こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

山形日記 ② 最上徳内記念館と巨大ぞうり

 

 の続き。立石寺から村山市へ。

 

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 ・村山駅

 

 14時ごろ村山駅に着く。

 「ようこそ バラ・そば・徳内の街 村山市へ」という幕があった。「徳内」だけは聞きなれない言葉だという人も多かろう。これはなにか農作物とか名産品の名前なのではない。いわゆる郷土の偉人というやつで、数学者であり探検家の最上徳内(宝暦四~天保七(1754~1836))のことだ。私が村山市に来た目的も何を隠そう「最上徳内記念館」を見るためだ。最上徳内蝦夷地を「探検」し、その成果は幕府の意思決定に影響を及ぼした。私は昨年北海道の厚岸町へ行き、徳内の活動の痕跡を何ヶ所かで見ている(詳細は→厚岸日記① - こたつ島ブログ厚岸日記② - こたつ島ブログを参照)。厚岸町村山市姉妹都市である。

 

 山寺駅ではSuicaで入場したのだが、村山駅ではタッチで清算できず駅員さんに窓口で清算してもらった。Suicaの取り扱いは、機械があっても清算できなかったりそもそも機械がなかったりと駅によっていろいろだ。地方だと大きい駅でもタッチできる改札すらないこともある。急いでいる時などは切符を買っておくのが無難だ。

  

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 駅構内には大きなわらじが飾ってあった。どこかで見たことがあるなぁと思うものの思い出せない。この後も何度か大きなわらじを見ることになった。

  

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 駅前には二体の人物彫刻が駅を背にして立っており、まっすぐ道が伸びている。駅に隣接するホテルを除いて周囲に高い建物は見当たらず住宅街の間を抜け駅前の道を進んだ。幹線道路らしい片側二車線くらいの大きな道路に突き当たる。ちょうど午後のいちばん暑い時間帯。街路樹のような遮るものは何もなく日差しがきつい。

 

 その道を右方向へ進むと道路の向こう側に「北方探検の先駆者 最上徳内記念館」の看板が見えた。看板の前まで来ても入り口がどこにあるか分からず、間違えて隣接する警察署の駐車場に入ってしまった。館の正面は大きい通りに面していない。建物の横から大きく回り込んで正面入口へ。

 

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  やっと14時30分頃に到着、入館した。

 建物は地下に受付やメインの展示室があり、まずそこを見る。順路の通り階段を上がると明治時代の古民家に行くことができ、さらに古民家を出ると屋外で、最上徳内銅像や顕彰碑などが庭にある。庭を抜け、アイヌ文化を紹介するチセへ行き、また館の入り口へと続く渡り廊下を通ったのち螺旋階段を下りて、これで館内を一周したことになる。

 最上徳内の事績を顕彰するのみでなく、市の歴史博物館も兼ねている施設のようだ。

  

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 ・徳内記念館

 

  館内に入ると初めに階段がある。地下だからか館内は薄暗い。

 受付に声をかけるとお姉さんが出てきて「どこから来たんですか?」「外は暑いですか?」などと会話しながら麦茶をだしてくれた。暑かったのですぐ飲み干してしまうと、すかさずワンコそばのようにお代わりをくれた。

 「時間があればまずこちらから・・・」ということで20分ほどで最上徳内を紹介する「白き虹を見た」というタイトルのVTRをエントランスで見せてもらうことになった。「白き虹」とは徳内の号「白虹斎」からとっているのだろう。エントランスにはスクリーンが立てられ、椅子がいくつか置いてある。傍らには土器が入った古そうなガラスケースもあった。

 

  映像は、「山形は紅花やタバコの生産が盛んで武士より商人が強く自由な気風があった」というような説明からはじまる。最上川の水運は酒田へ、そして北前船へと荷物を運んだ。徳内が赴くことになる北の地と山形はしっかりつながっていたわけだ。

 現・山形県村山市楯岡の貧しい農家に生まれた徳内はタバコの行商に従事していたが数学が得意で、27歳で江戸へ出、経世家で数学者の本多利明の塾で天文、地理を身に着けた。芝の愛宕神社算額を奉納したこともあった。本多の推薦で、田沼意次の発意による北方探検に測量の助手として参加したのは31歳の時。以後9回蝦夷地に渡航した。この時に厚岸の総乙名イコトイの協力を得て、国後島択捉島、得撫島を探検、ロシア人イジュヨらとも会っている。渡航4回目には厚岸に神明宮を建立、渡航6回目には近藤重蔵らとともに択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。蝦夷地での勤めを終えた後は八王子の製蝋事業に携わったりシーボルトと交流して日独アイヌ語辞典を作ったりしていた。この時に渡した地図がのちにシーボルト事件に発展する。徳内は82歳で江戸で没した。

 

 

 

 館内(撮影禁止)は様々な蝦夷地の地図や、徳内の著書、愛用の品など各種資料で事蹟を紹介していた。この時は運悪く学芸員の方はお休みだったが、職員の方が親切に一通り解説してくださった。

 職員さんとお話していて、「徳内まつり」の話になった。20数年前、村山市のお祭りでは何の変哲もない仮装行列をやっていたらしい。ある時に友好都市の厚岸町へ市の関係者が行き、そこで祭りのお囃子や山車を見て感動して真似をし、「徳内ばやし」が生まれたそうだ。今では山車や踊りのチームも随分増え、近隣の市町村からも人が集まるイベントになっているらしい。徳内がつないだ不思議な縁である。

 それを聞いて斜里町ねぷた祭りを思い出した。斜里町の場合は、幕末に警備のため駐留した津軽藩士72名が飢えと寒さで死んだことがあり、弘前市ねぷたが伝授された経緯がある。

 

 興味深い資料としては「蝦夷風俗人情之沙汰付図」があり、これには竹島が日本と同じ色で塗られているという。徳内が紹介されたシーボルトの著書や択捉島の標柱のレプリカもあった。

 また、「徳内先生を讃える歌」という、1943年に大政翼賛会山形支部が設立一周年を記念し歌人たちに依頼した歌も掲示されていた。

 

 「ますらをや 命おもわず 皇國の 北の門邉の 穢れはらいし」相馬御風

 

 「甑岳の いただき立ちて 遥かなる 天雲に寄せぬ 大きこころは」前田夕暮

 

 「最上川 ながるるくにに すぐれ人 あまた居れども この君われは」斎藤茂吉

 

 徳内の業績は国境問題に直接関わるものであり、明治四十四(1911)年に正五位が追贈され、北海道神宮開拓神社に祀られていることなどもナショナリズムの観点からも考える必要があろう。

 

 企画展も開かれており、山形市生まれで「最上流」を興した和算家の会田安明について特集されていた。安明は当時の主流だった「関流」に対し約20年に及ぶ論争を起こし、和算の発展に寄与したらしい。徳内を本多利明に紹介したのも同郷の先輩であった安明だったともいわれている。

 

 館内にはやはり北方領土返還の署名コーナーもあった。

 

 地下の展示室を見終え、屋外へ。

 

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 明治時代の古民家が移築されている。

 

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 徳内の胸像。地元出身の彫刻家・村岡久作の作。

 

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 徳内の視線の先には北海道の形の島が浮かぶ池があった。

 

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 顕彰碑。碑文の揮毫は金田一京助レリーフは新海竹蔵。

 

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 チセがあった。ガラス窓がはまっているがたぶん適当に作ったものではない。建てたときにアイヌの方が儀式をした様子を撮ったらしい写真があった。アイヌの民具や厚岸から寄贈された熊の剥製のほか、近藤重蔵、イコトイ、ロシア人イジュヨの三人が地図を見ながら語らう様子を再現した小さい人形などがあった。

 

 

 

 「徳内グッズ」でもありそうだと思ったがほとんど物販はなかった。ただ「私の徳内紀行」という冊子を売っており、郷土史家が調べた足跡がかなり詳しく載っていた。

 

 

 

 ・村山市役所

 

 閉館の17時近くまで居て、お礼を言って帰ろうとすると「市役所に大きいぞうりがあるから是非見るように」と言われた。村山市役所は道路を挟んで隣接していた。

 入ってすぐに吹き抜けになった大きいホールがある。

 

 「デカっ・・・!!!」

 

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 ちょっとした船よりぜんぜん大きい。どこかで見たなぁと思っていたが、これは浅草寺の門に飾られることになる大ぞうりだそうだ。おおよそ10年に一度、戦前から奉納し今回で8回目とのことだ。役所が17時15分まで開いているおかげで見られてよかった。

 

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 徳内ばやしでは鳴子を使うらしい(よさこいソーランみたいだな・・・)。

 

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 今年の徳内まつりは8月24日~26日開催。

 

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 役所の入り口脇には徳内まつりの像まであった。

 

 

 ・山形市へ戻る 

 

 この日は山形市に宿をとっていた。電車の時間を調べるとまだ1時間は余裕がある。周囲を散策。日が暮れてきた。

  

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 道の駅でも「徳内ばやし」(やはりよさこいソーランに似ている・・・)。

 村山駅へ戻る。

 

 

 

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 村山駅に戻ってきた。着いたときはまったく意識していなかったが駅前の像は「徳内まつり」の像だった。

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 駅の反対側には「徳内先生誕生之処」の碑。実際は生家があったのは駅から少し東の方向らしい。

 

 

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 駅近くの看板。  

 

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 駅のホームにも徳内まつりの絵が。

 

 

 

 18時30分頃、山形駅に到着。古本屋を漁った後ホテルへ荷物を置きに行った。地元の料理を居酒屋か何かで食べたい気持ちもあったが我慢して近所のスーパーでセールの弁当を買いこんだ。

 

 グーグルマップを活用して翌日の計画をした。かなり早起きしなければならないことが判明した。日付が変わるころ寝た。

 

 

 

 に続く。翌日は朝からまたもや村山市へ来ることになる。