(まんべくん)
1.シンポジウムへ
2018.2.25.①
明くる25日、写真展会場のすぐ横のホールで開かれたシンポジウムを10時から聴いた。
まず、長万部町長の木幡正志氏の挨拶があった。
以前にも写真道場の元メンバーから展示したいという話があったのだが、肖像権や専門の人員がいないなどの理由から実現しなかったのだとか。今回の展示はある意味で町長の念願でもあったわけだ。また、写真はかつての漁業の様子などを知るのに貴重な資料であり未来へ伝えていくべき町の大切な宝であるというようなことなどを述べていた。
2.基調講演①
続いて、青森県立美術館学芸主幹の高橋しげみ氏による基調講演1 「郷土に写真を残す〜青森県立美術館での実践を通じて」があった。
内容は、長万部写真道場の写真家たちと同じ時期の写真家・小島一郎についてと、戦後開拓の写真についてが主だった。
2009年には高橋さんの企画で「小島一郎 北を撮る 1924〜64」が開催された。小島一郎は青森市出身で、澤博と同年の1924(大正13)年生まれの写真家。昭和30年代の約10年間青森を撮影し、1964(昭和39)年に39歳の若さで急逝した。
(展覧会サイト:小島一郎 - 北を撮る - 戦後の青森が生んだ写真界の 「ミレー」 | 青森県立美術館)
以下講演を要約。
15年ほど前に小島の奥さんが保管していたプリントやフィルム等の資料の研究整理を始めた。当時は小島は知る人ぞ知る存在だった。今回の展示にも言えることだが、資料は残そうと思わないと残らないもので、遺族に資料について問い合わせるも既に処分してしまった後であることもしばしばだ。
その中でも特にモノクロネガフィルムは注意が必要で、フォルダーからを外して、中性紙で挟んで保存する。当時のものはセルロースが素材で、密閉されるとフィルムから発するガスで粉末状になってしまう(ビネガーシンドロームという)。しかも劣化が始まると止まらない。
貴重な資料は、遺族にとっては故人の遺品でもある。昨年、ほとんどの資料を美術館に寄贈してもらったが、フィルムは寄託とした。新しいプリントを作る際、遺族がイニシアチブを取れるようにするためだ。
小島の写真にわら半紙のような台紙に貼られた見本帳があり、雑誌社への売り込みに使用された。今展の写真でも同様に、このような台紙に描き込まれた撮影地や被写体の情報も貴重なものである。
次に、小島一郎の生涯について。
小島は津軽地方の写真で有名になった。空を逆光で撮って暗く焼きこむのが特徴で、覆い焼き等の暗室の作業で津軽を解釈、表現した。夕暮れの中作業をする農夫を撮影しミレーの絵に喩えて語ってもいる。ある写真についての小島の言葉からは消えゆく津軽の風景に対するロマンチシズムも感じられる。
1958(昭和33)年、初個展「津軽」を銀座で開催。写真家の名取洋之助が青森に来た時に小島を見出し展示へ繋がったという。小島の写真の原動力には「地方とは、地方の良さとは何か」という問いがあった。
同年9月、総合雑誌「世界」に「農村の夏」という題で作品がグラビア掲載された。ある農作業の写真には「津軽にて」とタイトルがあるが、これは南部の五戸の写真。被り物「五戸バオリ」からそのことが分かる。全く別の文化圏に属する南部を津軽だとしたことから、後に小島が津軽の写真家として定型化されていくことにも繋がり、また中央の人々が、「津軽」というわかりやすい記号で北国を見ていたことも伺える。
1961(昭和36)年、小島は一念発起しフリーカメラマンとして活動するため上京、翌年には下北をテーマに個展「凍ばれる」を開催する。今展の長万部の写真でも被写体になっている綱の巻き取り機(マキドウ)もこの時作品になっている。中央への意識が感じられ、白黒のコントラストが強い作品は津軽にはない荒々しい風土が現れている。しかし評価は散々だった。
東京に出たにも関わらず東北の写真でしか自分を出すことができない小島だったが、一か八かの決心で北海道へ行き流氷を撮ろうとする。だが上手くはいかなかったらしく写真は遺っていない。この撮影旅行で体調を崩し、1964年に39歳の若さで亡くなってしまうのだった。
ここからは戦後の開拓写真について。
小島一郎も戦後の写真家として開拓と無縁ではなく、八甲田山の中腹、標高600メートルの「ヌラ平」の開拓を記録した写真が残っている。緊急開拓として1953(昭和23)年9月から22戸が入植。満州から引き上げが遅れたことで中国共産党の影響を受け、壮行式で毛沢東の肖像を飾るような一団だった。環境が厳しく、7年で全戸が離脱した。
岩手山麓の開拓でも青山学院大学写真部が撮影した記録がある。ここには現在でも酪農をしている人がいる。
開拓地の写真では、切り株やランプを灯した室内がよく撮影される。
六ヶ所村も戦後緊急開拓の地となった。もともと山形の庄内から中国へ満蒙開拓に入り、戦後に山形で定住できなかった一団が入った。「目で見る庄内開拓史」という本に記録がまとめられており、川村勇というアマチュア写真家が撮影した。庄内開拓団にお嫁さんが来た時の写真があるが、前川茂利が撮影した北海道の共和町の写真には開拓が厳しく嫁が来ないという言葉が添えられている。川村も「リアリズム写真運動」の影響を受けている。これらの写真は開拓団にとって、彼ら自身の歩みを確認できるものであった。
最後のまとめ。
20世紀以降、強制移住や難民の問題が起きている。国家間で翻弄され、そうせざるを得なかった人がいる。例に挙げてきたような戦後開拓の写真は、来し方を確かめ、私たちが立っている基盤を見出すことができるものであり、歴史の層の中にある私たちが知らない多くの出来事を暴露するものである。写真は常に新しい価値に開かれて流布するものだ。やはり被写体に近い場所にあって、そこに生きる人々の近くに存在することで意味の深さがが増していくものであると思う。
講演はだいたい以上のような内容だった。
④に続く。