こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

「長万部写真道場 再考」④ シンポジウム②

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 (長万部の海沿い)

 

 の続き。長万部でのシンポジウムについて。

 

 

 

 1.基調講演2

 

 2018.2.25. ②

 

 基調講演2は、明治大学理工学研究科総合芸術系教授の倉石信乃氏による「『掛川源一郎写真集 大地に生きるー北海道の沖縄村ー』を読む」だ。

 表題にある掛川源一郎(1913~2007)の写真集の特徴や現代的意義についての講演だった。以下要約。

 

 

 

 写真集「掛川源一郎写真集 大地に生きるー北海道の沖縄村ー」(1980年、第一法規出版)は長万部カメラクラブ(当時の名称で、長万部写真道場の改称前)が掛川を案内したことがきっかけで撮影された。沖縄から大阪に移り住み、戦災で焼けだされたことで長万部の平里地区の開拓に従事することとなった仲宗根一家の約20年間の記録だ。

 

 まず、掛川自身や写真集の背景について。

 

 1950年代に土門拳が提唱した「リアリズム写真運動」は、写真を芸術的に撮ろうとするのではなく、ありのまま、ストレートに、社会に於いてどのような暮らしぶりをしているか(させられているか)を撮影しようとした。「カメラとモチーフの直結」などと言われ、掛川もその影響下にある。

 掛川の写真の特徴としては、まず科学者や観察者の目を持っていたことが挙げられる。大日方欣一氏(フォトアーキビスト)の研究によれば、掛川は戦前期の1930年代、園芸雑誌の出版社で当時最先端の植物をクローズアップした科学写真を撮っていた。

 また掛川伊達市で高校の生物の教師をしながら、戦前戦後を通して北海道の噴火湾沿岸を主に撮影している。その中で長万部写真道場の写真家たちとも交流していく。例えば、鳥取植田正治秩父の清水武甲のように、その土地に根差して芸術を追求していった写真家のグループに掛川も位置づけられる。

 

 この写真集においては1950年代あるいは昭和30年代のイメージが中核となっている。ちょうどこの時期は、芸術家がサークルのように集団で活動することが注目された頃である。その点では、同時期に集団で地元を記録していくことの重要性に気が付き、いわば一つの世界を作り上げていた長万部写真道場は重要だ。

 また、写真集の序文は緑川洋一が書いている。緑川は掛川も所属していた二科会のメンバーだ。もう一人、西銘順治も文章を寄せている。保守系の政治家で沖縄県知事等を歴任した西銘は、必ずしも掛川の政治観と一致していたわけではないかもしれない。ただ、1980年代ごろまでは写真集ではこのような複雑な権威付けがしばしば行われたことは、頭に留めておいてもよい。

 

 ある写真を、「開拓写真」や「北海道写真」と呼ぶことがある。「開拓写真」は、開拓を自明のものと見做すことを内在させた言い方だ。アイヌにとっては開拓は侵略であり植民地化である。また多くの移民や開拓者にとっては過酷な条件とセットの恵まれない移住や入植であった。もちろん掛川が撮影した仲宗根一家や、高橋さんの講演でも触れられていたような戦後の緊急開拓でも同様だっただろう。これらアイヌや移民の憤り、苦しみなどを、開拓写真を考える上でいつも思い起こす。

 では、開拓とは何か。民俗学者宮本常一は著作「開拓の歴史」で、次のように定義している。「開拓とは、木を伐り、草をはらい、土をおこして、作物をつくる土地を準備し、家を建て、生活をしていくことである。それは新たに自分の意志と工夫と努力によって、生きていく条件をととのえていくことであるといってもいい。人は生きていくためにはまず食物を必要とする。食物を手にいれるということは、いつの世にあっても必ずしも容易なことではない」。

 また宮本は同じ著書で、第二次大戦後の日本が鎖国当時のように四つの島での生活を余儀なくされ、開拓可能地への入植が試みられたことで、明治初年と戦後の開拓とが似た様相を呈していることを指摘している。これに沿って考えるならば、田本研造や武林盛一ら明治の北海道開拓を撮影した写真家と、戦後の開拓を撮影した前川茂利や掛川の写真がどこかで響き合っているようにも思える。

 

 ここから、掛川の写真集の内容について。

 

 北海道への入植はしばしば被災者の救済事業として行われた。1889(明治22)年の吉野川の氾濫により集団移住した結果、新十津川村ができたように、濃尾地震関東大震災、太平洋戦争の震災、戦災で北海道へ移民した人々がいる。

 掛川が撮影した仲宗根一家も大阪から焼け出された沖縄移民だ。沖縄戦で帰郷の望みが絶たれ、秋田で空襲に遭いながら、移動中に終戦になった。長万部に着いたのは1945年8月18日。泥炭地を耕しながら、山で薪を拾うなどして食いつないでいく日々だった。

 最初に撮影したのは1956(昭和31)年。以後1980(昭和55)年までの記録が写真集にまとめられた。

 掛川は初めて訪れた荒涼とした開拓地に感銘したという旨の言葉を残している。これは写真家の業のようなもので、生きていくのに困難な土地はフォトジェニックな強い写真ができる。開拓地は焼け跡の残骸のようだったとも語っている。戦後とは生活のための闘いの日々だっただろう。リワイルディング(再野生化)という言葉がある。欧米では積極的に自然に介入していくが、日本におけるリワイルディングでは成すがままに任せる。掛川が焼け跡と言った平里を3年ほど前に訪れた時にはそうなりつつあった。

 

 仲宗根一家の丹念な記録からは、掛川の科学者のような冷ややかな峻厳な目と、あたたかなヒューマニズムの目との折り合いを探っていることが伺える。

 子供の写真がある。これはある種のパターン。戦後の新たな社会で自由に振る舞うことやリスタートの寓意、可能性の擬人像として、子供が盛んに撮られた時期がある。例えば、戦後最初に復刊した写真雑誌『カメラ』(1946年1月号)に掲載された土門拳「真生子」がそれにあたる。

 また1950年代は「労働」というテーマが重要だった。これは1930年代の労働運動を撮ったプロレタリア写真のリバイバル長万部写真道場の写真でも労働風景が撮られている。

 一家の長である仲宗根さんが年を重ね、子、孫ができた姿を撮っている。叙事詩的、物語的な構成の写真集であるといえる。

 

 ここから、写真集の第二部ともいえるアイヌ集落の写真について。

 

 この写真集には沖縄移民の写真のあと、旭浜地区のアイヌ集落の写真が付録のようについている。

 写真集のクライマックスでは長万部アイヌの長である司馬力弥翁と妻ハル媼が撮られている。アイヌの文化的継承者であり、日本にとっては別の民族の長でもあり、加えて撮影の協力者でもあった二人の生き方に掛川は注目していたのだ。司馬夫妻は仲宗根一家と対照的でありながらイメージの強さでは並んでいるといえる。写真集の構成としては「北海道の沖縄村」だけにした方がよかったはずだ。しかしそれを外さなかった掛川は、アイヌのイメージの最後の輝きが長万部を記録する上で重要だと考えていただろう。

 長万部町史に、昭和天皇の全国巡幸の最後、北海道巡幸の途中の1954(昭和29)年8月9日に長万部駅で最前列で司馬夫妻が出迎えた際の写真がある。この写真を見たとき思い起こしたのは開拓使仮学校での農業実習の写真だ。伝統衣装と洋装のアイヌが混ざって写っているもので、昭憲皇太后が視察に訪れた際アイヌが歌舞音曲を披露したという話が残っている。(参考:北海道大学のサイト開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其2司馬夫妻は天皇を歓待する立ち位置であり、別民族の長である天皇に矜持や誇りを示してもいる。複雑な陰影をもった写真だと感じた。

 写真集には含まれていないが、掛川の「酋長未亡人の死」にも考えされられた。司馬ハルの葬儀を撮影したもので、アイヌの伝統的な墓標を用い土葬であったのと同時に法華宗の葬式でもあった。

 また、長万部アイヌも関わった観光客向けの熊送りの儀式が、本来の冬の終わりではなく夏に行われていたことが昔の絵葉書から分かるという(様似町教育委員会の大野徹人氏の指摘による)。

(参考、長万部アイヌが運営していたアイヌ文化を紹介する施設エカシケンル:函館市中央図書館デジタル資料館(参考、熊送りの様子:函館市中央図書館デジタル資料館

 

 これらをアイヌの観光化や「滅びゆく民族」という切り口であまりに簡単に論じることは、余儀ない事態、あるいは途方もない事態として起こっている文化的混交をレッテル貼りで単純化することでしかない。「酋長未亡人の死」で掛川は文化的混交を生き抜いた司馬ハルを敬意をもって確かな観察眼で捉えていた。私たちが考えるべきことは、文化的混交から不純物を取り除くように「純粋な日本」や「純粋なアイヌ」という境界線を引き、分けてしまうことではなく、混交の意義を再検討し、境界の領域を活性化することだろう。その先に見えてくるものは、北海道の様々な場所で同時多発的に行われるべきアイヌ文化の復興であろうと思う。

 そのようなことを掛川の写真や、長万部写真道場の写真は教えているのではないか。

 

 講演はだいたい以上のような内容だった。

 

 2.プレゼンテーション 

 

 長万部写真道場研究所主宰の中村絵美さんによるプレゼンテーション、「長万部写真道場 調査報告」があった。中村さんは長万部町出身の美術家。調査研究の成果として年表などを見せながら写真道場の活動の概要を紹介していた。以下要約。

 

 

 

 写真道場については町史に記録が出ている。1951(昭和26)年に「長万部カメラ倶楽部」として発足。初代会長は片山政五郎 氏。のち「長万部カメラクラブ」「長万部写真クラブ」に改称した。このころの会長は産婦人科医だった河東篤 氏。

 

 澤博氏の遺品である写真は2015年から調査と整理を始めた。今回展示したものは1976(昭和51)年の町の文化祭で発表された写真ではないかと予想している。澤らと掛川はほとんど同時期に写真雑誌に入選するなどしていた。交流が深い。掛川と河東らが同時に同じモチーフを撮ったと思われる写真も何枚もある。

 

 1951(昭和33)年、噴火湾のカメラクラブが集まり「道南写真作家展」が開催され、写真道場からも出品した。伊達、浦河、室蘭にもカメラグループがあった。これは札幌や旭川にも巡回した。全国全道ににカメラクラブがあった。

 同年には道南の年長世代の作家たちが北海道作家集団も結成し、生活派と自称した。このような写真家のネットワークについても調査している。

 

 

 だいたい以上のようなものだった。

 

 お昼の休憩時、名物のかにめしをいただいた。

 

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 へ続く。