こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

「長万部写真道場 再考」⑤ シンポジウム③

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 (長万部の海)

 

 の続き。

 

 

 

 1.パネルディスカッション

 

  2018.2.25.③

 

 12時55分頃から第2部。中村、倉石、高橋の三名によるパネルディスカッションが行われた。題は「北海道における写真記録のこれから」。以下要約。

 

 

 

 (中村)まず講演の主旨の説明を。長万部写真道場の人々と同時期に道内では、掛川源一郎や東川町の飛騨野数右衛門、共和町の前川茂利、夕張市の安藤文雄ら、アマチュアカメラマンが活躍していた。また、明治時代に北海道の「開拓」を記録した写真もある。北海道は写真に撮られ続けてきた土地だ。長万部写真道場の写真は郷土資料として貴重だが、他の写真家についてなど周辺も知ることで、さらに価値が広がるのではないかという狙いがある。

 では最初に、展示についてお二人から感想を伺いたい。

 

 (高橋)驚いたのは、個人名がついていない「写真道場」という集団で撮る写真としての価値が見出されていたこと。一人の作家の限界を超えて集団で町を記録していく動きの具体的な例を目にして新鮮だった。今回の展示の写真選びもあっただろうが、町の漁業、酪農、温泉、国鉄など、あらゆる風俗産業がまんべんなく記録されていて「町の今を記録する」ことに力を注いでいたことが伝わってくる。町の営みの中に写真があった。それを中村さんが見出したこともまた素晴らしい。

 

(倉石)台紙の赤い「長万部写真道場」の字がとても目を引く。カメラクラブが名前を変えた「道場」とは切磋琢磨して剣道のように研鑽する場であることを示す。名前は重要だ。

 近代の芸術は作品を個人の表現だとし、その価値を作家性として一義的に考える。それに対して、60年代半ば以降、中央で活動していた写真家の間では先鋭的な問いとして作品や作者への疑義が露出してくる。具体的には、東松照明森山大道中平卓馬らがアノニマスの価値を語っていた。個人の表現や作品、一人の表現主体としての写真家への疑問は、写真家自身よりも、映し出す対象、すなわち風景や人々、場所の方が大事という考え方につながる。これは示唆的だ。

 50年代に地方で地道に集団制作を展開した写真道場の集団性や匿名性の重要さを感じる一方、60年代の中央の作家との間に温度差を感じた。それらの共通性と差異についても考えたい。少なくとも写真道場の表現は、作品や作者について振り返り、「自己」に内省的になることの価値について考えさえてくれるとはいえる。

 それは中村さんの写真道場の作家たちへの共感と、適切な写真のセレクトに加え、素晴らしい丁寧な解説があったからこそ。自己表現としての芸術写真は「写真がすべて物語る」とされ、被写体の解説がしばしば軽視される。適切な解説の真摯さは見る人に伝わる。

 

 (中村)私が解説を書いた。山の稜線でだいたいの場所を同定したりはできたが、ほぼ平成生まれなので分からないことが多く、町史や長万部の歴史写真集等々を調べた。意外と60代の方でも分からないことがあった。

 

 

 

・ここで長万部写真道場の元会員だった守田さんと、写真道場主宰者の一人である澤博氏の娘で今展の写真を保管していた澤薫さんから一言ずつコメントがあった。

 

 

 

 (守田さん)写真道場の活動時期は戦後まもなくから昭和40年くらいと、私が入って写真道場に改称するまで二期に分けられる。二期の間は休止していた。生活を撮ることを重視したグループ活動だった。道場だったので、河東が師範代、澤が指南役、というようにちゃんと位があり、小学生は級だった。

 (中村)新たな事実が!

 (澤薫さん)写真は「負の遺産」とでもいうようなものだったが、埃とカビ臭い写真道場に一筋の光明が差した。感謝申し上げます。

 (中村)本当にこの二人のおかげで写真展ができた。見に来てくれた町の人もよく残ってたなと仰る方が多い。

 (澤薫さん)みなさんの記憶の中に残ってくれたら幸いです。

 (中村)町史は普通、建物の写真やかしこまった集合写真が多い。長万部町史では写真道場の写真がよく使われている。町の歴史への写真道場による影響や、写真道場というキーワードで町の歴史がよくわかった。

 

 ・続き。

 

 (中村)最初は掛川について調べていた。そこから長万部写真道場を調べるようになった。

 質問。道外に道内の写真の歴史はどのように捉えられているのか。例えば「沖縄プリズム」展(参考:展覧会情報沖縄・プリズム 1872-2008では掛川の写真が「沖縄村」とだけ展示されていたが、(高橋さんの講演にあった「小島一郎の写真で南部が津軽と書かれた」例を受けて)長万部町のことなども併せて提示されていたらよかったなと思った、それらについて。

 

 (倉石)「沖縄村」については私も同意する。

 掛川への関心としては、講演でも触れた大日方欣一さん(フォトアーキビスト)が函館の熊谷孝太郎など地方の写真家の研究をしている。いわゆるローカルに徹し生涯を全うした作家への関心はここ20年くらいで研究者間で共有されてきている。掛川は写真集「genー掛川源一郎が見た戦後北海道」(2004年出版、北海道新聞社)で再評価された。

 沖縄のことでいうと、私が関わった写真集「沖縄写真家シリーズ」(未来社)の中で、アメリカによる占領時代から戦後の沖縄を撮っていた山田實がいる(参考:故郷は戦場だった - 山田實 写真 / 仲里効 タイラジュン 解説|未來社)。この人には中央との関わり方など掛川と似た面もある。中央から来た人の身請け人にもなっている。そこには「中央ー地方」という非対称性もあるが、ひとつの交流のパターンを見出すことができる。ローカリティに徹する意味の再評価の中で、北海道にはアーカイブされるべき人がまだまだいると思われる。

 逆に中村さんに質問したい。自分が生まれる以前の写真にアプローチするために地形とか空気から考えるという話があった。土地の形は大災害がなければ形をとどめている。夾雑物を捨てて残るのは地形と気象。一枚の写真を見ていくときの植生、地形等の意味など、どういうアプローチをしているのか詳しくお聴きしたい。

 (中村)例えば、掛川の「大地に生きる~」の平里地区や静狩湿原の開拓写真に写っている泥炭地。青森以北では植物が腐らず繊維が残り、一年に一ミリ以下しか地層が積みあがらない。それが湿原になる。それを知ったうえで見ると、平里では泥炭地を切って水を海に流し、腐らず残った根株を手で掘らなければならない苦しさや、農耕の技術が進歩していないかったこともあるが、気候に合わない植物を実らせようと頑張っていたことを写真から見て取ることもできる。

 (倉石)高橋さんにもお訊きしたい。開拓写真を見るポイントは?

 (高橋)やはり他の開拓写真と比較して見ること。開拓地の状況を、作物や道具、服装で比較しながら見る。

 ヌラ平開拓の場所は地図に載っていなかった地名だった。調査中、山並みで場所の確信が持てた。地形は基準点になりえると思う。

(倉石)私も、ある時期から風景は現場に行かないと分からないことが多いと思うようになり、必ずその場所に出かけて考えるようになった。同業者は必ずしもそうではない。逆に、実物偏重と言われたこともある。

 実際に現場に行って見えていなかったことが見えるのは「写真と実景のズレ」や「実景によって写真が批判される」というよりは、実景の情報を俯瞰的に反芻しながら解釈しないと風景写真の正当な価値や魅力を伝えることはできないのではないか、と思うようになった。

 別の参照項、例えば同時代の言葉による文献や、その場所を歴史的に描いてきた歌枕や、フィクションの描かれ方等々を、複合的に組み合わせることによって作品を読み解くことが必要。迂回路かもしれないが、言葉と実景と写真という違う位相にあるものの組み合わせで新しいテキストを生み出せないかと考えている。自然を読み取ることももちろん一つの参照項になる。

 (中村)長万部は天気予報が当たらない。漁師が山にかかる雲で天気予報する延長で写真を見るような。

(倉石)そういう経験から得た知恵は私には失われているものだ。

(中村)夕張に(倉石と)行ったときに天気予報が当たって「インディアンの娘」だと言われたことがある(笑)。

(倉石)自分が言ったことは覚えていない(笑)。夕張でも、やはり実際の風景、谷の深さやズリ山の形や傾斜は立体的に見ないとわからなかった。

 (中村)高橋さんへの質問。今回展示をやったことで新しい写真が発見されそうな気配がある。郷土写真の再発見の過程で、収集、展示、アーカイブする時、物それ自体をどうとらえているか?

 (高橋)小島一郎の写真は美術館が所蔵しているが、六ケ所の開拓写真は庄内の農協にある。本当は被写体の近くにあるのが写真の幸せだと思うが、関心のある人がいないと管理が難しい。失われる恐れがある。資料館か、美術館か、という問題もある。美学的な視点からだけではなく、風景と被写体との関わりの中で重要性を持ってくる写真の価値がある。そういう写真の存在の仕方があってもいいと思ってる。

 (中村)貴重な資料であるほど、個人で管理する責任も大きくなる。それを抱えきれなくなる恐れを感じたことがある。美術館の所蔵の実態は?

 (倉石)美術館には収集方針があり、それに沿うものを集める。いくつかの考えが混在している。例えば、国立新美術館国立民族学博物館でやった展示(参考:イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYOでは民具を美術館で展示した。博物館資料を美学的に捉え過ぎていたが、共同で事業を開催した点は評価できる。博物館資料を美学的価値で評価するのをやってもいいし、逆があってもいい。高橋さんのように、組み合わせて新しい価値を作り上げていくこと。

 一方、限られた予算を有効に使うため、博物館資料のようなアノニマスな価値を切り捨てることもある。例えば東京都写真美術館(英語ではTOKYO PHOTOGRAPHIC ART MUSEUM)は、あえて"ART"といれることで、写真家という一種の芸術家がつくったもの以外を切り捨てている。このことは、写真の重要な可能性をも切り捨てていると私は思う。

 また、リサーチベースのアートやアーカイブのドキュメント活用を行う現代アートがあることを思えば、美術館が資料としての写真の収拾活用も模索すべきだ。それには学芸員の関心と、写真の広い可能性を考える感性と知性が必要。

 北海道はそれが出来得る場所だと思う。現代の状況を批判し映し出すような歴史資料に注目すること。ファインアートはもはや、それにスポットを当てなければ延命できない局面にある。今問題なのは、いかに自堕落にアーカイブを使うアーティストを批判するか。

 また同時に重要なのは、高橋さんがおっしゃっていたように、アーカイブは簡単に移し替えられない資料であるべきだということ。基本的にはその場で生きる人々ととも伝承されていくものだ。移し替え可能なデジタルコンテンツとしてだけの利用価値ではない。データのように簡単に消去できないものとしての写真の重要性がますます強調されるべき。

 

(中村)小島一郎の写真でいうと、五戸や南部、津軽では気候が全然違う。作家のタイトルと写真に写っている風景が違う。それをどうすべきか?

(高橋)津軽と下北の写真があって、下北が「津軽」として世に出てしまう。それはある種の社会的構造を非対称性が象徴的に名指していることと言える。許されないこと。その土地に距離感がある人は十把一絡げに捉えるかもしれないが、地元の人は指摘すべきだし、差異の重要性を強調していかなければならない。

 五戸バオリは網目の高さが集落によって違うという。突き詰めると分かる差異があると知った時には大切にすることが大事。なかったことにしない。

(倉石)高橋さんが言われたように、キャプションの誤りをそのままにすることは政治的意味を持つ。日本の写真に大きな影響を与えたフェリーチェ・ベアトは、第二次アヘン戦争時、英仏対清朝の従軍記録をしている。英仏共同軍が円明園という中国の初めての西洋風建築のある離宮を破壊、放火し宝を盗んだことがあった。ベアトは頤和園(いわえん)という別の離宮の写真に円明園のキャプションを意図的に、印象的なものにするため付けた。より大きな出来事を表す言葉に小さな出来事が回収されていくようなことが起きている。

(中村)噴火湾周辺ではアイヌ集落によって着物の柄が違う。

 写真道場の河東さんも掛川と同じように長万部アイヌを撮っているが、「滅びゆく」などという誤った題を付けている。このようなことは改めていかなければならない。

(倉石)アイヌに対し「滅びゆく」というレッテルは明治頃から貼られている。「帝国日本と人類学」(坂野徹著、2005年)という本のなかにあるが、第一回の人類学会ですでに「滅びゆく」と言われ、今日まできている。そこには政治的、観光的など様々な意味合いがあり、日本人が貼ってきたレッテルとして歴史の厚みすらある。

 それは変えていくべきことだ。ネイティブアメリカン、ハワイアン、ニュージーランド、オーストラリアについてもそういうレッテルを貼られ、それに抵抗している。

 数年前「ワンヴォイス ハワイの心を歌にのせて」という映画を見た。ハワイアンが通う学校で毎年行われる合唱コンクールを題材にしたもので、あるモロカイ島出身の少女がハワイ語の歌詞で悩み、島に帰って受けた祭祀の印象を活かしていくのだが、そこで「ハワイアンの年配の人の発音を直してはいけない」と言われる。少女は復興の最中で教育されているからハワイ語を勉強できている。正しいハワイ語とは何か、という定義も難しいのだが、ハワイアンの自覚がない時代の教育を受けたおばあさん世代より孫の方がハワイ語を喋れたりする。そういう残酷なシーンがある。

 同じようなことがアイヌでも起こり得る。それを復興として捉えるべき。「滅びゆく」とか言ってる場合じゃない。

 (中村)北海道ではしばしば「最果て」と言われたり、長万部も何もないとか言われてレッテルを貼られるけど、そうかな?とも思う。

 

 

 

 

 ・質疑応答

 

 Q、旭川で町を記録する写真活動をしている。結成して50年になる。二回写真集を出した。変化しそうな場所を撮影し共同制作をやっている。最近、共同制作の中で、会員に価値観を押し付けているように感じることもある。できたときには充実感もあるが。質問は、町の記録という観点から今デジタル化した記録について心に留めるべきことはあるか?

 A、(倉石)デジタル写真のデータを保存する方式が、どれがベストかわからない。例えば映画はほとんどデジタルになってデーターを上映しているが、多くがフィルムにも焼いているようだ。モノとして保存した方が長持ちする可能性が高い。これまでの経験からすると、やはり銀塩のプリントで焼くのが長持ちするのではないか。

 

 Q、伊達から来た。写真道場の活動について知ることができるまとまった資料はあるか?

 A、(中村)文献としては町史。あとはカメラ雑誌の記事を調査している。地道に拾っていくしかない。プレゼンテーションの際にお話ししたことが現状のすべて。

  

 Q、町内から来た。地元のアイヌの資料は開拓記念館(現・北海道博物館)ができたときにそっちに行ってしまったり、文書は道立文書館ができたときに赤レンガに行ってしまったりした。近くに資料がない。町史ができて30年以上経っている。その時編集で使ったときの写真もどこかに保管されているはず。写真が地元にどのように保存されていくのか、今後について訊きたい。町民で考えていかなければならないと思う。

 A、(中村)今は、個人同士のやりとりで残っている写真を展示した段階。今後はできれば町民で問題を共有して、写真を残していけるように、町民が自由に見られるようにしていきたい。

 

Q、他の写真道場のメンバーの写真は?

A、(中村)今後もっとみつかるかもしれない。古川晧一さんという早い時期から入選、入賞されていた方の遺族とは、今回の展示がきっかけでお会いできたが、2年前に処分したと言われた。澤さんの遺品から河東さんの写真も見つかっている。

 

 シンポジウムは以上。

 

 

 

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 (まんべくん

 

 

 

2.感想 

 

 私の感想として。

 

 基調講演1で、まず小島の写真について思うのは、やはり丁寧な整理と研究がその再評価につながったのだろうということだ。長万部写真道場の写真に関してもこれから更にそのような作業が必要であろうことは言うまでもない。また、フィルムを寄託としたことの意味は大きいと思った。その研究対象は実際には誰のものなのか。どこにあるべきなのか。私たちが人間である以上、倫理を抜きにした研究は不可能だ。これは最近のアイヌの遺骨返還問題にも通じると思う。

 小島の写真と写真道場の写真に、また別の開拓地の写真にも、それぞれ共通する被写体や状況が撮られていることも興味深い。写真映えする被写体を選んだ結果なのか。或いは、戦後のある時期を象徴的に示すモチーフを選んだ結果なのか。

 講演で挙げられた例は写真道場の作品と、同じ時期であったり近い環境であったりと、様々な軸で比較して見られるもので、今回の展示をより多面的に見るのに役立つ内容だった。

 

 基調講演2では、掛川のある写真集にまつわる様々なトピックを深く知ることができた。ひとつの写真集から、これだけの内容を引き出せることに素朴に感動した。長万部写真道場の作品群にもそのような可能性があると思うとわくわくする。

 沖縄村の写真のあとに付いている長万部アイヌの司馬夫妻についても興味深かった。今日ではありえない言いがかりに過ぎないのだが、アイヌを「滅びゆく」ものとする言説がまだ根強かった当時、掛川もまたその延長線上で司馬夫妻や長万部アイヌを撮った(撮らざるを得なかった?)であろう。しかし、そういう解釈だけが写真から導き出されるわけではない(それこそが写真の面白さだろう)。民族間の政治的な権利云々と一部で関連しつつもそれだけではない複雑な問題がそこにある、ということの指摘として私は講演を受けとった。私たちが忘れがちなのは、文化はそもそも雑種的な要素を含んで変化、発展していくということだ。それに加えて考えなければならないのは、「天皇と対峙する姿」や「文化的混交を生き抜く姿」は、確かに世界的なのっぴきならない事態の影響下で生まれてしまった。それらを正視するやり方を、たぶん和人の私たちはまだ身に着けられないでいる。その中で複雑な状況を丁寧に腑分けした今回の講演のような営みが、真の文化の発見につながっていくのではないかと感じた。

 

 シンポジウムで面白かったのは、博物館資料と美術館の所蔵品の活用について。私自身が博物館や図書館の資料を参考に作品をつくるからなおさらだ。美術館でも博物館でも、美学的価値とか資料的価値だけで割り切れないような展示が近年随分増えてきたと感じる。

 「自堕落にアーカイブを使うアーティスト」が批判されていたが、これは資料の価値の可能性を自分に都合の良い形でしか捉えられないアーティストのことかと私は思った。資料の価値の開かれに敏感になることは、もちろん今回のシンポジウムの意義にも通じよう。地方で数多の芸術祭が開かれるようなって久しいが、それらを批判的に考える上でも参考になる知見だと思う。自戒も込めて。

 ハワイアンの世代間の教育の違いについても興味深かった。まさにアイヌ語でももう起こっている事態なのかもしれない。

 

 そもそも地方では財政難で資料の満足な保存すら覚束ないのではないだろうか。今回の写真展での来場者の反応を見れば、地域の資料を地道に保存し地域で活用していくことがどれだけかけがえのない価値なのかよくわかる。それは私たちが生きるための基礎、とでも言えばいいのだろうか。歴史の証人として写真があることで自分の文化の存在を確認することができる。それは人間の尊厳の一部をなす(もちろん写真の価値がそれだけではないことこそこのシンポジウムの意味だっただろうが)。大げさに言えば、記録と保存の軽視は国会で問題になっている公文書改ざんの問題ともつながるようにも思える。これは政治的な重大問題であるだけでなく、文化の破壊、人間の否定でもある。

 

 文化は何より地道な長いスパンの研究に裏打ちされてこそ価値が出るものだということを、このシンポジウムでは再確認できた。よく町おこしなどと言いながら安易に芸術祭を開いて、やりがい搾取をしながら他所から来たものを有難がり、一時の快楽のために消費するようなことは疲弊を招くだけで文化の発展にはたぶん寄与しない。もちろん文化的交流は必要だが、それにはベースとしてのアーカイブが必須であろう。

 

 いっそのこと、長万部写真道場のアーカイブと研究発表をベースとして北海道の写真を研究する「北海道写真美術博物館」なるものを作ってしまってはどうだろうか、ともちらっと思ったが、その提案は荒唐無稽だとしても、そんな夢想をしてしまうほどには北海道の写真の可能性を感じた展覧会とシンポジウムであった。

 

 

 

 (終)

 

2018.4.4. 感想を一部削除、加筆

2018.4.22. 一部指摘があり人名や明らかに事実と異なる内容を訂正、語の言い換え、内容の補足