こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

「チャリティ展 夕張市美術館コレクション〜炭都・夕張の美術遺産」2016年10月8日(土)〜10月30日(日) プラニスホール(札幌市)

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 1979年に開館した夕張市立美術館は、 道内では網走に次いで二番目の市立美術館だ。
 
 私が小学生だった頃、夕張に家族で遊びに行き、一度中をちらっと覗いたことがある。その時は確か白黒の写真や佐藤忠良の彫刻があった。古めかしい建物だった。
 
 2012年、美術館は積雪によって屋根が崩落してしまう。このニュースに私は大変驚いた。  
 2006年の財政破綻の影響によって再建は叶わず、美術館は翌年廃止された。幸い所蔵品は無事で、現在も大切に保存されている。
 本展は、財政破綻から10年経ち、文化複合施設の整備など地域再生に向けた取り組みを始めた夕張の再生の一助となるべく開かれた。
 
 
 
 作品は油彩が多い。全体は3章に分かれ、夕張で生まれ育ち活動した作家や美術館に招かれたり夕張で制作を行ったりした作家の作品が見られる。
 
 第1章 「地底から港へー石炭がたどった道」では、作品を通して石炭の採掘から運搬までの過程を追う。
 
 ここで一番最初に展示されているのが2014年に夕張で採集された石炭なのだが、これについているキャプションが他の作品のものを模していて面白い。作品名には「石炭」、作者は「地球」、素材には「隠花植物」とある。この展覧会において「石炭」以上に重要な作品はないかもしれない。
 「黒ダイヤ」「産業のパン」とも呼ばれた石炭は過去のエネルギーのように思われがちだが、実はこの30年、日本での使用量は右肩上がりであり、いまも発電や製鋼などで我々の生活を支えているという。
 
 この章では木下勘二の「入坑する人」が印象深い。坑内にエレベーターで入坑する坑夫たちをややカラフルに曲線を用いてデフォルメして描いている。ふとレジェの作品の建築現場を描いたものを思い出した。
 
 ここで紹介されている倉持吉之助(1901-1996)、木下勘二(1917-1989)、畠山哲雄(1926-1999)、大黒孝儀(1907-1994)や、次の章で紹介されている小林政雄(1917-2010)は、いずれも炭鉱で働きながら夕張を描いたり学校で後進の育成に努めたりしつつ、道展や一水会などに出品していた作家たちだ。
 
 
 
 
 第2章は、「炭鉱(ヤマ)とともにー「炭鉱作家」と、作品の中の夕張」とし、夕張の風景や人々が描かれた作品を紹介している。
 
 ここでは上記の作家たちを炭鉱作家と呼んでいる。私にはこの「炭鉱作家」という言葉はあまり聞き慣れない。これについて少し考えてみる。
 
  例えば神田日勝は農民画家と言われる(本人は農民画家という呼称を嫌い「農民である」「画家である」としていたが)し、木田金次郎はのちに画業に専念したものの、かの有名な「生まれ出づる悩み」のイメージからいけば、漁民画家とも言えそうだ(もっとも、これらはレッテル貼りの一種であり作家本来の姿を見失う恐れがある)。
 
 農民画家、漁民画家と、炭鉱作家(炭鉱画家もそこには含まれよう)は何が違うのか、といえば、それはまず第一次産業第二次産業の違いが挙げられる。
 
  これは私の偏見が多分に入った見方だと思うけれど、第一次産業の方が、より自然に寄り添った、エコな、純朴な、「試される大地」的なイメージに合致するのではないかと思う。
  一方では第二次産業の方が自然を汚すとか、無機質な、非人間的なイメージが強い。
 これらにはもちろん例外がたくさんある。現状とは必ずしも合致しない。ただ、そういうイメージはある程度には一般的ではなかろうか。
 
  
 今度は逆に農民画家、漁民画家と、炭鉱作家は何が同じかを考えてみる。
 彼らは例えば画家であれば、身の回りの動物や風景や建物を描く。彼らの作品を鑑賞した時には、(優れた作品であれば)美的な感動が呼び起こされるだろう。しかしそれだけではなく、時にはモチーフとなった彼らの生業や土地土地の風土、歴史も重層的に見えてくるはずだ。
 
 極端なことをいえば、第一次産業であれ第二次産業であれ(もちろん第三次産業であれ)、人の営みがあればそこには歴史が生まれ、文化が生まれるのが必然である。作品は作家を通して出てくるものなのだから、作家の日々の営みが作品に影響するのは不思議なことでもなんでもない。その中でも特に生業の色濃く出ているのが、農民画家や炭鉱作家とは言えまいか。
 
  彼らの生業がもし文化や歴史として見えてくるのであれば、そこには一定の蓄積が必要だろう。年月を重ねることなしには文化や歴史はそれらとして見えてこないはずだ。
 
 炭鉱作家という言い方が最近されるようになったものなのか私にはわからない。ただなんとなく感じるのは、炭鉱が歴史や文化として見られるようになってきた(それだけの年月を重ねた)からこそこの言葉が出てきたのではないかということだ。もちろん、先述の通り石炭は今日でも我々の生活を支えるものだが、炭鉱に対しては認識の上ではやはり過去のものとなりつつあると思う。過去のものとなることはいい側面ばかりではないけれど、時が経ち、距離感を持って炭鉱という文化を見ることができるようになってきたのかもしれない。
 
 また、第一次産業第二次産業の別が年月を経てフラットに見られるようになったという風にも考えられるかもしれない。
 
 私が先日訪れた郷土資料館の方も仰っていたが、歴史の風化はあっという間だ。炭鉱作家の作品は美的な感動のみではなく、文化的な視点からも興味深い。だからこそ多くの人に見てもらいたいと感じる。
 
 
 第2章では特に小林政雄による「夕張風景抄絵巻」が印象深い。水彩による絵手紙風な絵巻だ。ちょうど開かれていたのは錦沢という場所にあった遊園地の絵で、「ここは炭鉱のまちのオアシスです」と書かれていた。
 今の錦沢の遊園地跡地には到達することも難しいという。
 
 第3章では夕張ゆかりの様々な作家を紹介していた。漫画家の森熊猛は私の出身高校の先輩にあたるが、夕張出身とは知らなかった。この章では一見夕張に関係なさそうな作品もある。岡部昌生さんの作品などは特に見応えがあった。
 
 この展示に文句をつけるとすれば、壁をキレイにしてほしいということだ。特に第3章で、穴があいて壁紙の剥がれたところがあって汚かった。
 
 もう1つ、できれば今からでもいいから図録を制作してほしい。解説文が炭鉱についてわかりやすく説明していてすごく良い上、資料的価値も高いと思うからだ。チャリティー展なら物販を充実させるのはむしろ普通の流れだと思う。絵葉書ももしあれば買っていただろう。
 
 あとこれもできれば、作品目録を配布してもらえるとうれしい。
 
 
 
 (終わり)

香川日記② 瀬戸内国際芸術祭2016 直島

 瀬戸内海の豊島から犬島、直島へ行きました。これは直島に着いてからの記録です。

やっぱ直島は数時間ではとても見切れないですね。ちゃんと全部見ようと思うなら一泊くらい必要かもしれない。そういえば黄色いかぼちゃを見つけられなかった。

 

8.11 続き

 

 

 
 犬島から直島の宮浦港へは14時ころに到着した。

 

 さっそくトラブルが。
 着いてすぐにフェリーターミナルで高松へ行く船のチケットを買おうとするも、財布が見つからない。ポケットにもない。リュックをひっくり返しても出てこない。
 高速船が停泊しているところまで引き返しても、船上に人の姿はない。近くにあった船の案内所に聞いても落とし物の報告はないという。

 焦る。どうする?一文無しでこの島からどう帰る?

 フェリーターミナル内の観光案内所に行くとあるかもしれないと聞き再び向かう。途中、船の乗組員らしき方に呼び止められ、観光案内所に財布を届けたよ、という。

 息を切らしながらカウンターに駆け込み財布の落し物が届いてないか尋ね、間髪入れず財布の特徴を述べた。やはりあった。しかも中身もそのまま無事だった(たぶん)。ほっとした。

 このターミナル(海の駅「なおしま」)も妹島和世+西沢立衛/SANAAによる設計だ。

 

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 まずは宮浦港の草間彌生の赤いかぼちゃを見る。かぼちゃの中は空洞になっていて、水玉模様から中に入れる。やはり中は暑かった。

 

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 (赤かぼちゃの中)

 

 以前直島に来たことがあるという友人の助言を受け、ロッカーに荷物預けて(300円)、電動自転車を借りた(1000円)。


 さっそく美術館のたくさんあるエリアへ行く。

 まずはかの有名な地中美術館をめざす。
 それには急な山道をしばらく上らなけらばならない。そのための電動自転車だ。もしこれが徒歩であれば、倍以上の時間がかかっただろう。

 途中「応神天皇御遺跡」の看板を見かけた。直島には第15代応神天皇が腰をかけたという石もあるらしい。

 

 住宅街の中に掲示板?があった。岡崎さんという方が風景を「直島百景」として描いているようだ。

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 斜面を登っていくごとに変わって見える瀬戸内海の景色を振り返り振り返り、楽しみつつ向かった。

 

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 汗だくで坂を上っていくと地中美術館の入り口が見えた。入ろうとすると、「チケットセンター」へ行けという。美術館本体と別にチケットのための建物があるとは…。チケットを買う列は途切れず、売店にも休憩スペースにもけっこう人がいる。駐輪場もほぼ満車。

 
 聞くと入場制限をかけており、入場券を買うための整理券を貰わなけらばならなかった。なんと面倒な。ただ一定人数ずつ入場させるのではなくて、券すらスムーズに買えないなんてことは初めてだ。もちろんすぐ貰う。このとき15時少し前で、整理券は15時30分~16時の間に入場券を買えるものだった。

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 時間を無駄にできないので、すぐ近くの李禹煥美術館へ行く。入り口の案内のおじさんにまさかとはおもいつつ「入場制限してませんか」と訊いたが、「そんなのない」と不愛想に言われた。ここの建築も地中美術館と同じく安藤忠雄による。30分ほど見た。

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 自転車を停め、門から少し歩くと入り口がある。壁に沿った細い階段を下ると、急に開けた場所に出る。「柱の広場」という名のここは、大きなコンクリート柱と石と鉄板がある。その右手に室内への入り口があって、高い壁の間の道を行く。

 

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 受付を済ますと「照応の広場」というところに出る。ここは塀に囲まれた屋外だ。また石と鉄板とがある。再び室内へ戻ると「出会いの間」がある。年代順にいくつかの絵画がならんでいる。その後「沈黙の間」「影の間」「瞑想の間」と続く。石に映像が投影されていたり、あの李禹煥独特のストロークが部屋の三面にあったりする。基本的には展示替えはないが、開館してから追加された作品もあるとのこと。

 よかったとか悪かったとかいうより何よりも感想として出てくるのは「あぁ李禹煥だなぁ」ということだ。この唯一無二の世界観を確立しているのはすごいことなのかもしれない。

 

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 美術館はなだらかに下る丘に面していて、作品の向こう側には海が見えた。この辺はツクツクボーシがやかましかった。

 

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 チケットを買って(パスポートを提示しても1000円かかる)、15時半頃から地中美術館を見る。内部は撮影禁止。パンフレットには「瀬戸内の自然と地中につくられた空間を通して、自然と人間の関係を考える場所です」とある。

 
 入り口から細い通路を入って行って、ショップなどがある部屋を抜けると展示スペースにつく。ウォルター・デ・マリア、モネ、ジェームズ・タレルの作品はそれぞれ別スペースにあって、それぞれを見るために並ばなければならない。特にタレル作品を見るのには15~20分くらい待った。作品はB2、B3にあることになっているが、中は迷路のようで自分がいる位置がよくわからなかった。地下と言っても自然光が取り入れられている上に広いので全く閉鎖的ではない。

 
 ウォルター・デ・マリアの作品は抽象彫刻によるインスタレーションとでもいえばいいのか。緊張感のある空間で、教会か何かに居るようだった。でもその神聖さは日本の寺社とはちがう感じだ。例えば、この作品の金色のオブジェはイコン画の背景の金を思いださせたけれど、日本の仏像に使われる金とは違うものを感じさせる。
 モネの作品もなかなか凝った部屋に展示してある。真っ白い石で壁ができていて、床は二センチ角ぐらいの小さい石のタイルが敷き詰められている。ここは靴を脱いで入る。足の裏の感触が気持ちいい。作品五点はいずれも晩年の「睡蓮」だ。ここの「睡蓮」がモネのたくさんある睡蓮の中でも良い絵なのかどうかはわからないけれど、絵のために部屋を作ってしまうのはすごい財力を感じる。
 ジェームズ・タレルの「オープン・フィールド」は、遠くから見るとただの壁に投影された青い光なのだが、その壁は実はくり抜かれていて、靴を脱いで中に入っていける。奥行のよくわからない空間を体験できるわけだ。それを見た後に「オープン・スカイ」を見る。これは何のことはない、ただ天井に四角い穴が開いた部屋で空を眺めることができるだけなのだが、空の青さが「オープン・フィールド」の青い部屋と重なっているからか、普段と違った気持ちで空を見上げてしまう。ここでは普段の物の認識が更新されている。それは頭で理解するというよりは、視覚が否応なく体験してしまっている点で特徴的だ。

 16時半ころまで見る。


 本村港のほうへ行ってみる。広木池の上には新宮晋を思い起させる小さくて白いオブジェがいっぱいあった。

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(戸高千世子「彼方の気配」)

 

 直島ダム近くには大きなゴミ箱の作品がある。これは産業廃棄物が材料として使われているらしいから、豊島にあった産廃も含まれているのかもしれない。

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(三島喜美代「もうひとつの再生 2005-N」)

 

 その近くに木が整然と植えてある広場がある。調べるとこれも作品らしい。安藤忠雄による「桜の迷宮」で、「直島に暮らす人々や島を訪れた人たちの花見や散歩、憩いの場として、この場所が活用されることをもくろむ」(芸術祭サイトより)のだとか。桜の時期じゃないと桜はただの木なんだなと思う。

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安藤忠雄「桜の迷宮」)

 

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(直島ダムのすぐ横には「水は生きている」の碑が。)

 

 
 本村エリアは下調べもなしに行って、建物が閉まっていたりもしたのでほとんど何も見れなかったのだが、町役場の建物は面白かった。

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直島町役場)

 一部ガラス張りだけど和風の屋根が乗っかっていて、西本願寺飛雲閣道後温泉を思い出させる。建築家・石井和紘の手によるもので、直島だとこの他に小学校も手掛けている。

 福武財団が入る前からこういう変わった建物をつくっていたのならば、それを受け入れる下地はあったのかもしれないとも思ってしまうが、役所や学校は島民のための施設であり、観光向けの施設とは性格が異なるだろう。

 

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(学校)

 

 
 宮ノ浦エリアに戻り、楽しみにしていた「直島銭湯I♥湯」を見に行く。ここは実際に銭湯として運営されている。せっかくなので入湯料510円を払って汗を流した。

  僕は男なので、言うまでもなく女湯の内装はみられなかった。残念だ。

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(「直島銭湯I♥湯」)

 浴室内の男湯と女湯の仕切りの上には象の像がある。これはその名も「ハナコ」と言って、かつては札幌の定山渓温泉近くにあった北海道秘宝館の入り口に居た。1000キロ以上も離れた瀬戸内海の島で再会するのは不思議な気持ちだ。

 

 
 フェリーまで時間があまりなかったが、一瞬だけ宮浦ギャラリー六区へ行き、丹羽良徳による「歴代町長に現町長を表敬訪問してもらう」を見た。霊能者に歴代町長を下してもらうという作品。一時間くらいの映像。とても全部は見られなかった。

 

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(フェリーから)


 18時20分のフェリーで島を離れた。船から眺める夕日は島々の後ろから射す後光のようでものすごくきれいだ。

 

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 19時過ぎに高松港に着く。

 
 芸術祭のインフォメーションセンターに行くと、大島行きは1日3便らしいことがわかる。翌日は大島に行くことに決めた。

 
 ホテルへ向かう。高松市街からは遠くて不便なところを選んでしまった。交通機関をのり間違えて、住宅街の中の暗い道を30分くらいキャリーバッグを引きながら歩いた。何回か田んぼに落ちそうになった。一日の終わりにひどい目にあった。
 21時過ぎにホテルについて、カップ麺を食う。22時から温泉へゆっくり浸かる。
 テレビをつけると「障害者のための情報バラエティー バリバラ」の、相模原の障害者殺傷事件についての緊急企画が入っていた。

 

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(ホテルの部屋にあった相田みつを

 

 「なみだで洗われたまなこはきよらかでふかい」

 


 1時前に就寝。

 

香川日記① 瀬戸内国際芸術祭2016 犬島

 

 

 瀬戸内海の豊島から犬島、直島へ行きました。その記録です。香川日記とあるけれど、犬島は岡山県です。

 これから瀬戸芸に行かれる方は読まないほうがいいかもしれません。


8.11

 
 授業で滞在していた豊島から四国汽船の高速旅客船で犬島へ向かった。9時50分発。この船は直島から豊島経由で犬島へ行く。ほとんど満員に近かった。定刻10時15分頃、犬島に到着。

  

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 「犬島」

 
 犬島の小さな港には白い海鳥がいた。そういえば豊島では海鳥を見ない。そのかわりというわけではないがトンビやタカはいっぱいいる。ついでにイノシシもいる。

 
 船を降りると多くの乗客はそのまま港の案内所へと荷物を預け、船の整理券をもらっていた。私もその流れに乗って荷物を預け、直島行きの船の整理券をもらう。船のチケットや犬島内の施設のチケットは、近くの「犬島チケットセンター」で買う。そこはチケットカウンターのほかギャラリーやショップも併設されている。精錬所美術館内の温度が表示されるモニターもあった。直島行き高速旅客船は1850円だ。結構高い。

 

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 港近くには恵比寿が祀られていた。

 

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 海岸沿いを歩き、犬島精錬所美術館へ。黄色っぽい砂の道を進む。海側には犬島で産出されたであろう石がランダムに並べられた低い塀がある。反対側には林があり、陶芸のギャラリーやコテージがある。日差しが強い。

 

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(コテージにあった看板)

 
 犬島精錬所美術館は、建築を三分一博志、アートを柳幸典が担当し、元は銅の精錬所だった敷地とその建築から作られた施設だ。パンフレットによれば、「遺産、建築、アート、環境」という要素を用いた新たなプロジェクトだそうだ。

 
 ここは文化庁が定義する「近代化遺産」ではなく、経産省が認定する「近代化産業遺産」であり、特に「地域と様々な関わりを持ちながら我が国の銅生産を支えた瀬戸内の銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」とされている。
 近代化産業遺産とは、破却されることの多かった日本の産業近代化に貢献した遺産を、地域活性化に有効活用する観点から、実態と保全・活用の取組み状況を調査の上価値の理解を深めるための「近代化産業遺産ストーリー」を作成し認定したもののこと。例えば北海道ならば炭鉱やビール、ニッカウイスキー、製紙関係の遺産などが近代化産業遺産だ。

 犬島精錬所の場合は、住友グループの基礎を作った別子銅山などのような、銅山経営の近代化と発展の流れの中で作られた施設の一つらしい。1909年に建設されたが銅の暴落によって約10年で操業を停止したという。

 

 入り口にはこれ以上錆びることのできないくらい錆びた柵がある。看板には「ご見学は個人の責任で・・・」などとある。遺構や自然環境をそのまま残しているためだから仕方がない注意喚起だが、少し不安になる。

 

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 柵から奥は黒くなったレンガや犬島で採れたと思しき石で組まれた迷路のような廃墟が続いている。空があまりにもカラッと晴れていて、ふと日本に居るのではないような気がした。写真で見たことのあるポンペイを思いだす。視界の端にはここのシンボルともいえる煙突がいつも立っていた。
 

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 少し行くと美術館の入口があった。朝の比較的はやい時間帯だが十数人並んでいた。この時期は瀬戸芸関連の施設はどこも混んでいるだろう。後から直島に行くのが少しいやな気持になった。
 
 入場前に説明があった。この施設は太陽熱や地熱を利用し、建物内の温度管理を自然に配慮した形で行っているのだという。また、汚水を植物の力によって浄化し、それによってミカンなどを育てているとも。

 
 入ると、まっすぐ奥までながく細い通路が続いているかのように見えるが、それは鏡を使ったトリックで、実は幾度も折れ曲がっている。滞在時間から考えて美術館内部はさほど広い空間ではなさそうなのだが、距離がつかめず、不思議な感覚を覚える。
 ふと振り返ると鏡には太陽のような燃える火の玉が映っていた。入り口近くのモニターに映っていたものだが、鏡が反射するから通路を曲がってどこまで行っても追いかけてくるように背後にある。これは精錬所の象徴か。あるいは、日本の国旗と重ね合わせて考えてもいいかもしれない。柳の日本国旗をモチーフにした作品が頭に浮かんだ。

 
 美術館内は6か所に柳の「ヒーロー乾電池」という連作がある。三島由紀夫を題材とし、三島が青年期を過ごした家の建具を使ったインスタレーションや、三島の文章を作品化したもので構成されている。
 建具が妙に気になった。そもそも古びたものは何でも趣というか風格を帯びるものだとも思うけれど、建具には古い家具や文房具や洋服とも違う、独特なパワーがある。
 三島が市ヶ谷駐屯地で演説した際の「檄」も作品化されていて、パネルで読める。でも犬島で「檄」を読まされてもなあ、というのが正直な感想である。近代がキーワードなのはわかるけれど、それでなんとなくわかった気になるのは、わからないよりなお悪いのではないか?私はこの作品の価値判断は今はしないしできない。はたして多くの観光客はこれを見て満足して帰るのだろうか?

 
 美術館を出、精錬所の遺構を見て回る。

 

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 木は松?が多い。ユリも目についた。自然に生えたにしてはきれいすぎるように見えるし、管理されているにしては奔放に伸びているようにも見える。廃墟になって数十年経ったかつての精錬所が今は、朽ち果て草木に埋もれることも、精錬所としてよみがえることもなしに、ある意味では中途半端な状態のまま改築され管理されてあるのは、奇妙なことだ。あたりの崩れかけたレンガや蔦に覆われた建造物があまりに廃墟としてでき過ぎているので、見惚れてしまった。完成度の高い廃墟。

 

 

 直島には「家プロジェクト」という名の一連の作品群もあり、アーティスティックディレクターの長谷川祐子と建築家の妹島和世が展開している。
 家プロジェクトというから、てっきり民家を作品で飾ったりして島の住民が住んだりアーティストが住んだりしているのかと思ったが違った。家といってもせいぜい作品の箱くらいの意味で、ほとんど家らしい外観をしていないものもあるし、「石職人の家跡」に関しては建物もない。もともとあった家を活かし改築しているところもあって、いろいろだ。

 

 まず名和晃平による「F邸」へ。作品の材質について訊いたら、案内人のおじさんが素っ気ないくらい歯切れよく説明してくれた。発泡ウレタン?だとか。こういう質問をする人は多かろう。爆発でできる煙を象った大きなオブジェだった。

 
 次に淺井裕介による「石職人の家跡」に行く。地元住民のおばあさんが観光客をつかまえて長々と解説していた。家跡には淺井さん独特のあの絵が描かれていて遺跡のようだ。じっくり見ても飽きない。

 

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(淺井裕介「石職人の家跡」)

 
 荒神明香による「S邸」「A邸」は家というか、何なのだろう。両方とも透明で曲面をもった壁のような建物のようなもので、きれいだ。丸っこくてかわいらしい椅子があった。

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「S邸」(荒神明香「コンタクトレンズ」)

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荒神明香「コンタクトレンズ」部分)

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(丸っこい椅子)

 
 島内では結構廃墟も見かけた。今は島民は50人ほどだという。

 
 途中、「←定紋石」と書かれた謎の看板と遭遇した。島の消防団の古びた建物の横に道が伸びていて、森の奥へ続いている。不安に思いつつも行ってみる。
 木の中を多少のアップダウンもありつつ少し進むと岩に突き当たった。石垣のように組まれている。よく見ると巴紋がついていた。これが定紋石らしい。

 

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定紋石。数箇所に巴紋がある)

 あたりには小銭が散らばっていたので宗教的なものかと思ったが、調べるとどうやら違っている。
 犬島は古くから石材を産出しており、江戸時代に大阪城を修築する際に、権勢を誇る意味合いもあったのだろう、西国の諸大名は巨岩に紋を刻み寄進したのだとか。その中のひとつがこの定紋石だということだ。今回見た中で唯一芸術祭に関係ないものがこれだった。私はこういうものももっと見たい。

 
 下平千夏による「C邸」は家の中に水糸が張り巡らされており、ハンモックのように乗れる。

 

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 ここでランチ休憩。古民家を利用した「ukicafe(ウキカフェ)」というお店に立ち寄る。昼時だったが運よくすぐ入れた。かなり暑かったので、ついついセルフサービスの冷たい水を何倍も飲んでしまった。タコの入ったトマトパスタをいただく。小さいサラダがついて900円くらいだったか。安くはない。観光地価格としては普通だろう。

 

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タコのパスタ)

 
 だんだん船の時間が近づいてきた。

 
 駆け足で小牟田悠介の「I邸」を見た。庭は色とりどりの花々が狂ったように鮮やかに咲いていて少し怖かった。

 
 港近くのお土産屋で犬島の石でできているワンコを買った。1000円。高いけどかわいらしいから買ってしまった。
 今回は見られなかったが犬島には犬のうずくまった形をした大きな石があって祀られている。それがモデルだ。犬島の名の由来となった犬には、菅原道真を助けたとか桃太郎伝説の犬と関係があるとかないとか、いろいろ伝承があるらしい。

 
 港にはすでに乗船の行列が。すぐ預けていた荷物を受け取り、急いで高速旅客船サンダーバードへ。犬島を定刻13時10分に出発。

 

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 朝出発した豊島を経由して直島へ行く。直島までは一時間。寝てしまう。

 
 直島の宮浦港へは14時ころに到着。

 

(続く)

福岡日記

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博多駅前)

 

 2016年6月20日、高松へ行ったついでに(全然ついでじゃない)福岡へ行きました。その記録です。

 

 

 

 高松駅で23時頃高速バスに乗り、博多に着いたのは7時50分。
 沖縄以外では京都より西に来たのは初めてだ。まだ美術館も何も開いていないので、とりあえず朝食を食べようと博多駅へ向かう。途中、持っていた魚肉ソーセージを我慢できず食べ歩きしてしまった。
 天気は曇り。ここ数日の天気が悪いので、雨が降らないよう祈る。
 8時15分に博多駅につく。札幌駅などと比べるとかなり威圧感がある。縦に走る柵のような外観の装飾の間にある時計がセンスの良さを見せつけているようだった。

 駅のそばに大きなやぐらのようなものがあって、見ると「博多祇園山笠」とデカデカと書かれていた。制作中の山車というか「山笠」のようだ。いつかは祭りも見たい。
 構内は通勤ラッシュ時だったので人の波に随分もまれた。タイル張りの壁などがありオシャレだ。


 ミスタードーナツに入ってモーニングセット(340円)を食べる。喫煙席しか空いてなかったので煙たいのが辛い。
 瀬戸内の豊島でカメラを落としてレンズのカバーガラス?を割っていたので、まだ使えるかどうか一刻も早くカメラ屋に見せたかった。携帯で調べると、駅の中にあるカメラのキタムラが博多周辺で一番はやく開店するらしいことが分かった。ミスドで時間をつぶして、開店後すぐ行って見てもらう。

 

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(試し撮りした写真)

 
 店主は一言「落とし方がうまい」。もっと派手に落として致命的なダメージを受けることもあるらしい。不幸中の幸いか。試し撮りをして見るも、特に異常は感じられない。カバーガラスを買ってそのまま使うことにした。4620円也。けっこう痛い出費だ。ホントはレンズの中心がずれていないかを工場に送って機械で測るのが望ましいと聞いていたのだが、小一万かかるらしいので断念する。


 駅を出るとひどい雨降りになっていた。駆け足でバスセンターへ向かい、福岡アジア美術館(以下アジ美)へ行くバスに乗る。

 博多座前で下車。まだ雨は降っていた。

 

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 バス停のすぐそばに川上音二郎の像があった。福岡藩の出身なのだという。

 
 アジ美はビルの7・8階に入っている建物なので、エレベーターで上がる。10時から見学。常設展示室としてアジアギャラリーがあり、他に貸しも行っているようだ。カフェスペースやチケット販売カウンター、図書室、さらにはレジデンス事業もやっており、ただの美術館ではない総合的な文化施設だった。
 展示室は基本的に写真撮影OK。カメラが復活した喜びからバッシャバッシャ撮る。

 

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(アジ美の様子。写真はシンガポールのアーティスト集団「PHUNK」による作品)

 

 アジアギャラリーでは「びっくり!そっくり!~究極のリアル~」「瞑想の森」という二つの所蔵品展と、コレクションをまとめた図録「アジアコレクション100」の発行記念展が開かれていた。アジアの近現代の美術作品を系統的に集めていることが説明されていて、ここまで明確で特徴的な方向性を持った美術館のコレクションを見たことがなかったので少し感動した。西洋からの影響や、それぞれの国の民族としての独自性に対する意識など、日本の美術と比較すればなおさら面白く鑑賞できそうだ。いずれ福岡アジアトリエンナーレにも来たい。
 12時過ぎまで見て、図録「アジアコレクション100」を買った。展示室から出ると雨が上がっていた。
 博多座前からバスに乗る。市内の特定の区間は「100円区間」になっているようだ。このわずか数十円くらいのお得感がとてもうれしい。

 三菱アルティアムへ向かう。初めて来た街であることに加え、建物が高くて周囲の状況がつかみにくく、なかなか見つからなかった。博多駅にしても、札幌よりずいぶんと都会のように思える。博多は建物がやけに密集しているように感じる。

 

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 三菱アルティアムでは「伊藤隆介のFilmstudies 天神洋画劇場」を見た。会場は写真撮影OK。過去に何度も作品を見る機会があったが、今回の出品作はいずれも見たことのない作品だった。ラッキー。新作もいくつも出品されていた。

 入ってすぐある作品「恐竜の支配」は記録映像が壁に投影されているのかと思いきやライブ映像であることが後から分かる仕組みで、今までと違う見せ方だなと思った。この作品はどこかのテーマパークの中を再現したかのような模型をライブ撮影する作品だが、入り口から左方向に細長い形の会場もいくつかの壁で仕切られていて、次々現れる作品による展示の展開もテーマパークのように楽しめる。

    今回の展示の作品の多くは、よく見ると「どこかの風景を再現した模型」を撮影するのではなく、「「どこかの風景を再現した模型」を撮影するスタジオ」を撮影しているものに見えた。言い換えれば「撮る側と撮られる側」の関係から一歩引いて、「「撮る側と撮られる側」とそれを見る(この表現が適切かどうかわからないが)側」のほうに焦点をあてたように見える。

 会場には映画のポスターもたくさん貼られていて、オブジェの一部にDVDの入れ物が使われたりモニターに映画が映っていたりもした。そのうちいくつかは名前こそ聞いたことがあっても見たことがないものがほとんどだった。上の世代の映画体験は自分の映画体験とは大きく違うのだろうなとも感じる。それでも自分なりに感じるところはあって、頭部だけの石仏に映画が投影されていてベッドのミニチュアがおいてある作品「涅槃に入る」はやはりナムジュンパイクの作品を思い出させたし、ワールドトレードセンターの絵葉書に映画の爆破シーンを投影する「スクリーンプロセス」はセクシーな女優の歌声も相まって見ていてクラクラした。近所のTSUTAYAには展覧会に合わせて特集コーナーができていて元ネタ?を知ることもできる。もちろん立ち寄った。DVDを借りられないのが残念だ。

 

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カルミンみたいな配色の電車)

 

 西鉄福岡駅から14時17分発で太宰府へ向かう。途中西鉄二日市駅で乗り換え。車中では瀬戸内で教えてもらった曲を聴いて過ごした。

 

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(やはり梅)

 駅から参道へ向かうと、傘をさそうか迷うくらいの微妙な雨が降っていた。

 

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 15時前には太宰府天満宮に到着した。手を清め、参拝。御朱印をいただく。残念ながら隣接する九州国立博物館は休館。

 

 「うそみくじ」を引くと、鳥のうその根付というかキーホルダーというか、そういう感じの素朴なおまけがついてくる。かわいい。

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(顔が少し怖い)

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 相撲の祖として知られる野見宿祢は菅原氏の先祖の土師氏の祖だということで、野見宿祢の碑があった。これは知らなかった。

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 15時半から 菅公歴史館をみる。看板の菅公がかわいい。
 地下の展示室に入ってすぐ、なぜか馬堀喜孝が描いた油絵があった。馬堀法眼喜孝は旧紙幣の聖徳太子の肖像などを手掛けた画家だ。

 展示物は菅公の生涯を再現した博多人形がずらっと並んでいたり、全国各地で作られた天神人形の展示など。興味深い。
 出口で菅公の博多人形絵ハガキや縁起絵巻の解説本を買う。


 出たら大雨。折りたたみ傘をさして、いよいよ楽しみにしていた絵馬堂へ。

 そもそも今年初めに見た北野天満宮で見た絵馬堂がすごかったから、太宰府天満宮もすごかろう、ということではるばる来たのだった。

 ちなみに太宰府天満宮では現代アートの展示も行われているらしい。今回はどこにあるのかよくわからなかった。

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(絵馬堂)

 絵馬堂はベンチが並んでいて、雨宿りや休憩にはぴったりだ。本来の用途ではないけれど。

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(ポップな絵馬)

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(割と最近描かれたらしい絵馬もちらほらあった)

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(弁財天?)

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(この絵馬は半立体だった)

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(曲水之宴再現記念とある)

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常盤御前?)

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 太宰府天満宮には16時過ぎまでいた。

 行きでは素通りした参道を物色する。

 

 梅ヶ枝餅というのを売っているお店がたくさんあったので、そのうち一軒の軒先に腰かけて一個だけ買って食べた。するとサービスなのかお茶が出てきた。130円。安くはない。

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 正月に焼いて食べる切り餅のなかに餡子を詰めたようなもので、外のカリカリした食感と餡子の組み合わせはシンプルでおいしい。

 帰りがけにほかのお店をみたら120円のところもあった。観光地というのはそういうものだろう。
 買う気はないが博多人形でも見ようと店に入ると雑貨も適当に並んでいて、見るといいマグカップがあったので買う。店主は有田焼だという。450円。南蛮人の絵がついている。

 

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南蛮人柄)

 

 それから、せっかく大宰府まで来たのだから牛の土人形でも買って帰ろうとしたが、なかなか見当たらず、やっと小さな赤牛の土鈴を見つけたので買う。325円。

    なんでも天神関連のグッズは太宰府天満宮が管理しているからなかなか新しい商品を勝手に置けないということに加え、全国どこでも同じような品揃えの土産物屋のチェーン店もたくさん出てきているため、天神人形などはあまり置いてないらしい。それでいいのか?

 

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(うそと赤牛)


 17時20分のバスで太宰府から博多駅へ。
 博多駅には18時過ぎに着。バス乗り場がわかりにくく、焦る。18時半頃バスに乗る。ぎりぎりだった。

 このバスは設備がかなりひどかった。今までで最悪といっても過言ではない。高速なのにトイレなし、コンセントなし、カーテンなしの三拍子そろいである。

 ひたすら寝る。帰りはずっと雨の中だった。
 明朝10時頃、新宿に到着。

 

 

豊島で考えたこと② 豊島美術館と茨と蚊

 

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豊島美術館内のアプローチ) 

 

 三題噺みたいなタイトルですが違います。豊島美術館に行って感じたことを書きました。

 

 

 

 

 豊島美術館に初めて行った。現代アートの聖地・瀬戸内の中でも特に有名な場所のひとつであろうここは、自然豊かな豊島のシンボルのような場所として受けとられていると思う。では、この場所においてアートと自然はどういう関係なのか?少し考えてみたい。

 

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豊島美術館内、「母型」を見る前に木の間から見える風景)

 

 豊島美術館はいわゆる「サイトスペシフィックアート」であるだけではなくて「ホワイトキューブ」である。

 例えば、私は美術館内を這っていた蟻を、今まで経験したことがないくらい愛おしく思った。手に載せもてあそんでみたくもなった。少なくともあの場で蟻を踏みつぶそうとは思えなかったし、思ったとしてもそうさせない空気があった。

 ホワイトキューブとは端的にいって「鑑賞経験を限りなく純粋化させる近代の芸術が生んだ空間」だ。そこにあるものがそのものとして純粋に見られる(とされる)場所であり、今日の美術作品の展示場所としてスタンダードな形式といえる。蟻を純粋に見た結果、愛でたくなるのかどうかは疑問があるかもしれない。しかし、少なくともそこは周囲の自然とは切り離された建物の中である。蟻は自然の中というよりは図鑑か標本箱の中で見る時に近い状況であったとは言えよう。それは蟻に対する鑑賞経験として純粋に近いといえるのではないか。

 もし豊島美術館に表れたのが蟻ではなく、部屋にいつも現れるうるさい蚊だったら、いつものように私は一瞬で叩きつぶしていただろうか?きっと愛(め)ではしないにしても(愛でようとしたら刺されるだろうが)、いつもと違った気持ちでそれを眺めたに違いない。その蟻と蚊に違いはあるのか。

 

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蚊取り線香

 

 そもそも豊島美術館は建築家・西沢立衛とアーティスト・内藤礼の合作で、「美術館を豊島に据えるには、建物だけでなく周辺の自然と一体となって再生すること」(ステートメントより)が重要と考え、何度も説明会を行った上で休耕田になっていた棚田を住民の協力も得て再生させ建てられたのだった。また建築家は美術館周辺の景観から建築、作品へと連続的に巡る鑑賞をめざし「ランドスケープも建築の一部として、アーティストの意向も取り入れながら」(ステートメントより)設計したとのことだ。 

 島の外部からの働きかけによって美しい棚田が復活したこと、壇山など豊島の自然と風景を意識し設計されたこと自体、悪いこととは思えない。しかし私は豊島美術館に、どこか違和感を覚えてしまった。

 

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(豊島の棚田)

 

 私は豊島のなかの様々な場所で、水資源の豊富さを感じさせる場所を見ることができた。水は壇山から島内を流れるうちに豊島石でろ過され、ときにため池となり、棚田を潤し、瀬戸内海へ流れだす。

 もし水を使った内藤礼のこの「母型」という作品が豊島の豊かな水を象徴し、だからこそ棚田のそばにあるのだとしても、私にはその必然性がわからない。豊島の豊かな水を象徴しているのは「唐櫃の清水」に他ならないし、美しい棚田越しに瀬戸内海を眺めればそれで豊島がいかに豊かな島なのか分かるのではないか?実際のところ私は内藤礼の作品を見る前に豊島の豊かさを十分感じていた。

 もっとほかにささやかなやり方があったのではないだろうか、と思ってしまう。豊島美術館は棚田の中につくるにしてはあまりに大きい存在で、あまりにホワイトキューブ的だと私には思える。周辺の自然と一体となる在りようとはズレが生じていると感じる。

 もちろん、アート作品があるからこそ島に人が来るという面も自分なりに理解しているつもりだ。ただの美しい棚田は人目は引かないかもしれない。アートを見に島に来ること、そしてわずかでも島のことを知ること、それはたぶん素晴らしいことだ(私自身もアートを見に来た者の一人であった)。豊島美術館の存在意義が全くない、などとは露程も思わない。

 「母型」は私が蟻を愛でたくなったようにモノの見方を変えてくれる。モノの見方を変えることこそアートの存在意義のひとつだろう。だとすればその意味では「母型」は素晴らしい作品に違いない。

 

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(豊島の石組み)

 

 ここで草刈りの話をしたい。豊島で授業の一環で何日かひたすら草刈りを行った。その時に雪かきに例えて話したことが個人的にとても腑に落ちたのだ。僕は農家の生まれじゃないし家庭菜園もなかったので草むしりや草刈りの経験は少ない。でも雪かきはやってきた。この二つに共通する点は多いと思う。

 放っておいたら雪に(草に)飲み込まれるから、どうせ降る(生える)のに定期的にしなきゃならない。かなり労力も時間もがかかるのにそこから直接得られるものは徒労だ。でもただの徒労ではなくて、どこかに面白さも付随している。いずれも風景を変えることが共通しているから、それが人間にとって快楽なのかもしれない。ただし風景を変えると言ってもそれは一時的で、雪ならば春には溶けるし冬にはまた降る。草は再び生える。

 しかしいつのまにか人間は風景を半永久的に変える力をも持つようになった。そうして変えた風景は、いずれ人間の周囲の風景のみならず、人間自身にも取り返しのつかない事態を引き起こすのではないか。私はそれが恐ろしい。

 

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豊島美術館内の草。豊島に自生する植物から選んで植えたのだという)

 

 「人間は自然といかにバランスをとって生きて行くべきか」という、あまりにも大きすぎる問いに対して答えを考えてみよう。人間が一方的に自然に呑まれ翻弄され生きて行くのも、自然を征服し修復不可能なまで利用するのも良いと思えない。 

 そこは自然と取っ組み合いのやり合いをするのがいまのところ最善の答えなのではないか。例えばそれは草刈りであり雪かきである。イバラは肌を刺し雪は冷たさで肌を刺す。しかし私たちの側も対抗し雪をかいては溶かし草を刈っては燃やす。それは徒労かもしれない。でも、その関係を維持することでしか生きていけない気もするのだ。

 さて、蚊もやはり人間の肌をさす。私は蚊取り線香か手で叩くかして数多の蚊を殺してきた。それは紛れもなく自分がよりよく生きて行くためである。これもまた人間にとっては徒労かもしれない。毎年夏になればだれでも蚊に悩まされるから。

 

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(とんび?)

 

 その意味で豊島美術館における蟻はどうか。愛でることはできても殺せない。

 蟻は作品の一部として計算されているだろうし、蜘蛛だって蚊だって風だって自然だって、豊島のあらゆるものは全部そうだろう(ちなみに前記ステートメントには「ランドスケープも建築の一部」とあり、「建築もランドスケープの一部」とは書かれていない)。

 ならば豊島美術館に来た鑑賞者も作品の一部として振舞うことを求められるのは当然かもしれない。水たまりを囲んでたくさんのひとがほとんどしゃべらず佇んでいる光景は異様だとしか言いようのない光景だった。

 豊島美術館に対して、蟻と蜘蛛と蚊と風と豊島と私たちは、おそらくほとんどしゃべらず佇むことしか許されていない。美術館か図鑑か標本箱かに陳列されるように。

 

 私には、蟻も殺せないよう場所ではとても自然と関係をもつことなんてできないように思えるのである。「美術館を豊島に据える」ために重要だった「建物だけでなく周辺の自然と一体となって再生すること」とは何なのだろう。そこにはある種の歪んだ関係があるように感じられる。そしてその歪みは、アートに関わる私自身の歪みかもしれない。

 

 

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(終)

 

豊島で考えたこと① 豊島の景色がなぜ信じられなかったか

  

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 今とっている授業の関係で瀬戸内海の豊島に行って来ました。直島とならぶ言わずと知れた現代アートの聖地ですが、豊島石や社会福祉事業、かつての産業廃棄物問題など、知れば知るほど奥が深い島です(知れば知るほど奥が深くない土地なんてどこにもないんだけどね)。もっと勉強せねばという感じです。

 それで思ったことを以下に書きます。豊島の景色についてです。

 

 

 

 僕は札幌生まれ札幌育ちで北海道内こそあちこちに行っているけれど、京都以西に沖縄以外で行ったのは初めてだった。海とのかかわりは薄く、水と言えば札幌の名の由来ともなった豊平川が思い浮かぶ。 

 今でも海を見るとテンションがあがる。船に乗ったのも今まで両手で数えるくらいしかない。

 豊島は初めてのことだらけだった。特に景色には自分でも異様だと思えるほどに反応してしまった。

  

 豊島の景色は僕にとって信じがたいものだった。それが眼の前にあることに現実味がなかった。それは今までの僕が見てきたどの景色とも違ったからだ。

 

 豊島で壇山から見た景色は、島の輪郭の海を隔てた向こうに瀬戸内海の島々が水墨画に描かれたような濃淡で遠ざかっていて、絵のような景色だと思えた。空気遠近法と上下遠近法で描かれた絵のように見えた。雪舟天橋立図が浮かんだ。

 

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 僕は北海道の土地の広さや空の広さを知っていても、その形を見たことはない。もちろん海岸線を車で走ったことはあるし海で遊んだこともある。でも海岸線はあくまで直線か曲線で、何の形も作ってはいなかった。北海道は島だと知っていてもそれを実感できることはなかった。例外的に北海道の輪郭の断片が見える場所はいくつかあろう。でもそれらを統合するのは難しい。

 豊島では島のどこに居ても海が見え、高いところに登れば海岸線が島の輪郭の断片になっているというのが見て分かる。つまり、豊島は海に浮かぶ島なのだ、というごく当たり前のことが自分の目で分かる。そこまでいうと言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも北海道よりは自分のいる土地の形を把握できる。そのことが僕にはなかった経験だった。

 だから壇山からのパノラマを見て自分が今まさに瀬戸内海の豊島にいると感じた時、その風景は絵のようなものにしか見えなかった。それほどに僕の世界観にない景色だった。

 こういうところで育った人と僕とは、世界の把握の仕方も違ったものになるかもしれない。

 

(終)

吉野せい「洟をたらした神」(中公文庫)

 

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 (写真は特に内容と関係ないです)

  本の感想です。随筆です。内容に触れます。

 

 吉野せい(1899~1977)は、現・福島県いわき市小名浜生まれの文筆家。

 1916年頃から小学校教員を務める傍ら山村暮鳥と交流する。1921年、詩人・三野混沌と結婚し、現・いわき市好間の菊竹山で、一町六反歩を開墾する開拓農民生活に入る。六人の子女を育て、混沌が亡くなったのち、交流のあった草野新平に勧められ1970年から再び文筆活動に入る(このいきさつについては本書の「信といえるなら」に書かれている)。

 この本には吉野が大正11年春から昭和49年春まで体験した出来事をつづった随筆が16篇収まっている。内容は主に開拓農民の生活と回想である。

 文庫の底本の出版は彌生書房から1975年である。

 

 中公文庫版は初版が2012年。児童文学者・翻訳家の清水眞砂子が解説を寄せている。二十年ぶりに本書を読みなおして清水と吉野との「距離の近さ」(p223)に驚き、清水の父や兄と重なるエピソードの多いことを述べている。

 私は親戚に農家がいるものの、開墾の苦労や喜びは本書を通して知るのみであり、まして戦中戦後の生活は時代が離れすぎていて、到底自分が理解できるようなものと思えない。だから私にとって本書は距離が遠いといえる。しかし、こんなにも胸を打つ随筆にはなかなか出合えない。私は清水のように境遇や時代背景に関する共感を覚えることによっては感動できないが、この文章にはそれらを超えた凄みを覚える。

 

 例えば、たたみかけるような個性的な状況描写や比喩からそれは感じられる。実に50年ものブランクを挟んでの文筆活動であるが、おそらくは暮鳥との交流の中で文章を書いた経験はあるだろうし、常に詩人の混沌と生活していたから、文章には接していたのだろう。全く素人が書いた感じは受けないのと同時にこなれた感じもしない、非常に不思議な文章になっている。

 その不思議さというのは、力強く率直でぶっきらぼうな、いかにも生活の実感の中から出てきた感じをもちつつも、素朴とか簡素と言うよりはむしろ装飾的で説明的な独特の語りにある。

 

 最初に載っている「春」(p8)の冒頭から圧倒される。

 

―――春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間のくすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく、すぐにとび込んで欲しい反射の色です―――

 

「かなしいやつ」の冒頭でも、詩に対する思いを独特の表現で述べているし、「赭(あか)い畑」での室内描写(p82)なども非常に具体的で詳細だ。

 これら独特の表現は吉野が普段からよくものを観察し考えていて、しかも表現することに長けていたから可能になったものだろう。50年もの間文章を書かなかったかもしれないが、潜在的に文筆家だったといえる。

 これらの文章は美しい修辞をめざしたものでもなければ、崇高な思想を説くものでもない。実際に吉野が体験した出来事を子細に描写し、また想いを率直に表現している。生活綴方のような感じすら受ける。これらの文章は、詩人に冠をつけた「農民詩人」(p20)のそれではなく「百姓女」(p215)のものだ。ここで書かれているのは、「貧乏百姓の生活の真実のみ」(p221)であり、その生活は「大地を相手の祈り一すじ、自分自身のかぼそい努力に報われてくる応分の糧を授かりたい、つつましい生存の意慾より外に現在とて何もない」(p215)のだ。

 

 そういうありのままの開拓農民の生活は、特に私のように生まれてこの方市街地で暮らしてきた者としては、自然と共生した生活の礼讃につながりそうにも思える。例えば「信といえるなら」にあるように、経験の積み重ねから天候を予測するような生活は、テレビやネットの天気予報に頼っている私には信じられないものであるし、そのような生き方への憧れも持ちうる。

 しかし吉野の文章を読んでも礼讃する気にはなれなかった。それは、吉野が生活をありのままに凝視しているがために、非常に個人的で具体的な内容ながら、普遍的ともいえそうな生きる苦しみや喜びを描きことに成功しているからだ。それも一筋縄ではいかないような、苦しみと喜びが複雑に織り込まれた感情を私に呼び起こさせる。

 

 例えば、表題作の「洟をたらした神」では、甘えず物をねだらず「いつも根気よく何かをつくり出すことに熱中する」(p35)ノボルは、ヨーヨーをねだるが買ってもらえない。それで終わればただの悲しい貧乏の話なのだが、最後にはノボルは自らの手でヨーヨーを作り上げる。吉野いわく「それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどり」(p45)なのである。私はこの表現に、貧乏の辛さ悲しさや暮らしの中のほほえましさを超えた、得体のしれないものへの畏怖を感じる。

 また、「どろぼう」は、吉野の畑に入った泥棒を集落総出で捕まえる話なのだが、当然泥棒も生きるのに必死で、やむなく泥棒したのであった。その許しを懇願する様はあまりに哀れだ。そして最後に混沌は「つかまえねばよかったんだ!」(p117)と言い放つ。泥棒は憎いが、念願かなって捕まえてみてもまた後悔してしまう。ならばどうすればよいのか?

 

 生きて行くということは本当に一筋縄ではいかない複雑なものなのだ。その複雑さは、生きるものすべてに共感を覚えさせるものではないか。これは、たたみかけるような具体的な生活描写と率直な想いをつづった吉野の文体でなければなかなか感じられるものではないだろう。

 今後も吉野の文章を読み返すたび、現在進行形で生きている自分自身の生について思いを巡らすような気がしている。