こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

私と郷土玩具

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(左:京都、伏見人形の窯元「丹嘉」「三竦み」 右:東京「今戸焼 白井」の三竦み)

 

 

 

・郷土玩具?

 
 全国各地に郷土玩具と呼ばれるものがある。例えば年賀はがきや切手にあしらわれている干支の置物がそれである。各地のこけしやだるまの類を含めてもいいだろう。

 

 はっきりした定義があるのかは知らないが、郷土に根ざした独自性を持つことと、何らかの伝統を守ってきていることが条件とされる場合が多いようである。とはいえ、伝統的な玩具に現代的な工夫を加えたり、新作を作る例もままあるので一概には言えないようだ。

 近年は御朱印ブームも相まって招き猫など縁起物や寺社の変わった授与品も人気を集めている。そのテのものを集めた本を見かける機会も増えた。

 

 私は御朱印に関してはブームになる以前から集めていた(ちなみに今はやめた)のだが、郷土玩具についてはブームになった頃から集めるようになったことを告白しておこう。ただ、私はブームに乗ったというよりは北海道でのリサーチを進める上でまず木彫り熊やニポポに注目して、日本各地の文化的所産に興味を広げていく上で郷土玩具を集めるようになった。コレクションというより作品のモチーフのために集めている側面が強いのだが…いや、言い訳はもうこの辺にしておこう。理由はどうであれ、私も郷土玩具が魅力的だから集めているという点ではブームに乗った人と変わりはないのだ。認めたくないけれども、どういう郷土玩具があるか知る上ではブームの恩恵を少なからず受けている。

  

 

 

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(東西の狐対決)

 
 私は単に郷土玩具を片っ端から集めるようなことは絶対したくない。一応、こだわりがあるのだ。ここからは、郷土玩具を集める上で自然にできた自分なりのルールを書いていくことにする。

  

 

 

・マイルール


 私が勝手に決めているルールは、3つ。

 

①「現地で買う」

②「現代の作家から買う」

③「授与品とそれ以外を分ける」

 

である。

  

 

 
 まず①「現地で買う」について。

 郷土玩具は当然ながらそれぞれの地方によって違った特徴を持つ。であれば、その産地の風土を反映することも多いはずだ。その土地へ赴き何かを感じた上で買うことで、郷土玩具への自分なりの理解を深めることができるはずだ。また、旅の思い出と共に郷土玩具を自宅に持って帰ることも楽しみのひとつであるといえよう。 他に現地へ行って買う利点として、安いことがある。東京のお洒落な喫茶店や雑貨店でも郷土玩具を扱う例がここ数年で随分と増えたようだが、やはりそこは商売なので現地で買うより何割か高い場合が多い。これは仕方がない。

 また、現地だと在庫も多い。そこで作っているのだから当然だ。郷土玩具の良い点は、手作りでひとつひとつ表情が違うこと。自分の好みの顔を選ぶのに、在庫が多いに越したことはない。

 

 また、②「現代の作家から買う」については、言い換えれば骨董品屋や古道具屋では集めない、ということ。わざわざ古道具屋で探して集め出すとキリがないということと、現代の作家を微力ながら応援したいという気持ちからである。

  

 ①、②を合わせると、現地に行って直接買う、ということになるのだが、小売していると聞いて訪ねていったら所が住宅や工房を兼ねている場合も多い。そこで作業の様子を見せてもらえたりするのは、嬉しいひとときだ。仕上げられていく様子を目にすると職人への尊敬とともに郷土玩具に愛着も湧く。それどころか、お家に上げてもらって茶菓子や飲み物をご馳走になりながら世間話をする、なんてこともあった。これはもちろん稀である。

  

 

 
 中川清七商店の店頭にミニチュアの郷土玩具のガチャポンがしばしば置いてある。これは郷土玩具ブームのひとつの要因かもしれない。私にはこれを集める人の気が知れない。あれを買うくらいなら本物を買えば良いと思ってしまう。言ってしまえば単なる安っぽい偽物ではないか。ガチャポンの玩具はしばしばミニチュアとしての面白さが魅力であると私は思っている。郷土玩具は大抵は高さ10センチに満たないので、大きさもガチャポンの玩具とさほど違わない。そこにミニチュアの魅力があるのかどうか、と思うのだが…愚痴はこの辺にしておこう。

 閑話休題

  

 

 

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(木鷽。左:亀戸天神 右:町田天満宮

  

 ③の「授与品とそれ以外を分ける」について。

 郷土玩具とされるものの中には、工房で作られ小売店で売られるものもあるし、寺社で授与されるものもしばしばある。例えば全国の天神社で授与される木鷽がそうだ。

 授与品は神主さんや巫女さんが作っていたり、そうでなくても何らかの祈願がされているだろう。いわばお守りと同様の品であり神様仏様の分身として扱わなければならない筈だ。それを市井の玩具と一緒くたにするのは神仏への礼儀に反する、ということは言っておきたい。私はこの違いをはっきり区別した郷土玩具の本やウェブサイトをあまり見たことがない。

 授与品を集めること自体もそんなに褒められたことではないと思うのだが、集めることが行き過ぎてお参りをせず授与所に一目散に行くようなことは避けたいし、まして処分するような時になればお焚き上げなどそれなりの扱いをするのが最低限のマナーだろう。

   

  

  

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(東西の狐対決その2)

 

 

 

・まとめ

 

 近年は郷土玩具についての博物館での展示もあるとたまに聞く。それは博物学的価値が認められたというよりは、以前のブームに乗って集めたコレクターが亡くなって、寄贈される事例が全国である、ということらしい。

 北海道大学博物館に展示されているアイヌをモチーフにした北海道土産のコレクションのように、ある時期の文化を考察する上で有用な事例もある。

  

 個人的には、どうせ集めるのだったらかわいいとか面白いとかいうだけではなくて(もちろんそれはそれでコレクションの理由としては十分わかるのだが)、なにか系統に沿ったものにしたいと思う。それがコレクション形成の醍醐味でもあるだろう。

 面白くてかわいい郷土玩具は、その種々の背景なしには存在しない。郷土玩具を生んだ各地の文化への敬意を払いながら、行き過ぎた振る舞いをせずに集めたい。そして縁あって手に入れることができたものは末永く大切にしたいものだ。

 

 

 

(終)

 

 

 

東京で北海道を探す「蝦夷地探検家 秦檍丸 先生 墓」

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 根津から谷中へ向かって坂道を歩いていた。落ち葉ももうだいたい散り終えたかという晩秋。いかにも昔からありそうな佇まいの商店や住宅が並ぶ街を抜け、だんだんと道の両側にお寺が増えてくる。

 

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 車道の反対側に玉林寺という禅寺があった。ふと気になって信号を渡り、山門の前にある白くて縦に細長い石碑の字を読んだ。そう古くはなさそうなそれには「秦檍丸 先生 墓」の文字。その横によく見ると小さく「蝦夷地探検家」とあり、「はた あおきまろ」と読み仮名が振られている。

  「蝦夷地探検家の秦檍丸…」と、そこまで読んでやっと思い出した。秦檍丸(秦檍麿)、別名を村上島之允(村上島之丞)といい、松浦武四郎に先立つことおよそ半世紀、近藤重蔵らと蝦夷地を調査し「蝦夷島奇観」C0012769 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索などを書き残した人物だ。 

(参考 三重県 県史あれこれ:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=17/ 函館市史:http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-04/shishi_03-04-07-03-01.htm

 

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 境内は奥に広い。参道を進むとお堂があり、右手には千代の富士銅像があり(菩提寺らしい)、住居がある。左手奥から渡り廊下の下をくぐりお堂の裏手に抜けられるようになっていて、墓地の大部分はその先にある。

 

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 石の階段を少し登る。左右に石仏がずらっと並び、正面にひときわ大きい石仏(無縁塔)がある。墓地の中の道は特に規則性がなく、単に通れるところを縫って通っているようだ。唐破風風の屋根が付いていたり、自然のままの形だったり、軍隊の階級が書いてあったり、様々な年代の墓石が混在している。

 墓地をぐるぐる二周ほどしても、なかなか墓が見つからない。 

 枯葉を掃除していたおじさん、たぶん檀家さんなのだろう。見かねて声をかけてくれ、親切に墓の場所を教えてくれた。

 

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 墓のそばに顕彰碑があるものの、目立つような案内板も何もない。むしろ他の墓より低く小さめの墓石だった。これでは見つけられないはずだ。

 顕彰碑は昭和五十年に倉島延三という人物が建てた。

 山門の「秦檍麿 先生 墓」の碑も同時期に設置したのだろう。これがなければ僕は一生この寺院に足を踏み入れることもなかったかもしれない。

 墓石自体はいつ建てられたのだろうか。没年は文化五(1808)年、流行病が原因で49歳だったという。当時のものが残っていてもおかしくはない。

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 目を閉じて静かに手を合わせながら、おのずと「蝦夷島奇観」に描かれた風景や文物を脳裏に浮かべていた。

 あたりはさほど汚れていなかったが枯れ葉を一枚だけ除けた。今度来ることがあれば手桶に水の一杯でも持ってこよう。

 

 

 曹洞宗望湖山 玉林寺  東京都台東区谷中1丁目7−15

 

 

 

2018.11.25.加筆

石狩日記① 

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 (「無辜の民」への道)

 

 
  

 「石狩日記」というと、松浦武四郎の「石狩日誌」を思い出す人もいるだろう。

  石狩川流域にはかつて13の「場所」(アイヌと交易を行う区域)があり、「イシカリ場所」と呼ばれた。はじめ慶長年間に開設されたというからかなり古い。

 この日は「場所」の開設を期に鮭の交易で栄えた石狩市の本町地区に行ってきた。私はまだ「石狩日誌」を読む機会を得てはいないが、武四郎が訪れた頃の面影は今もあるだろうか。

  

  

  

・いしかり砂丘の風資料館

 

 石狩市と一口にいっても広い。この日行った本町地区は石狩川河口付近のエリアで、自家用車で行った。札幌駅からでもバスで行ける。

 

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 まず「いしかり砂丘の風資料館」へ。小さいがよくまとまっていて解説も充実している。入場料は大人300円。

 

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 一階は缶詰つくりコーナーや漂着物の展示コーナーのほか、「川」「海」「河口」のテーマごとに自然科学や近世、近代の歴史資料の展示。

 

 まず入るとチョウザメの剥製がある。日本近海では北海道や東北の沿岸で見られることがあるが、大正から昭和初期に減少し、日本では事実上絶滅したともされている。十数年に一度、ごく稀に捕獲されることもあった。石狩では江戸時代から鮭の豊漁をもたらす「鮫様」(妙鮫法亀大明神)としてチョウザメが石狩弁天社に祀られてきた。この信仰は「チョウザメ石狩川の主である」というアイヌの伝承に由来するともいわれている。その石狩弁天社の手水鉢も展示されていた。

  

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 面白かったのがこの「ケリ」で、アイヌの鮭皮製の靴をもとにゴム長靴が普及する大正頃まで作られた。一足で一冬越せるほど丈夫だが干しているうちに焼けてしまったり、犬や猫に食べられてしまったりしたという。

 

 そのほか一階にはかつての油田の模型や、商家の屋敷の模型、イシカリ場所についての解説パネルなどがあった。

 

 

 二階は「石狩紅葉山49号遺跡」という遺跡の展示だった。ここには縄文時代中期の木製の器や鮭を取るための柵がある。素人目に見ても珍しいことがわかる。土器と違い木製の器だと腐らず残るのはなかなかないだろう。

 この遺跡は全国では100例程度しかない「低湿地遺跡」(湿地の中で水浸し状態になった遺跡)で、その中でも縄文時代中期のものは数例なのだという。また、鮭の漁労施設は国内でも最古級のもので、従来もっとも古いとされていた2000年前の遺跡からさらに2000年古く、縄文時代のものとしては初めての出土例だ。

 

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 柵の結び目を眺めて、縄文人の手仕事が目の前にあると思うと不思議な気持ちになる。

 

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 いしかり砂丘の風資料館の隣には、「旧長野商店」がある。資料館との共通券で入館できる。 正直に言ってあまり賑やかではない町の中に、これだけ立派な建物が現れるのは唐突だと思わされる。それだけかつてこの辺りが繁盛していたということだ。

 「旧長野商店」は越後出身の長野徳太郎が明治7年に創業した店舗で、石狩市内最古の木骨石造建築物(木造の骨組みの外に石を積む)だ。一説によれば明治10年代まで建築時期が遡れるともいう。移築、復元されているのですべての部材が建築当時のものではなく、中はかなりきれいになっている。瓦屋根とアーチ窓など和洋折衷のデザインを用い、店舗と蔵がともに耐火性の高い木骨石造であることなどが珍しいとされる。

 

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・石狩尚古社

 

 次に、1キロも離れていない私設の資料館「石狩尚古社」へ行く。

 

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 二階建ての館内はとにかく物で埋め尽くされている。館主の中島さんのひいお爺さんが明治2年佐渡から北海道に来て、この辺りで呉服店を経営し大成功、一時は札幌の丸井今井を凌ぐほどだったとか。

 明治時代は鮭漁の最盛期で、石狩には2000人以上の出稼ぎ人が入り込み、料亭や遊郭が軒を連ねたという。

 

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 千社札。「天登屋」は樺太支店で、テントで営業していたという。

 

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 のれんなどが所狭しと並ぶ。

 

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 このアツシはある時期に佐渡の中島家の縁戚の手に渡ったが再び石狩に戻ってきた。時期や生産地が比較的はっきりしていて珍しいのだそうだ。

 左にぶら下がっているのは砂澤ビッキの作品のようであるけれど、頭がない。あるとき散歩していたらこれが川をバラバラに流れてきた。拾い集めるもどうしても頭の部分が見つからなかったという。いったい何があったんだろうか?

 

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 二階も陶器やらアイヌの木製品やら。

 

 館主からひとつ気になることを聞いた。展示物の中にアイヌを描いた絵のコピーが数点あった。いわゆる江戸時代に和人がアイヌを描いた一連の「アイヌ絵」の一種だろう。そのアイヌ絵は初見だったので、どのような絵なのか訊ねると、石狩のあるアイヌは漁場を持つくらいの金持ちで、石狩ではほかの地域と違ってアイヌと和人が対等にやっていた。その金持ちのアイヌが絵師に描かせた絵だ、と。

この絵はいまどこにあるかと訊くと、某大学の研究者が持って行ったきり返さないらしい。

事の真偽はなんとも分からないが、大変興味を惹かれる話だった。機会があればもう少し突っ込んで調べてみたい。

 

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 そもそもこの「尚古社」というのは幕末(一説には安政3年)から石狩にあった俳句の結社の名前だ。各地の結社は有名な俳人に俳句を書き連ねた帳面を送り、添削を受けていたという。さながら通信教育だ。

 中島家に残された全国の俳人の短冊が、もの凄い量展示されていた。

 

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 これは明治30年に重野安繹(1827~1910、漢学者、歴史家、日本最初の文学博士の一人)が石狩を訪れアイヌの集落を訪れたときのことを書いた漢詩を書き直したもの。

 石狩の名士であった中島家には学者や政治運動家、軍人らがたくさん書を残していった。

 

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  帰りがけに玄関の上を見上げると井上円了の書が。

 

 中島家の家紋が入った器や地方の俳人の短冊は、個々のものとしてはそれほど価値が高いものではないかもしれない。しかしこれがまとめまった形でここにあることの意味はかなり大きい。これら資料を精査することでわかる当時の暮らしの様子には、計り知れない可能性があると思う。

 今回の展示はいちおう企画展で、「中島家渡道百五拾年記念展」だった。そのチラシには「尚古社資料館展示品がまるごと北海道150年の歴史です」とあった。まさにその通りだろう。

 北海道博物館あたりで中島家の資料をお借りして特集展示をやったりしたことはあるのだろうか。私設でどうしても雑然とした印象はぬぐえないが、展示物については館主は嬉々として説明してくださるし、北海道の歴史に少しでも関心のある人は行くといい。

  

 

 

・「無辜の民」

 

 浜辺に車を走らせ、「無辜の民」像を見に行く。私は中学生の時からの本郷新ファンなので、ここに来るのは念願だった。

 

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 道の両側に草が生えて、あたりはただ空と遠くにかすかに海としか見えないようなところに、ぽつんと「無辜の民」の看板が出ていた。舗装されていない道を進むと、草原の向こうに台座に載った彫刻があった。

 

 

 

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 船を模したようなコンクリートの台座に載った人体は、紐か何かでで引っ張られ吊られている様にも見え、それでいて体を自ら突っぱねて筋肉を緊張させているような力も感じさせる。なんと例えればいいのか、足がつったときのような感覚と言おうか。自分の意志ではないけれど確実に自分のなかから現れてきた何かがそうさせている、という状況。

 見た目の通り身動きの取れない状況を表現した作品には違いないのだろうが、受け身で縛られ流されるままではなく、かといって露骨に抗う態度を見せるのでもない。字義通りに受け取れば、一種の悲痛な状態におかれた「無辜の民」の像だろう。それを頭でわかっていつつも、この人体のもつ独特な緊張感と解放感とが入り混じった存在感が先に印象に深く刻まれてしまう。不思議な像だ。ヒューマニスティックさに振り切れず、どこかでドライな客観性すら感じさせるのは、この大きさのせいでかえってヒューマニスティックさが薄まった結果なのか、造形物の制作過程で生じてしまう客観性のせいなのか、作者の本郷新のセンスなのか。

 

 

 

 

 寂しげな浜辺から再び町へ。石狩八幡神社へ向かう。

 

 (②へ続く) 

 

 

 

2018.9.18. アイヌ絵について加筆

山形日記⑤ 笹野一刀彫と笹野観音

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 の続き。いよいよ米沢は笹野へとやってきた。山形に来た目的のひとつ、民芸品の笹野一刀彫はここで制作されている。

  

 

 

 ・笹野観光

 

 大きな「お鷹ポッポ」が建っている。笹野一刀彫の代表的な意匠だ。笹野一刀彫とは、木を削って簡単に着色した民芸品で、「お鷹ポッポ」のほかには恵比寿大黒、蘇民将来など縁起物の置物が作られている。米沢に限らず山形の代表的な土産物と言っていいだろう。今回の山形での旅行中もあちこちで見かけた。

 このお鷹ポッポのある角の右の細い道へ入っていくと「笹野民芸館」や「鷹山」、「笹野観音」がある。

 

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 山裾に広がる静かな農村風景の中を歩く。

 

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 7、8分ほどで笹野民芸館へ到着した。内部は薄暗い古民家風の作りで、ずらっと各種の一刀彫が並ぶ。 やさしそうな職人のお兄さんがいて、いろいろお話を伺った。

  

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 まず、笹野一刀彫の絵付けと彫りについて。これは例えば夫婦で分業していたケースもあった。彫りと絵付けをどちらもできる人は工人(こうじん)と呼ばれ、どちらかしかできないのを職人と言うらしい。

   お兄さんは絵付けすることを「染める」と言っていた。

 職人数は今は20人くらい。最盛期は特定の種類しか彫らない人も含めて100人くらい居たとのこと。これはおそらく農家と兼業の人もかなり含んでいる数字だろう。

 一刀彫は、笹野観音に木花(木で作った花)を供えたのがはじまりといわれる。オタカポッポのポッポもアイヌ語から来ているという話もあるらしく(ニポポか?)、このあたりではオタカポッポを「がんぐ」と呼ぶらしい。

 笹野一刀彫は今では30種類以上あり、全部彫れる人は数人だ。東北芸工大とコラボした時に、お兄さんのお師匠さんが昔のオタカポッポを再現した。今のオタカポッポは鷹ととまり木の割合が4対6だが、昔のは6対4になっているという。このような改良が重ねられて来て商品として洗練されて来たのだろう、と思った。

 

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 材料のコシアブラの木は山菜として美味しく、最近はなかなか採れない。エンジュも使っている。

 一刀彫には、蕎麦切り包丁みたいな特殊な刃物(サルキリ)を使う(ほかに「チヂレ」と呼ばれる刃物も使うらしい)。これは日本刀と同じ玉鋼で出来ている。お兄さんいわく、何度か怪我をしたことがあるが、よく切れる刃物で切った傷は治りも早い。一度怪我をすると、恐怖心を持ってしまったり、切った位置が悪くて刃物が握れなくなったりすることもある。なので、職人は少ないがあまり人に勧められないのだという。

 

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  (年賀切手にもなった蛇。見覚えがある。)

 

  職人はみな商売気がなく、よく安すぎるといわれる。私も見ていて安すぎると思った。アメリカに持っていくと5、6倍の値段になることもあり、逆にそのくらいの値段を付けないと売れないのだとか。ここ笹野民芸館ではオタカポッポの絵付け体験もできる。修学旅行生が来るときは一度に70人ぶん彫らねばならず、彫るのがとても追いつかない。お兄さんのお師匠さんは、大きなフクロウがやっと売れたと聞いた時に困った顔をしたという。あまり売れすぎるのも困るとのことで、値上げも検討していると言っていた。

 

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 右にあるのが「笹野花」で火伏のお守りらしい。

 

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 笹野一刀彫の古い作例はあまり残っておらず江戸期以前にさかのぼるのは難しいとも。上杉博物館に一部展示があるらしい。今度見に行きたい。

 

 

 ここでは、「花鳥」を買った。実に見事な花だ。ちょこんと載ったにわとりもかわいい。

 

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 次に、すぐ近くの鷹山へ。ここは初めて笹野一刀彫の店舗を構えたところで、ぶどうのツルで作ったカゴも扱っている。

 

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 ここでは「お鷹ポッポ」「尾長どり」などを買った。

 

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 (お鷹ぽっぽ)

 

  

 

・一刀彫についての疑問 

 

 笹野一刀彫とアイヌの関係について、パンフレットなどには「技法はアイヌのイノウといわれ」や「笹野の里にはアイヌの遺跡があります」等と書かれている。これは素人目に見ても正確な表現ではない。

 まず、そもそもイノウは技法をさす言葉ではない。イノウはイナウのことだろう。イナウはアイヌが祭祀の際、主に神に捧げるために作るもの(他にも伝令、守護神、魔祓いの役割があるといわれる)だ。

 確かに木を削る技法が使われている点はイナウと笹野一刀彫に共通している。しかしこのような削りかけ祭具の報告例は本州以南でもかなりある(九州北部から中国地方、近畿北部地域では少ないが)。これをアイヌだけと直接結び付けるのは無理がある。

 笹野一刀彫は笹野観音に供える削り花から発展したとも言われているのだから、むしろ東北の他の地域の削り花と近い存在だろうというのが自然な連想で、その関連性こそ言うべきではないのか。そういう全国的な、もっといえば全世界的な、削り花習俗を媒介としたうえでなら、アイヌのイナウとの関係も語れるだろう。

 また、遺跡については「笹野チャシ跡」と呼ばれる遺跡があり、年代は奈良・平安時代(~中世) とされているようだ。その実態は私が調べた範囲ではよくわからないので、この「チャシ」とアイヌ文化とのつながりの有無についてはなんとも言い難い。

 しかし、イナウという語のずさんな使い方から想像するに、「アイヌの遺跡」というのも誇張表現のように感じてしまう。

 パンフレットには「千数百年の伝統を守る 古代笹野一刀彫」とあり、おそらく連綿と続いてきた伝統文化であることを言いたいのだろう。そのために古代と結び付けるような形でアイヌとの関係を持ち出したい、という意図が感じられる。それは適切ではない。しかし、江戸時代以降も東北にアイヌ集落はあったといわれている(津軽藩など、かなり北の方だが)ので、その研究成果を参照すればアイヌとのつながりが言える可能性もあるだろうし、東北の文化の豊かさを象徴するような存在としての笹野一刀彫が立ち現れてくるかもしれない。いずれにしろ現状の書き方であれば、こじつけどころかウソと言われても仕方ない、と私は思う。

 観光地を盛り上げるために多少の誇張は今まで容認されてきたのかもしれない。今後も「どうせ来るのはたかが観光客」と、タカを括って誰も深く調べたり考えたりしないのかもしれない。しかし私が聞きかじった範囲でも研究は日々進んできている。たとえ最終的には正確を期した情報が単なる観光資源として消費されるとしても、それを嘘でも良しとして吟味せず開き直るのとは大違いだ。お節介かもしれないが、そういう商売するのはよろしくないと思うのだ(世間ではそれを詐欺という)。

 

(参考文献)

・北原次郎太、今石みぎわ 「花とイナウー世界の中のアイヌ文化ー」 北海道大学アイヌ・先住民研究センター 2015年

・「置賜の民俗 第二十三号」 置賜民俗学会 2016年 

 

 

 

 閑話休題

 

 

 

 ・笹野観音

 

  最後に笹野観音へ行く。民芸館のお兄さんが是非寄ってみてくださいと言っていたところだ。正式には真言宗豊山派長命山幸徳院笹野寺という。置賜三十三ヶ所観音霊場十九番目の札所でもある。

・ホームページ→笹野観音 真言宗長命山幸徳院笹野寺

 

 立派な門に立派な由緒書きがある。坂上田村麻呂の建立だという。蝦夷(えみし)にとってみれば、宗教の強制であり一種の同化政策だったかもしれない。

  

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 門には下駄や大きな草履がかかっている。

 

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 振り返ると、門に算額があった。最近復元されたものだろう。カラフルな図形が面白い。

 

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 石がたくさん載せられていて重そう・・・。

 

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 手水舎がなんだかかっこいい。ここでは漱口場という。

 

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 中に由緒書きがある。戦時中に金属供出にあったものを明治百年記念で再設置した旨が書かれている。

 

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 (指定文化財の看板)

 

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 特に予定にもいれていなかった笹野観音堂だが、これがすごかった。現在の観音堂天保十四(1843)年の建築。

 近寄ってみると意外と大きい。

 

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 大きなお地蔵様も。延命地蔵菩薩といい、天保三(1832)年に米沢の豪商が建立。高さ5メートルある。

 

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(笹野観音堂縁起)

 

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 観音堂のすぐ左にお鷹ポッポの銅像があった。

 

 

 

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 お堂にあがらせてもらうと、彫刻がもう、何というか、とにかく凄い。まずは格子の前まで行ってお参りする。見上げると扁額も立派だ。

 

 

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 石があった。どういういわれがあるのか?

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 屋根の下も風格がある。

 

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 やはり茅葺きを維持するのは大変のようで、毎年部分修復を行っているようだ。ごく少ない額だが募金した。

 

 

 

 振り返ると長押に何枚かの絵馬が掛かっていた。向背の内側から見る彫り物も、またこれがものすごい。

 絵馬についてはこちらに書いた→(笹野観音の絵馬と奉納物 - 絵馬ブログ

 

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 今度は外からじっくりと見る。正面には唐獅子に挟まれて龍が三体と鳳凰がいる。この大胆にして繊細な表現力!あまりに精巧で、眼前で何が起きているのかわからなくなる。

 

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  (正面の龍)

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(左の龍)

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 見ていると気が狂いそうだ。

 

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(右の龍)

 

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 少し離れたところから屋根の上も見てみる。茅葺き屋根にも凝った装飾がある。

 

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 裏手へ。この屋根のずっしりとした量感。

 

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 (お不動様が刻まれた石)

 

 

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 (お鷹ポッポと)

 

 

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 ちょうどよい具合に観音堂の正面に東屋があり、ここに荷物を置いてバスを待ちながら1時間くらいずっと飽きずに写真を撮ったり眺めたりを繰り返していた。18時半頃までいた。

 

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 だいぶ暗くなってきた。バス停まで戻ってきた。お鷹ポッポの背中も寂しげに見える。笹野にはまた来たい。今度は近くにある白布温泉にも是非浸かりたいものだ。

 米沢駅までバスで戻った。

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 (米沢駅

 

 

 

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 19時過ぎ、米沢の観光地はもう閉まっているし、駅からけっこう遠かったがファミレスまで行って、高速バスの時間までカレーを食べながら旅行を振り返っていた。

 日付が変わるころ米沢駅から東京へ向けて帰った。

東京は小雨が降っていた。

 

  

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 (終)

 

 

2018.8.12.一部加筆

 

山形日記④ 黒鳥観音と鶏と猫と蛸と

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 の続き。

 

 

 

・黒鳥観音

 

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   まず線香をあげてからお堂の中へ。扉は半分開いて蝋燭にも火がついていた。正面には祭壇といくつかの提灯があり、中央の厨子には観音像。左右にも小さめの仏像がずらっと並ぶ。手前には木魚がいくつか並んでいた。さすがに窓は埋まっていなかったが、天井と壁はタイルをはめ込んでいくかのようにたくさんのムカサリ絵馬が並んでいた。小松沢観音堂に比べると整理された印象だが、それにしても多い。年代的には明治のものが目立つような気がする。なんと今年に入ってからのムカサリ絵馬もあった。

  

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 ぽつんと狸がいた。

 

 別当さんと少しお話した。

 山形には最上、庄内、置賜のそれぞれ三十三観音と番外一か所を合わせた「出羽百観音霊場」がある。今年は庄内が御開帳で、来年が置賜、再来年は最上で御開帳を行うそうだ。今年は御開帳の年ではないので、堂内の写真は撮ってもいいと仰っていた。

 明治以前のムカサリ絵馬も前はあったかもしれないが、建て替えや絵馬が壊れたときに燃やして供養してしまっているので、残っていないそうだ。壊れたムカサリ絵馬は、木枠に土を詰めた上に紙を貼っているのか、バラバラ崩れてくる。以前、東北芸工にムカサリ絵馬の修理をお願いしようと思ったが、うちだけというわけにはいかず三十三観音札所全体の問題になるのでなかなか話が進まないとのことだった。建物自体の老朽化の問題もある。

 こういう信仰の風景も、いつまでみられるかわからない。

 

 

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 黒鳥観音の白い鶏。付近には白鳥山もあるそうな。

  

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 10時ころ黒鳥観音を後にした。ここからは、さくらんぼ東根駅まで徒歩。道は事前にタクシーの運転手さんに訊いておいた。だいたい40分~50分の道のりだ。雨はやみそうにない。駅まではほとんどまっすぐ進めばよいらしい。

 

 ・さくらんぼ東根駅

 

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 グーグルマップが指し示す道順に従って行くのだが、あまりに私有地の中の農道のようなところに入っていくので、ここ本当は通っちゃいけないんじゃないかな、と思いながら歩いていくと、農作物盗難警戒中の看板が。

 

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 やはりここは通るべきではなかった。とはいえほとんど横道のない一本道なので、引き返すのも少し面倒ではあった。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず、桜桃の横を通らず…などと考えているうちに、住宅街へ抜け出た。

 

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 さくらんぼ東根駅には10時半ころに着いた。だいぶ歩いてお腹がすいてきたのでさくらんぼソフトを買って食べた。300円。汗だくの体も甘さと冷たさで少しは癒されたか。

 

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 ここから山形駅に戻って、乗り換えて米沢市に向かう。10時50分頃にさくらんぼ東根駅を出発した電車は30分ほどで山形駅に着いた。米沢行の電車の時間を調べると一時間ほど余裕があるのがわかったので、当初は行く予定のなかった山形張子のお店を訪ねてみることに。

 

 ・山形市小観光

 

 山形市には公立(県立?)の美術館がないと聞いた。47都道府県唯一かもしれない。

 市内にはお城や博物館など見どころは多数ありそうだけれど、これから向かうのは「岩城人形店」だ。

 駅から歩いて15分ほど、街の中通りにあって少しわかりにくい。張り子人形の他、社交ダンス用品の店や不動産業も兼業しているらしい。

 

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 中に入ると社交ダンスコーナーやらなにやらいろいろある中に、張り子が置かれた棚があって、おとなしそうなおかみさんが出てきていろいろ説明してくれた。

 一度にまとまった個数つくるので常にたくさんの種類の在庫があるわけではないのだとか。この日はたまたま何種類もあったのでよかった。やはりウサギ年の年賀切手になった玉乗りウサギや、まり猫が人気だそうだ。小さくて値段としても求めやすいからか。最近は招き猫も人気がある。龍や蛇はあまり人気がない。干支の置物の他、だるまやお面を作っている。最近は本でもよく紹介される。来る人はたいていみんな写真を撮りたがる(恥ずかしながら僕も写真を撮りたがったひとりだ)。

 結局「まり猫」を購入。「小さくても大きくても張り子は全部工程が一緒ですから」と言いながら箱に詰めてくれた。

 

 

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 (まり猫)

 

 

 

 山形駅を12時16分に出発し、1時間ほどで米沢駅に到着。天気は変わらず曇っていて、よくない。

 

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 ・米沢観光

 

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 (米沢駅

 

 13時ころ米沢駅に到着。まず駅から歩いて相良人形の工房を訪ねる。雲行きは怪しいが、雨は降っていない。

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 途中、笹野一刀彫のレリーフがあった。この後まさにこの笹野まで行くことになる。

 

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 (相良人形の看板)

 

 相良人形は、藩主親衛隊の武士が財政立て直しのため陶器製造を習得し、それを活かして土人形作りを始めたという。

  現在は八代目が制作している。工房は一見普通の民家のようだが、訪ねれば小売もしてくれる。事前に訪問時間を決めて電話しておくのが良かろう。

  八代目はいらっしゃらず、先代の奥さまのおばさまが対応してくださった。「駅から歩いてきてエライねぇ、ハイヤーで来る人はすぐわかる」と言っていた。客層は女の子の方が多い、あと男のひとり者とかで、若い人はやはりインターネットで調べて来るそうだ。

 相良人形は都内でも雑貨屋や喫茶店で売っているところが何ヶ所かあるようで、催事にもしばしば出品されている。特に「猫に蛸」というのが人気で、ニセモノまで出回るほどだとか。「儲かると思ってやっているのだろうが、そんなに甘くない」とも。

 私もせっかくなので「猫に蛸を」ひとつ購入した。

 そのほか騎馬武者が水中に入る様をかたどった人形があったので「宇治川の先陣争い」かな?と思い購入したが、調べると「敦盛」だったようだ。裏面を見ると七代目のサインがあった。おばさまは、いとおしそうに人形を眺めて、ひとこと「顔がいい」と仰った。私にはもったいない人形のようにも思えたが買ってきた。

 世間話をしながら随分いろいろもてなしてもらった。長居してしまった。

 

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 (今回買った猫に蛸)

 

 米沢といえば上杉神社だろう。名君といわれる上杉鷹山はあまりに有名だ。相良人形の工房から行けるか尋ねると、少し距離があるが若いのだから歩けるよ、と言われた。一度駅まで戻り、駅前から放射線状にのびる道をまっすぐ歩いていく。平日でもあり人通りは多くなかった。この辺りが街のメインストリートになるらしい。米沢牛のお店が目についた。

 結局道に迷って30分くらいでやっとたどり着いた。ここまでくると修学旅行生らしき学生たちも見かけたし、けっこう賑わっていた。

 

 

 

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 上杉神社上杉謙信を祀る。参道の手前には上杉鷹山ら6柱を祀る松岬神社がある。神社の入り口付近には「龍」と「毘」の旗が立ち、やたらと銅像や石碑が建っている。上杉謙信上杉鷹山上杉景勝直江兼続など・・・。そういえば何年か前に「天地人」という大河ドラマもあった。ここは戦国ファンにはたまらない場所だろう。ちなみに伊達政宗が生まれたのも米沢で、その石碑も建っていた。

 

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 (有名な上杉鷹山のことば)

 

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 上杉神社本殿は、米沢出身の伊藤忠太の建築。広くとられた敷地や建物の配置からは、明治以降の日本の神社や建築がしばしば持っている、いかにも作り上げられて演出されているタイプの神聖さを感じさせる。

 

 

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 宝物殿は「稽照殿」という。重要文化財がたくさんある。本でみたことがあるような有名な甲冑がずらり。「毘」の旗も。めずらしいものでは「謙信自筆の片仮名イロハ」という、上杉謙信が幼少時の上杉景勝にイロハを教えるために書いたいわば見本があった。

 

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 (デカい・・・)

 

 

 この辺は観光スポットで、上杉神社はそもそも米沢城址にあるし周囲には上杉博物館もある。だが今回はそこへは寄らず、上杉博物館の道路を挟んで向かい側にあるバス停から白布温泉行のバスで米沢市笹野本町へ向かう。目的は、笹野一刀彫だ。

 15時48分発のバスに乗り込む。ちょっと慌ただしかったが、上杉神社は30分ほどしか見られなかった。バス車内は私の他、ほとんど誰もいない。白布温泉ってどんなとこかな、今度来るときはゆっくり温泉に浸かりたいな、などと考えていると、すぐ10分ほどで到着した。

 

 

 

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 バス停「笹野大門前」で下車すると、角になにやらデカいオブジェが。

 

 に続く。

 

 

 

山形日記 ③ 小松沢観音

 

 の続き。山形旅行の2日目。

  

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 ・再び村山へ

 

 朝5時半頃に起きてすぐ荷物をまとめ、昨晩買った安い弁当を掻き込んでから山形市のビジネスホテルを出た。この日の予定は、午前中にムカサリ絵馬を見るため観音堂を二か所まわり、山形駅まで戻ってきて乗り換えて、午後は米沢市まで行く、というなかなかのハードスケジュール。

 

 まずは昨日も訪れた村山市までJRで行き、駅から歩いて小松沢観音を目指す。小松沢観音は若松観音と同じく最上三十三観音の札所のひとつ。

 本当は前日のうちに同じ村山市最上徳内記念館と一緒にまとめて見るつもりだったのだが、その日に予定を変えて山寺に行ったのと、つい徳内記念館に長居してしまったということがあり翌日に持ち越した。旅先で勧められたお店に寄ったり目的地に行く順番を変えたり、一人旅だと気まぐれでスケジュールの変更ができてよい。

 前の日に徳内記念館の職員の方に観音堂はどのくらい遠いのか訊いたところ「駅から1時間ほどだろう。山の中にあるから徒歩はやめたほうがいい」と言われていた。

 しかし、観音堂は本来は巡礼の地である。朝の元気のあるうちに歩いて行ってみたい気持ちがあった。携帯で調べたところやはり徒歩1時間ほどのようだった。早朝の澄んだ空気の中、森林浴がてらのんびり歩いてお参りするのも悪くないと思ったのだ。疲れたらタクシーを使えばよい。

  

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 6時前には山形駅をでる電車に乗った。朝早くだからそれほど混んではいなかった。部活動に行くらしい学生がぽつぽつ座っていた。車窓の風景は住宅街から町工場、川、ビニールハウス、田園と目まぐるしく変わる。山並みも変化に富んで、遠くにあった山がいつの間にか目前にそびえていたりと飽きさせない。

 

 6時半ころ村山駅に着いて、最上徳内記念館とは反対の出口を出る。山に向かってまっすぐ道が伸びている。携帯の地図を頼りに歩いていく。

 

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 ・小松沢観音までの道のり

 

 駅前からのびる道をひたすら歩く。人も車もほとんどいない。なにせ朝の7時にもなっていないのであるから当然だ。途中で一度右に曲がり、再びまっすぐ進むと駅から40分ほどでなかなか立派なお寺のある十字路にたどり着く。県の文化財にもなっている古い石鳥居が目印になる。お手洗いを借りて小休憩。

 ここには小松沢観音堂まで1.3キロの看板が出ていた。もう15分も歩けば着くかな、と思ったのが甘かった。そこを通りすぎると左手にソーラーパネルがたくさんあり、右手には幟が立って観音堂への道の看板が出ている。ここからが本番だ。ずんずん山道へ入っていく。

 

 

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 道は舗装はされていて歩きにくくはない。どんどん人里から離れていくので次第に不安になってきた。こういうときにまず頭に浮かぶのは「急に熊でも出てきたらどうしよう」ということだ。それでむやみに咳払いをしたり、鼻歌を歌ったりしてみた。道のそばに静かに流れる小川を眺めたり、自然と耳に入ってくる鳥の鳴き声を聞いたりしながら歩いていると、いつの間にか熊への不安は忘れていた。

 ときおり道の両側の草木の間から、石碑や祠が現れる。いにしえの巡礼者が目にしたのと同じ風景を目にしていると思うと感慨深い。

 

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 山道を歩き始めて15分ほど、鳥居があった。しかしまだ到着というわけにはいかない。ここからさらに10分以上山道を歩いた。急斜面に作られた古びた石段はところどころヒビが入り強く踏むと崩れそうでひやひやした。

 

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 不動堂があった。たくさん鉄製の剣が絵馬に貼り付けられて奉納されていた。だいぶ錆びて剥がれかけたものもあった。

 

 こうして山道を歩いていると、ぼんやりと、自分の今までのこと、これからのことに思いを巡らせてしまう。

 

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 やっと表参道に着いた。またもや急な石段が立ちはだかっていた。ゴールが見えているので足取りも軽く登りたいところだったが、へとへとだった。村山駅から1時間半近くかかった。先が見えないので本当に長い道のりのように感じた。だが気持ちの良い散歩ではあった。

 

 

 ・小松沢観音

 

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 山門には村山名物の巨大わらじが掲げられている。あたりには誰もいない。

 

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 境内は大きくない。自然に生えたものか、それとも植えられたものか、山中の寺院に白い花があまりに似つかわしかった。

 

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 壁にも扉にもたくさんの札が貼られている。開けてはいけないような雰囲気がある。

 恐る恐る開け放った扉から堂内に光が差し込む。「觀世音」の額や提灯、祭壇が照らされた。一歩中に入るとセンサーがあって小さい照明も着いた。照明がつくということは、しばしば扉を開けて参拝する人がいることを示しているわけで、歓迎してもらったような気持ちになってホッとした。

 あたりを見回すと、新旧のおびただしい量のムカサリ絵馬、お札、千羽鶴ほか奉納物で壁から梁の上まで埋め尽くされていた。中が暗いのは障子も何もかも奉納物ですっかり埋まってしまっているからだろう。たくさんの奉納物に監視され試されているような気持ちで恐る恐る蝋燭を灯してお参りした。
 本来は博物館で保存するのが望ましいような絵馬も含まれているのかもしれないけれど、堆積するように奉納物が飾ってある姿を見られることはありがたく貴重なことだ。

 参考:小松沢観音の絵馬 文化遺産オンライン

 

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 ムカサリ絵馬に限らず、武者絵の絵馬や歌舞伎の絵馬もある。

 

 観音堂の背後の坂を登ると鐘楼がある。その途中でお花の写真を携帯で撮っているおばさんが居た。おはようございますと挨拶したが、すぐ居なくなってしまった。別当さんだったのか、散歩しにきた地元の方だったのか、わからない。

 結局、境内には1時間ほど居た。とにかく観音堂の各種の奉納物の存在感がすごい。「奉納物とは奉納者の想いが形になった物だ」と簡単に言えば言えてしまう。しかしそれらが全て違った来歴を持ち、無秩序に吹き溜まるように観音堂に納められている有様は、私の力量ではとうてい言葉で表現できない。圧倒され、得体の知れないものを見たときのような動揺を覚えた。

  

 

 ・黒鳥観音へ

 

  小松沢観音の次は黒鳥観音へ向かう。歩くと2時間はかからなさそうだが、道に迷いたくないし体力を温存したいのでタクシーを呼ぶことにした。

 地元のタクシー会社に電話する。この朝早くから山の中へ迎えに来いと言われて、電話口のおばさんの声は明らかに驚き怪しんでいる様子だった。

 

 10分ほどでタクシーが坂道を登ってくる音がしたので、参道の下まで階段を降りて待っていた。気の良さそうなおじいさんの運転手は私を乗せて一度坂を登りきって小松沢観音の駐車場でUターンし坂を下った。

 

 運転手さんは「こんな朝早くからよく登ってきたね〜」とにこやかに話しながらも驚いた様子だった。ここは最上三十三観音の中でも最も辺鄙で坂のきついところのひとつらしい。以前は朝に散歩しに来る方もいたそうだが、最近は少ないとも。さっき会った人は散歩だったのか?

 次に向かう黒鳥観音も黒鳥山の中腹にあると聞いていたので山道がキツイのか訊いてみたところ、「小松沢観音まで歩いて行くような人なら全然大丈夫だよ」と笑われた。

  昨日も村山市に来て最上徳内記念館を見たことなど話した。去年の秋に厚岸町に行った話をしたところ、厚岸が村山市姉妹都市であることは知っていたみたいだった。「行ってみたいなぁ、どんなところだった?」と言われたので、独特な地形のこと、文化財のこと、海の幸の話をした。

 

  ぽつぽつ雨が降って来た。山を下り、住宅や畑ばかりの山裾の道を走る。

 

 黒鳥観音は麓の道沿いに鳥居があり目印になっている。鳥居の右側に迂回するように坂があり、傾斜がきつめの短い坂道があり、車で観音堂のごく近くまで行ける。公衆トイレもあった。晴れていれば展望もよいだろう。

  

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 15分あまりで黒鳥観音に着いた。まだ朝の8時半ごろだ。運転手さんは「ベットー(別当)さんいるかなぁ」と言っていたので心配になったが、いらっしゃっていた。白い鶏が2、3羽飼われていて、小屋の周りを歩いていた。

 

 

 

 に続く。

  

  

 

浜田知明の訃報に接して

(神奈川県立近代美術館(2010年)展示図録。表紙の作品は「アレレ…」(1974年))

 

 

浜田知明の訃報 

 

 戦後日本を代表する銅版画家を挙げれば、駒井哲郎、長谷川潔、浜口陽三、そして浜田知明の名がでるだろう(ここに池田満寿夫を加える人もいるかも知れない)。

 

 先日、その浜田知明が亡くなったというニュースを目にした。100歳で死因は老衰というから大往生と言っていいと思う。今年の3月にも町田市立国際版画美術館で個展が開かれており、行けなかったことが悔やまれる。

熊本県御船町出身の彫刻家浜田知明氏が死去|【西日本新聞】

浜田知明 100年のまなざし | 展覧会 | 町田市立国際版画美術館

 

 私は銅版画を制作した経験があり、何度か実物の作品を拝見する機会を得た。その上で浜田の作品制作の方法について思うところを書いてみたい。

 

浜田知明の技法

 

 私としては上に挙げた浜田以外の3名は技法の探求者としてのイメージが強い。

 長谷川や浜口は現代のメゾチントの第一人者で、駒井は「銅版画のマチエール」という分かりやすい技法書を書いている。一方で浜田は技法よりも技法によって表そうとした何かが作品から強く感じられる。

 

 もちろんそれは技法の裏付けがあってこそである。銅版画を制作した経験のある者なら、高い水準の技術を感じざるを得ないだろう。揺るぎない安定感と完成度を持ったエッチングの線(1953年の「風景」や、1958年の「飛翔」、1961年の「馬のトルソー」、1967年の「風景」、1969年の「騎士と鍵と女」など)や、アクワチントの粒子の美しさ(1954年の「初年兵哀歌ー風景(一隅)」、1977年の「家族」、1979年の「取引」など)を見て、ため息をついたことは一度や二度ではない。浜田の作品の技法に関して言えば、的確で過不足なく用いられている点を、私は特に強調したい。

 

浜田知明の画法

 

 それでも、改めて指摘するまでもなく浜田の作品はストレートに風刺画的であることを抜きには語れない。風刺画としての「ひねり」はもちろんあるのだが、風刺画に取り組むということに関して、正面から取り組んだ作家だと思う。初期の従軍経験を作品化した中ではやはり「初年兵哀歌シリーズ」が代表作になるだろう。これら作品は浜田自身を代表するだけでなく戦後日本美術の重要作品であることに疑いはない。他にも、人間の性格や感情をユーモラスに表した1974年の「アレレ…」(技法的にも非常に冴えている)や、核戦争を戯画化したような1988年の「ボタン」(A)と「ボタン」(B)など、笑いを交えつつ一歩引いて人間を観察し表現することにおいては類例のない作家だと思う。

  

 作品の多くは風刺画のようである、とは言えるけれども、それ以外の共通点はなかなか見出しにくい。浜田の作品は、ひとつの主題を発展させていったような作品群ではない。いつも全てを一からスタートさせて制作していったように見える。そのつどテーマがあって、向き合う人間の様相があった。その結果生まれた作品群なのではないか。

 

浜田知明の言葉

 

 浜田の画文集に「浜田知明 よみがえる風景」(求龍堂)がある。数年前にこれを読みながら、浜田の作品と言葉について短い文章を書いたことがあった。それは以下のようなものである。

 

 

 
(前略)
 私が浜田の作品に強く惹かれるのは、何よりそのテーマ性と、それを形にする際の考え方だ。
 浜田は作風の確立について、次のように語っている。「単なる戦場の表面的な描写ではよく戦場を描き得たということにはならないし、人間心理の深層にまで照明をあてることはできない。あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手掛かりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまうおそれがある。時代の思潮に敏感であろうとするような、新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥せず、是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた」。
 浜田の作品では「是が非でも訴えたいもの」だけをテーマに描かれている。だから作品が非常にシンプルに形になっており、メッセージが分かりやすく鋭く伝わってくる(中略)
 また、浜田の作品を見て驚かされるのは、そのテーマの普遍性と、その普遍性を保ちつつ形にするセンスだ。「新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥」しがちな自分にとって、浜田の作品は戒めになっている。
(中略)
 浜田の「誰のために描くか」という題の文章がある。その文章で浜田は、「ぼくもまた自分のために描く」と答えたあとに続いて、「作品を発表するとぼくはじいっと彼等の反応を確かめる(中略)ぼくの表現したいものが、正しく彼等に伝わった時の悦び、活字にもならなかった時の無言の警告。ぼくは自分のために、そして一握りのぼくを信頼してくれる幾人かの人々のために、まだ見たことも会ったこともない、これらの人々に連なる多くの人々のために描く」と書いている。
 「誰のために描くか」というのは、作家にとって究極の問いの一つだと思う。

(中略)

 上記の文章に表れているように、浜田は常に自分の作品がどう受けとられているか点検し、「信頼してくれる幾人か」に対して作品を通して何ができるかを考えて描き続けるのである。浜田は自己中心的になることもなければ、大衆や社会のために描くなどと上辺だけの綺麗事をいうこともない。
(中略)
 ただ、浜田の作品から私が受けたような感動を、誰かが私の作品によって受けることがあればそれ以上にうれしいことはないし、そのようになるべく、作品を作り続けることと、発表し続けること、また自分に対しても厳しい視線を向け続けることは止めないでおこうと思う。

 (引用以上)

 

・浜田の制作の方法

 

 ここに書いた浜田の作品と言葉への気持ちは、今もそれほど変わっていない。

 そして、浜田の技法と画法(あえて絵画制作の態度をこう呼んでみたい)は、分かちがたく結びついたものであることに、いまさらながら気づかされる。

 

 浜田が銅版画を選んだのは必然だろう。その工程には計画性が求められる。ちょっとでも長く薬品に漬けすぎたりすれば、ごまかしが効かなくなる。絵の構図についても、モノクロで少ないモチーフを絵にすることはとても容易ではないことが想像できる。おそらくたくさんの試作や失敗作があっただろう。

 しかしその分、作品は研ぎ澄まされたものとなり得る。

 また「ぼくは自分のために、そして一握りのぼくを信頼してくれる幾人かの人々のために、まだ見たことも会ったこともない、これらの人々に連なる多くの人々のために描く」という言葉を浜田は残した。

  制作の動機にまず自分を据えること。そして、おそらく顔が見えるくらい具体的で数少ない、信頼する人々のために描くこと。さらにその延長線上に、未来に生きる誰かをも見ること。私はこの言葉はそういう意味だと思う。

 きっと浜田はいつでも丁寧に、愚直に、何かを(例えば自分の立ち位置を)確かめるように作品を作ったのだろう。そういう態度に銅版画は合っていただろうし、浜田をいっそう内省的にさせたかもしれない。

 

 浜田が東京美術学校で「聖馬」(1938)を作ったのが20歳の時だという。

 尊敬すべき作家の訃報に接し、人間の愚かさと人間の真っ直ぐさとを愛した80年に及ぶ長い画業を、心から讃えたい。

 

 

 

 (僭越ながら敬称を略させていただいたことをここにお断りいたします)。

 

 

 (終)

 

 2018.7.21 一部改変、追加、誤字訂正