④の続き。いよいよ米沢は笹野へとやってきた。山形に来た目的のひとつ、民芸品の笹野一刀彫はここで制作されている。
・笹野観光
大きな「お鷹ポッポ」が建っている。笹野一刀彫の代表的な意匠だ。笹野一刀彫とは、木を削って簡単に着色した民芸品で、「お鷹ポッポ」のほかには恵比寿大黒、蘇民将来など縁起物の置物が作られている。米沢に限らず山形の代表的な土産物と言っていいだろう。今回の山形での旅行中もあちこちで見かけた。
このお鷹ポッポのある角の右の細い道へ入っていくと「笹野民芸館」や「鷹山」、「笹野観音」がある。
山裾に広がる静かな農村風景の中を歩く。
7、8分ほどで笹野民芸館へ到着した。内部は薄暗い古民家風の作りで、ずらっと各種の一刀彫が並ぶ。 やさしそうな職人のお兄さんがいて、いろいろお話を伺った。
まず、笹野一刀彫の絵付けと彫りについて。これは例えば夫婦で分業していたケースもあった。彫りと絵付けをどちらもできる人は工人(こうじん)と呼ばれ、どちらかしかできないのを職人と言うらしい。
お兄さんは絵付けすることを「染める」と言っていた。
職人数は今は20人くらい。最盛期は特定の種類しか彫らない人も含めて100人くらい居たとのこと。これはおそらく農家と兼業の人もかなり含んでいる数字だろう。
一刀彫は、笹野観音に木花(木で作った花)を供えたのがはじまりといわれる。オタカポッポのポッポもアイヌ語から来ているという話もあるらしく(ニポポか?)、このあたりではオタカポッポを「がんぐ」と呼ぶらしい。
笹野一刀彫は今では30種類以上あり、全部彫れる人は数人だ。東北芸工大とコラボした時に、お兄さんのお師匠さんが昔のオタカポッポを再現した。今のオタカポッポは鷹ととまり木の割合が4対6だが、昔のは6対4になっているという。このような改良が重ねられて来て商品として洗練されて来たのだろう、と思った。
材料のコシアブラの木は山菜として美味しく、最近はなかなか採れない。エンジュも使っている。
一刀彫には、蕎麦切り包丁みたいな特殊な刃物(サルキリ)を使う(ほかに「チヂレ」と呼ばれる刃物も使うらしい)。これは日本刀と同じ玉鋼で出来ている。お兄さんいわく、何度か怪我をしたことがあるが、よく切れる刃物で切った傷は治りも早い。一度怪我をすると、恐怖心を持ってしまったり、切った位置が悪くて刃物が握れなくなったりすることもある。なので、職人は少ないがあまり人に勧められないのだという。
(年賀切手にもなった蛇。見覚えがある。)
職人はみな商売気がなく、よく安すぎるといわれる。私も見ていて安すぎると思った。アメリカに持っていくと5、6倍の値段になることもあり、逆にそのくらいの値段を付けないと売れないのだとか。ここ笹野民芸館ではオタカポッポの絵付け体験もできる。修学旅行生が来るときは一度に70人ぶん彫らねばならず、彫るのがとても追いつかない。お兄さんのお師匠さんは、大きなフクロウがやっと売れたと聞いた時に困った顔をしたという。あまり売れすぎるのも困るとのことで、値上げも検討していると言っていた。
右にあるのが「笹野花」で火伏のお守りらしい。
笹野一刀彫の古い作例はあまり残っておらず江戸期以前にさかのぼるのは難しいとも。上杉博物館に一部展示があるらしい。今度見に行きたい。
ここでは、「花鳥」を買った。実に見事な花だ。ちょこんと載ったにわとりもかわいい。
次に、すぐ近くの鷹山へ。ここは初めて笹野一刀彫の店舗を構えたところで、ぶどうのツルで作ったカゴも扱っている。
ここでは「お鷹ポッポ」「尾長どり」などを買った。
(お鷹ぽっぽ)
・一刀彫についての疑問
笹野一刀彫とアイヌの関係について、パンフレットなどには「技法はアイヌのイノウといわれ」や「笹野の里にはアイヌの遺跡があります」等と書かれている。これは素人目に見ても正確な表現ではない。
まず、そもそもイノウは技法をさす言葉ではない。イノウはイナウのことだろう。イナウはアイヌが祭祀の際、主に神に捧げるために作るもの(他にも伝令、守護神、魔祓いの役割があるといわれる)だ。
確かに木を削る技法が使われている点はイナウと笹野一刀彫に共通している。しかしこのような削りかけ祭具の報告例は本州以南でもかなりある(九州北部から中国地方、近畿北部地域では少ないが)。これをアイヌだけと直接結び付けるのは無理がある。
笹野一刀彫は笹野観音に供える削り花から発展したとも言われているのだから、むしろ東北の他の地域の削り花と近い存在だろうというのが自然な連想で、その関連性こそ言うべきではないのか。そういう全国的な、もっといえば全世界的な、削り花習俗を媒介としたうえでなら、アイヌのイナウとの関係も語れるだろう。
また、遺跡については「笹野チャシ跡」と呼ばれる遺跡があり、年代は奈良・平安時代(~中世) とされているようだ。その実態は私が調べた範囲ではよくわからないので、この「チャシ」とアイヌ文化とのつながりの有無についてはなんとも言い難い。
しかし、イナウという語のずさんな使い方から想像するに、「アイヌの遺跡」というのも誇張表現のように感じてしまう。
パンフレットには「千数百年の伝統を守る 古代笹野一刀彫」とあり、おそらく連綿と続いてきた伝統文化であることを言いたいのだろう。そのために古代と結び付けるような形でアイヌとの関係を持ち出したい、という意図が感じられる。それは適切ではない。しかし、江戸時代以降も東北にアイヌ集落はあったといわれている(津軽藩など、かなり北の方だが)ので、その研究成果を参照すればアイヌとのつながりが言える可能性もあるだろうし、東北の文化の豊かさを象徴するような存在としての笹野一刀彫が立ち現れてくるかもしれない。いずれにしろ現状の書き方であれば、こじつけどころかウソと言われても仕方ない、と私は思う。
観光地を盛り上げるために多少の誇張は今まで容認されてきたのかもしれない。今後も「どうせ来るのはたかが観光客」と、タカを括って誰も深く調べたり考えたりしないのかもしれない。しかし私が聞きかじった範囲でも研究は日々進んできている。たとえ最終的には正確を期した情報が単なる観光資源として消費されるとしても、それを嘘でも良しとして吟味せず開き直るのとは大違いだ。お節介かもしれないが、そういう商売するのはよろしくないと思うのだ(世間ではそれを詐欺という)。
(参考文献)
・北原次郎太、今石みぎわ 「花とイナウー世界の中のアイヌ文化ー」 北海道大学アイヌ・先住民研究センター 2015年
閑話休題。
・笹野観音
最後に笹野観音へ行く。民芸館のお兄さんが是非寄ってみてくださいと言っていたところだ。正式には真言宗豊山派長命山幸徳院笹野寺という。置賜三十三ヶ所観音霊場十九番目の札所でもある。
・ホームページ→笹野観音 真言宗長命山幸徳院笹野寺
立派な門に立派な由緒書きがある。坂上田村麻呂の建立だという。蝦夷(えみし)にとってみれば、宗教の強制であり一種の同化政策だったかもしれない。
門には下駄や大きな草履がかかっている。
振り返ると、門に算額があった。最近復元されたものだろう。カラフルな図形が面白い。
石がたくさん載せられていて重そう・・・。
手水舎がなんだかかっこいい。ここでは漱口場という。
中に由緒書きがある。戦時中に金属供出にあったものを明治百年記念で再設置した旨が書かれている。
(指定文化財の看板)
特に予定にもいれていなかった笹野観音堂だが、これがすごかった。現在の観音堂は天保十四(1843)年の建築。
近寄ってみると意外と大きい。
大きなお地蔵様も。延命地蔵菩薩といい、天保三(1832)年に米沢の豪商が建立。高さ5メートルある。
(笹野観音堂縁起)
お堂にあがらせてもらうと、彫刻がもう、何というか、とにかく凄い。まずは格子の前まで行ってお参りする。見上げると扁額も立派だ。
石があった。どういういわれがあるのか?
屋根の下も風格がある。
やはり茅葺きを維持するのは大変のようで、毎年部分修復を行っているようだ。ごく少ない額だが募金した。
振り返ると長押に何枚かの絵馬が掛かっていた。向背の内側から見る彫り物も、またこれがものすごい。
絵馬についてはこちらに書いた→(笹野観音の絵馬と奉納物 - 絵馬ブログ)
今度は外からじっくりと見る。正面には唐獅子に挟まれて龍が三体と鳳凰がいる。この大胆にして繊細な表現力!あまりに精巧で、眼前で何が起きているのかわからなくなる。
(正面の龍)
(左の龍)
見ていると気が狂いそうだ。
(右の龍)
少し離れたところから屋根の上も見てみる。茅葺き屋根にも凝った装飾がある。
裏手へ。この屋根のずっしりとした量感。
(お不動様が刻まれた石)
(お鷹ポッポと)
ちょうどよい具合に観音堂の正面に東屋があり、ここに荷物を置いてバスを待ちながら1時間くらいずっと飽きずに写真を撮ったり眺めたりを繰り返していた。18時半頃までいた。
だいぶ暗くなってきた。バス停まで戻ってきた。お鷹ポッポの背中も寂しげに見える。笹野にはまた来たい。今度は近くにある白布温泉にも是非浸かりたいものだ。
米沢駅までバスで戻った。
(米沢駅)
19時過ぎ、米沢の観光地はもう閉まっているし、駅からけっこう遠かったがファミレスまで行って、高速バスの時間までカレーを食べながら旅行を振り返っていた。
日付が変わるころ米沢駅から東京へ向けて帰った。
東京は小雨が降っていた。
(終)
2018.8.12.一部加筆