こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

【アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成 アーカイブ ワークショップ】 旅の記録①

 

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 3月15日から29日まで、「アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成 アーカイブ ワークショップ」というものに参加していました。

 

アートとリサーチ ワークショップ参加者公募 | さっぽろ天神山アートスタジオ

アートとリサーチワークショップ活動成果報告イベント | さっぽろ天神山アートスタジオ

 

 単純にいうと、リサーチと称してアーティストが北海道を旅し、それを記録していくというプロジェクトです。旅とその記録を中心としてレクチャーがある感じでした。成果物の発表込みで二週間でしたので、かなりのハードスケジュールです…。

 

 参加の記録については、ウェブページが立ちあがる予定になっています。ですが、記録としてこちらにも残しておくこととします(同じ内容を書いても面白くないので、ブログにはどちらかというとしょうもないことを中心に記事を書きます)。私が旅した期間は準備日も含んで3月20日から23日と短いですが、比較的無駄なく動けて充実した旅でした。

 日記的に文章をまとめました。いくつかの記事にわけてアップします。

 

 

 

2016年3月20日

 

 どこに旅に行くべきか迷っていたのだが、前日までに色々な人に相談した結果、函館と松前にした。

 今回の旅の目的は、「アイヌ絵」(和人≒北海道に住む大和民族、によって描かれたアイヌの絵。アイヌ偶像崇拝の禁止から、基本的に絵を描かないといわれている)をみることだ。函館は、古くから和人が住んでいた道南地方の情報が集約された都市らしいし、松前はまさに和人による北海道支配の拠点であった。そこに行けば何かあるだろう、という期待もあったし、何もなくても行っておく義務があると考えた。

 全体の予定としては、まず一日目は函館の博物館などを見て午後は図書館の資料を閲覧。二日目は松前に行って、もし必要があれば泊り、三日目はまた函館で、前日までに新たに得た情報を元に博物館などを見る、という風なつもりでいた。行き帰りは札幌函館間の高速バスを使う。

 

 函館市中央図書館には、幕末の北方関係資料がたくさんあることが分かっていたので、高速バスとホテルの予約をした後で、電話で図書館の閉架資料や貴重資料の閲覧申し込みをした。意外と簡単に済んだ。

 

 そこでカメラが問題になってくる。結局、デジタル一眼レフを買うことを決意した。この経緯に関しては前に以下の記事で書いた。

 

デジタル一眼レフと名付け - こたつ島

 

 閑話休題

 

 その後天神山に一度戻り、準備と夕食を済ませ、22時には出発。少しさみしい。数日後に戻ってくる時に僕は何かを得られているだろうか。

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 札幌市営地下鉄の大通駅で下車、バスセンターへ向かう。22時半には着いてしまった。「坂のA字クッキー」を食べながらバスを待つ。23時にはほとんど誰もいなくなった。f:id:kotatusima:20160504231500j:plain

 


 携帯見て遊んでいたらあっという間に出発5分前になった。急いで乗車。長時間の高速バスはわくわくする一方、乗車後の疲れを思うとげんなりする。
 23時50分、出発。寝る時間だ。途中、後ろの座席の親父のいびきが大きくて何度か起きたりしたが、だいたい寝た。3~4時間は寝られた。

 バスは一路、函館へ。

 

(続く)

 

2016.5.10 写真追加、文章構成大幅に変更、文章追加。

 

嗅書

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 本を使った趣味といえば、ほとんどの場合読書のことをさすだろう。しかし、読書以外にも本を使った趣味というものは存在する。
 例えば、本を集めること。署名本や初版本など、レアな書籍を集める人がいる。僕は面白そうな本をとりあえず買って、読まずにため込んでしまう癖があるので、趣味といえば本を読む「読書」ではなく、本を買う「買書」だ。本の収集というのも一つの趣味といえる。
 
 わざわざ古本屋で書き込みのある本を買ってきて、書き込みからいろいろな想像をして楽しむという趣味を持った人もいると聞く。これも読書の一種のように見えるけれど、普通の読書とは違う趣味といえる(しかし、ここで読まれているのは果たして本なのだろうか?)
 
 僕は、趣味というほどでもないが、古本の香りを嗅ぐ時がある。言うなれば「嗅書」だ。
 嗅ぐのは、古本の「匂い」ではなく、「香り」の方がふさわしいと思う。
 嗅覚で感じる対象をいうのに、「臭い」と「匂い」、「香り」というのがある(他に「薫り」というのもあるけれど、これは主に比喩的に使うらしい)。「匂い」でも悪くないのだが、「お香」のように嗅ぐイメージがあるので、そうなるとやはり「香り」でなくてはなるまい。
 本は一般に視覚や触覚によって享受されてきたメディアだろうから、嗅覚とは結びつけにくいかもしれない。しかし、ある古本屋では本の状態説明として、匂いがついていたことを書き添えていた。紙は匂いがつきやすいものなのだろう。
  
もちろん、好みの香りの本もあれば、そうでないものもある。僕が時々無性に嗅ぎたくなるのは、次のような本の香りだ。
 かつて札幌の狸小路にあったラルズというデパートで、年末年始など決まった時期に行われていた古本市があった。そこには台の上の枠に端から端までぎっちりと詰め込まれた一冊百円以下の文庫本コーナーがあった。高校生の僕はよくそのコーナーから本を選び出して買っていた。そこにある、天も地も小口も茶色くなってしまって、カバーの端も少し破れているような、薄い文庫本。大抵は新潮文庫で、内容は武者小路実篤の友情とか川端康成の雪国とか太宰治人間失格だったりする(実家には高校の頃買ったこれらの古本がまだあるはずだ)、そういう本の香りが、私は好きだ。
  
それは、甘い奥深い香りだ。言い換えれば、タバコの空き箱の中のような香り。もちろんタバコと違って火は使わないから、煙臭さはない。少しコーヒーのような香りでもある。
 書いていて気がついた。タバコとコーヒーといえば、子供が思う大人の嗜好品の代表のようではないか。僕にとって古本は少し大人に憧れた背伸びの意識とともにあったのかもしれない。
 
 いずれにしろ、僕が古本を買い集めて読み始めた当初は、単に知識を取り入れる以上に、香りも伴った一つの体験として古本があった。今でも時々古本を開いて香りを嗅ぎ、高校生の頃を思い出したりする。聞くところによると、匂いというのは記憶に残りやすいらしい。最近僕が文字に触れるのはもっぱらスマホの画面だ。それらをスクロールして読むことは、いい悪いではなく根本的にかつての読書経験と違っていると思うし、記憶の残り方も違うのではないだろうか。
スマホをいくら嗅いでも、なんの香りもしないから。
 
(終)
 

吉本ばなな「キッチン」(新潮文庫)

  新潮文庫吉本ばなな著「キッチン」を読む。

   「キッチン」の前編後編と、「ムーンライト,シャドウ」というのが入っている。

 

   初めてちゃんとした恋愛小説というものを読んだ気分。でも、男女の一対一の恋愛関係ばかりについて描いているのではなく、そこがすごく素敵だと思った。

   以前、帯に「女子が一番男子に読んで欲しい小説」とか「これが恋愛小説だ」みたいな文句の書いてある本を読んでみたことがあった。しかし大して面白くなかった。恋愛小説なんてこんなものかと思っていた。

 

  「キッチン」は読み応えがあって良かった。恋愛小説というものがこういう小説を指しているのなら、もっと読んでみたい。

    読んでいてちゃんと感情を揺さぶられた。人を愛おしく思うことについて、すごく伝わってくる。読んでいて疲れるくらい主人公の気持ちの上がり下がりや内実が丁寧に描かれている。

  あんまり具体性のない感想ばかり出てくる。とにかく感情を動かされたことだけ書き残しておきたい。

 

   人間に生まれて、小説を読んで感動できることに感謝したくなった。専門的な本ばかり読まずに、たまにはこういう読書も楽しみたいと思えた。

デジタル一眼レフと名付け

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 最近デジタル一眼レフを買った。買うまでなかなか決心がつかなかった。

 私は古い小さなデジカメをもっているのだが、画質がほとんど変わらないこともあって、普段はもっぱらスマホのカメラを使っている。

 今回、図書館に行って貴重資料を出していただくことになって、携帯のカメラで撮る訳にはいかないなと思った。ずっと欲しいと思ってはいたが、そういうきっかけがあってついに買ってしまった。
 といっても中古で、一眼レフとしては高額ではないと思われる。それでも今まで使っていた小さいデジカメよりは高価だ。久方ぶりの数万円単位の買い物だった。

 私はカメラに関してはずぶの素人なので、どれがいいとかいうことは知らない。ほとんど相場など調べず、中古のカメラ屋さんに行き、「何にも分からないので」と宣言し、以前、借りて使ったデジタル一眼レフの写真を見せて、「こういうのが欲しいんですけど良いのありますか?」と訊いて、主な用途は一応伝え、あとはプロにお任せする形にした。たまたま運よくカメラ本体とレンズがあって、組み合わせてもらった。値段的にも思ったより安い。デジタル一眼レフは人気で、入荷してもすぐ売れるとのことだったので、これ幸いと即決したのだった。店主はやさしい感じの人で、最低限の操作を教えてくれ、おまけでSDカードを付けてくれたりした。名刺を私に渡しながら「何かあったらいつでも電話を」と言ってくれた。ビギナーにはこれ以上心強い言葉はない。

 

 私は注意散漫で、持っているものを落としたり歩いていて電柱にぶつかったりすることの多いたちだ。だから、カメラという精密機械を買う際には一緒に丈夫な入れ物を買うのはもはや義務だ。

 中古カメラ屋にはカメラを入れるカバンはあまりなかったので、店主の勧めに従い、ヨドバシカメラに行った。買った中古カメラがニコンだったからというわけではないが、ニコンのブースに居た店員のおねえさんに声をかけた。

 

 おねえさんはおそらく本当にカメラが好きなのであろう、そして入社して日が浅いのであろう。かなり適当な敬語で友だちに話すみたいだったが、一生懸命にかばんを選んでくれた。「このメーカーは信頼できる」とかいろいろ言いながら、片っぱしからかばんの説明をしてくれた。

 私はカメラにフィットするサイズの小さいカメラケース(カバー?)にすれば良いと思っていたのだが、「絶対付属品が増えるから大きめのを買ったほうがいい」と熱弁された。それは営業トークでもあるだろうが、趣味人の本音でもあるだろうと思い、趣味の世界の先達に敬意を表して、考えていたのより大きめのにした。一緒にカメラにフイットするカバーも買った。

 

 よく「フィギュアは一個買うと増える」というのは聞くが、カメラや付属品もついコレクションしてしまうような類のものなのだろう。

 今までいろいろなモノをコレクションしてきた。でも飽きっぽくもあるので、いくつものコレクションに手をつけてはやめた前科がある。カメラをなかなか買えなかったのは、落として壊すことを恐れたのと、中途半端にコレクションしてしまうことを恐れたからだ。

 私のコレクション癖は、モノに愛着を感じる性分のせいだと思っていた。「物持ちがいい」とたまに他人に言われることがあるのはその証左だと思っていた。

 

 モノに愛着を持つということを行動で表すとすれば、名づけるということを私はイメージする。例えば「四畳半神話大系」では主人公が愛用のママチャリに名前をつけていた。それで私も自転車に名前を付けた覚えはあるのだが、すぐに何という名を付けたのかを忘れてしまう。数多のコレクションの対象に名前を付けた覚えもない。

 

 このたびデジタル一眼レフを買ったけれども、特に名前をつけようとは思わなかった。思いつかない。ヘンな話だが、大切に使うためには名前を付けた方が良いのかもしれないと思っているくらいだ。

 私は特にモノに愛着を感じる性分でも何でもないのかもしれない。私が「物持ちが良い」のは、愛着のせいではなく、たんなる無関心の結果かもしれない。

 

(未完)

五美大展で気がついた いくつかのこと

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 五美大展を初めて見た。

 

 改めて確認すると、多摩美大、武蔵野美大、女子美大、東京造形大、日大芸術学部が参加。国立新美術館で展示される他、各大学の大学美術館等でも卒展は行われる。五美大展は簡易縮小版と言ったところか?絵画や彫刻の展示のみで、デザインや映像、アニメの専攻の展示は無い。
 東京藝大が居ないのはまるで五山制度みたいだ。

 会場は作品数の割には広く感じたかもしれない。学校ごとに展示室の分け方が違っていて面白い。一番ゴミゴミして見えたのは造形大だった。割り当てられている面積が狭いのだろう。だが、手前味噌ながら、造形の作品は面白いもの、ヘンなもの、でかいものが多くてよかった。
 とにかく美大の卒業生が五美大だけで毎年これだけいるというのが驚きだ。

 面白かったのが、絵画や彫刻を専攻しているはずなのに、どこの大学でもモニターが一個か二個は必ずあって、アニメを展示していたこと。どこでもひねくれ者というか、変わった人はいるんだなと思った。もちろん映像作品や作品を記録した映像の展示もあったが、思っていたよりは少なかった。

 絵画が手堅かったのは多摩美だろう。造形も悪くない。女子美武蔵美も何点か記憶に残る作品があった。かといって手堅ければ良いというものでもないが。
 
 多摩の「毛抜き屋」の展示(作者名失念)みたいな、行為の記録の展示が少ないのが意外だった。他に多摩では「笑み」(二反田彩)の張り子の狗が謎。こういうヘンな作品をもっと見たい。
 武蔵美では「ユニコーンの買い物」「台風と犬(トリオ)」(脇田あおい)が不思議な世界観を打ち出していたが、この作家のように複数の作品を見せないと作家の世界観や思想などを深く読み込み考えることは難しいと感じる。その意味でやはり五美大展には無理がある。できれば各大学での広い会場の展示を見たいものだ。他には武蔵美の「今日の為の間」(田中佑佳子)がほとんど唯一、原発問題を扱った作品だったので記憶に残った。美大生はどこの学校でも政治性がなさすぎやしないかと感じる。
 女子美は岩本麻由さんの作品何点かと、丸森初音さんの構築物がおもしろかった。

 多摩美日本画では図録を、女子美日本画ではリーフレットを独自で配っていたのが不思議だった。日本画は別格の存在なのだろうか。他に女子美では日本画以外の卒業修了作品が載ったリーフレットを、日芸では絵画コースの卒業修了制作が載った冊子をもらった。

 もう何年か続けて見ると様々な傾向が分かってきて面白いのだろうと思った。

2016年 冬の札幌の展覧会 森山大道 NORTHERN (札幌宮の森美術館)


 1978年に北海道で撮られたモノクロ写真と、2009年から2010年にかけて撮られたカラー写真の展示。撮影風景のスライドや展覧会のトークショーの記録映像も見られる。
 感想を考えながら見ていたが、うまく言語化できない。わからないなりに感想を書くと、森山大道の写真は、何かを撮ろうとしているはずなのに、何かを撮っていると言いきれない感じがあるなと思った。風景を撮るのでも人物を撮るのでも物を撮るのでもなく、風景と人物を撮るのでもなく、人物と物を撮るのでも無い。レンズの前の光景の全てを撮っているように見えながら、何も撮っていないような感じもする。
 何点かすごく惹かれる作品があって、もはや宮の森美術館といえば森山大道だと私は勝手に思っているが、こうして定期的に森山大道を見に行くのも悪くないかもしれない。

2016年 冬の札幌の展覧会 映像ミュージアム フィオナ・タン ―どこにいても客人として― (北海道立近代美術館 講堂)  

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 毎年開催している映像ミュージアム。以前は文化の日に合わせていたが、移動したようだ。座席は6~7割埋まっている感じ。うーん・・・(もっと人が入ればいいのに)。
 フィオナ・タンはインドネシアの華僑の父とスコットランド系オーストラリア人の母の下に生まれアイデンティティや写真などの記録に関する映像作品を主に発表している。
 上映作品は、世界に散らばった親戚たちへのインタビューを中心にタンの父方のルーツをたどった「興味深い時代を生きますように」と、写真を用いるアーティストなどにインタビューしながらイメージや真実について考察する「影の王国」の二つ。
 
 またこの日は評論家・市原研太郎氏によるレクチャーもあった。
 内容としては、アジアとヨーロッパにルーツをもつタンのアイデンティティは、どちらに属しているとも属していないともいえるもので、作品中でも「プロの外国人」という表現があるように、「どこにいても客人」である。そのようなタンの作品は、アイデンティティのあいまいさを逆手にとってそこからの解放をめざしているように見え、多文化主義でありアイデンティティの確立が難しい今日には有効ではないかと考えられ、また、その曖昧さは、虚構と現実のないまぜになった今日の映像の状況とも関係し、フェミニズムの観点からも新しい女性像を描くものとして解釈できる、という話だった、と私は受け取った。
 短い時間ながら、タンの作品や関連作品も紹介され、たぶん厳密な議論ではなかったとは思うが(この点に関して来場者から批判があった)、タンの作品を考える上での大まかな参考になるレクチャーだったとは思う。