(正行寺本堂内)
①の続きです。道東の厚岸町へ行ってきました。午後からは正行寺へ。以下の記述はパンフレット等のほか、「北海道開拓と本願寺道路」(弥永芳子著、弥永北海道博物館 、1994年)、「アイヌ社会と外来宗教ー降りてきた神々の様相」(計良光範著、寿郎社、2013年)を参考にしています。
目次
1.正行寺
2.お供え山チャシ跡群
3.海事記念館
2017.11.11. ②
1.正行寺
下調べをしていた時に、厚岸のようなそう大きくはない漁師町に重要文化財のお堂があると知ったときは驚いたが、本当にあるのである。(むしろ、町の大小に関わらず漁師町では文化を大事にする傾向を感じることの方が多いかもしれない)。
正行寺は道東エリアで初めて重要文化財に指定されたのだとか。(正行寺のホームページ→寺宝・文化財 | 正行寺)
事前に連絡をしておけば無料で見学できる。
国泰寺通りを厚岸大橋に向かって引き返すと途中右側に小さな看板が立っている。そこを曲がると立派な三門が見えてくる。鐘楼や忠魂碑を見ながら進むと本堂が左手にあった。鐘楼も本堂と同じくらい歴史ある建築で1908(明治41)年のもの。
正行寺は正式には真宗大谷派正行寺といい、東本願寺を本山とする。(ちなみに西本願寺を本山とするのは浄土真宗本願寺派)。 1879(明治12)年に厚岸説教場が開設されたのがお寺の始まりだ。重要文化財の本堂は、1799(寛政11)年に新潟県糸魚川市の満長寺本堂として建てられ、1909(明治42)年に解体、輸送、移築し、翌年竣工、翌々年落慶法要が行われた。
そもそも東本願寺は徳川家康の時代から江戸幕府の庇護を受け、西本願寺は朝廷と親密だった。幕末、西本願寺は尊王論者と交流を深め、尊王攘夷を鮮明に打ち出していた。戊辰戦争の際は東本願寺は朝廷に反逆するらしいという噂が流れ、あやうく新政府軍の焼き討ちに遭いそうにもなった。
財政困難の新政府は、北海道開拓を東本願寺に依頼した。東本願寺は旧幕府時代の教線(江戸時代の北海道では、浄土真宗については最も早く開教した東本願寺派の専念寺にのみ松前藩が開教を許可、西本願寺派は長い間許されなかった)を守りつつ、新政府への忠誠を示し、更に教区の拡張も目論み、依頼を受けた。そしていわゆる本願寺道路を開き、宗門道場を建設した。函館と札幌をつなぐ道路の中でも、本願寺街道と呼ばれる今の札幌市と伊達市の間の道路の開削は特に難工事であり、行政上も重要であった。このようなことから、真宗大谷派(=東本願寺派)は北海道と縁が深いといえ、その流れの中にこの正行寺もあるのだろう。
閑話休題。
この日は檀家さんの集まりがあったようで、おばあちゃんたちがぞくぞくやってきていた。本堂に隣接した寺務所らしき建物に入っていくと、すでにお寺の方が待っていてくださっていた。絨毯が敷き詰められた廊下の先は本堂につながっている。ぱちぱちと手際よくスイッチが点けられ、金と極彩色で飾られた欄間や内陣が照らされた。
(参詣間から内陣を見る)
(中央の欄間、極彩色の牡丹と天女)
(向かって左の欄間、未彩色の牡丹と天女)
(向拝部分の彫刻)
(桜鶏図板戸)
(内陣)
(木鼻部分の象鼻)
(象鼻)
本堂の中にはパネルが何枚かあって、見どころの解説があった。
確かに立派で綺麗な建物である。しかし、そこに感嘆するだけではなく、この建物がここにある意味を考えたい。建物を新潟からわざわざ買って持ってきて北海道に合わせた改修を施したこと、移築当時の資料が残っていることなども文化財指定の理由だそうだ。東本願寺そのものの力に加え、門徒にそれを支えられるだけの力があったことも想像できる。江戸時代には東蝦夷地一番の賑わいを見せていたともいう厚岸はかつてどのような姿だっただろうか。
13時半頃まで見学し、次の目的地へ。 お供え山チャシ跡群のある標高79メートルのお供え山へは徒歩数分。
(あ!シカがおる!!)
数匹のシカが街中で草を食んでいた。森の中の道路を車で走っていればシカと出会うことはよくあるのだが、あまりにごく自然に風景に溶け込んでいたので気付いた時には驚いて声をあげてしまった。
2.お供え山チャシ跡群
「お供え山チャシ跡群」の看板はすぐ見つかった(日蓮宗法華寺の横にある)。ここは17~18世紀の町指定史跡で、北側の「鹿落しのチャシ跡」、東側の「逆水松のチャシ跡」と「奔渡町裏山チャシ跡」、西側斜面の「松葉町裏山チャシ跡」の四か所が同じ時代に関連を持って機能していたといわれている。
だが、肝心の山の上まで行ける道が見つからない。
山沿いを歩いていくと少し高い位置にそれらしき谷間があり、手摺と階段がついていた。
杭には「史跡 松葉町裏山チャシ跡」の文字。奥には立ち入り禁止の看板があって小さいダムのようになっていた。弧状の壕を巡らせてあるというが確認できず。山の上までは行けないのかな、と思いつつ辺りを見渡すと、右手の木の間に枯葉を少し踏み分けた道がついているのを見つけた。やや急だったが登れないこともない。
雨が降った後で滑りやすかった。枝に掴まりながらならなんとか進んだ。
少し広く平らになっているところに出た。腐って倒れた木製の看板があった。
振り向くと厚岸の街に船首が突き出たような地形になっていた。湖や港を眺めるのに良さそうな場所だ。
細い道を辿ってさらに坂を登って行く。
登り切ると平らになっていて、厚岸湖を背景にお供え山の看板が立っていた。時刻はちょうど14時ころ。午後の日差しが眩しく、風は強く寒かったがこんなに気持ちのいい景色はそうない。
(パークゴルフか何かの看板)
(?、何かの跡)
遠くに杭と看板が見えたので行ってみる。そこもチャシ跡(奔渡町裏山チャシ跡)であった。壕は濃い影を落としていた。まんじゅうのように盛られた土は一目見れば人工物の痕跡だとわかる。
背後が気になってふと振り返る。誰もいない。こんなに人がいないところに来たのはいつぶりだろう。クマでも出てきたらどうしようかと思って不安になり、大きい咳ばらいをしてみた。
(中央のくぼみは車が入ってくるための道)
「逆水松(さかおんこ)のチャシ跡」の看板が立っていた。この奥の森に町指定天然記念物の逆水松がある。樹齢約400年ともいわれ、厚岸のアイヌが阿寒と網走のアイヌと争いになり、留守を預かっていた老婆ツクニがこのチャシに立てこもり応戦するも防ぎきれず毒矢に倒れ、「我は死すともこの地を敵に渡さじ、神様何卒守り給え」と杖を地に突き刺したのが根を下ろした、という伝説がある。他にもいくつか伝説が残っているがいずれも誰かが突き刺した杖が出てくるという。道内の義経伝説には義経が放った矢や、地に突き立てた箸が大木になったという話もある。
木の間の道を歩き始めた瞬間、ガサガサーッと音がして、林の向こうの崖下に逃げ去るものがあった。どうもシカがいたらしい。
(逆水松)
シカが下って行った林の向こうには厚岸湖に浮かぶ赤い社殿が見えた。この牡蠣島弁天神社は既に1791(寛政3)年の書物に記載があり、弁財天座像は1852(嘉永5)年に場所請負人山田文右衛門が奉納したものだという。
引き返し、来た道とはまた別の道の先へ。この辿ってきた細い道は、よく考えたら普段シカが歩いている獣道なのではないか?、と、ようやく気付いた。
(奔渡町裏山チャシ跡を真横から見る。壕がよくわかる)
(ここは明らかに人が整備した道だ)
(シカ!)
歩いていくと道の先に「お供山展望台」が見えた。すると右脇の林からまたもやシカが2匹3匹と続けて飛び出してきて、目の前を横切って左手の草むらへ入っていった。驚かせてしまったようで、なんだか申し訳ない。ここには人は誰もいないかもしれないが、シカはいる。それもけっこうな数いる。シカの生活を邪魔してしまっているんだなと感じた。なんとなく、「ごめんね~」などと言いながら展望台へ。
展望台の右手には牡蠣島弁天社が、左手には厚岸大橋があり周囲を見渡せる。厚岸の首長だったイコトイもこのあたりから対岸を眺めたことがあっただろうか。標津町のタブ山チャシ跡もここに劣らず大規模で、オホーツク海を見ると眼前に国後島、右手に野付半島が連なっていて、水道の様子を見るのに絶好の地形にあった。
すぐ近くにもう一つチャシ跡がある。
その名も「鹿落しのチャシ跡」という。どうりでシカと会うわけだ。ここは狩りの時に崖にシカを追い落していたと伝えられ、骨も出土しているという。シカが食べたか誰が食べたか分からないが、牡蠣殻があった。新ひだか町静内のシャクシャインにも縁が深い「シベチャリチャシ」の壕の上にも橋が架かっていたのを思い出した。ここからだと厚岸大橋がほとんど真下に見えそうだ。
帰り道がどこかわからないので、とりあえず見つけた道を進んでみる。柵が付いているので、これは人間が作った道のようだ。けっこうな急斜面を下っていく。
途中、階段はあったがかなり急で、しかもところどころ腐って壊れていた。引き返すわけにもいかず、息を殺しながらすばやく通り抜けた。無事下り終えた最後に「腐食により階段の一部破損している箇所がありますのでご注意願います」の張り紙が。最初にこれを見つけていたらきっと山の上まで登らなかっただろう。
15時ごろ、無事下山し厚岸大橋を渡って駅の方へ。次は海事記念館を見学する。
3.海事記念館
海事記念館はその名の通り様々な漁の資料を中心に展示している。江戸時代のニシン漁、コンブ漁、鮭漁や、アサリ、昭和初期の捕鯨などについて。1850年に厚岸沖で座礁したイギリス籍のオーストラリア船イーモント号の残骸もあった。乗組員は救助され長崎経由で帰国したという。この船が出航した町とは姉妹都市提携が結ばれている。
二階へ。ちょうどプラネタリウム放映の時間だったので見てみた。秋の星座について勉強した。見上げた半球の空の端に描かれた街並みはちゃんと厚岸のそれだった。
(渡舟場)
(鯨の解体作業)
二階の一室は友好都市である山形県村山市のコーナーになっていた。村山市は最上徳内の出身地である。最上徳内略年譜まで配布されていた。
一階には古い絵ハガキの特集コーナーがあった。
閉館の17時より前には海事記念館を出て、道の駅へ。名物の牡蠣を使ったお土産を物色。外はすごい強風が吹いていた。
(寄れなかった牡蠣最中の店)
17時半には駅に向かい、17時56分発の電車で釧路へ戻った。へとへとで車内ではずっと寝ていた。
19時前には釧路駅に到着。ホテルへ直行。次の日に備え、適当にスーパーで買った弁当を食べてはやめに就寝した。
(終)