映画「ゴッホ 最期の手紙」

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 映画「ゴッホ 最期の手紙」を見た。原題は『Loving Vincent』。

  

 ※以下に示すページ数はいずれも本作パンフレットのものです。

 

 ほぼ全編をゴッホのタッチに似せた油絵を撮影して動画にしたことで話題の作品だ。1秒あたり12枚を使用し、描かれた枚数はのべ62450枚にのぼるという本作はまさに「動く油絵」(p.6)である。途中挟まれる回想シーンはモノクロの水彩画で描かれている。

 ストーリーは次のようなものだ。郵便配達人である父からゴッホの弟テオあての未配達の手紙を託された青年アルマンが、手紙を渡そうとゴッホの足跡を訪ね歩き、最期の日々を過ごしたオーヴェールでゴッホの死の真相を追い求め様々な人と出会っていく。謎解きありの、サスペンス的な映画である。

  

 映画館に駆け付けたときには運悪く座席がほとんど埋まっており、最前列で見上げながらの鑑賞だった。首が痛かった。

 初期作品など例外はあるが敢えて大雑把にゴッホの絵画の特徴をいえば、太目で厚塗りの筆跡であり、カラフルで大胆な色使いだろうか。少なくとも、モノトーンではないし細密でもなければグラデーションが繊細なものではない。映画ではこのゴッホらしいタッチがよく再現されていたと思う。逆に言えば、もし細密で繊細なグラデーションを持つ絵画をアニメ化することになれば、カットをつなぐのも色指定をするのもさらに大変だろうという想像もできる。

 96分の上映時間中、私はずっと間近でゴッホタッチの絵を見せられ続けたわけだ。マチエールをよく見ることができたのは良かったとしても、シーンによってはほとんど抽象画のようであって描かれているものが認識しにくいのは辛かった。鑑賞の際にはある程度スクリーンから離れて見ることをお勧めする。

  

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 (映画のパンフレット。どこかで見たことあるような・・・) 

 

 なかなか凝ったデザインの本作のパンフレット(800円)には、ゴッホに扮した写真作品が代表作である美術家の森村泰昌によるエッセイが掲載されている。

 

 森村はまずピグマリオンの伝説を引いて、絵が動く本作を「これまで多くの芸術家達が夢見るだけで諦めてきた ”動く芸術世界” に挑戦し、見事これを実現し得た作品」(p.64)だとする。さらにアニメーションの語源からアニマ、アニミズムの話になり、森羅万象に宿る命が絵画の絵の具の粒子一粒一粒にも宿っているとし、「絵画に描かれた静止画像とは(中略)言い換えるなら一時停止のかかった動画のようなものを意味しているのかもしれない」(p.65)ともいう。本作を見ていて森村が快感を覚えるのは、「本作によってフリーズ状態が解かれた絵画が、やっとそれ本来のスムーズな動きを取り戻せたから」(p.65)だと分析してみせる。さらに小林秀雄にも触れ、「絵画が動くという美術的な時間軸と物語が展開していくという文学的な時間軸」(p.67)という二つのゴッホの表現世界に向き合うところが本作の魅力だとしている。

 

 この文章に私はいくつか疑問を覚える。

 まず、「これまで多くの芸術家達が夢見るだけで諦めてきた ”動く芸術世界” 」というところ。これが油絵具を用いたアニメーションを指すのだとしたら、例えばロシアのアニメーション作家アレクサンドル・ペトロフの作品を見落としていることになる(もっとも、ペトロフ監督の作品は油絵具でガラス板の上に描かれたものを撮影しているので、厳密には油彩画ではないが)。

 ペトロフ監督は油絵具を手段として用い、様々な物語を紡ぎ出してアニメーション作品を作っている。一方、本作はどうだろうか。ゴッホの晩年をめぐる人々の謎を追うストーリーを語ることはもちろんだが、油絵を動かすことも重要な目的のひとつであろうから、油絵であることとアニメーションであることは、手段でありながら同時に目的だともいえよう。

 

 また「本作によってフリーズ状態が解かれた絵画が、やっとそれ本来のスムーズな動きを取り戻せたから」ともあるが、ここでいう本来の動きとは何なのだろうか?

 この映画は、技法としてはロトスコープ、つまりカメラで撮影した動きをなぞってアニメにする方法により制作されている。本作は絵画のモデルとなった人を実在感をもって表現することに一応成功していると思う(p.77参照)。ただ、その動きを絵画の本来の動きだと言ってしまっていいものなのだろうか?「動きが感じられる絵」という通俗的な表現があるが、例えばゴッホが表現したかったのはこの映画のような動きなのだろうか。私には疑問である。

 どのような絵を思い浮かべてもらってもいい、何か動きが感じられる絵があったする。その絵に描かれた場面を実写で忠実に再現して撮影したときの動きと、その絵を鑑賞した時に感じとることができる動きが、同じになるとは限らないのではないか?それは全く別の動きだということもあり得る。この映画におけるゴッホの絵の動きに「私が思っていたのと違う!」と違和感を覚える人がいてもおかしくはない。映像の方が絵画よりそのものの持つ本来的な表現ができる、などという驕りなのかどうか分からないけれども、映像には映像の動きがあって、アニメにはアニメの、絵画には絵画の「動き」があるのではないだろうか。

 

 他にもパンフレットの文言にはひっかかる点がある。「アーティストたちによる情熱の結晶である本作」(p10)、「アートの一部となった俳優たち」(p12)、「芸術の秋を彩る、全く新しいアート体験」(同)などあるように、本作を無理に「アート」として位置づけようとしていると私には思えるのだ。そこでいうアートとは何なのか、どうも気になってしまう。

 例えば「アーティストたちによる情熱の結晶である本作」という一文があるけれど、採用試験や研修を経てゴッホのタッチを完璧に習得した彼ら125名の画家達の仕事は、アーティストのそれというよりむしろ職人(アルチザン)のそれであろう。これはもちろん蔑称ではなく、彼らの忠実な作画のおかげで本作の完成度の高さがあることは疑いようがない。彼らを褒め称えるのであれば職人という呼称がふさわしいと思うのだが・・・。

 

 では、映画「ゴッホ 最期の手紙」は果たしてアートなのだろうか?そうでなければ何なのか?

 

 まず、本作をアートアニメーションなのか考えるにあたって、紛れもないアートアニメーション作家であるペトロフ監督の作品と比較してみよう。先ほども触れたように、アニメであることはあくまで手段であって目的ではない。アートアニメはアニメという方法で何かを表現するものだ。油彩画家であれば、油絵という手段を通して何かを訴えるだろう。だとすると、油絵でありアニメーションであることが手段でありながら同時に目的だともいえる本作は、少なくともふつう言われるアートアニメーションではない。ゴッホの絵が動くという点はこの作品の重要な一部を占めていると思える。ゴッホタッチの油絵という手段でゴッホの世界観を表現した、と考えれば、むしろ一種の絵画作品と呼んでしまいたくもなる。

 また、動きにおいては、もし、映像には映像の、アニメにはアニメの、絵画には絵画の、それぞれ特有の動きがあるのだとすれば、本作は映像の動きをトレースしているのだから映像寄りの作品だ、という方がふさわしいとも考えられる。

 

 結局のところ、油絵を撮影したアニメーション技法で作られた映像作品である本作は、やはりアートという大雑把な括りで呼ぶほかないのかもしれない。ただ今日のアートという語の意味するところは、ゴッホがめざした何かをアートと呼ぶときのそれとは随分違ってしまっているだろう。それは比較できるかどうかもわからない。

 本作がゴッホの絵の愚直なまでの模写で構成されている以上、ゴッホの芸術を超えることは不可能であるという考え方もできる。

 もし本作のあり方とゴッホの制作との共通点を求めようとすれば、映画の完成までに費やされた莫大な時間と労力を支えた情熱でありゴッホへの愛ではないか。それはゴッホの絵に懸ける情熱や愛を思い起こさせなくもない。ストーリーについての良し悪しの判断は私の手に余るが、本作に費やされたであろう手間や時間は見ごたえ十分だ、とは言えるだろう。

 

 (終)