こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

松前から函館へ日記②

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松前、寺町の猫)

 

 

 

 の続き。松前へ3年ぶりに行きました。以前松前へ来たのはあるアーティスト向けプログラムの一環でした。今回はほぼ丸一日というわずかな時間ながらも、その時見られなかった場所に行ってみたりもう一度見たい場所に行ったりしてなかなか充実していました。

 まずは宿へ荷物を置きに。

 

 

 

・3年ぶりの松前

 

2019.4.27. ②

 

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 バスを降り荷物を宿に預けようと歩き出す。傘をさすべきか迷う程度の小雨で、咲きかけた桜もしぼんで見える。前日に見た相原求一朗の作品を思い起こさせる。まるで呪いのような曇り空だ。少し気分が沈む。

 民家に混じって旅館や松前漬けの工場が並ぶ通りに今回の宿はある。愛想の良いおかみさんが出てきて応対してくださった。荷物だけ預けるつもりだったがもう準備ができているとのことだったので部屋まで行って一息ついた。内部は旅館と民宿の間のような雰囲気だった。廊下の角に大きな木彫り熊が置かれていた。

 

 

 

 ・ゴミ箱?


 町を歩くと住宅の横に蓋つきの箱が置いてあるのに気がついた。これはどうやらゴミを入れておくものらしい。生ゴミを海鳥や野良猫があさるからだろうか。なぜこのようにゴミを管理しているのかわからないけれど、バリエーションがあって楽しい。以下、今回見かけて写真を撮ったものを並べてみた。

  

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・専念寺

 

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 まず専念寺へ。近寄ると山門の梁や彫刻が黒く焦げている部分があるのがわかる。スマホで調べると明治以来2度の火災に遭っているということがわかった。一見、蝦夷地の念仏布教の中心となり大きな影響力を持った名刹には思えない。だがこの立派な山門のように往時の繁栄を思わせる痕跡がある。敢えてみすぼらしく炭化した古材を使い続けたことで松前の辿った歴史に思いをはせることができるのだ。

  

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・花盛りの松前城

 

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 松前では、普通の住宅のように見えてもちょっと立派な石垣をもっていたりする。聞くところによると松前城が廃城になったあとの石垣を再利用して使ったところがあるらしい。

 

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 雨に濡れた石畳に滑らないよう気をつけながら寺町を抜け松前城の方へ歩いていく。だんだん人通りが増えてきた。屋台もいくつもあった。今はちょうど「さくらまつり」の時期である。城下は観光客向けに沢山の桜が植えられていて、ゴールデンウィークは毎年賑わうということは知っていた。

 途中、3年前にもお参りした蠣崎波響の墓へ立ち寄った。

 私はこの3年の間に、波響の代表作である「夷酋列像」を自作で参照し模写までした。草葉の陰で波響は苦笑しているだろうか。気恥ずかしい墓参であった。

 

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 松前神社の裏手に出ると雨にも関わらず大勢のひとが行き交い桜を見たり写真に撮ったりして談笑しあたりを散策していた。

 

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 城の裏手には一本の木で白とピンクの花を咲かせる桜があった。そのすぐ横には幕末に松前藩内でクーデターを起こした田崎東(たざきあずま)の碑がある。

 松前神社では松前藩の祖である武田信広が祀られている。州浜型の手水鉢もなかなか凝っている。前回来た時はまだ場所請負人の知識などは僕にはなかったが、石造りの鳥居を見ると場所請負人らしき名前があった。そのことがわかるようになったのが嬉しい。

 すぐ近くにあった福山城跡の案内看板には「紀元二千六百年紀念」とあった。戦前戦中に流行った天皇を中心とする国家観。松前藩が置かれてきた「日本」の中での立ち位置。そしてアイヌとの関係やロシアとの関係について一瞬考えてみる。

  

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 ・阿吽寺

 

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 次に阿吽寺へ。伝説では嘉吉三(1443)年に南部氏との戦いに敗れた安東盛季が蝦夷地に逃れ、津軽の旧跡に因んで一宇を建てたことに始まるとされる寺院である。元和三(1617)年に現在地に移り、福山城の鬼門を守り松前藩祈願所とされた。本尊の不動明王は11世紀末~12世紀頃の作といわれ、他に松前家五世慶広の木像など所蔵している文化財も多い。

  

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 ここに来たのは初めてではない。3年前ふらっと立ち寄って扉を開けた私は、壁に所狭しと並ぶ鮮やかな色の船絵馬や銭を使った奉納額を目にし「こういう風に信仰を形にしたものがあるのか・・・!しかも北海道のこの小さなてらに!」と驚いたのだった。それが北海道の歴史、特に和人の歴史を追うひとつのきっかけとなり、また絵馬に対しても興味を持ったきっかけとなって今に繋がっている。
 その時はただ見ただけだったが、今日はたくさん写真を撮らせてもらうつもりではるばる来た。しかるべきところに問い合わせたり、それなりに準備しての再訪だった。

 ちょうど住職さん?の奥様がいらしゃったので撮影可能かどうか訊ねると二つ返事で了承してくださり、しかも奥の院の本尊や五世慶広の木像まで見せてもらえるという。親切で寛大な対応に感激した。重厚な蔵の扉が開く。

 まず丁寧にご本尊に手を合わせてから、いよいよ文化財を見せてもらう。

  

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 奥の院は蔵のような造りで、幕末にロシアの脅威に備えて松前城を改修した際の建築らしいとのことだ。漆喰で作られた壁が貴重な宝物を箱館戦争などの火事から守り、いまここで私の目の前にあるのだ。そう思うと身震いした。

 
 内部は暗いので照明器具がいくつか置かれている。スイッチを入れると宝物が照らされて闇に浮かび上がった。

 

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 まず五世松前慶広木像を見る。右手に笏を持ち烏帽子を被った姿である。胸には家紋の武田菱。その顔は髭を蓄えず、きれいな弧を描く眉は仏像を思わせる。割と幼い容貌である。豊臣秀吉徳川家康と渡り合い、蝦夷地の支配を確立し以後の松前藩の基礎を築いた人物にはとても見えない。そして像のサイズは意外に小さい。

 像が載っている台には古びた布が掛けられていた。もしや蝦夷錦かと思ったが中国の皇帝を示す龍の刺繍がない。しかし、相当な年代物のようには見える。私がこの古布を蝦夷錦かと推測したのは松前慶広には蝦夷錦にまつわるエピソードがあるからだ。もし、松前藩主の像の下に蝦夷錦が敷かれていたら・・・。その意味をちょっと考えてみたくなる。

 

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  本尊の不動明王は丸みのある体つきが優しく、親しみやすい雰囲気があった。煤で黒くなってきてはいるが彩色も残っている。截金もみえる。少し高い位置にある像を下から覗き込むと、背後から頭部前面に左回りに火焔が回り込む凝った作りであることがわかった。

 阿吽寺の山号は海渡山である。鎌倉時代室町時代かわからないが、いつの頃かこの不動明王像も津軽海峡を渡ってここへきたはずだ。港から港へ海を渡り船の上で生計を立てるような人々にとって、この像の存在がどれだけの支えになってきたことか。

 

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 絵馬も一通り写真に撮らせてもらう。やはり、いわゆる船絵馬が多い。いくつかガラス絵もあった。

 

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に続く)