こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

以前見た展覧会の感想 「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展    ―旧北海道開拓記念館は北海道博物館になれるか?ー

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・「北海道開拓記念館」のリニューアル展

 

 「北海道開拓記念館」がリニューアルし「北海道博物館」になった記念に開催された「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展を見に行った。この展示は巡回し、国立歴史民俗博物館でも行われる。

 旧北海道開拓記念館や隣接する開拓の村は札幌の小学生や中学生なら一度は学校の行事で訪れる場所なのではないか。それが一年以上の休館を経てこの度リニューアルした。オープン自体は四月だったらしい。
 以前とどこが変わったかというと、「アイヌ民族文化研究センター」と組織が統合され、特にアイヌに関する展示に以前より力を入れるようになったようだ。実際見た感想としては、展示室が以前より明るくなり、テーマごとに展示物の配列が変わって見やすくなったアイヌに関して詳しく紹介するコーナーも増設されている。だがそれ以外には大きく展示物や内容には変更がなかったように見える。そのアイヌのコーナーをのぞけば、さほどリニューアル感はなかった。旧開拓記念館の展示室は結構暗くていかにもミュージアムという感じだったのだが導入部分では特にそれが薄くなった。その一方で展示室以外は以前のままの重厚なレンガ壁で、ややちぐはぐ感もある。
 さて、その北海道博物館の開館記念特別展が、「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」である。タイトルの「蝦夷地イメージ」から分かる通り、この展示では、江戸時代の和人が北海道やアイヌに対して抱いていたイメージを特集するものである。和人による目線を夷酋列像などの資料によって追うのである。
 会場は携帯やカメラだけでなくメモも禁止という謎の厳戒態勢だった。何かトラブルでもあったのだろうか、と思いながら会場を見て回った。

 

夷酋列像
 
 夷酋列像とは、松前藩主一族出身であり政治的に松前藩を動かす家老の立場にありながら「松前応挙」と呼ばれた画人でもあり詩作もした蠣崎波響(宝暦一四~文政九・1764~1826)が、クナシリ・メナシの戦いの終息に功績があったとされる12人のアイヌの指導者たちを描いた作品である。クナシリ・メナシの戦いとは、寛政元(1789)年、国後島とメナシ(地名)のアイヌが和人商人の酷使に耐えかねて蜂起し、現地にいた和人70人余りを殺害した事件のことである。ここでいう戦いの終息の功績とは、当然松前藩側から見た時の功績だ。

 夷酋列像は上京した波響によって大名や天皇の間で閲覧され、いくつか模本が作られた。今回の展示では夷酋列像はもちろん、波響の作品や、夷酋列像に描き込まれたものに近いアイヌの文物の他、模本も集まっている。
 この絵の魅力は指導者たちの仙人や豪傑のような顔つきとポーズに加え、今日の私たちにも興味を惹かせるきらびやかな衣装とアイヌの文物である。それらはアイヌの交易の在り様を間接的に物語っており、またアイヌの指導者たちと和人との差異を際立たせるものである。
 またアイヌの描き方からは、当時のオランダ人やロシア人と同様に、蔑視や恐れの対象であったろう外国人に対する視線でアイヌも見られていたことがうかがえる。例をあげて言えば、桃山時代にスペインやポルトガルの人々を「南蛮」と言ったり、来日したペリーの顔を天狗か鬼のように瓦版に描いたりしたのと同種の視線だ。
 17世紀に活動した小玉貞良が草分けと言われる、いわゆるアイヌ絵(アイヌの風俗を和人が描いた絵)は、アイヌの暮らしや文化をそのまま描くのではなく和人のイメージに合わせて変更していたり何か誇張があるのがザラだ。夷酋列像も町絵師が描いたモノではないにしろ、和人のイメージという意味ではアイヌ絵に含めてもよい。アイヌ絵は本州で蝦夷土産として文人墨客などにウケたのであろう。夷酋列像もまた大名たちの間で評判だった。エキゾチシズム的な観点から見れば、今日の北海道土産の二ポポ像とも何ら変わらないようにも思える。

 

夷酋列像の特徴

 
 注意しなければならないのは、夷酋列像は指導者たちの容貌を写し取ったという意味での肖像画ではないということだ。それぞれの図に像主の名前がついているものの、素人目に見ても顔の描きわけがされているようにはみえないし、事実、波響は指導者の多くと会ったかどうかさえわからないのである。それに功績をたたえると言うなら夷酋列像アイヌに贈ればいいのだが、そのようなことが行われた形跡はない。

 夷酋列像はただ物珍しい風俗を描いた高級なアイヌ絵ではない。今展の図録でも触れられていることだが、仙人や豪傑のようにアイヌの指導者たちを演出し彼らを功臣として従えている松前藩を演出する意図があったと言われている絵なのだ。また、松前藩はクナシリ・メナシの戦いの責任を負わされないよう情報工作を行っていたともいう。その後、ロシアの南下もあって蝦夷地は天領になってしまい、松前藩は梁川に転封され波響は随分苦労するのだが…。

 いずれにしろ夷酋列像に政治的意図があったことは確かだろう。
 ちなみに、波響の作品の中では最も有名なのにも関わらず、夷酋列像は例外的な作品で、他にアイヌを描いた絵はほとんどない。波響は夷酋列像を描いた後に応挙に師事しており、美人画や花鳥風月などを主に描いていたようだ。今展でも数点展示されていた。

 会場はかなり混んでおり夷酋列像の根強い人気が感じられた。リニューアル開館記念の特別展に選ぶのも納得の人の入りだ。しかし細密描写とエキゾチックな衣装に魅せられてばかりいると、夷酋列像がもつ制作背景が見落とされがちになってしまうだろう。展示を見ただけでは江戸時代の「蝦夷地に向けられた視線」をなぞるだけで、それが何だったのかを考えるまでにはなかなか至らないのではないか、というのが正直な感想だ。図録の論考まできちんと読めば考えさせられるのだが。展覧会企画側としては、その辺はどうなのだろうか。もっと作品の背景を強調してもよかったのではないか。

 あるいは、せっかく博物館としてアイヌに関する展示が充実したのだから、アイヌ民族を真正面から取り上げるのもアリだったのではないか。敢えて「蝦夷地への視線」を追う展示をした理由は、やはり夷酋列像は人気があるから?と邪推してしまった。
 

日本ハムと「北海道」
 
 そんなことを考えていると、北海道に本拠地を置く野球チームの日本ハムが「北海道は開拓者の大地だ」という広告を出し抗議を受けたというニュースが入ってきた。ここでいう開拓者は別に和人とか開拓使をさすわけではなくて、「野球チームとして挑戦を続ける開拓者」という意味だろう。アイヌへの差別の意図はないということは容易にわかる。
 しかし私には日ハムを擁護する気は全くない。これがただの草野球チームならまだしも、北海道をその名に冠するプロの野球チームの広告なのである。呆れるほかない。なんと言っていいか分からないが、「そんな程度の低いことでは困る」と言いたい。実際にこの広告が不適切かどうかは議論があるとしても、「北海道」で「開拓」という言葉がもつ意味についての配慮がなされないような仕組みがあるのであれば、かなり問題だろう。
 

・「開拓」記念館よさらば
 
 そう言えば、今回リニューアルした北海道博物館は元の名を北海道開拓記念館といったのだった。
 「北海道は開拓者の大地だ」という時の無邪気な無神経さと、江戸時代の蝦夷地への視線。さらに、夷酋列像を今日エキゾチックな細密描写のアイヌ絵としてしか見ない受容の仕方とが、私には近しいもの、同根のもののように思えてきた。

 
 北海道博物館が果たして本当に北海道をその名に冠する博物館としてふさわしいリニューアルをしたのかどうかは、これからの活動次第であるから今はまだ分からない。
 ただ、せっかくリニューアルしたのだから、北海道「開拓」記念館には戻らないほうがいいと思うのだ。

 

 

 

(終)