宗吾霊堂

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 (宗吾霊堂の塀にあった紋章)

 

  目次 

  

 1. 佐倉宗吾について

 2.宗吾霊堂までの道のり

 3.境内の様子

 4.宗吾御一代記館と宗吾霊宝殿

 5.本堂内部

 6.お土産

 

 1. 佐倉宗吾について

 

  

  義民・佐倉宗吾をご存じだろうか?

 「佐倉宗吾」とか「佐倉惣五郎」「木内宗吾」と呼ばれるが本名は木内惣五郎で、下総国印旛郡佐倉藩堀田家十一万石の領内の公津村(現・成田市)に1612(慶長12)年に生まれたという。

 寛永~承応年間(1624~1652頃)、佐倉藩領民は国家老による暴政と重税で大変苦しめられ、他国に逃げるもの餓死するものなど数知れず、ついに百姓一揆が起ころうとするときに、割元名主(名主より上、郡代や代官より下で村落の行政を担当する役人)であった惣五郎はそれを押しとどめ、各村々の名主を糾合し、代官屋敷へ訴えでるも門前払いにあい、江戸に上って佐倉藩の屋敷に訴えるも追い返され、幕閣の久世大和守広之に駕籠訴をするも聞き入れられず、ついに妻子を離縁したうえで宗吾一人での将軍への直訴を決意した。上野寛永寺に参拝の折の四代将軍家綱の傍に仕えていた保科肥後守正之によって訴状は取り上げられ、佐倉藩の実情は幕府の知るところとなり、領民は苦しみから解放された。だが、直訴はもちろん罪に問われ、翌1653(承応2)年、宗吾は磔、子供4人までも打首に処せられた。42歳であった。これらの行いが義民とされる所以である。

 のちに堀田家歴代当主は毎年8月3日の命日に祭典を行い、1752(宝暦2)年の百回忌には宗吾道閑居士の法号を追贈(以来、宗吾様と呼ばれるようになる)、1791(寛政3)年の百五十回忌には徳満院の三字を加えた石碑を寄進し、後に木内家再興も許した。

 宗吾父子が処刑された公津ヶ原刑場跡に墓所として築かれた宗吾塚が、後に宗吾霊堂となって今に至るのだという。

 

 以上は宗吾霊堂のパンフレットや冊子「実説佐倉宗吾伝」によっている。具体的な年号も入っているがこの話はあくまで伝承であり、だいぶ創作も含まれているだろう。ただそこにいくら創作が盛り込まれていたとしても、佐倉宗吾は今日紛れもなく信仰の対象とされ崇められ祀られている。

 その実際を見に行って来た。

 

 2.宗吾霊堂までの道のり

 

 2017.12.3.

  

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 日暮里から京成電鉄に乗って特急で成田方面へ向かう。1時間ほどで「宗吾参道」駅に着く。改札を出て右へ進み階段を降りる。あたりは住宅や畑ばかりで目立ったものは特にない。

 

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 少し歩くと左手に上り坂があり、道の両脇に灯篭が立っている。ここを上っていけばよい。

 

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 「義民ロード」(!)というらしい。宗吾霊堂から2キロ先にある宗吾旧宅では今も子孫の方が農業を営んでいるのだとか。

 

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 案内板によれば、佐倉宗吾は「農民の神様」として崇められているのだ。ここはまだ酒々井町だが宗吾霊堂成田市にある。

 

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 坂をずっと上っていく。天気が良い日だった。看板などないので少し不安になる。とにかく道なりに突き当りまで進み、右に曲がるとこのような道に出る。まだ宗吾霊堂は見えない。

 

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 左手にあったのは「宗吾郵便局」。この辺の地名を「宗吾」というらしい。

 

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 右折してまっすぐ進んだ道の突き当りの交差点に門があった。ここだ。参道の向こうに山門が見える。

 

  宗吾霊堂というのは通称で、正式には「真言宗豊山派別格大本山鳴鐘山東勝寺」という。総本山は長谷寺。もとは平安時代に房総を平定した坂上田村麻呂戦没者供養のために建立したのが始まりで、創建1000年以上になるが、その由緒を示すような目立つものは見当たらなかった。ここは本尊も大日如来ではなく宗吾様である。ホームページには今の場所に移ってからの宗吾霊堂は約350年とあるが、これはたぶん宗吾の処刑から数えたのだろう。

                         (宗吾霊堂公式サイト

 

 3.境内の様子

 

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 まだ朝の9時過ぎ、土産物屋は開いていなかった。

 

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  手水舎。宗吾霊堂はどの建物もけっこう千社札が貼ってあった。

 

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 これが宗吾父子の墓である。立派だ。大名クラスの墓でもここまで立派なのはなかなか無いのでは。ここがまさに刑場の跡地なのだという。 早速お線香をあげた(100円)。

  

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 参道の土産物屋の裏手には寄進した金額と氏名が彫られた石碑がいくつも立っていた。境内でもそこらじゅうに石碑があった。

  

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 石碑の間から三毛猫が出てきた。

 
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 大山門(仁王門)。 1978(昭和53)年施工。仁王像は身の丈8尺8寸(2.6メートルくらい)で鋳造金箔仕上げ。楼上安置仏の聖観世音菩薩像は高村光雲作。

  

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 山門をくぐると正面に大本堂、右手に鐘楼、左手手前に総合受付所がある。辺りには「七五三詣で」の赤い幟がいくつか立っていた。まず鐘楼へ。

  

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 「カレーの碑」らしい。詳細は案内看板の文字が消えていて分からなかった。

  

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 石碑だらけ。

 

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 鐘楼。彫刻が立派だった。

 
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 鐘楼の上から。

  

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 やはり石碑や灯篭がたくさんある。平成20年代に入ってからのような最近立てられた石碑でも、「○○宗吾講」「○○義民講」と彫られているものがちらほらあった。そういう講の活動がまだ各地で行われているのだ。

 

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 本堂の手前右手に薬師堂がある。ここが一番千社札や額がたくさんあった。

 

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 纏が描かれた奉納物が散見される。土産物屋のおばちゃん曰く、宗吾霊堂は消防や鳶、木遣りなど危険な仕事に従事する人の信仰が特に篤いのだという。

 

   

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 由緒を示した看板には、宗吾が祀られるまでの経緯に続いて「即ちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が諸願成就を御祈祷し、現世のご利益を授かるのであります」とあった。「宗吾精神」ってすごい言葉だ。

 「毎月三日は宗吾様の命日。九月三日は祥月命日」らしい。ふと考えてみると、今日はまさに宗吾様の月命日だ。これも何かの縁かもしれない。

  

 大本堂は1921(大正10)年の建築。旧本堂は1910(明治43)年に火事で焼け、直ちに仮本堂が建立されたが、これが現在の薬師堂である。扁額「宗吾靈」は徳川家達(1863~1940)による。やはり将軍に直訴した縁からだろうか。家達は田安家出身なのでもちろん直系ではないが、徳川宗家16代当主だ。

 本堂の内部は祈祷がなければ参拝できる。この時はちょうど祈祷の直前だったため、後回しにした。

 

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 本堂裏手へ。

 

 4.宗吾御一代記館と宗吾霊宝殿

 

 宗吾御一代記館は宗吾の事績を等身大の人形66体13場面に再現した施設。宗吾霊宝殿は宗吾の遺品と伝わるもの等を展示。入場料は二館共通で700円とちょっと高め。

 

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 まず宗吾御一代記館へ。手前の日本庭園は信徒が寄進したものだそうだ。

 入り口には昭和を感じる鋳物の虎の置物などが売られていた。掃除はされているようで観覧には支障ないけれど古い建物だからだろう、かなり寒かった。太宰府天満宮でも菅原道真の生涯を博多人形で再現していたがほとんどが等身大ではなかった。この「人形で再現する」という一つの文化?が気になる。流行った時期があったのだろうか?

 それぞれの場面にボタンがあり、捺すと解説音声が流れる。芸者で遊ぶ家老から始まり、困窮を極める農民たち、一揆を防ぐ宗吾、名主たちと相談する宗吾、などなどが目の前に展開される。特に直訴を前にして甚兵衛という渡し守に助けられる場面や、親子の別れの場面、将軍に直訴する場面が見どころ。終盤、むしろに座らされ処刑されようとする宗吾父子の前には来場者が投げたであろう小銭がいっぱい散らばっていた。

 堀田家が宗吾を葬い祀ったのは、宗吾の怨霊が堀田家を呪い、奥方の変死や藩主正信の狂気と改易となって表れたから、ともいう。僕の中での佐倉宗吾のイメージも、まさに歌舞伎に出てくる怨霊の姿だった。しかし、展示物やパンフレットでは藩主堀田家ではなく家老による悪政が強調されているように思えた。これは名誉回復を行なった堀田家に対する遠慮なのだろうか?

 

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 次に宗吾霊宝殿へ。建物は金刀比羅宮の宝物館を思い出させる。雰囲気はあるが、ここも寒くてあまりいい環境ではない。展示物も一応ケースに入っているものの手入れや整理はされていないようであった。宗吾一族の遺品や、浮世絵、奉納されたと思しき彫刻作品から、封筒に入ったままの書類の山、須恵器、甲冑、著名人が書いた「義」の色紙などなど。バラエティ豊かというよりは雑多な印象。これで金取るのか~というくらい。

 

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  石碑に宗吾様の姿があった。帯刀せず、総髪で髭を生やし、手には巻物、袴履きである。

 

 本堂に戻って建物内を拝観する。

 

 5.本堂内部

 

 本堂は薄暗く、様々な仏の姿を描いた掛け軸が下がっていた。中央の沙弥壇に宗吾様の尊像を安置した厨子が、左右には4人の子供を祀ってある。他にもいくつか神仏がお祀りしてあり、沙弥壇の左手から裏手に入って右手に抜けて参拝できる。左横には虚空蔵菩薩がお祀りしてあり、その手前には宗吾と行動を共にした5人の名主の小さな像が並んでいる。皆総髪でそれぞれの手は印を結んでいる。沙弥壇の真裏には夢想出現大黒天が祀ってあり、マラソン選手の高橋尚子がよくお参りに来ていたらしい。大黒天とマラソンに何か関係があるのだろうか。一時期はお守りを高橋選手が身に着けていたとかで、ずいぶん参拝客で賑わったらしい。

 

 本堂の向かって左横の壁際に、膝ぐらいの高さの夫婦と思しき男女の木像があった。彩色はされず着物などはのみで大づかみに彫った跡も適度に残り、技術的に達者な作品だと感じた。女性は日本髷に和服、男性は短く撫でつけた髪に羽織袴の姿で、二人とも正座をして合掌し前を見据えている。はじめは宗吾夫妻の木像かな?とも思った。小さな看板には次のように書いてあった。

 

 「当山御篤信 旧東京市京橋区入舟町在住 岡田秀治郎 つる 殿御夫妻の像 昭和初年 ご奉納」「宗吾尊霊を崇信すること殊の外篤く 多額の浄財を寄進せられ、且永世にわたり 宗吾尊霊を礼拝せんと願い自らを木像に刻し後世も崇拝を続ける志を伝えるもの也」

 

 信仰心によって自らの姿を木に彫らせ、死後も信仰を続けようとする。そこまでの信仰心とはいかなるものだったか。この彫刻はいったい何なのか。モノを形作ることの厳粛な根源を見せられたような気持ちになった。

 

 6.お土産

 

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 帰りにお土産屋に寄った。だるまやまねき猫、せんべいなどの他、「開運宗吾山」と書いた緑色の湯飲みや鉢に目がいった。胴が二重の構造になっており、桜の透かし模様や筆の勢いのまま描いたような馬の絵もなかなか良い。

 

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 お土産屋のおじさんによれば、これは相馬焼という福島県の焼き物で、今は原発事故のせいで土の質が変わってしまったとかで作られていない焼き物なのだ、ということだった。ちょっと調べてみると、やはり焼き物の協同組合は移転を余儀なくされ、放射能汚染で釉薬の採掘ができなくなって廃業に追い込まれそうになったが、同じ発色をする釉薬を開発して今も販売されているようだ。(参考→大堀相馬焼 - Wikipedia大堀相馬焼 松永陶器店

 この焼き物はタイムカプセルのようにお土産屋に取り残されたのだといえるかもしれない。

 

 おまけだと言っておじさんがくれたおせんべいを食べながら、宗吾霊堂を後にした。

 

 

 (終)

厚岸日記②

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 (正行寺本堂内) 

 

 の続きです。道東の厚岸町へ行ってきました。午後からは正行寺へ。以下の記述はパンフレット等のほか、「北海道開拓と本願寺道路」(弥永芳子著、弥永北海道博物館 、1994年)、「アイヌ社会と外来宗教ー降りてきた神々の様相」(計良光範著、寿郎社、2013年)を参考にしています。

 

 目次

 

 1.正行寺

 2.お供え山チャシ跡群

 3.海事記念館

 

 

 

 2017.11.11. ②

 

  1.正行寺

 

 下調べをしていた時に、厚岸のようなそう大きくはない漁師町に重要文化財のお堂があると知ったときは驚いたが、本当にあるのである。(むしろ、町の大小に関わらず一般的に漁師町では文化を大事にする傾向を感じることの方が多いかもしれない)。

 正行寺は道東エリアで初めて重要文化財に指定されたのだとか。(正行寺のホームページ→寺宝・文化財 | 正行寺

事前に連絡をしておけば無料で見学できる。

  

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 国泰寺通りを厚岸大橋に向かって引き返すと途中右側に小さな看板が立っている。そこを曲がると立派な三門が見えてくる。鐘楼や忠魂碑を見ながら進むと本堂が左手にあった。鐘楼も本堂と同じくらい歴史ある建築で1908(明治41)年のもの。

 

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 正行寺は正式には真宗大谷派正行寺といい、東本願寺を本山とする。(ちなみに西本願寺を本山とするのは浄土真宗本願寺派)。 1879(明治12)年に厚岸説教場が開設されたのがお寺の始まりだ。重要文化財の本堂は、1799(寛政11)年に新潟県糸魚川市の満長寺本堂として建てられ、1909(明治42)年に解体、輸送、移築し、翌年竣工、翌々年落慶法要が行われた。

 そもそも東本願寺徳川家康の時代から江戸幕府の庇護を受け、西本願寺は朝廷と親密だった。幕末、西本願寺尊王論者と交流を深め、尊王攘夷を鮮明に打ち出していた。戊辰戦争の際は東本願寺は朝廷に反逆するらしいという噂が流れ、あやうく新政府軍の焼き討ちに遭いそうにもなった。

 財政困難の新政府は、北海道開拓を東本願寺に依頼した。東本願寺は旧幕府時代の教線(江戸時代の北海道では、浄土真宗については最も早く開教した東本願寺派の専念寺にのみ松前藩が開教を許可、西本願寺派は永く許されなかった)を守りつつ、新政府への忠誠を示し教区の拡張も目論み、依頼を受け、いわゆる本願寺道路を開き宗門道場を建設した。函館と札幌をつなぐ道路の中でも本願寺街道と呼ばれる今の札幌市と伊達市をつなぐ道路の開削は特に難工事であり、行政上も重要な道路であった。このようなことから、真宗大谷派(=東本願寺派)は北海道と縁が深いといえ、その流れの中にこの正行寺もあるのだろう。

 

 閑話休題

 

 この日は檀家さんの集まりがあったようで、おばあちゃんたちがぞくぞくやってきていた。本堂に隣接した寺務所らしき建物に入っていくと、すでにお寺の方が待っていてくださっていた。絨毯が敷き詰められた廊下の先は本堂につながっている。ぱちぱちと手際よくスイッチが点けられ、金と極彩色で飾られた欄間や内陣が照らされた。

 

 

 

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 (参詣間から内陣を見る)

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(中央の欄間、極彩色の牡丹と天女)

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(向かって左の欄間、未彩色の牡丹と天女)

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(向拝部分の彫刻)

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(桜鶏図板戸)

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(内陣)

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(木鼻部分の象鼻)

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(象鼻)

 

 本堂の中にはパネルが何枚かあって、見どころの解説があった。

 確かに立派で綺麗な建物である。しかし、そこに感嘆するだけではなく、この建物がここにある意味を考えたい。建物を新潟からわざわざ買って持ってきて北海道に合わせた改修を施したこと、移築当時の資料が残っていることなども文化財指定の理由だそうだ。東本願寺そのものの力に加え、門徒にそれを支えられるだけの力があったことも想像できる。江戸時代には東蝦夷地一番の賑わいを見せていたともいう厚岸はかつてどのような姿だっただろうか。

  

 

 

 13時半頃まで見学し、次の目的地へ。 お供え山チャシ跡群のある標高79メートルのお供え山へは徒歩数分。

 

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(あ!シカがおる!!)

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 数匹のシカが街中で草を食んでいた。森の中の道路を車で走っていればシカと出会うことはよくあるのだが、あまりにごく自然に風景に溶け込んでいたので気付いた時には驚いて声をあげてしまった。

  

 

 

 2.お供え山チャシ跡群

 

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 「お供え山チャシ跡群」の看板はすぐ見つかった(日蓮宗法華寺の横にある)。ここは17~18世紀の町指定史跡で、北側の「鹿落しのチャシ跡」、東側の「逆水松のチャシ跡」と「奔渡町裏山チャシ跡」、西側斜面の「松葉町裏山チャシ跡」の四か所が同じ時代に関連を持って機能していたといわれている。

  だが、肝心の山の上まで行ける道が見つからない。

 山沿いを歩いていくと少し高い位置にそれらしき谷間があり、手摺と階段がついていた。

 

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 杭には「史跡 松葉町裏山チャシ跡」の文字。奥には立ち入り禁止の看板があって小さいダムのようになっていた。弧状の壕を巡らせてあるというが確認できず。山の上までは行けないのかな、と思いつつ辺りを見渡すと、右手の木の間に枯葉を少し踏み分けた道がついているのを見つけた。やや急だったが登れないこともない。

 

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 雨が降った後で滑りやすかった。枝に掴まりながらならなんとか進んだ。

 

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 少し広く平らになっているところに出た。腐って倒れた木製の看板があった。

 

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  振り向くと厚岸の街に船首が突き出たような地形になっていた。湖や港を眺めるのに良さそうな場所だ。

 

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 細い道を辿ってさらに坂を登って行く。

 

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 登り切ると平らになっていて、厚岸湖を背景にお供え山の看板が立っていた。時刻はちょうど14時ころ。午後の日差しが眩しく、風は強く寒かったがこんなに気持ちのいい景色はそうない。

 

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パークゴルフか何かの看板)

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(?、何かの跡)

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 遠くに杭と看板が見えたので行ってみる。そこもチャシ跡(奔渡町裏山チャシ跡)であった。壕は濃い影を落としていた。まんじゅうのように盛られた土は一目見れば人工物の痕跡だとわかる。

 

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 背後が気になってふと振り返る。誰もいない。こんなに人がいないところに来たのはいつぶりだろう。クマでも出てきたらどうしようかと思って不安になり、大きい咳ばらいをしてみた。

 

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 (中央のくぼみは車が入ってくるための道)

 

 

 

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 「逆水松(さかおんこ)のチャシ跡」の看板が立っていた。この奥の森に町指定天然記念物の逆水松がある。樹齢約400年ともいわれ、厚岸のアイヌが阿寒と網走のアイヌと争いになり、留守を預かっていた老婆ツクニがこのチャシに立てこもり応戦するも防ぎきれず毒矢に倒れ、「我は死すともこの地を敵に渡さじ、神様何卒守り給え」と杖を地に突き刺したのが根を下ろした、という伝説がある。他にもいくつか伝説が残っているがいずれも誰かが突き刺した杖が出てくるという。道内の義経伝説には義経が放った矢や、地に突き立てた箸が大木になったという話もある。

  

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  木の間の道を歩き始めた瞬間、ガサガサーッと音がして、林の向こうの崖下に逃げ去るものがあった。どうもシカがいたらしい。

 

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(逆水松)

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 シカが下って行った林の向こうには厚岸湖に浮かぶ赤い社殿が見えた。この牡蠣島弁天神社は既に1791(寛政3)年の書物に記載があり、弁財天座像は1852(嘉永5)年に場所請負人山田文右衛門が奉納したものだという。

 

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 引き返し、来た道とはまた別の道の先へ。この辿ってきた細い道は、よく考えたら普段シカが歩いている獣道なのではないか?、と、ようやく気付いた。

 

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(奔渡町裏山チャシ跡を真横から見る。壕がよくわかる)

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 (ここは明らかに人が整備した道だ)

 

 

 

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(シカ!)

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 歩いていくと道の先に「お供山展望台」が見えた。すると右脇の林からまたもやシカが2匹3匹と続けて飛び出してきて、目の前を横切って左手の草むらへ入っていった。驚かせてしまったようで、なんだか申し訳ない。ここには人は誰もいないかもしれないが、シカはいる。それもけっこうな数いる。シカの生活を邪魔してしまっているんだなと感じた。なんとなく、「ごめんね~」などと言いながら展望台へ。

 

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 展望台の右手には牡蠣島弁天社が、左手には厚岸大橋があり周囲を見渡せる。厚岸の首長だったイコトイもこのあたりから対岸を眺めたことがあっただろうか。標津町のタブ山チャシ跡もここに劣らず大規模で、オホーツク海を見ると眼前に国後島、右手に野付半島が連なっていて、水道の様子を見るのに絶好の地形にあった。

 すぐ近くにもう一つチャシ跡がある。

 

 

 

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 その名も「鹿落しのチャシ跡」という。どうりでシカと会うわけだ。ここは狩りの時に崖にシカを追い落していたと伝えられ、骨も出土しているという。シカが食べたか誰が食べたか分からないが、牡蠣殻があった。新ひだか町静内のシャクシャインにも縁が深い「シベチャリチャシ」の壕の上にも橋が架かっていたのを思い出した。ここからだと厚岸大橋がほとんど真下に見えそうだ。

 

 帰り道がどこかわからないので、とりあえず見つけた道を進んでみる。柵が付いているので、これは人間が作った道のようだ。けっこうな急斜面を下っていく。

 

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 途中、階段はあったがかなり急で、しかもところどころ腐って壊れていた。引き返すわけにもいかず、息を殺しながらすばやく通り抜けた。無事下り終えた最後に「腐食により階段の一部破損している箇所がありますのでご注意願います」の張り紙が。最初にこれを見つけていたらきっと山の上まで登らなかっただろう。

 

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 15時ごろ、無事下山し厚岸大橋を渡って駅の方へ。次は海事記念館を見学する。

 

 3.海事記念館

 

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 海事記念館はその名の通り様々な漁の資料を中心に展示している。江戸時代のニシン漁、コンブ漁、鮭漁や、アサリ、昭和初期の捕鯨などについて。1850年に厚岸沖で座礁したイギリス籍のオーストラリア船イーモント号の残骸もあった。乗組員は救助され長崎経由で帰国したという。この船が出航した町とは姉妹都市提携が結ばれている。

 

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 二階へ。ちょうどプラネタリウム放映の時間だったので見てみた。秋の星座について勉強した。見上げた半球の空の端に描かれた街並みはちゃんと厚岸のそれだった。

 

 

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(渡舟場)

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(鯨の解体作業)

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 二階の一室は友好都市である山形県村山市のコーナーになっていた。村山市最上徳内の出身地である。最上徳内略年譜まで配布されていた。

  

 

 

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 一階には古い絵ハガキの特集コーナーがあった。

 

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 閉館の17時より前には海事記念館を出て、道の駅へ。名物の牡蠣を使ったお土産を物色。外はすごい強風が吹いていた。

 

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(寄れなかった牡蠣最中の店) 

 

 17時半には駅に向かい、17時56分発の電車で釧路へ戻った。へとへとで車内ではずっと寝ていた。

 19時前には釧路駅に到着。ホテルへ直行。次の日に備え、適当にスーパーで買った弁当を食べてはやめに就寝した。

 

 (終)

 

 

 

 

 

厚岸日記①

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(厚岸大橋) 

 

 

 厚岸に行ってきました。牡蠣が有名な町ですが、文化財も多くあります。以下の記述の一部は「北海道開拓と本願寺道路」(弥永芳子著、弥永北海道博物館、1994年)を参考にしています。

 

 

 

 目次

 

 1. 厚岸までの道のり

 2. 厚岸町郷土資料館

 3. 国泰寺

 4. 厚岸神社

 5. 昼食

 

 

 

 2017.11.11.

  

 1. 厚岸までの道のり

 

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 まず夜行バスで札幌から釧路へ。朝の5時過ぎに到着。大雨。先行きが心配になる。ひとまずバスセンターへ駆け込む。雨が落ち着いてから釧路駅の中へ行ってみる。まりもがいた。まりものいる阿寒湖で有名な阿寒町市町村合併釧路市の一部になっている(2005年~)。釧路駅内のセブンイレブンで朝食を買って食べ、風邪薬を飲んだ。外はだんだん晴れてきた。

 

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 厚岸までは8時18分発の根室行きワンマン列車で1時間ほど。大学生らしき男女のグループ4、5人の他、何人か乗って出発。途中の駅でも何人か乗降があった。

 小麦色の草原が風に揺れて広がっている様を眺めながら電車はすすむ。

 

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 急に海が目の前に現れた。太陽がまぶしい。向こうに島のようなものが見える。と、すぐ厚岸駅に到着。時刻は9時を少し過ぎたくらい。 ピンクの陸橋には「ようこそ花と味覚と 歴史のまち あっけし」の文字。盛りだくさんだ。駅構内にはこれから目指す国泰寺の葵の紋が刻まれた石もあった。代表的な観光地なのだろう。

 

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 この日はまず国泰寺と隣接する厚岸町郷土資料館に向かい、そのあと正行寺、時間があればチャシ跡を見て、最後に海事記念館を見学する計画だ。

  

 駅で国泰寺方面へ向かうバスの時間を尋ねたが、どうやら出発してしまったばかりのようだった。仕方なく歩いて向かうことにする。空は晴れているが、風がやたらと強く、雲行きは少し怪しい。

 厚岸はS字に入り組んだ湾を真っ赤な厚岸大橋がまたいでおり、海側が厚岸湾、その奥が厚岸湖となっている。街は橋を挟んで内陸側の湖北地区と対岸の湖南地区に分かれており、国泰寺などがあるのは湖南地区だ。JRの車内から見えた島影のようなものはおそらく対岸の湖南地区だったのだろう。

 駅前通りを左にまっすぐすすみ、商店や役場、後で見学する海事記念館を通り過ぎて厚岸大橋まで15分くらい。

 

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 (厚岸大橋の上から)

 

 橋の横にある港では海鳥がトラックの周りを飛び回っていた。肩にかけたカメラバッグが吹っ飛ばされそうになるくらいの強風が横から吹いてくる。まっすぐ進めない。小雨が降っているのか波の飛沫がかかっているのか分からない。橋を渡り終えると風が少し落ち着いてきた。

 

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 またまっすぐ歩いていく。普通の住宅に交じって古い商店が目につく。国泰寺通りというらしい。

 20分くらい歩いた突き当りを右に曲がると鳥居が見えた。国泰寺と並んで建っている厚岸神社であった。ここが第1の目的地。

 

 

 

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 2. 厚岸町郷土資料館

 

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 10時頃から、先に国泰寺に隣接する厚岸町郷土資料館を見る。入館料大人100円。寒くて古めかしい小さな建物だが、展示物は興味深い。続縄文時代の土器や、町内の遺跡から発掘された牡蠣殻、東蝦夷地の中でも最も古くからアイヌと交易が行われてきた「アッケシ場所」についての資料、幕末の北方探検の拠点となっていた厚岸を訪れた最上徳内近藤重蔵の紹介、国泰寺や神明宮(現・厚岸神社)の資料、近代の牡蠣の養殖に関する資料などが展示されていた。

 

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 (資料館内の様子)

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 (牡蠣殻)

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(1844年、フランス船が漂着した際の記録。場所支配人池田儀右衛門の子孫所蔵。)

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1855年から厚岸は仙台藩の警備区域になった。仙台藩士が奉納した絵馬)

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仙台藩士が残したらしき矢筒)

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 最上徳内は晩年のシーボルトとの交流も有名な探検家であり幕臣。「夷酋列像」に描かれた厚岸の首長イコトイの協力で1786年に国後島択捉島を検分し、初めてロシア人南下の詳細を調査している。1791年には厚岸に神明宮を建立(今の厚岸神社)。1805年には遠山景晋(遠山景元の父)に従い西蝦夷地を案内している。他にも数回蝦夷地、樺太に渡っている。

 近藤重蔵は幕府に蝦夷地の処置および異国境取り締まりについて建議を行い、1798年蝦夷地調査の任を受け、最上徳内らの上司として国後島から択捉島に渡り、大日本恵登呂府の木柱を択捉島丹根萌の丘に立てている他、数度蝦夷地を探検、各地に赴任している。国後島択捉島の探検によりアイヌキリスト教を信仰していることを知った重蔵が平取に建てた祠が現在の義経神社である。

 

 

 

 3. 国泰寺

 

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 国泰寺(臨済宗鎌倉五山派景雲山国泰寺)は江戸幕府が1804年に蝦夷地に3か所設置した寺院(蝦夷三官寺と呼ばれる)のひとつ。ロシアの南下に対し北方の警備にあたる諸藩兵や幕吏の葬礼や供養のため、また千島のアイヌキリスト教を信仰していたことへの対抗として仏教の布教や撫育を行うための施設だった。特に歴代住職による60年間に及ぶ記録「日鑑記」は当時を知る資料として貴重だ。

 

 国泰寺の山門は資料館のすぐ隣にある。境内は松の葉が散っていかにも寒々しい。建物自体は創建当時からのモノではないが、どこか風格が感じられた。山門のわきには「アイヌ民族弔魂碑」が。

 

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(仏牙舎利塔。1842年設置。場所請負人などの名前がびっしり彫られていた。)

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(本堂。中には地獄を描いた掛け軸や、米内光政、東久世通禧の筆らしき書が。)

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(境内のあちこちに葵の紋があった。)

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 本堂裏手の丘を上ると馬頭観音堂があり、その坂のさらに上に竜王殿があった。横には魚魂碑。すぐ近くに神明宮跡を示す看板があった。この丘の上に、かつてアイヌ撫育と教化のため最上徳内が神明宮を建て、後に近藤重蔵が改修した。

 

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(シカのフン?いっぱい落ちていた。)

 

 

 

  4. 厚岸神社

 

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 国泰寺のすぐ横に急な長い石段があり、それを登り切ると厚岸神社がある。もともと神明宮といい、さきほど訪れた竜王殿のあたりに、はじめ最上徳内が建立した。

 ここの狛犬は少し風化していてなかなかいい顔でいい体つきだ。「行幸記念」と台座にあり、昭和11年昭和天皇が北海道各地を巡幸した際奉納されたらしい。

 

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 近藤重蔵による碑文の碑とその現代語訳の看板があった。もとの碑はどこに行ったのだろうか?現在の碑は平成3年に厚岸神社鎮座200年を記念し復元されたらしい。神社の本殿の中には何枚かの絵馬や、「舩魂神」と書かれた扁額、最上徳内肖像画などがあった。

 

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 (神社から対岸を眺める)

 

 

 5.昼食

 

 12時前には厚岸神社を後にし、昼食タイム。といってもそんなにお店があるわけではない。来た道を戻りつつ目についた食堂に入る。クッキング食王様(?)とはなんだかこころ強いネーミングだ。 店内は半分は普通の民家のような、よく言えばアットホームな感じ。食事をしていると後から地元の人がぞくぞく入ってきた。

 

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 (皮かしわラーメン、750円)

 

 

 

 「クッキング食王様 かさ嶋 幸栄丸」の皮かしわラーメンは雑誌などで紹介されたこともあるそうで(店内にそれらしき記事も貼ってあった)、元は厚岸町内の玉川本店というお店からレシピを伝授された一品らしい。なんとウニがついてきた。普段はここまでたくさんのトッピングは付かないそうで、ラッキーだった。ラーメンは魚介系のスープかと思うが、鶏の油の甘味が強くでていた。鶏皮のコリコリとした食感が私の好み。人によっては少し脂っこく感じるかもしれない。エビやウニをラーメンにトッピングして食べるのは漁師町ならでは。大変贅沢だった。

 

 

 おなかもいっぱいになったところで、重要文化財の本堂がある正行寺に向かう。

 

 

 (へ続く)

 

 

 

  

 

ヨコハマトリエンナーレ2017の個人的感想②

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(BankARTstudioNYKから赤レンガ倉庫を見る)

 

 

  

 の続き。

 「BankARTLifeV 観光」と同時開催の「日産アートアワード2017」、ヨコトリの横浜赤レンガ倉庫1号館会場、「黄金町バザール2017」の一部について、特に気になった作品のみ感想をかきたい。

 

 

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 まずは移転が決まっているBankARTstudioNYKへ。二階では現代アートの登竜門的な「日産アートアワード2017」が開催されている。ファイナリスト5名の作品を展示。これはヨコトリの関連企画ではない。2名について軽く紹介。

 

 

 

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 石川竜一 「homework」(部分)

 

 石川竜一さんは生まれ育った沖縄で撮影した自分の暮らす部屋の写真と米軍機の写真をならべていた。まさに日常と地続きのところに基地問題がある、なんて敢えて言うのも野暮かもしれない。これをどう展開していくのか?

 

 

 

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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  藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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  藤井光「日本人を演じる」 部分

 

 

 

 やはりグランプリを受賞した藤井光さんの作品 「日本人を演じる」が別格の印象。

 タイトルは欧米の「帝国の視線」を「輸入」した日本人を演じる、という意味らしい。

(藤井さんのワークショップについて一部記載⇒ http://artscommons.asia/wp-content/uploads/2017/09/annual_2016-2017_2.pdf

 この作品は、いわゆる「人類館事件」をテーマとしたワークショップの記録である。

 男女十名ずつくらいの参加者の素性は明らかにされないが、多くは日本人と自認する黄色人種の人が集められたようだ。一人だけ日本で育ったけれど韓国人だと自認する女性がいた。人類館事件当時の新聞記事を読んでディスカッションしたり、「日本人っぽい」「日本人っぽくない」という順序で、参加者同士を並べ替えている様が撮影されている。当時のアイヌの演説を再演し演技指導する場面もあった。現代でも沖縄に対する差別が続いていることや、顔が濃いとされ日本人っぽくないとされがちな縄文人(をルーツに持つ人)こそがもとから日本に住んでいたのだから生粋の日本人である、ということなどが話されていた。どの参加者も真剣に考え発言している様がうかがえた。口論などはなく、面と向かってはっきりと差別的な言動をしている様は見受けられなかった(カットされていたのかもしれない)。

 古代から続いているともいえる日本の中のマイノリティ差別の問題について知識として深く掘り下げて反省するというよりは、ありもしない「日本人」という虚像を演じ、かつての振る舞いを真似ることで、改めてそれを無効化しようとするワークショップだったのだろうか。

 

 まずこの作品について言わなければならないのは、差別的な言動がヘイトスピーチSNSでの過剰な反応で可視化されている現在、このような題材で作品を作ることは大変意義深く、その点では受賞も納得であるということだ。こういう題材の作品がもっと増えてもいいし、こういうことにアーティストが関わっていかないでどうするのかとさえ思う。

 それはそれとして、疑問に思うところもあったので少し考えたい。

 このような一般人を集めてワークショップをした様子を撮影した作品の場合、参加者は自然とアートに何らかの関りをすでに持っていて知識もあり、ディスカッションにも積極的に参加し、しかも社会問題にも意識が高い人になってしまうと想像する。そのせいか分からないが、参加者の発言にどうしても「言わされている感」を覚えてしまった。タイトルの「演じる」は、まさか「意欲的で行儀のいい参加者」を演じる、という意味ではないだろう。この「言わされている感」をどう考えるべきか、それは横に置いておいていいのかどうか、という点がひとつ。

 ステートメントによれば、この作品が問うているのは「植民地主義と人種主義の統合という暴力の地下水脈が多様性を標榜する21世紀に枯渇しているのかいないのか」、ざっくりいえば「帝国主義は今日でも有効か」、というところだろう。そりゃあ無効なのに決まっているのだが、今の日本の様子を見ると自信をもってそうも言えないのがつらいところだ。人種差別に限らず様々な社会問題とそれに対する日本人の反応と現状をみるに、日本は少なくとも人権に関しては今もだいぶ後進国であると私は思っている。もしこの認識が正しいのだとすれば、作品で扱われている内容はあまりに繊細であり、民度が高く、現状から乖離しているという感想を抱く人もあるかもしれない。

 しかしそんなことは作家は百も承知だろう。おそらくこの作品はあくまでもひとつのケースとして捉えるのが妥当だ。たとえそれがどんなに狭い範囲の人々の限られた意見だったとしても、そうではなかったとしても、ひとつの現実を切り取ったものとしてこの作品は存在している。

 鑑賞者として、このワークショップの記録映像を見て何を感じ得るのかが本当に重要なことである。私は、周囲に気を使いながらワークショップをこなす「意欲的で行儀のいい参加者」を見て、あまりに映像が淡々としていたからだろうか、逆におぞましいヘイトスピーチも思い起こしていた。実は私は心のどこかで感情のぶつかり合いや罵詈雑言の応酬のような想定外の事故が起きることを期待していたのかもしれない。だからといってハプニングを欲するのは自分勝手で人を人とも思わない欲求であり、恐ろしいことである。

 一方で、その振る舞いに強く納得したのも事実である。面と向かって相手の意見に反対することは、勇気がいることであるし、それが抽象的な議論ならまだしも人間の出自などに関わることであれば(本来は)慎重になるのは当然である。その点リアリティを感じた。

 ワークショップの全貌が映像からではよく見えなかったので、ワークショップそのものについて検討することが難しかった反面、いつのまにか私はワークショップの参加者の振る舞いや気持ちについて想いを馳せてしまっていて、それはそれで面白かった。目立ったハプニングがないような、地味な振る舞いを肯定されるような気持ちにもなった。このような作品はどうしてもモヤモヤした感じが残ってしまうが、テーマの特性上仕方なことかもしれない。それを余韻として楽しみながらヨコトリのテーマとも関係づけて考えるのいいかもしれない。

 

 

 

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 関川航平 作品部分

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 関川航平 作品部分

 

 

 BankARTではほかに関川航平さんの作品、というかパフォーマンスの痕跡が気になった。色のついた粘土で壁になにやら文字が書かれている。どのようなパフォーマンスだったのだろうか。

 

 

 

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 ヨコトリ、横浜赤レンガ倉庫1号館に移動。ここは特に力が入った展示のように思った。

 

  

 

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 小沢剛 作品部分

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 小沢剛 作品部分

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  小沢剛 作品部分

 

 

 

 小沢剛は、フィクションを織り交ぜた音楽と絵画によって実在の人物の架空の伝記を物語る「帰って来た」シリーズの新作で、岡倉天心をテーマにした「帰って来たK.T.O」を発表。私は以前、藤田嗣治をテーマにした同シリーズの作品を見ている。

 失意のうちにインドを訪れた天心が、いつの間にか輪廻転生し、東日本大震災で流され消失した茨木県五浦にあった六角堂(現在は再建されている)に戻ってくるというストーリー?のようだった。藤田を題材にした作品よりもスケールが大きくなっているように感じた。会場がけっこう暗くて段差につまずきそうになったことが気になるが、絵画の大作が10点並ぶ様は壮観だった。絵のうしろに平櫛田中作の天心像が佇んでいた。

 

 

 

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 平櫛田中岡倉天心胸像」

 

 

 

 

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 クリスチャン・ヤンコフスキー「重量級の歴史」

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 クリスチャン・ヤンコフスキー 「公共の身体から人間的彫刻へ」

 

 

 

 クリスチャン・ヤンコフスキーはいずれの作品でも、彫刻に対して働きかけることで彫刻と人間の間に新しい関係性をもたらしているように見える。ユーモラスであり、悪ふざけのようなことを真面目にやっている。それなのに(それゆえに?)、彫刻がただのモノであることが鮮やかに暴露され、彫刻にモノ以上の何かを幻視させる芸術の不思議さが浮かび上がってくる。そういう芸術の不思議さを肯定するでもなく否定するでもなく扱う手際の良さに感動した。

 

 

 

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 宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分

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 プライウッドとは合板のこと。映像ではバナナ、ミキサーやエレキギターなどをめぐる関係が語られ、作品の背景が説明されている。特に「私はアメリカ経由の未来派だ」という言葉が印象的だ。しかし、会場に置かれた機械たちは説明を吹き飛ばさんばかりの勢いでまるで生命をもったように音をだし動き出す。不協和音一歩手前でありながら非常に魅力的な歌を聴かせてくれる。「コンセプトなんかどうでもいいから、俺の曲を聴いてくれ!」という叫びみたいな作品だった。

 

 

 

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 ドン・ユアン 作品部分

 

 

 ドン・ユアン区画整理のため解体されてしまう中国の伝統的な民家である祖母の家をモチーフとした絵画を、壁に展示するのではなくインスタレーションとして見せる。こうなると絵画としての技量よりも、なぜ絵画で、それも「オイル・オン・キャンバス」で記録されなければならなかったのか、ということの方に意識が向く。

 

 

 

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 小西紀行 作品部分

 

 

 

 小西さんの作品をまとめて見たのは初めて。言葉では説明しにくいのだが、以前から魅力的な絵画だと思っていた。今回の展示はインスタレーション風に、額を箱のようにしたり衝立のようにしたりして展示。その間を縫うように鑑賞した。核家族のような複数人のヒト型のモチーフは、作家が幼いころに撮影された家族や身近な人物の写真をもとにしているらしい。

 

 

 

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 ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分

f:id:kotatusima:20171031230149j:plain  ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分

 

 

 

 「ザ・ビジターズ」は、一つの大きな家のあちこちにいる音楽家たちが、ヘッドホンからの音を頼りに一つの曲を奏でようとする様を記録した作品。暗室になった会場ではそれぞれの持ち場に置かれた定点カメラからと全体を映すカメラのからの映像が投影され、あちらこちらから音が聴こえる状態だった。手探りながらもさすがプロの集団というべきか、緩急のあるハーモニーが生成されていく場を体験できるのは理屈抜きで気持ちのよいものだった。この有無を言わさぬ音楽の説得力、そしてそれをコミュニケーションのひとつの形として可視化させた作家の力量に脱帽した。

 

 

 

 黄金町バザールへ移動。全部は見られなかったが見た中から気になった作品をいくつか。

 

 

 

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 キュンチョメ 「ここでつくる新しい顔」

 

 

 目隠しをした難民と日本人の観客とが福笑いをしている手元を記録した作品である。会場にあったキャプションによれば、難民は次第に福笑いのプロになり、観客に的確に支持をだし修正を加え、顔を完成させるようになっていった。しかし観客はそうとは知らず無邪気にうまくできたものだと思い込み帰ることとなる。ホストとゲストの関係がこの暗闇では逆転していたのだ、と。
 非常におもしろい作品だと思うし、まさにホストとゲストの関係が逆転している点などその通りだと思うのだが、そこまでこの作品の意味をキャプションに詳細に書かれると、ちょっと鑑賞の楽しみが奪われたような気にもなる。

 

 

 

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 毒山凡太郎 「戦争は終わりました」(部分、パフォーマンスを行った場所の地図)

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f:id:kotatusima:20171031230229j:plain 毒山凡太郎 「戦争は終わりました」

 

 毒山凡太郎は台湾でかつて日本語教育を受けたお年寄りを訪ねて知っている日本語の歌を歌ってもらう様を記録した「君之代」と、沖縄の戦跡など各地で「もう、戦争は終わりましたよ!!!」と叫ぶ様を撮影した「戦争は終わりました」の、二つの映像作品を展示。私は以前第20回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)の会場で毒山の別の作品を見たことがあり気になる作家だった。

 今日では親日国ともいわれる台湾に大日本帝国がどのような影響を及ぼしたのか、その功罪を問うともいえる「君之代」では、お年寄りたちはあまり躊躇する様子もなく(躊躇しているシーンはカットされたのかもしれないが)昔のことを話し、嬉々として歌う姿は孫に向けたビデオレターのようですらある。しかし口から出てくる軍歌などは時代を感じさせ、タイムカプセルを開けたような、しかも見てはいけないものを見てしまったような感じを覚えさせる。

 「戦争は終わりました」の舞台となった沖縄は、今日でも米軍の起こす事件事故が絶えない。どう考えても日本で一番「戦争が終わっていない」に違いない。そのような場所で「戦争は終わりました」と叫ぶのは皮肉としてはあまりに馬鹿正直で、嫌味すら感じる。この嫌味とは何か?

 パフォーマンスを行っているのは作家本人だろうが、ガマや、ひめゆりの塔の前や、今も座り込みなどが行われている基地前に、わざわざ出向いて「戦争は終わりました」と叫ぶことに葛藤はなかったのだろうか?あっただろうし、様々な視線を向けられただろう。沖縄に対して日々行われていることはまさに国家による暴力で、大変面倒な現在進行形の問題だが、それに関わっていこうとする姿勢は素晴らしい。しかし、この作品は、沖縄の人の感情を逆なでするようなことにしかならないのではないか、という危惧が拭えないのも正直な感想だ。

 と、ここまで考えて気が付いた。この作品で叫ばれる皮肉は、国家に対しての告発であり嫌味かもしれないが、同時に私たち他府県人にも向けられているのかもしれない。沖縄に対して私たち他府県人はあまりに当事者(加害者)であり過ぎる。私たちは、作家と同じ罪を犯していて、共犯者だからこそ妙に気になってしまう作品になっているのではないか。今後毒山はこの作品をどう発展させていくのか注目したい。

 

 

 

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 宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」 

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  宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」のキャプション

 

 

 

 宇佐美さんは様々な場所で大がかりな合成かと思わせるような写真を撮る。北海道で撮ったのは上の作品だ。見た目におもしろい作品だが、これに付随したキャプションにいくつか引っかかる点がある。

 まず「アイヌの後継者」というところ。アイヌは別に世襲制の役職でもなんでもない民族なので、結城さんにアイヌを代表させるような表現はそぐわないのではないか。

 また、「生粋のアイヌ人はいなくなってしまったというが」というところも引っかかる。この解説の筆者のいう「生粋のアイヌ人」とはどういった人を指すのだろうか?例えば結城さんは生粋のアイヌ人ではないのか?この写真に写った人々にはひとりも生粋のアイヌ人はいないのか?チセに住んで狩猟採集をしなければアイヌではないと?民族をさすのに「生粋」は適切な言葉ではない。純血か否かを問題にすることそのものがナンセンスであろう。

 また「文化は今も伝承されている」というところ。悪意を持って読めば「アイヌ人は居ないが文化だけはある」とも受け取れる書き方だ。その文化を受け継ぐ主体なしに文化は存在し得るだろうか?それはまさに博物館のガラスケースに収まった、過去の文化でなければあり得ない。そしてアイヌ文化はそのような文化ではないだろうし、そのような文化にしてはならない、と私は思う。

 作品がおもしろいだけに、このような解説で引っかかってしまうのは残念だ。反面教師として、専門的知識についてはきちんと専門家の力を借りることの大切さを痛感した。

 

 

 

 ヨコハマトリエンナーレ全体としては、当然と言えば当然のことながら、多くの作品が「島と星座とガラパゴス」「『接続性』と『孤立』」というテーマを念頭に置くと作品の意味がより感じられ、説得力を増していたと思う。こういうのをキュレーションと呼ぶのだろう。テーマそのもの、キュレーションそのものについての評価は私の手に余るが、キュレーション以前の、寄せ集めに無理やりテーマを付けたような展示を見ることの多い自分としては面白かった。個別の作品としては、作家の力の入れ具合も様々だったと思うが、以上に挙げたように何らかの感想を抱かせる作品は少なくなかった。ヨコトリ参加が初めてだったので、次回がまた楽しみである。

 

(終)

ヨコハマトリエンナーレ2017の個人的感想①

 

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 「ヨコハマトリエンナーレ2017-島と星座とガラパゴスー」(以下横トリ)に行った。同時開催の「BankARTLifeV 観光」や「黄金町バザール2017」の一部も見てきた。横浜には何度も来ているが、トリエンナーレ鑑賞は今回が初めて。

 

 「島と星座とガラパゴス」というテーマについて考えたり、札幌国際芸術祭のテーマにも出てくる「星座」という単語についての比較や、奥能登国際芸術祭など他の芸術祭との相違について考えたりなどしてみたいが、なかなか時間もないし手に負えない。

 自分はつくづく一言居士なのだと思う。

 忘れないうちにとりあえず印象に残った作品だけでも感想を書いておきたい。

 

 

 

 

 高島平駅から外へ出る途中、竹橋駅のように壁にシールが貼られていたのを見た。これはトリエンナーレの作品でもなんでもない。補修する箇所を示しているものらしい。

 

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 まず横浜美術館へ。屋外にもたくさん作品があった。横トリでは各作家やグループのスペースそれぞれに、個展やグループ展のようにタイトルがつけられていたのが特徴的だった。

 

 

・ミスター

 はじめの方にあったミスター(Mr.)の作品が良かった。展示全体のタイトルは「ごめんなさい」。

 

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 ミスター 展示の様子

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 これは柱の高い位置についていた。クッション?

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 ドローイングに山田うどんが!!

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 ミスターさんの作品は高橋コレクションなどで数点見ていたが、たくさん見るのは初めて。参加理由は、日本独自の進化を遂げた「ガラパゴス」なオタクカルチャーを作品化しているから、らしい。なんか納得できるようなできないような・・・。テーマとの絡みは別として、とても良かった。ちゃんと絵を描いている。うまく説明できないが、とにかくドローイングの一枚でも欲しくなった。ミスターさんの作品をグッズ化したものが少ないのが解せない。

 

 

 

 

・ ケイティ・パターソン

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 ケイティ・パターソン 「すべての死んだ星」

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 ケイティ・パターソン 「化石のネックレス」

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 ケイティ・パターソン 展示の様子

 

 

 

 「化石のネックレス」は進化の過程に沿って繋がれた170個の化石からできたネックレス。化石と言えば、生き物が生きていた当時の姿を復元するもとのもので、どれだけきれいに残っているかばかり気にしてしまうが、そもそも化石は石なのであり、大胆にも丸く加工し、生き物の進化の歴史を凝縮して見せたのはささやかな展示との落差が圧巻。「すべての死んだ星」は過去に観測された超新星の天球図。分かりにくい表現であり、ただの図示だがネックレスとともに見せられるとハッとする。

 

 

 

 

・ロブ・プルイット

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 ロブ・プルイット 展示の様子

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ロブ・プルイット 「オバマ・ペインティング」

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オバマ・ペインティング」部分

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ロブ・プルイット 「スタジオ・カレンダー」

 

 

 

 作品としてオークションを開催していたロブ・プルイット。『スタジオ・カレンダー』はついつい見入ってしまい、自分の知っている人物を見つけて喜んだりでき面白いのだが、それより『オバマ・ペインティング』が印象深かった。日本で感じるよりずっと、アメリカにとってオバマという大統領の存在は重大な出来事だったのだろうと想像する。

 

 

 

・ザ・プロペラ・グループ

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 ザ・プロペラ・グループ 左から「映画『タイタニック』のジャック・ドーソンに扮するレーニン」「映画『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のフランク・ウィーラーに扮するレーニン」「映画『インセプション』のコブに扮するレーニン」

 

 

 

 かつてロシアで掲げられていたレーニン像に加筆したものだろうか。ユーモアが感じられ、まぁ悪い作品ではないと思う。それより、これがもし毛沢東だったら、もし昭和天皇だったら、などと考えてみたりもできる。そういえば、小泉明郎の「空気」という作品もあった。

 

 

 

畠山直哉

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 畠山直哉 展示の様子

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 畠山直哉 「テリル」より20点のうち

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畠山直哉 「テリル」より20点のうち

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 畠山直哉 「陸全高田市高田町 2012年6月23日」 部分

 

 

 

 畠山さんの「テリル」は北フランスで撮影されたらしいが、私にはどこか北海道の景色に似ていると感じられ妙に懐かしかった。立坑のある風景など北海道のあちこちで見られる。陸全高田のパノラマ写真もおもしろい展示。 

 

 

 

・マウリツィオ・カテラン

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 マウリツィオ・カテラン 「スペルミニ」

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 ここ以外にも作家本人の人形を高い位置からつりさげた作品もあった。いわゆる「インスタ映え」する作品の一つだろう。この作品については、写真を撮るといっぱい顔認証されるのが妙に可笑しかった。

  

 

 

・木下晋

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 木下晋 「合唱図・懺悔」

 

 

 

 木下晋さんの作品も何度も本では目にしていたが現物を見るのはたぶん初めて。昨年、瀬戸内の大島(ハンセン病の療養所がある島、レポート⇒香川日記③ 瀬戸内国際芸術祭2016 大島 - こたつ島ブログ)に行ったせいもあり、今回特に見ることができてよかった作品のひとつ。写真だとあまり分からないが、これ実は見上げるほど大きいのだ。

 

 

 

 ・ハイネ(サム・デュラントのスペース内)

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 伝 ペーター・B・W・ハイネ 「ペルリ提督横浜上陸の図」

 

 

 

 サム・デュラントのペリー来航をモチーフにした作品の横に、ハイネの油絵が飾られるのはさすがといったところ。この絵は教科書で目にした人も多かろう。でも一緒に川上澄夫の南蛮船の版画まで飾るのは行き過ぎのような気がしないでもない。微妙に意味合いがずれているように感じる。

  

  

  

 ・マーク・フスティ二アーニ

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 マーク・フスティ二アーニ 「トンネル」

 

 鏡を使ったトリックで奥行があるように見えるのだろうが、とても迫力がある。気が付いたら写真を撮ってしまっている。

 

 

 

・ザオ・ザオ

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 ザオ・ザオ 「プロジェクト・タクラマカン」(インスタレーションの一部)

 

 

 

 民族問題の舞台となる砂漠のど真ん中にわざわざ冷蔵庫を運んでビールを飲む「プロジェクト・タクラマカン」は、見るからに大掛かりな過程とビールを飲むという落差は馬鹿馬鹿しさの域を超えて凄みが感じられた。これがいい作品なのかただの無駄遣いなのかはちょっと分からない。それは紙一重の差なのかもしれない。

 

 

 

 横浜美術館会場の終盤には、公開対話シリーズ「ヨコハマラウンド」の動画などがあった。その他、why is ~ で検索した世界の国々の検索結果一覧のパネルや、ずっと見たかった風間サチコによる「ぼんやり階級ハンコ」(いくつかは実際に捺して持ち帰ることができる)が印象に残っている。

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 風間サチコ 「ぼんやり階級ハンコ」 

 

 

 同じ日には横浜開港記念会館の柳幸典の展示を見た。ここは岡倉天心生誕の地でもある。

 地下の会場をうまく使ってはいるが昨年BankARTで行われた個展の一部を再構成したような感じだった。作品としては悪くないと思うので、昨年の個展を見ていない人は見たらいい。 

 

 

 

 へ続く。

珠洲日記 あるいは奥能登国際芸術祭での見聞 ① 

 

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 目次 

 1.芸術祭概要

 2.珠洲までの道のり

 3.宿にて

 

 1.芸術祭概要

 

 「奥能登国際芸術祭2017 Oku-Noto Triennale2017 」に行ってきた。能登半島の先端に位置する石川県珠洲市で、今年初めて開催される。 Triennaleだから次回以降三年に一度の開催を見越しているのだろう。総合ディレクターは北川フラムである。他の芸術祭とはもちろん、すでに北川フラムが手掛けた越後妻有や瀬戸内の芸術祭との違いも気になるところだ。会期は2017年9月3日~10月22日。11の国と地域から39組が参加する。

 

 (芸術祭公式ページ:奥能登国際芸術祭2017

 

 

 芸術祭チラシなどには副題?として「最涯(さいはて)の芸術祭、美術の最先端」とあり、「古くから海と陸の交流が盛んに行われ、特異な文化が育まれた珠洲は、地理的に孤立していることから、日本文化の源流ともいうべき昔ながらの暮らしや風習が今でも残る町」で、「”忘れられた日本”がそこにあります」ともある。また芸術祭は「国内外から参加するアーティストと奥能登地域に眠るポテンシャルを掘り起こし、日本の”最涯”から”最先端”の文化を創造する試み」だそうだ。ホームページには北川フラムによるもう少し詳しい概要説明がある。(芸術祭概要 | 奥能登国際芸術祭2017

 

 この文章の「最涯」「忘れられた」という言葉は明らかに中央ありきのものだし、珠洲の住民のため何かするというよりは、観光客のためにこの芸術祭は開かれ、「最先端」に敏感な観光客にアピールしていることは明白である。いわゆるアートツーリズムと言って差し支えないだろう。このことは悪いと言われがちだが、一方で事の是非は何より住民が決めるべきことだ、とも私は思う。

 すでにこの概要説明で引っかかるところはいくつかある。もしその中からひとつだけ指摘するなら、この「日本文化の源流」という言い方だ。これには注意が必要だと思う。

 確かに珠洲はかつて北前船などの海運で栄え、現在は交通が陸運中心になったがため孤立させられてしまった地域で、その閉鎖性が古い風習を廃れさせなかった面もあるのだろう。

 私は芸術祭に行く前に、網野善彦著「海から見た日本史像ー奥能登地域と時国家を中心として」(河合ブックレット)を読んでいた。この本は、農耕民族としての日本人像の中で例外的な存在であった奥能登の人々の生業と文化の存在について書いてあって大変興味深い。

  私は、その奥能登の文化を「日本」という大雑把なくくりに入れてしまうことで見失うものはないだろうかと考えてしまうのだ。もちろん、厳密さを欠いたとしても日本中から観光客を呼ぶのに日本というくくりを持ち出して訴えかけるのは手法として理解できなくはない。また、日本やアジア、あるいは世界全体の文化の中での奥能登の文化の位置を考えることは重要だろう。

 私が危惧しているのは、事実とかけ離れたレベルで、地域固有の文化に対し日本という大きなくくりによって勝手に感情移入するような振る舞いがアートツーリズムの名のもとに行われることである。それは文化の搾取であり間接的な破壊につながるのではないか。

 「源流」という言葉も「大河のような文化の発展の流れの元になるひとつ」という意味とも読めるが、はたしてその喩えが適切なのかどうか、大いに疑問である。

 

 

 

  2.珠洲までの道のり

 

 小言はこのくらいにして、まずは珠洲に辿り着くまでのことを書きたい。一人旅が常の私としては例外的に、今回は知り合いのグループの旅行に付いて行かせてもらった。

 

 

 2017.9.10.

 

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 朝11時くらいに自宅をでたが、さっそくトラブルが。キャリーバッグのタイヤがやたら重いと思ったらなんと動いていないのだ!!よく見ると四つのうち二つが車軸にくっついてダメになっていた。二つは動くのでなんとか持ち運びはできた。不幸中の幸い?

 

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 羽田空港から能登空港(愛称・のと里山空港)までの空の旅。天気は晴れ。飛行機は定刻どおりほぼ15時頃、出発。眼下は雲だらけで富士山は拝めなかった。

 

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 (荷物の返却場所にも「スズ」のロゴが)

 

 一時間ほどで到着。 小さい空港の周囲には建物が見当たらず、道路の他には森しか見えない。やはり芸術祭の幟が立っている。 バスはふるさとタクシーといって予約制のもの。宿まで直行で1300円。16時15分に出発。一時間くらいの道のりは森の中をあがったりさがったりしながら走っていく。

 

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(途中通った能登町には真脇遺跡という縄文の遺跡があり、「真脇式」という土器は関東から東北までで見つかっているという。http://www.mawakiiseki.jp/survival%20-%20p.html

 

 里山また里山という風景だった。なんという木か分からないが尖った木が切り揃えたように山に密集している。

 

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  時折、山間に午後の強い日差しに照らされた黄金色の田んぼが見えた。ある田んぼでは何かを燃やしていて、その煙の匂いが一瞬バスの中にも匂ったのが印象的だった。

 

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 バスはいつの間にか珠洲市へ入っていた。町を抜け、田んぼを横に見ながら進むとだんだん山深くなっていく。山の上に風車がいくつか立っているのを見た。急な坂を下るとパッと視界が開け海に出た。塩田の並ぶ浜辺を走って行く。

 

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 3.宿にて

 

 17時過ぎに大谷という地区にあるゲストハウスに到着。ここでは猫を飼っている。窓辺に座って我々を迎えてくれた。

 

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 荷物を置きしばし海で遊ぶ。貝殻を拾ったり、テトラポットと戯れたり。ハングルで何か書かれたペットボトルやポリタンクも見つけた。海の向こうは朝鮮半島なのだと実感する。

 静かに波はそよぎ、夕日は私たちの到着に合わせたように眩しく沈みつつあった。

 

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 18時半頃から夕食。トビウオのフライに大浜大豆の豆腐に塩田の塩など。地元産の食材尽くしがうれしい。 宿のすぐ近くの港ではサザエがざっくざく採れるらしい。 バター醤油でいただく。

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 23時前に就寝。

 

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 ②に続く。

 

札幌国際芸術祭2017(SIAF2017)見聞⑦

 

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の続き。もうこの日はほとんど芸術祭に関係する展示は見ていない。エピローグ的な記事だと思ってもらえれば。

 

 目次

 

 1.円山公園

 2.宮永亮「RECIPROCAL」

 3.東方悠平「ガーデニング

 4.相原信洋作品上映会など

 

 

  

 8月19日

 

 1.円山公園

 

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 朝から再び円山動物園へ。SIAFの展示を見るのではなくて、動物園内の科学館ホールでやっていた外来種の展示(参照→の目次3.)をもう一度見るためだ。じっくり見られた。途中、円山公園で「コタンペップロジェクト」(空間デザイン:五十嵐淳)の看板を見かけた。これはクチャ(アイヌの仮小屋、たぶん狩りの時に使うようなやつ)を模した小さいテントを貸し出してくれるイベントらしい。

 

 

 

 2.宮永亮「RECIPROCAL」

 

(参考→宮永亮 個展「Reciprocal」 – GUEST HOUSE & GALLERY PROJECT SAPPORO ARTrip

 

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 歩いてギャラリー門馬へ。宮永亮「RECIPROCAL」が開催されている。これはSIAFとは関係ない展示だが、前回の2014年のSIAFでは宮永の作品も展示されていた。

 

 このReciplocalとは逆数(掛け合わされると1になる数)のことであり、「相互関係の」「互恵的な」という意味の形容詞でもあるそうだ。現在非常にありふれたメディウムである実写映像はモンタージュで編集や構成をなされたものが一般的であり、それはプロパガンダ的手法でもあったのだが、宮永が用いる実写映像をレイヤー構造として提示する手法においては、被写体と被写体のカットの繋がりによって万人に作者の設定したある主題を伝えようとする意図は機能せず、見る人の数だけの受け取り方が存在するのだ、という。本展においては素材と素材の関りによって生まれてくる感覚や解釈を1として喩えている。

 だいたい以上のようなことがフライヤーには書いてあった。

 また作家プロフィール欄には、映像素材をスーパーインポーズ(映像に他の映像を重ね合わせる手法)によって、モンタージュによる時間軸に対しレイヤー構造という軸を持ち込み、新たに合成されるナラティブの枝を作品内に現出させようとし、時間芸術の中での非時間性を模索している、というようなことも載せてあった。

 

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 会場では5つの作品を展開。複数のプロジェクターで複数の映像を同じ壁面に投影したり、画面内で別々の映像をスーパーインポーズによって重ねながら移り変わらせたりしている。田んぼ、街中の壁、林、車窓からの風景、旗などが映され、滑らかでくっきりはっきりした見やすい映像が移り変わる様は視覚を楽しませるに十分だ。

 

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 そもそもモンタージュとは映像や写真の断片を組み合わせて一つの場面を構成することを指す。宮永はスーパーインポーズによってモンタージュのもつ力に対抗しようとしているのだろう。映像が持っているプロパガンダ的な力、言い換えれば特定の主義主張を信じ込ませてしまうような力を、宮永のつくる「見る人の数だけの受け取り方が存在する」映像によって、脱臼させようとしているように思える。実際に私が今回の展示を見た感想としては、作品から特定の主義主張を読み取ることは難しかった、とはいえる。では、宮永の試みは成功しているのか。「映像の重ね合わせ」によってできた宮永作品は、プロパガンダ的映像を脱臼させ、「見る人の数だけの受け取り方が存在する」のか。私はそうは思わない。

 私は感想として「特定の主義主張は読み取れなかった」と述べた。それはその通りなのだが、そのかわりまったく何も読み取れなかったのである。映像に対する何らかの解釈は生まれなかったのである。「ナラティブの枝」なるものは鑑賞者の心のうちに現出するのかもしれないが、あまりに断片すぎ、枝葉末節であり過ぎてそこから芽を伸ばしていくことは難しいのではないだろうか。

 映像のごくごく基本的な特性として、受動的なメディアであり思考が次々押し寄せる映像に流されてしまうことがあると思うが、宮永作品はまさにそうで、鑑賞中は田んぼが映れば「ああきれいだな」と思うし、ビルが映れば「ああこういう風景どこかでみたかも」とは思うのだが、その総体がある程度まとまった形で心に残ることはなかった。あれほど美しい映像を立て続けに見て、しかしそれが記憶に残らないのはわざわざ作品を見に行った自分としてもショックである。

 強いて言えば、「この映像は何か主義主張をするわけではない」ということだけは、誰しもが感じるところではないかと思う(だとすれば特定の主題を伝えていることになるのかもしれないが)。

 

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 一つ、気になったのは「InBetween」という作品である。これには富士山が映っている(もしかしたら富士山ではないかもしれないが、きれいな左右対称の山を見て富士山を連想してしまうのは日本に住んだ経験が長ければ無理のないことだと思う)。映像に富士山を発見した途端、私は映像のすべてを富士山を中心にして考えてしまうようになってしまった。富士山がもつ象徴的なイメージはここで改めて語らずとも自明であろう。宮永はプロパガンダ的に使われた富士山を敢えて用いてその無効化を図ったのだろう。私にはこの映像は、様々なレイヤーを重ねられながらも屹立する富士のように見えた。富士山のもつ数多の文脈の重さを感じざるを得なかった。もし日本人でなければこの映像に何をみるのだろうか、とも考えた。

 

 宮永の作品から何か読み取れるとしても読み取れないとしても、それがはたして映像のもつ時間軸などの構造によるものなのだろうか、という疑問もある。モンタージュとスーパーインポーズはもちろん違う技法をさしており、その効果も違うだろうが、それぞれが映像で用いられた時に実際どう違うのかは、少なくとも宮永作品からはわからなかった。結局はそこに映ったものが何であるかということの方がより大きな影響を及ぼすのではないかとも思えた。

 

 結局のところ宮永の作品は映像がいかに豊饒なメッセージを伝えられるか、というよりも映像でいかにメッセージを伝えないかという試みなのだと思う。その意味で批評的な作品だ。その閉じた可能性をどう発展させ作品にしていくか、という点は私には想像もつかないし、非常に興味深いと思う。

 

 

 

 14時ころから人と会う用事があったので大通方面へ。札幌市資料館のSIAFカフェで休憩。

 

 

 

 3.東方悠平「ガーデニング

  

 地下鉄でサロンコジカへ。同じ建物内にカフェが併設されていて、おしゃれな人が入っていったので続いて入るのに気後れした。東方さんは今回のSIAFの関連企画でも展示しているがそちらの会場は私は見ていない。

 

(参考→東方悠平 個展「ガーデニング」 – GUEST HOUSE & GALLERY PROJECT SAPPORO ARTrip

 

 展示の紹介文は次のようなものだ。「東方は、日用品や鉄、水、マスコットキャラクターなど身の周りに溢れる多様な素材を組み合わせて制作をしてきました。本展ではギャラリー内で人工物と自然物とを等価に扱い、プラスティックの造花やコンクリートなどで構成された庭に水を流し、ガーデニングを行います。都市と自然との間で、イメージが転回していく様は痛快でもあります」。

 

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 セメントで作られた棺、プラスチック製品、ガラス瓶、小石、じょうろ、マネキンの頭、ばらん、フジツボのついた石や発泡スチロールなど様々な素材とともに、生の植物と作り物の植物が混在している。

 

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 「人工物と自然物とを等価に扱い」とはどういうことだろうか。そもそも木や草花を何らかの形で操作し手懐け、一種の支配をすることなしにガーデニングは不可能だろうから、等価に扱った時点ですでに不均衡が生じているはずだ。 

 「都市と自然との間で、イメージが転回していく様」というのもよく意味がわからなかった。

 

 ガーデニング(gardening)は日本語に訳すと造園だろうか。ウィキペディアに興味深い記述があり、造園という語は開拓使が農園を造る意味で用いたという話もある(造園 - Wikipedia)。

 

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 コーヒー豆を運ぶおもちゃの列車。ここは先述の通り、おしゃれなカフェが併設されている。電車の横によく見ると小さい太陽光パネルのようなものがある。

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 セメントに突き刺さったばらんなど。

 

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ガーデニング(オロツコのボール)」という作品。ガブリエル・オロスコの作品「pinched ball」のオマージュ。

 

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「タワーのポストカード」。

 

 私は東方さんの作品は何点かしか見ていないが、いくつか感じたことを書いておきたい。日用品などチープな素材を用いたインスタレーションは、それぞれのモノがもつ存在や意味を際立たせる類のものではなく、もっと全体として混然一体とした印象をうける。そこにはどこか悪ふざけというか悪戯の類に近い親しみやすさがある。しかしよく個別のモチーフを観察していけば、見た目とは裏腹な真面目な意味も透けて見えるような気にさせるのが不思議だ。

 例えばマネキンの頭が鉢代わりにされて草花が植えられているオブジェのように、今回の展示はグロテスクな表現が散見される。それは、そもそもが自然を操作し支配したうえで成立するガーデニングという行為の、その中にあるグロテスクさを増幅させ誇張させ戯画化したようでもある。ここは調和とは程遠く、強制的にアンバランスに合体させられた自然と人工とが提示されている場なのではないか。

 電車でコーヒー豆が運ばれる様などを見ると、先述の造園という言葉の意味も考えあわせれば発展途上国と先進国、植民地主義など世界規模の問題、人類全体の問題を暗示しているようにも見えてしまうのだ。

 個人的に気になったモチーフとして小さい太陽光パネルがある。北海道をはじめとして、地方都市や田舎では、ここ数年で太陽光パネルがずらっと並んだ光景をよく目にするようになった。まさにこれこそが最新の地球規模のガーデニングなのかもしれない。でたらめに見えて真面目な風でもある(でも結局どちらかはわからない)のが東方作品の魅力だといえるかもしれない。

 

 

 

  4.相原信洋作品上映会など

 

 地下鉄で自衛隊前駅までいってマルバ会館というスペースでの「相原信洋作品上映会」に参加した。

 

 

 

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 このスペースではここ一年間くらいで様々なタイプの映像作品の上映を行ってきたことは聞いていたので、やっと来られて念願かなったのだが、今回のイベントが最後らしい。残念である。

 

 

 

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 自衛隊前駅の構内から見えるくらい近い。

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 今回の上映を企画しているのは「EZOFILM」という団体だそうだが、この名前は非常によろしくない。北海道の旧名である蝦夷(地)からとって、「えいぞう」とかけたのだろうと想像する。私が言いたいのはネーミングセンスがどうこうということではなくて、エゾという語は今日では差別語としても使われるということだ。

 そもそも蝦夷は古代ではエゾとは読まずエミシやエビスなどと読み、必ずしも悪い意味ではなかった時期もあったようだが、次第に大和朝廷に従わない勢力を指す語になり、異民族を指す語となり、アイヌを指すようになったということはよく知られている。その変遷をここで詳細に記述することはとても私の手に余るのだが、少なくとも古代から続く東国、東北、北海道で繰り広げられた内戦ともいうべき歴史と、それぞれの時代の為政者の支配における都合と関わりが深い語だということは指摘できる。

 (ウィキぺディアの記述は信憑性は不明だが、この語のもつ歴史と研究の蓄積は見て取れる。→蝦夷 - Wikipedia また児島恭子の「アイヌ民族史の研究」(吉川弘文館、2003年)や、この論文をもとにした「歴史文化ライブラリー273 エミシ・エゾからアイヌへ」(吉川弘文館、2009年)はこの語の変遷について詳しい)。

 それをわざわざ使うのはどういう理由からなのか。ちゃんとした理由があるのならぜひ教えていただきたい。

 おそらくは差別意識なんて微塵もないのだろうが、だからこそ問題は根深い。言葉にはそれぞれ意味があるのだから、それをよく知って使わなければならない。それができなければその言葉を使う権利はないはずだ。それは言葉を使うものの義務だし、エゾという語を北海道で使うのであればなおさらだ。

 このネーミングは北海道の文化水準を著しく落とすものであり、底の浅さ、軽率さを感じさせるに十分である。言葉狩りなどという批判はこれに当たらない。それはエゾ(蝦夷)という語の辿ってきた歴史的経緯を踏まえれば、ここでこの語を使う必然性がないことは明白だからだ。表現に携わるものはこのようなことに関してはもっと敏感であるべきではないのかと思う。

 

 

 

 小言はここまでにして、上映会について。

 一般は2プログラム2000円という高めの料金設定だが、+1ドリンクとあったので、ドリンクがもらえるのかと思いきやこれは要注文の意味らしい。この記述は誤解を招くのでよくない。飲み物の代わりにカレーも注文できたので頼んでみた。これはけっこうおいしかった。豆が入っていた。

 

 

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 会場は普通のお店の土間で、私は二列目に座ったのだが、前の人の椅子が私の座った椅子より高く、頭が邪魔でかなり見づらかったが、なんとか体をよじって見た。

 

 相原信洋は1944年神奈川県生まれ。アニメーターとしての仕事に取組み、1965年頃から自主制作を開始。1980年ころよりアニメーション個展を開催、また1990年ころからワークショップの指導も行う。2011年に急逝。今回は今年の四月に京都のルーメンギャラリーで行われた七回忌追悼映像展の巡回展であり、デジタルリマスター化のプロジェクトのここまでの成果を披露するものでもあるそうだ。

 

 相原作品は今回初めて見た。初期は実写の作品が多く、映像のなかで人が持っているスケッチブックに描かれた絵だけが動くような作品などが印象深い。その後絶え間なくドローイングが動くアニメーションになっていく。

 

 この日は上映会にあたり追悼文を書かれた映像作家の相内啓司さんと、映像作家の櫻井篤史さんのトークもあり、人となりに触れるようなお話があって興味深かった。

 

 

 

 トーク終了後はそそくさと家に帰り、翌日朝はやくの飛行機で北海道を後にした。長い滞在だった。SIAFについては改めて、もう少し考えてみたいと思う。

 

 

 (完)