聴きしたい。

 (中村)例えば、掛川の「大地に生きる~」の平里地区や静狩湿原の開拓写真に写っている泥炭地。青森以北では植物が腐らず繊維が残り、一年に一ミリ以下しか地層が積みあがらない。それが湿原になる。それを知ったうえで見ると、平里では泥炭地を切って水を海に流し、腐らず残った根株を手で掘らなければならない苦しさや、農耕の技術が進歩していないかったこともあるが、気候に合わない植物を実らせようと頑張っていたことを写真から見て取ることもできる。

 (倉石)高橋さんにもお訊きしたい。開拓写真を見るポイントは?

 (高橋)やはり他の開拓写真と比較して見ること。開拓地の状況を、作物や道具、服装で比較しながら見る。

 ヌラ平開拓の場所は地図に載っていなかった地名だった。調査中、山並みで場所の確信が持てた。地形は基準点になりえると思う。

(倉石)私も、ある時期から風景は現場に行かないと分からないことが多いと思うようになり、必ずその場所に出かけて考えるようになった。同業者は必ずしもそうではない。逆に、実物偏重と言われたこともある。

 実際に現場に行って見えていなかったことが見えるのは「写真と実景のズレ」や「実景によって写真が批判される」というよりは、実景の情報を俯瞰的に反芻しながら解釈しないと風景写真の正当な価値や魅力を伝えることはできないのではないか、と思うようになった。

 別の参照項、例えば同時代の言葉による文献や、その場所を歴史的に描いてきた歌枕や、フィクションの描かれ方等々を、複合的に組み合わせることによって作品を読み解くことが必要。迂回路かもしれないが、言葉と実景と写真という違う位相にあるものの組み合わせで新しいテキストを生み出せないかと考えている。自然を読み取ることももちろん一つの参照項になる。

 (中村)長万部は天気予報が当たらない。漁師が山にかかる雲で天気予報する延長で写真を見るような。

(倉石)そういう経験から得た知恵は私には失われているものだ。

(中村)夕張に(倉石と)行ったときに天気予報が当たって「インディアンの娘」だと言われたことがある(笑)。

(倉石)自分が言ったことは覚えていない(笑)。夕張でも、やはり実際の風景、谷の深さやズリ山の形や傾斜は立体的に見ないとわからなかった。

 (中村)高橋さんへの質問。今回展示をやったことで新しい写真が発見されそうな気配がある。郷土写真の再発見の過程で、収集、展示、アーカイブする時、物それ自体をどうとらえているか?

 (高橋)小島一郎の写真は美術館が所蔵しているが、六ケ所の開拓写真は庄内の農協にある。本当は被写体の近くにあるのが写真の幸せだと思うが、関心のある人がいないと管理が難しい。失われる恐れがある。資料館か、美術館か、という問題もある。美学的な視点からだけではなく、風景と被写体との関わりの中で重要性を持ってくる写真の価値がある。そういう写真の存在の仕方があってもいいと思ってる。

 (中村)貴重な資料であるほど、個人で管理する責任も大きくなる。それを抱えきれなくなる恐れを感じたことがある。美術館の所蔵の実態は?

 (倉石)美術館には収集方針があり、それに沿うものを集める。いくつかの考えが混在している。例えば、国立新美術館国立民族学博物館でやった展示(参考:イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYOでは民具を美術館で展示した。博物館資料を美学的に捉え過ぎていたが、共同で事業を開催した点は評価できる。博物館資料を美学的価値で評価するのをやってもいいし、逆があってもいい。高橋さんのように、組み合わせて新しい価値を作り上げていくこと。

 一方、限られた予算を有効に使うため、博物館資料のようなアノニマスな価値を切り捨てることもある。例えば東京都写真美術館(英語ではTOKYO PHOTOGRAPHIC ART MUSEUM)は、あえて"ART"といれることで、写真家という一種の芸術家がつくったもの以外を切り捨てている。このことは、写真の重要な可能性をも切り捨てていると私は思う。

 また、リサーチベースのアートやアーカイブのドキュメント活用を行う現代アートがあることを思えば、美術館が資料としての写真の収拾活用も模索すべきだ。それには学芸員の関心と、写真の広い可能性を考える感性と知性が必要。

 北海道はそれが出来得る場所だと思う。現代の状況を批判し映し出すような歴史資料に注目すること。ファインアートはもはや、それにスポットを当てなければ延命できない局面にある。今問題なのは、いかに自堕落にアーカイブを使うアーティストを批判するか。

 また同時に重要なのは、高橋さんがおっしゃっていたように、アーカイブは簡単に移し替えられない資料であるべきだということ。基本的にはその場で生きる人々ととも伝承されていくものだ。移し替え可能なデジタルコンテンツとしてだけの利用価値ではない。データのように簡単に消去できないものとしての写真の重要性がますます強調されるべき。

 

(中村)小島一郎の写真でいうと、五戸や南部、津軽では気候が全然違う。作家のタイトルと写真に写っている風景が違う。それをどうすべきか?

(高橋)津軽と下北の写真があって、下北が「津軽」として世に出てしまう。それはある種の社会的構造を非対称性が象徴的に名指していることと言える。許されないこと。その土地に距離感がある人は十把一絡げに捉えるかもしれないが、地元の人は指摘すべきだし、差異の重要性を強調していかなければならない。

 五戸バオリは網目の高さが集落によって違うという。突き詰めると分かる差異があると知った時には大切にすることが大事。なかったことにしない。

(倉石)高橋さんが言われたように、キャプションの誤りをそのままにすることは政治的意味を持つ。日本の写真に大きな影響を与えたフェリーチェ・ベアトは、第二次アヘン戦争時、英仏対清朝の従軍記録をしている。英仏共同軍が円明園という中国の初めての西洋風建築のある離宮を破壊、放火し宝を盗んだことがあった。ベアトは頤和園(いわえん)という別の離宮の写真に円明園のキャプションを意図的に、印象的なものにするため付けた。より大きな出来事を表す言葉に小さな出来事が回収されていくようなことが起きている。

(中村)噴火湾周辺ではアイヌ集落によって着物の柄が違う。

 写真道場の河東さんも掛川と同じように長万部アイヌを撮っているが、「滅びゆく」などという誤った題を付けている。このようなことは改めていかなければならない。

(倉石)アイヌに対し「滅びゆく」というレッテルは明治頃から貼られている。「帝国日本と人類学」(坂野徹著、2005年)という本のなかにあるが、第一回の人類学会ですでに「滅びゆく」と言われ、今日まできている。そこには政治的、観光的など様々な意味合いがあり、日本人が貼ってきたレッテルとして歴史の厚みすらある。

 それは変えていくべきことだ。ネイティブアメリカン、ハワイアン、ニュージーランド、オーストラリアについてもそういうレッテルを貼られ、それに抵抗している。

 数年前「ワンヴォイス ハワイの心を歌にのせて」という映画を見た。ハワイアンが通う学校で毎年行われる合唱コンクールを題材にしたもので、あるモロカイ島出身の少女がハワイ語の歌詞で悩み、島に帰って受けた祭祀の印象を活かしていくのだが、そこで「ハワイアンの年配の人の発音を直してはいけない」と言われる。少女は復興の最中で教育されているからハワイ語を勉強できている。正しいハワイ語とは何か、という定義も難しいのだが、ハワイアンの自覚がない時代の教育を受けたおばあさん世代より孫の方がハワイ語を喋れたりする。そういう残酷なシーンがある。

 同じようなことがアイヌでも起こり得る。それを復興として捉えるべき。「滅びゆく」とか言ってる場合じゃない。

 (中村)北海道ではしばしば「最果て」と言われたり、長万部も何もないとか言われてレッテルを貼られるけど、そうかな?とも思う。

 

 

 

 

 ・質疑応答

 

 Q、旭川で町を記録する写真活動をしている。結成して50年になる。二回写真集を出した。変化しそうな場所を撮影し共同制作をやっている。最近、共同制作の中で、会員に価値観を押し付けているように感じることもある。できたときには充実感もあるが。質問は、町の記録という観点から今デジタル化した記録について心に留めるべきことはあるか?

 A、(倉石)デジタル写真のデータを保存する方式が、どれがベストかわからない。例えば映画はほとんどデジタルになってデーターを上映しているが、多くがフィルムにも焼いているようだ。モノとして保存した方が長持ちする可能性が高い。これまでの経験からすると、やはり銀塩のプリントで焼くのが長持ちするのではないか。

 

 Q、伊達から来た。写真道場の活動について知ることができるまとまった資料はあるか?

 A、(中村)文献としては町史。あとはカメラ雑誌の記事を調査している。地道に拾っていくしかない。プレゼンテーションの際にお話ししたことが現状のすべて。

  

 Q、町内から来た。地元のアイヌの資料は開拓記念館(現・北海道博物館)ができたときにそっちに行ってしまったり、文書は道立文書館ができたときに赤レンガに行ってしまったりした。近くに資料がない。町史ができて30年以上経っている。その時編集で使ったときの写真もどこかに保管されているはず。写真が地元にどのように保存されていくのか、今後について訊きたい。町民で考えていかなければならないと思う。

 A、(中村)今は、個人同士のやりとりで残っている写真を展示した段階。今後はできれば町民で問題を共有して、写真を残していけるように、町民が自由に見られるようにしていきたい。

 

Q、他の写真道場のメンバーの写真は?

A、(中村)今後もっとみつかるかもしれない。古川晧一さんという早い時期から入選、入賞されていた方の遺族とは、今回の展示がきっかけでお会いできたが、2年前に処分したと言われた。澤さんの遺品から河東さんの写真も見つかっている。

 

 シンポジウムは以上。

 

 

 

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 (まんべくん

 

 

 

2.感想 

 

 私の感想として。

 

 基調講演1で、まず小島の写真について思うのは、やはり丁寧な整理と研究がその再評価につながったのだろうということだ。長万部写真道場の写真に関してもこれから更にそのような作業が必要であろうことは言うまでもない。また、フィルムを寄託としたことの意味は大きいと思った。その研究対象は実際には誰のものなのか。どこにあるべきなのか。私たちが人間である以上、倫理を抜きにした研究は不可能だ。これは最近のアイヌの遺骨返還問題にも通じると思う。

 小島の写真と写真道場の写真に、また別の開拓地の写真にも、それぞれ共通する被写体や状況が撮られていることも興味深い。写真映えする被写体を選んだ結果なのか。或いは、戦後のある時期を象徴的に示すモチーフを選んだ結果なのか。

 講演で挙げられた例は写真道場の作品と、同じ時期であったり近い環境であったりと、様々な軸で比較して見られるもので、今回の展示をより多面的に見るのに役立つ内容だった。

 

 基調講演2では、掛川のある写真集にまつわる様々なトピックを深く知ることができた。ひとつの写真集から、これだけの内容を引き出せることに素朴に感動した。長万部写真道場の作品群にもそのような可能性があると思うとわくわくする。

 沖縄村の写真のあとに付いている長万部アイヌの司馬夫妻についても興味深かった。今日ではありえない言いがかりに過ぎないのだが、アイヌを「滅びゆく」ものとする言説がまだ根強かった当時、掛川もまたその延長線上で司馬夫妻や長万部アイヌを撮った(撮らざるを得なかった?)であろう。しかし、そういう解釈だけが写真から導き出されるわけではない(それこそが写真の面白さだろう)。民族間の政治的な権利云々と一部で関連しつつもそれだけではない複雑な問題がそこにある、ということの指摘として私は講演を受けとった。私たちが忘れがちなのは、文化はそもそも雑種的な要素を含んで変化、発展していくということだ。それに加えて考えなければならないのは、「天皇と対峙する姿」や「文化的混交を生き抜く姿」は、確かに世界的なのっぴきならない事態の影響下で生まれてしまった。それらを正視するやり方を、たぶん和人の私たちはまだ身に着けられないでいる。その中で複雑な状況を丁寧に腑分けした今回の講演のような営みが、真の文化の発見につながっていくのではないかと感じた。

 

 シンポジウムで面白かったのは、博物館資料と美術館の所蔵品の活用について。私自身が博物館や図書館の資料を参考に作品をつくるからなおさらだ。美術館でも博物館でも、美学的価値とか資料的価値だけで割り切れないような展示が近年随分増えてきたと感じる。

 「自堕落にアーカイブを使うアーティスト」が批判されていたが、これは資料の価値の可能性を自分に都合の良い形でしか捉えられないアーティストのことかと私は思った。資料の価値の開かれに敏感になることは、もちろん今回のシンポジウムの意義にも通じよう。地方で数多の芸術祭が開かれるようなって久しいが、それらを批判的に考える上でも参考になる知見だと思う。自戒も込めて。

 ハワイアンの世代間の教育の違いについても興味深かった。まさにアイヌ語でももう起こっている事態なのかもしれない。

 

 そもそも地方では財政難で資料の満足な保存すら覚束ないのではないだろうか。今回の写真展での来場者の反応を見れば、地域の資料を地道に保存し地域で活用していくことがどれだけかけがえのない価値なのかよくわかる。それは私たちが生きるための基礎、とでも言えばいいのだろうか。歴史の証人として写真があることで自分の文化の存在を確認することができる。それは人間の尊厳の一部をなす(もちろん写真の価値がそれだけではないことこそこのシンポジウムの意味だっただろうが)。大げさに言えば、記録と保存の軽視は国会で問題になっている公文書改ざんの問題ともつながるようにも思える。これは政治的な重大問題であるだけでなく、文化の破壊、人間の否定でもある。

 

 文化は何より地道な長いスパンの研究に裏打ちされてこそ価値が出るものだということを、このシンポジウムでは再確認できた。よく町おこしなどと言いながら安易に芸術祭を開いて、やりがい搾取をしながら他所から来たものを有難がり、一時の快楽のために消費するようなことは疲弊を招くだけで文化の発展にはたぶん寄与しない。もちろん文化的交流は必要だが、それにはベースとしてのアーカイブが必須であろう。

 

 いっそのこと、長万部写真道場のアーカイブと研究発表をベースとして北海道の写真を研究する「北海道写真美術博物館」なるものを作ってしまってはどうだろうか、ともちらっと思ったが、その提案は荒唐無稽だとしても、そんな夢想をしてしまうほどには北海道の写真の可能性を感じた展覧会とシンポジウムであった。

 

 

 

 (終)

 

2018.4.4. 感想を一部削除、加筆

2018.4.22. 一部指摘があり人名や明らかに事実と異なる内容を訂正、語の言い換え、内容の補足

 

 

 

「長万部写真道場 再考」④ シンポジウム②

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 (長万部の海沿い)

 

 の続き。長万部でのシンポジウムについて。

 

 

 

 1.基調講演2

 

 2018.2.25. ②

 

 基調講演2は、明治大学理工学研究科総合芸術系教授の倉石信乃氏による「『掛川源一郎写真集 大地に生きるー北海道の沖縄村ー』を読む」だ。

 表題にある掛川源一郎(1913~2007)の写真集の特徴や現代的意義についての講演だった。以下要約。

 

 

 

 写真集「掛川源一郎写真集 大地に生きるー北海道の沖縄村ー」(1980年、第一法規出版)は長万部カメラクラブ(当時の名称で、長万部写真道場の改称前)が掛川を案内したことがきっかけで撮影された。沖縄から大阪に移り住み、戦災で焼けだされたことで長万部の平里地区の開拓に従事することとなった仲宗根一家の約20年間の記録だ。

 

 まず、掛川自身や写真集の背景について。

 

 1950年代に土門拳が提唱した「リアリズム写真運動」は、写真を芸術的に撮ろうとするのではなく、ありのまま、ストレートに、社会に於いてどのような暮らしぶりをしているか(させられているか)を撮影しようとした。「カメラとモチーフの直結」などと言われ、掛川もその影響下にある。

 掛川の写真の特徴としては、まず科学者や観察者の目を持っていたことが挙げられる。大日方欣一氏(フォトアーキビスト)の研究によれば、掛川は戦前期の1930年代、園芸雑誌の出版社で当時最先端の植物をクローズアップした科学写真を撮っていた。

 また掛川伊達市で高校の生物の教師をしながら、戦前戦後を通して北海道の噴火湾沿岸を主に撮影している。その中で長万部写真道場の写真家たちとも交流していく。例えば、鳥取植田正治秩父の清水武甲のように、その土地に根差して芸術を追求していった写真家のグループに掛川も位置づけられる。

 

 この写真集においては1950年代あるいは昭和30年代のイメージが中核となっている。ちょうどこの時期は、芸術家がサークルのように集団で活動することが注目された頃である。その点では、同時期に集団で地元を記録していくことの重要性に気が付き、いわば一つの世界を作り上げていた長万部写真道場は重要だ。

 また、写真集の序文は緑川洋一が書いている。緑川は掛川も所属していた二科会のメンバーだ。もう一人、西銘順治も文章を寄せている。保守系の政治家で沖縄県知事等を歴任した西銘は、必ずしも掛川の政治観と一致していたわけではないかもしれない。ただ、1980年代ごろまでは写真集ではこのような複雑な権威付けがしばしば行われたことは、頭に留めておいてもよい。

 

 ある写真を、「開拓写真」や「北海道写真」と呼ぶことがある。「開拓写真」は、開拓を自明のものと見做すことを内在させた言い方だ。アイヌにとっては開拓は侵略であり植民地化である。また多くの移民や開拓者にとっては過酷な条件とセットの恵まれない移住や入植であった。もちろん掛川が撮影した仲宗根一家や、高橋さんの講演でも触れられていたような戦後の緊急開拓でも同様だっただろう。これらアイヌや移民の憤り、苦しみなどを、開拓写真を考える上でいつも思い起こす。

 では、開拓とは何か。民俗学者宮本常一は著作「開拓の歴史」で、次のように定義している。「開拓とは、木を伐り、草をはらい、土をおこして、作物をつくる土地を準備し、家を建て、生活をしていくことである。それは新たに自分の意志と工夫と努力によって、生きていく条件をととのえていくことであるといってもいい。人は生きていくためにはまず食物を必要とする。食物を手にいれるということは、いつの世にあっても必ずしも容易なことではない」。

 また宮本は同じ著書で、第二次大戦後の日本が鎖国当時のように四つの島での生活を余儀なくされ、開拓可能地への入植が試みられたことで、明治初年と戦後の開拓とが似た様相を呈していることを指摘している。これに沿って考えるならば、田本研造や武林盛一ら明治の北海道開拓を撮影した写真家と、戦後の開拓を撮影した前川茂利や掛川の写真がどこかで響き合っているようにも思える。

 

 ここから、掛川の写真集の内容について。

 

 北海道への入植はしばしば被災者の救済事業として行われた。1889(明治22)年の吉野川の氾濫により集団移住した結果、新十津川村ができたように、濃尾地震関東大震災、太平洋戦争の震災、戦災で北海道へ移民した人々がいる。

 掛川が撮影した仲宗根一家も大阪から焼け出された沖縄移民だ。沖縄戦で帰郷の望みが絶たれ、秋田で空襲に遭いながら、移動中に終戦になった。長万部に着いたのは1945年8月18日。泥炭地を耕しながら、山で薪を拾うなどして食いつないでいく日々だった。

 最初に撮影したのは1956(昭和31)年。以後1980(昭和55)年までの記録が写真集にまとめられた。

 掛川は初めて訪れた荒涼とした開拓地に感銘したという旨の言葉を残している。これは写真家の業のようなもので、生きていくのに困難な土地はフォトジェニックな強い写真ができる。開拓地は焼け跡の残骸のようだったとも語っている。戦後とは生活のための闘いの日々だっただろう。リワイルディング(再野生化)という言葉がある。欧米では積極的に自然に介入していくが、日本におけるリワイルディングでは成すがままに任せる。掛川が焼け跡と言った平里を3年ほど前に訪れた時にはそうなりつつあった。

 

 仲宗根一家の丹念な記録からは、掛川の科学者のような冷ややかな峻厳な目と、あたたかなヒューマニズムの目との折り合いを探っていることが伺える。

 子供の写真がある。これはある種のパターン。戦後の新たな社会で自由に振る舞うことやリスタートの寓意、可能性の擬人像として、子供が盛んに撮られた時期がある。例えば、戦後最初に復刊した写真雑誌『カメラ』(1946年1月号)に掲載された土門拳「真生子」がそれにあたる。

 また1950年代は「労働」というテーマが重要だった。これは1930年代の労働運動を撮ったプロレタリア写真のリバイバル長万部写真道場の写真でも労働風景が撮られている。

 一家の長である仲宗根さんが年を重ね、子、孫ができた姿を撮っている。叙事詩的、物語的な構成の写真集であるといえる。

 

 ここから、写真集の第二部ともいえるアイヌ集落の写真について。

 

 この写真集には沖縄移民の写真のあと、旭浜地区のアイヌ集落の写真が付録のようについている。

 写真集のクライマックスでは長万部アイヌの長である司馬力弥翁と妻ハル媼が撮られている。アイヌの文化的継承者であり、日本にとっては別の民族の長でもあり、加えて撮影の協力者でもあった二人の生き方に掛川は注目していたのだ。司馬夫妻は仲宗根一家と対照的でありながらイメージの強さでは並んでいるといえる。写真集の構成としては「北海道の沖縄村」だけにした方がよかったはずだ。しかしそれを外さなかった掛川は、アイヌのイメージの最後の輝きが長万部を記録する上で重要だと考えていただろう。

 長万部町史に、昭和天皇の全国巡幸の最後、北海道巡幸の途中の1954(昭和29)年8月9日に長万部駅で最前列で司馬夫妻が出迎えた際の写真がある。この写真を見たとき思い起こしたのは開拓使仮学校での農業実習の写真だ。伝統衣装と洋装のアイヌが混ざって写っているもので、昭憲皇太后が視察に訪れた際アイヌが歌舞音曲を披露したという話が残っている。(参考:北海道大学のサイト開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其2司馬夫妻は天皇を歓待する立ち位置であり、別民族の長である天皇に矜持や誇りを示してもいる。複雑な陰影をもった写真だと感じた。

 写真集には含まれていないが、掛川の「酋長未亡人の死」にも考えされられた。司馬ハルの葬儀を撮影したもので、アイヌの伝統的な墓標を用い土葬であったのと同時に法華宗の葬式でもあった。

 また、長万部アイヌも関わった観光客向けの熊送りの儀式が、本来の冬の終わりではなく夏に行われていたことが昔の絵葉書から分かるという(様似町教育委員会の大野徹人氏の指摘による)。

(参考、長万部アイヌが運営していたアイヌ文化を紹介する施設エカシケンル:函館市中央図書館デジタル資料館(参考、熊送りの様子:函館市中央図書館デジタル資料館

 

 これらをアイヌの観光化や「滅びゆく民族」という切り口であまりに簡単に論じることは、余儀ない事態、あるいは途方もない事態として起こっている文化的混交をレッテル貼りで単純化することでしかない。「酋長未亡人の死」で掛川は文化的混交を生き抜いた司馬ハルを敬意をもって確かな観察眼で捉えていた。私たちが考えるべきことは、文化的混交から不純物を取り除くように「純粋な日本」や「純粋なアイヌ」という境界線を引き、分けてしまうことではなく、混交の意義を再検討し、境界の領域を活性化することだろう。その先に見えてくるものは、北海道の様々な場所で同時多発的に行われるべきアイヌ文化の復興であろうと思う。

 そのようなことを掛川の写真や、長万部写真道場の写真は教えているのではないか。

 

 講演はだいたい以上のような内容だった。

 

 2.プレゼンテーション 

 

 長万部写真道場研究所主宰の中村絵美さんによるプレゼンテーション、「長万部写真道場 調査報告」があった。中村さんは長万部町出身の美術家。調査研究の成果として年表などを見せながら写真道場の活動の概要を紹介していた。以下要約。

 

 

 

 写真道場については町史に記録が出ている。1951(昭和26)年に「長万部カメラ倶楽部」として発足。初代会長は片山政五郎 氏。のち「長万部カメラクラブ」「長万部写真クラブ」に改称した。このころの会長は産婦人科医だった河東篤 氏。

 

 澤博氏の遺品である写真は2015年から調査と整理を始めた。今回展示したものは1976(昭和51)年の町の文化祭で発表された写真ではないかと予想している。澤らと掛川はほとんど同時期に写真雑誌に入選するなどしていた。交流が深い。掛川と河東らが同時に同じモチーフを撮ったと思われる写真も何枚もある。

 

 1951(昭和33)年、噴火湾のカメラクラブが集まり「道南写真作家展」が開催され、写真道場からも出品した。伊達、浦河、室蘭にもカメラグループがあった。これは札幌や旭川にも巡回した。全国全道ににカメラクラブがあった。

 同年には道南の年長世代の作家たちが北海道作家集団も結成し、生活派と自称した。このような写真家のネットワークについても調査している。

 

 

 だいたい以上のようなものだった。

 

 お昼の休憩時、名物のかにめしをいただいた。

 

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 へ続く。

 

「長万部写真道場 再考」③ シンポジウム①

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  (まんべくん

 

 の続き。長万部の写真展の記録です。

 

 

 

 

 1.シンポジウムへ 

 

 

 2018.2.25.①

 

 明くる25日、写真展会場のすぐ横のホールで開かれたシンポジウムを10時から聴いた。

 

 まず、長万部町長の木幡正志氏の挨拶があった。

 以前にも写真道場の元メンバーから展示したいという話があったのだが、肖像権や専門の人員がいないなどの理由から実現しなかったのだとか。今回の展示はある意味で町長の念願でもあったわけだ。また、写真はかつての漁業の様子などを知るのに貴重な資料であり未来へ伝えていくべき町の大切な宝であるというようなことなどを述べていた。

 

2.基調講演① 

 

 続いて、青森県立美術館学芸主幹の高橋しげみ氏による基調講演1 「郷土に写真を残す〜青森県立美術館での実践を通じて」があった。

 

 内容は、長万部写真道場の写真家たちと同じ時期の写真家・小島一郎についてと、戦後開拓の写真についてが主だった。

 

 2009年には高橋さんの企画で「小島一郎 北を撮る 1924〜64」が開催された。小島一郎は青森市出身で、澤博と同年の1924(大正13)年生まれの写真家。昭和30年代の約10年間青森を撮影し、1964(昭和39)年に39歳の若さで急逝した。

(展覧会サイト:小島一郎 - 北を撮る - 戦後の青森が生んだ写真界の 「ミレー」 | 青森県立美術館

 

 以下講演を要約。

 

 15年ほど前に小島の奥さんが保管していたプリントやフィルム等の資料の研究整理を始めた。当時は小島は知る人ぞ知る存在だった。今回の展示にも言えることだが、資料は残そうと思わないと残らないもので、遺族に資料について問い合わせるも既に処分してしまった後であることもしばしばだ。

 その中でも特にモノクロネガフィルムは注意が必要で、フォルダーからを外して、中性紙で挟んで保存する。当時のものはセルロースが素材で、密閉されるとフィルムから発するガスで粉末状になってしまう(ビネガーシンドロームという)。しかも劣化が始まると止まらない。

 貴重な資料は、遺族にとっては故人の遺品でもある。昨年、ほとんどの資料を美術館に寄贈してもらったが、フィルムは寄託とした。新しいプリントを作る際、遺族がイニシアチブを取れるようにするためだ。

 小島の写真にわら半紙のような台紙に貼られた見本帳があり、雑誌社への売り込みに使用された。今展の写真でも同様に、このような台紙に描き込まれた撮影地や被写体の情報も貴重なものである。

 

 次に、小島一郎の生涯について。

 
 小島は津軽地方の写真で有名になった。空を逆光で撮って暗く焼きこむのが特徴で、覆い焼き等の暗室の作業で津軽を解釈、表現した。夕暮れの中作業をする農夫を撮影しミレーの絵に喩えて語ってもいる。ある写真についての小島の言葉からは消えゆく津軽の風景に対するロマンチシズムも感じられる。

 1958(昭和33)年、初個展「津軽」を銀座で開催。写真家の名取洋之助が青森に来た時に小島を見出し展示へ繋がったという。小島の写真の原動力には「地方とは、地方の良さとは何か」という問いがあった。

 同年9月、総合雑誌「世界」に「農村の夏」という題で作品がグラビア掲載された。ある農作業の写真には「津軽にて」とタイトルがあるが、これは南部の五戸の写真。被り物「五戸バオリ」からそのことが分かる。全く別の文化圏に属する南部を津軽だとしたことから、後に小島が津軽の写真家として定型化されていくことにも繋がり、また中央の人々が、「津軽」というわかりやすい記号で北国を見ていたことも伺える。

 1961(昭和36)年、小島は一念発起しフリーカメラマンとして活動するため上京、翌年には下北をテーマに個展「凍ばれる」を開催する。今展の長万部の写真でも被写体になっている綱の巻き取り機(マキドウ)もこの時作品になっている。中央への意識が感じられ、白黒のコントラストが強い作品は津軽にはない荒々しい風土が現れている。しかし評価は散々だった。

 東京に出たにも関わらず東北の写真でしか自分を出すことができない小島だったが、一か八かの決心で北海道へ行き流氷を撮ろうとする。だが上手くはいかなかったらしく写真は遺っていない。この撮影旅行で体調を崩し、1964年に39歳の若さで亡くなってしまうのだった。

 

 ここからは戦後の開拓写真について。

 

 小島一郎も戦後の写真家として開拓と無縁ではなく、八甲田山の中腹、標高600メートルの「ヌラ平」の開拓を記録した写真が残っている。緊急開拓として1953(昭和23)年9月から22戸が入植。満州から引き上げが遅れたことで中国共産党の影響を受け、壮行式で毛沢東の肖像を飾るような一団だった。環境が厳しく、7年で全戸が離脱した。

 岩手山麓の開拓でも青山学院大学写真部が撮影した記録がある。ここには現在でも酪農をしている人がいる。

 開拓地の写真では、切り株やランプを灯した室内がよく撮影される。

 六ヶ所村も戦後緊急開拓の地となった。もともと山形の庄内から中国へ満蒙開拓に入り、戦後に山形で定住できなかった一団が入った。「目で見る庄内開拓史」という本に記録がまとめられており、川村勇というアマチュア写真家が撮影した。庄内開拓団にお嫁さんが来た時の写真があるが、前川茂利が撮影した北海道の共和町の写真には開拓が厳しく嫁が来ないという言葉が添えられている。川村も「リアリズム写真運動」の影響を受けている。これらの写真は開拓団にとって、彼ら自身の歩みを確認できるものであった。

 

 最後のまとめ。

 

 20世紀以降、強制移住や難民の問題が起きている。国家間で翻弄され、そうせざるを得なかった人がいる。例に挙げてきたような戦後開拓の写真は、来し方を確かめ、私たちが立っている基盤を見出すことができるものであり、歴史の層の中にある私たちが知らない多くの出来事を暴露するものである。写真は常に新しい価値に開かれて流布するものだ。やはり被写体に近い場所にあって、そこに生きる人々の近くに存在することで意味の深さがが増していくものであると思う。

 

 講演はだいたい以上のような内容だった。

 

 

 

に続く。

 

 

 

「長万部写真道場 再考」② 写真展の様子

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 (写真台紙の文字)

 

 の続き。

 長万部町で行われた写真展「長万部写真道場 再考」の様子を抜粋して紹介したい。

 

 そもそも「長万部写真道場」とは何か?

 1951(昭和26)年に「長万部カメラ倶楽部」として発足した町内のアマチュアカメラマンの団体で、1967年には中心的会員だった澤博(1924~2012)が新会員を加え、名前を「長万部写真道場」として活動を活性化させた。写真家の土門拳が提唱した「リアリズム写真」の影響を受けながら、町内の様々な風物をカメラに収め、カメラ雑誌や公募展に投稿しながら全道、全国のカメラ愛好家と交流していたそうだ。

 

 

 

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 「ロクロ/マキドウ」

 遠浅の砂浜で船や網を引き揚げる際に使っていた人力の巻き上げ機。この写真は展示のチラシにも使用されている

 

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 写真を撮る人々。

 

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 砂の入った俵をひかせ、どの馬が早いか競わせている様子。

 

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 長万部アイヌエカシ司馬力弥と妻ハル。

 

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 小さな会場ながら、50点以上の写真作品と資料が展示され、多くは丁寧に解説がつけられていて見ごたえがあった。

 台紙の赤い字が写真家の自負を物語るようで印象深かった。

 

 

 

 に続く。シンポジウムへ。

 

 

 

「長万部写真道場 再考」① 長万部についてと撮影地見学ツアー

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長万部駅前。「毛ガニ」「東京理科大」の文字と新幹線の模型。)

  

 

 1、長万部について

 

 

 長万部町へ初めて行った。

 内浦湾に面した渡島北部、伊達市の対岸に位置するこの町は、名物の「かにめし」や温泉を目当てに訪れる人も多い。札幌からだと車で約3時間。シャクシャインの戦い(1669・寛文9年)では決戦場となり、幕末には南部藩の陣屋がおかれた。江戸時代から交通の要所でもあり、長万部駅函館本線室蘭本線、瀬棚線の接続地点として重要な役割を担った。

 (参考:長万部町役場 - 長万部の歩み長万部町 - Wikipedia

 

 町内の長万部町学習文化センターでは「長万部写真道場 再考 -北海道における写真記録のこれからー」と題し、長万部で活躍したアマチュア写真家のグループ「長万部写真道場」の活動を回顧する写真展が2月11日から開催されていた。主催は、「長万部写真道場研究所」。

 

(主催・長万部写真道場研究所のサイト:写真展・フォーラム開催のお知らせ | 長万部写真道場研究所

 

 また2月24日には関連イベントとして「『長万部写真道場』撮影地見学ツアー」が、最終日の25日にはシンポジウムが行われた。これらに参加してきた。

 撮影地見学ツアーの様子から書いていきたい。

 

  

 2、撮影地見学ツアーの様子

 

2018.2.24.

 

 ツアーは午後3時に写真展の会場である長万部町学習文化センターからスタート。参加者は20~30名くらいか。晴れていたがけっこう寒い。

 まず、町の様々な公共施設が並ぶ通称「センター通り」を歩く。

 

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 平和祈念館前へ。ここは町の開業医である工藤豊吉氏のコレクションが寄贈されて出来た施設だ。近くにある植木蒼悦記念館も同コレクションがもとになっている。今回はじっくり見る時間がなかったが、前庭には本郷新の代表作がいくつも並んでおり、また館内には丸木位里・俊 によってこの館のために描かれた「原爆の図」があるらしい。工藤は初期の八雲の木彫りグマなども買っていた道南地方におけるパトロンで、サナトリウムも経営しておりその中では短歌会など文化活動も盛んであったという。

 写真展との関係でいえば、長万部写真道場の主宰者のひとり澤博氏(1924~2012)の母は真狩村から工藤との縁で長万部に来たらしい。

 

(平和祈念館について:長万部町役場 - 施設の概要長万部町役場 - 展示作品等 

(植木蒼悦記念館について:長万部町役場 - 施設の概要、参考:はこだて人物誌 植木蒼悦

 

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 次に、通りの突き当りにある飯生神社(いいなりじんじゃ)へ。 大きな鳥居が目立つ。1773(安永2)年の創建。

 社殿は小山のうえにあり、周囲には「史跡 ヲシャマンベ陣屋跡」と「チャシ跡」がある。ヲシャマンベ陣屋は盛岡藩南部藩)が蝦夷地を警備するための幕末の施設。チャシ跡はもちろんアイヌ文化の遺跡である。

 陣屋について歴史的経緯を少し振り返ってみたい。1855(安政2)年に江戸幕府は、蝦夷地の再幕領化を行った。松前周辺を除いて箱館奉行の管轄に入り、東北諸藩が警備のため出兵を命じられた。その際、盛岡藩噴火湾沿岸の警備を命ぜられ、函館山の麓に本部である元陣屋を設置し、室蘭に出張陣屋、砂原と長万部に分屯所を置いた。また室蘭から八雲までを領地としても与えられた(八雲の山越内にあった関所が、蝦夷地と和人地の境である)。

 1856(安政3)年に設置されたヲシャマンベ陣屋は、沿岸が砂漠遠浅であり外国船が容易に近づけないとのことからすぐ翌年には廃止されたが、1868(慶応4)年に戊辰戦争の混乱の中で藩兵が引き上げるまで盛岡藩による蝦夷地警備、経営は続いた。

(参考:http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/id/4f0ab7a0ea8e8a08d20000e3

 

 ガイドを聴く人、坂を駆け上がって社殿に詣でる人もいた。ここで少し地理の説明があった。長万部は川が作った平地で、北西の風がナギになるそうだ。

 
 鳥居をくぐり、道路を渡って線路沿いに温泉宿が密集する通りへ向かう。「長万部温泉ホテル」前には大きな石でできた温泉記念碑があった。
 昭和29年、ガスの試掘をしたところ温泉が出た。翌年には四、五件の温泉宿ができていた。違法の混浴温泉(!)だったところを町営温泉として整備、民間に払い下げて今日の「長万部温泉ホテル」になったという。

 

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 JR室蘭本線の上にかかる跨線橋は老朽化が著しい。風が吹くと寒かった。以前この辺りにはJRの官舎など関連施設もあった。

 

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 商店街を通り、JR長万部駅の方へ向かう。駅前の角地は今は空き地になっているが、ここに「長万部食堂」があった。鰊御殿から持って来た瓦屋根の建物だったという。この食堂を経営していたのが澤博氏で、隣接する建物に今回展示された写真が保存されていた。

 

 ツアーの最後はすぐ近くの建物で、澤博氏の娘である 薫さんからお話を伺いながらコーヒーをいただいて解散となった。

 思っていたより参加者が多く、町民はじめ様々な人が写真展に関心を寄せていることが伺えた。人が多かったこともありガイドをすべてきちんと聴けなかったのが残念だが、長万部について少し知れて親しみが持てた。

 長万部に一泊。今回の展示とシンポジウムにあわせて写真家の方が東京などあちこちから来ていたようで、お話して刺激になった。

 

 

 

 次に、写真展の様子を紹介。

 へ続く。