こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

豊島で考えたこと② 豊島美術館と茨と蚊

 

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豊島美術館内のアプローチ) 

 

 三題噺みたいなタイトルですが違います。豊島美術館に行って感じたことを書きました。

 

 

 

 

 豊島美術館に初めて行った。現代アートの聖地・瀬戸内の中でも特に有名な場所のひとつであろうここは、自然豊かな豊島のシンボルのような場所として受けとられていると思う。では、この場所においてアートと自然はどういう関係なのか?少し考えてみたい。

 

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豊島美術館内、「母型」を見る前に木の間から見える風景)

 

 豊島美術館はいわゆる「サイトスペシフィックアート」であるだけではなくて「ホワイトキューブ」である。

 例えば、私は美術館内を這っていた蟻を、今まで経験したことがないくらい愛おしく思った。手に載せもてあそんでみたくもなった。少なくともあの場で蟻を踏みつぶそうとは思えなかったし、思ったとしてもそうさせない空気があった。

 ホワイトキューブとは端的にいって「鑑賞経験を限りなく純粋化させる近代の芸術が生んだ空間」だ。そこにあるものがそのものとして純粋に見られる(とされる)場所であり、今日の美術作品の展示場所としてスタンダードな形式といえる。蟻を純粋に見た結果、愛でたくなるのかどうかは疑問があるかもしれない。しかし、少なくともそこは周囲の自然とは切り離された建物の中である。蟻は自然の中というよりは図鑑か標本箱の中で見る時に近い状況であったとは言えよう。それは蟻に対する鑑賞経験として純粋に近いといえるのではないか。

 もし豊島美術館に表れたのが蟻ではなく、部屋にいつも現れるうるさい蚊だったら、いつものように私は一瞬で叩きつぶしていただろうか?きっと愛(め)ではしないにしても(愛でようとしたら刺されるだろうが)、いつもと違った気持ちでそれを眺めたに違いない。その蟻と蚊に違いはあるのか。

 

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蚊取り線香

 

 そもそも豊島美術館は建築家・西沢立衛とアーティスト・内藤礼の合作で、「美術館を豊島に据えるには、建物だけでなく周辺の自然と一体となって再生すること」(ステートメントより)が重要と考え、何度も説明会を行った上で休耕田になっていた棚田を住民の協力も得て再生させ建てられたのだった。また建築家は美術館周辺の景観から建築、作品へと連続的に巡る鑑賞をめざし「ランドスケープも建築の一部として、アーティストの意向も取り入れながら」(ステートメントより)設計したとのことだ。 

 島の外部からの働きかけによって美しい棚田が復活したこと、壇山など豊島の自然と風景を意識し設計されたこと自体、悪いこととは思えない。しかし私は豊島美術館に、どこか違和感を覚えてしまった。

 

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(豊島の棚田)

 

 私は豊島のなかの様々な場所で、水資源の豊富さを感じさせる場所を見ることができた。水は壇山から島内を流れるうちに豊島石でろ過され、ときにため池となり、棚田を潤し、瀬戸内海へ流れだす。

 もし水を使った内藤礼のこの「母型」という作品が豊島の豊かな水を象徴し、だからこそ棚田のそばにあるのだとしても、私にはその必然性がわからない。豊島の豊かな水を象徴しているのは「唐櫃の清水」に他ならないし、美しい棚田越しに瀬戸内海を眺めればそれで豊島がいかに豊かな島なのか分かるのではないか?実際のところ私は内藤礼の作品を見る前に豊島の豊かさを十分感じていた。

 もっとほかにささやかなやり方があったのではないだろうか、と思ってしまう。豊島美術館は棚田の中につくるにしてはあまりに大きい存在で、あまりにホワイトキューブ的だと私には思える。周辺の自然と一体となる在りようとはズレが生じていると感じる。

 もちろん、アート作品があるからこそ島に人が来るという面も自分なりに理解しているつもりだ。ただの美しい棚田は人目は引かないかもしれない。アートを見に島に来ること、そしてわずかでも島のことを知ること、それはたぶん素晴らしいことだ(私自身もアートを見に来た者の一人であった)。豊島美術館の存在意義が全くない、などとは露程も思わない。

 「母型」は私が蟻を愛でたくなったようにモノの見方を変えてくれる。モノの見方を変えることこそアートの存在意義のひとつだろう。だとすればその意味では「母型」は素晴らしい作品に違いない。

 

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(豊島の石組み)

 

 ここで草刈りの話をしたい。豊島で授業の一環で何日かひたすら草刈りを行った。その時に雪かきに例えて話したことが個人的にとても腑に落ちたのだ。僕は農家の生まれじゃないし家庭菜園もなかったので草むしりや草刈りの経験は少ない。でも雪かきはやってきた。この二つに共通する点は多いと思う。

 放っておいたら雪に(草に)飲み込まれるから、どうせ降る(生える)のに定期的にしなきゃならない。かなり労力も時間もがかかるのにそこから直接得られるものは徒労だ。でもただの徒労ではなくて、どこかに面白さも付随している。いずれも風景を変えることが共通しているから、それが人間にとって快楽なのかもしれない。ただし風景を変えると言ってもそれは一時的で、雪ならば春には溶けるし冬にはまた降る。草は再び生える。

 しかしいつのまにか人間は風景を半永久的に変える力をも持つようになった。そうして変えた風景は、いずれ人間の周囲の風景のみならず、人間自身にも取り返しのつかない事態を引き起こすのではないか。私はそれが恐ろしい。

 

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豊島美術館内の草。豊島に自生する植物から選んで植えたのだという)

 

 「人間は自然といかにバランスをとって生きて行くべきか」という、あまりにも大きすぎる問いに対して答えを考えてみよう。人間が一方的に自然に呑まれ翻弄され生きて行くのも、自然を征服し修復不可能なまで利用するのも良いと思えない。 

 そこは自然と取っ組み合いのやり合いをするのがいまのところ最善の答えなのではないか。例えばそれは草刈りであり雪かきである。イバラは肌を刺し雪は冷たさで肌を刺す。しかし私たちの側も対抗し雪をかいては溶かし草を刈っては燃やす。それは徒労かもしれない。でも、その関係を維持することでしか生きていけない気もするのだ。

 さて、蚊もやはり人間の肌をさす。私は蚊取り線香か手で叩くかして数多の蚊を殺してきた。それは紛れもなく自分がよりよく生きて行くためである。これもまた人間にとっては徒労かもしれない。毎年夏になればだれでも蚊に悩まされるから。

 

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(とんび?)

 

 その意味で豊島美術館における蟻はどうか。愛でることはできても殺せない。

 蟻は作品の一部として計算されているだろうし、蜘蛛だって蚊だって風だって自然だって、豊島のあらゆるものは全部そうだろう(ちなみに前記ステートメントには「ランドスケープも建築の一部」とあり、「建築もランドスケープの一部」とは書かれていない)。

 ならば豊島美術館に来た鑑賞者も作品の一部として振舞うことを求められるのは当然かもしれない。水たまりを囲んでたくさんのひとがほとんどしゃべらず佇んでいる光景は異様だとしか言いようのない光景だった。

 豊島美術館に対して、蟻と蜘蛛と蚊と風と豊島と私たちは、おそらくほとんどしゃべらず佇むことしか許されていない。美術館か図鑑か標本箱かに陳列されるように。

 

 私には、蟻も殺せないよう場所ではとても自然と関係をもつことなんてできないように思えるのである。「美術館を豊島に据える」ために重要だった「建物だけでなく周辺の自然と一体となって再生すること」とは何なのだろう。そこにはある種の歪んだ関係があるように感じられる。そしてその歪みは、アートに関わる私自身の歪みかもしれない。

 

 

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(終)

 

豊島で考えたこと① 豊島の景色がなぜ信じられなかったか

  

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 今とっている授業の関係で瀬戸内海の豊島に行って来ました。直島とならぶ言わずと知れた現代アートの聖地ですが、豊島石や社会福祉事業、かつての産業廃棄物問題など、知れば知るほど奥が深い島です(知れば知るほど奥が深くない土地なんてどこにもないんだけどね)。もっと勉強せねばという感じです。

 それで思ったことを以下に書きます。豊島の景色についてです。

 

 

 

 僕は札幌生まれ札幌育ちで北海道内こそあちこちに行っているけれど、京都以西に沖縄以外で行ったのは初めてだった。海とのかかわりは薄く、水と言えば札幌の名の由来ともなった豊平川が思い浮かぶ。 

 今でも海を見るとテンションがあがる。船に乗ったのも今まで両手で数えるくらいしかない。

 豊島は初めてのことだらけだった。特に景色には自分でも異様だと思えるほどに反応してしまった。

  

 豊島の景色は僕にとって信じがたいものだった。それが眼の前にあることに現実味がなかった。それは今までの僕が見てきたどの景色とも違ったからだ。

 

 豊島で壇山から見た景色は、島の輪郭の海を隔てた向こうに瀬戸内海の島々が水墨画に描かれたような濃淡で遠ざかっていて、絵のような景色だと思えた。空気遠近法と上下遠近法で描かれた絵のように見えた。雪舟天橋立図が浮かんだ。

 

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 僕は北海道の土地の広さや空の広さを知っていても、その形を見たことはない。もちろん海岸線を車で走ったことはあるし海で遊んだこともある。でも海岸線はあくまで直線か曲線で、何の形も作ってはいなかった。北海道は島だと知っていてもそれを実感できることはなかった。例外的に北海道の輪郭の断片が見える場所はいくつかあろう。でもそれらを統合するのは難しい。

 豊島では島のどこに居ても海が見え、高いところに登れば海岸線が島の輪郭の断片になっているというのが見て分かる。つまり、豊島は海に浮かぶ島なのだ、というごく当たり前のことが自分の目で分かる。そこまでいうと言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも北海道よりは自分のいる土地の形を把握できる。そのことが僕にはなかった経験だった。

 だから壇山からのパノラマを見て自分が今まさに瀬戸内海の豊島にいると感じた時、その風景は絵のようなものにしか見えなかった。それほどに僕の世界観にない景色だった。

 こういうところで育った人と僕とは、世界の把握の仕方も違ったものになるかもしれない。

 

(終)

吉野せい「洟をたらした神」(中公文庫)

 

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 (写真は特に内容と関係ないです)

  本の感想です。随筆です。内容に触れます。

 

 吉野せい(1899~1977)は、現・福島県いわき市小名浜生まれの文筆家。

 1916年頃から小学校教員を務める傍ら山村暮鳥と交流する。1921年、詩人・三野混沌と結婚し、現・いわき市好間の菊竹山で、一町六反歩を開墾する開拓農民生活に入る。六人の子女を育て、混沌が亡くなったのち、交流のあった草野新平に勧められ1970年から再び文筆活動に入る(このいきさつについては本書の「信といえるなら」に書かれている)。

 この本には吉野が大正11年春から昭和49年春まで体験した出来事をつづった随筆が16篇収まっている。内容は主に開拓農民の生活と回想である。

 文庫の底本の出版は彌生書房から1975年である。

 

 中公文庫版は初版が2012年。児童文学者・翻訳家の清水眞砂子が解説を寄せている。二十年ぶりに本書を読みなおして清水と吉野との「距離の近さ」(p223)に驚き、清水の父や兄と重なるエピソードの多いことを述べている。

 私は親戚に農家がいるものの、開墾の苦労や喜びは本書を通して知るのみであり、まして戦中戦後の生活は時代が離れすぎていて、到底自分が理解できるようなものと思えない。だから私にとって本書は距離が遠いといえる。しかし、こんなにも胸を打つ随筆にはなかなか出合えない。私は清水のように境遇や時代背景に関する共感を覚えることによっては感動できないが、この文章にはそれらを超えた凄みを覚える。

 

 例えば、たたみかけるような個性的な状況描写や比喩からそれは感じられる。実に50年ものブランクを挟んでの文筆活動であるが、おそらくは暮鳥との交流の中で文章を書いた経験はあるだろうし、常に詩人の混沌と生活していたから、文章には接していたのだろう。全く素人が書いた感じは受けないのと同時にこなれた感じもしない、非常に不思議な文章になっている。

 その不思議さというのは、力強く率直でぶっきらぼうな、いかにも生活の実感の中から出てきた感じをもちつつも、素朴とか簡素と言うよりはむしろ装飾的で説明的な独特の語りにある。

 

 最初に載っている「春」(p8)の冒頭から圧倒される。

 

―――春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間のくすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく、すぐにとび込んで欲しい反射の色です―――

 

「かなしいやつ」の冒頭でも、詩に対する思いを独特の表現で述べているし、「赭(あか)い畑」での室内描写(p82)なども非常に具体的で詳細だ。

 これら独特の表現は吉野が普段からよくものを観察し考えていて、しかも表現することに長けていたから可能になったものだろう。50年もの間文章を書かなかったかもしれないが、潜在的に文筆家だったといえる。

 これらの文章は美しい修辞をめざしたものでもなければ、崇高な思想を説くものでもない。実際に吉野が体験した出来事を子細に描写し、また想いを率直に表現している。生活綴方のような感じすら受ける。これらの文章は、詩人に冠をつけた「農民詩人」(p20)のそれではなく「百姓女」(p215)のものだ。ここで書かれているのは、「貧乏百姓の生活の真実のみ」(p221)であり、その生活は「大地を相手の祈り一すじ、自分自身のかぼそい努力に報われてくる応分の糧を授かりたい、つつましい生存の意慾より外に現在とて何もない」(p215)のだ。

 

 そういうありのままの開拓農民の生活は、特に私のように生まれてこの方市街地で暮らしてきた者としては、自然と共生した生活の礼讃につながりそうにも思える。例えば「信といえるなら」にあるように、経験の積み重ねから天候を予測するような生活は、テレビやネットの天気予報に頼っている私には信じられないものであるし、そのような生き方への憧れも持ちうる。

 しかし吉野の文章を読んでも礼讃する気にはなれなかった。それは、吉野が生活をありのままに凝視しているがために、非常に個人的で具体的な内容ながら、普遍的ともいえそうな生きる苦しみや喜びを描きことに成功しているからだ。それも一筋縄ではいかないような、苦しみと喜びが複雑に織り込まれた感情を私に呼び起こさせる。

 

 例えば、表題作の「洟をたらした神」では、甘えず物をねだらず「いつも根気よく何かをつくり出すことに熱中する」(p35)ノボルは、ヨーヨーをねだるが買ってもらえない。それで終わればただの悲しい貧乏の話なのだが、最後にはノボルは自らの手でヨーヨーを作り上げる。吉野いわく「それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどり」(p45)なのである。私はこの表現に、貧乏の辛さ悲しさや暮らしの中のほほえましさを超えた、得体のしれないものへの畏怖を感じる。

 また、「どろぼう」は、吉野の畑に入った泥棒を集落総出で捕まえる話なのだが、当然泥棒も生きるのに必死で、やむなく泥棒したのであった。その許しを懇願する様はあまりに哀れだ。そして最後に混沌は「つかまえねばよかったんだ!」(p117)と言い放つ。泥棒は憎いが、念願かなって捕まえてみてもまた後悔してしまう。ならばどうすればよいのか?

 

 生きて行くということは本当に一筋縄ではいかない複雑なものなのだ。その複雑さは、生きるものすべてに共感を覚えさせるものではないか。これは、たたみかけるような具体的な生活描写と率直な想いをつづった吉野の文体でなければなかなか感じられるものではないだろう。

 今後も吉野の文章を読み返すたび、現在進行形で生きている自分自身の生について思いを巡らすような気がしている。

【アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成 アーカイブ ワークショップ】 旅の記録②

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 (朝の函館駅近く、セイコーマート前)

 

 3月15日から29日まで、「アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成 アーカイブ ワークショップ」というものに参加していました。

 その記録②です。

 

 

2016年3月21日

 

 昨晩(20日)に札幌を出て、朝5時過ぎに函館到着。すごく寒い。風が強い。カモメか何かの声が聞こえる。水が見えなくとも港町らしさが感じられる。

 

 函館駅に駆け込む。立派で綺麗だ。ここに来るのは小学校低学年以来。おぼろげに頭に浮かぶ、かつての古臭い駅舎の方が旅情をそそる気がした。
 やはり構内外は新幹線の広告だらけ。開業まであと5日に迫っている。札幌とは盛り上がりが違う。新幹線のお膝元なのだ。札幌もいずれこうなるのだろうか。

 

広告にはGLAYが。

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 セイコーマートに寄って朝食を調達。
 博物館の開館までの数時間は特にやることもないので、歩く。朝市を冷やかす。

 カニやらホタテやら。 

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 ショーウィンドーは圧巻のピンク色で、いっぱい撮影した。

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7時半で0度・・・。

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銅像を撮って遊ぶ。

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 他にも、ラッキーピエロ一号店など見る。

 ソフトクリーム多すぎでは・・・?

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坂の上の教会群は外国みたい。

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東本願寺函館別院は大正4年の建築で、日本初鉄筋コンクリートの寺院。立派。

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 朝一番は北方民族資料館に行くつもりだったのが、予定には無かった函館市文学館に入った。一階が函館ゆかりの作家の資料展示で、二階はほぼ啄木の資料で埋まっている。この構成からして「啄木推し」なのだということが分かる。本郷新が作った啄木像の原型があって、写真撮影可能コーナーになっている(ここ以外は禁止)。

 

 10時半頃から北方民族資料館を見学。

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 現在のアイヌ民族について紹介するビデオ(といっても作られてから5年や10年は経ってそうだった)があって、「今では日本人と同じ暮らしをしています」みたいな紹介があっておどろいた。そんなことは僕には自明だったからだ。それでも、おそらく道外から来たらしい中年の夫婦が「アイヌは日本語喋れるの?」と言っていたのを聞いたから、大多数の日本人の認識はそんなものなのかもしれない。俳優の宇梶さんが出演していた。

 数点アイヌ絵もあった。所蔵品はいくつかの個人コレクションが元になっているようだが、目録の公開やアーカイブ化はされていないようで残念である。何とかして欲しい。所蔵品の公開に努めるのは館の仕事ではないか。


 函館市中央図書館に向かう。五稜郭の前には、ラーメン屋「味彩」があって、行列ができていた。そのすぐ近くにもラッキーピエロがあった。

 駅から図書館まではけっこう距離がある。ダルい。途中、イカ飯を食べる。

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函館市中央図書館は非常に使いやすそうな施設に見えた。函館市民がうらやましい。ステンドグラスがきれい。

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 資料閲覧。おニューのカメラでたくさん写真を撮った。

 思ったより簡単に資料が見られることが分かったので、翌日予定していた松前行きを翌々日にして、再度函館市中央図書館に来ることを決める。

 

 五稜郭公園を少し見学。超寒い。風がかなり強い。五稜郭の設計者である武田斐三郎の碑を浴びるように撫でてきた(武田斐三郎の肖像レリーフの頭の部分を撫でると頭がよくなると言われている)。顔だけ光っている。

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「味彩」に入った。

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 やっぱり函館と言えば塩ラーメンだ。出てきたラーメンについていた割り箸の袋には北海道新幹線が。うまかった。

 ここで昨日買ったばっかりのカメラのフードをなくしたことに気がつく。ショック。
 

 電車の中も北海道新幹線だらけ。

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 念のため函館駅前の交番に寄って、カメラのフードの落し物の報告があるか聞いた。もちろんなかった・・・。

 

 チェックイン。ホテルはごくふつうのビジネスホテルで、廊下はなんのにおいかわからないが独特なにおいがして、ちょっと我慢ならなかったけれど、それ以外はそれなりの設備。

 

 部屋着は浴衣だった。

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 私はアイヌ絵を見にはるばる狭いバスに乗って函館まで来たわけだが、ひとつ気になっていることがあった。それはアイヌの描かれ方だ。アイヌは決まって着物の合わせが左前で描かれる。それは中国由来の考え方では蛮族の風俗だとされ、日本でもそうされたらしい。他にもアイヌの描かれ方にはいろいろ定番の記号的表現がある。それらを実物で確かめるのも目的の一つだった。

 そして何の躊躇もなく浴衣を着た。合わせを確認してみる。が、私は見事に左前に来てしまったのだった(左前の前とは先の意味であって、左が右より前に来ては間違いになる)。かつて差別的記号として使われた合わせに、今日の僕は無頓着だった。差別的表現とは一体何だったのだろうと思った。

 

 初日なのではやめに、23時前には寝た。


 (続く)

 

 

映画「ジプシーのとき」(監督 エミール・クストリッツァ)

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「ジプシーのとき」を下高井戸シネマで見たので感想を書きます。

※内容に触れます。まだ見ていない方はご注意を。
 
 
  学部の時にエミール・クストリッツァの監督作品「アンダーグラウンド」を見て、映画にハマった。
   
  数々の美しいシーンと大胆な設定。その背景と主人公たちのコントラスト。そして素晴らしい音楽(これらのことはクストリッツァの作品のどれに対してでもいえることかもしれない)。
 
  それからはエミール・クストリッツァ監督作品をいくつか見てきた。今まで見たのは、、、
「パパは出張中」、「アンダーグラウンド」、「ライフイズミラクル」、「黒猫白猫」、「アリゾナ・ドリーム」
 の5作品だ。
 
  そして今回クストリッツァの特集上映で念願の「ジプシーのとき」を見た。この作品は長らくDVD化されず当然レンタルもなかったために日本で見るのは困難だった。
  僕には「アンダーグラウンド」「黒猫白猫」に勝るとも劣らない傑作のように思える。
 
 
 
  映画はユーゴのとあるジプシーの集落からはじまる。ジプシーの結婚式の参列者たちやアヒルがドロドロした道を行く。最初は何だかよくわからない。
 
  集落は斜面にあるらしく、屋外でのシーンでは人物の背景で遠くに都市が見えていて、対比を感じさせる。事実ジプシーは隔離されることもあるのかもしれないし、そうじゃないにしろジプシーに対する差別のようなものを僕はそこに見てしまう。
 
 ストーリーはだいたい次のようになっている。
 
  主人公ペルハンは、博打にはまったどうしょうもない叔父と、呪術を使える祖母(ペルハンも超能力がある)、脚が悪い妹ダニラと暮らしている。 クストリッツァの映画の特徴のひとつは動物が活躍するところだが、この映画ではペットの七面鳥が登場する。
 
  ペルハンには恋人のアズラがいる。アズラの両親に結婚を頼みに行くが、彼女の母は激昂して断る。
  絶望したペルハンは首を吊ろうとするのだが、改修中の教会の鐘に繋がった紐を使うのだ。首を吊ると鐘がガンガン鳴ってペルハンが上下する。シリアスなのに滑稽でおもしろいし、恋愛が成就しないことで自殺にはしる青年の純朴さも感じさせる。ここは前半の見所の一つだ。
 
  その後で幻想シーンともいうべき場面が挿入される。でかい案山子みたいなものが川に浮かんでいて、その周りに松明か何かを持った人がいっぱいいる。ペルハンは棺桶みたいなものに乗って川に浮いている。アズラも一緒に乗っていて、どこまでも流れていく。
  おそらくここではジプシーの世界観を幻のように現すとともに、夢見がちな青年ペルハンと、ジプシーというバックグラウンドを緩やかに重ね合わせている。まさに「ジプシーのとき」という感じのシーン。繰り返し使われるBGMもよい。
 
  どうしようもない叔父は博打で負けて、金を出せとおばあちゃんを脅そうとするのだが、なぜか家の屋根を車を使って持ち上げたりする。意味不明だ。本当に狂っていておもしろい。
 
  村一番の金持ちアーメドの息子の病気を呪術で治したおばあちゃんは、その見返りとして、脚の悪い妹ダニラをイタリアの病院に入れることを提案した。それにペルハンもついていくことに。道中、亡くなった母親が幽霊になってあらわれるシーンがある。ダニラもおばあちゃんの血をひいているから、不思議な力を持っていて、幽霊が見えるのだろう。映画の世界観が出ている。
 
  イタリアに着くも、ペルハンは半ば騙されるような形で、アーメドの一味で働かされてしまう。実はアーメドは盗みや詐欺まがいの行為で稼いでいた。
 
   ペルハンは一度は反発するが、着実に手柄を立てていく。兄弟の裏切りがあり、高血圧か何かで体の自由がきかなくなったアーメドに代わってペルハンが一味を仕切るようになる。小綺麗なスーツを着て、イタリアの街を肩で風を切って歩く。もうそこには純朴な青年の姿はなかった。
 
  詐欺の人員を探しに元いた村に帰る。たぶん数ヶ月ぶりだろう。おばあちゃんは変わってしまったペルハンを嘆いたが、孫への愛は変わっていなかった。
  恋人アズラは妊娠していた。その子はペルハンの子かどうかわからない。アズラはペルハンとの子だと言い張る。しかしペルハンはそれを信じず、堕すことを条件に盛大な結婚式を行う。悪事で稼いだ金で。
 
  身重のアズラを連れ、一味のアジトへ帰る。アーメドはペルハンのために村に家を建てる約束をしていたが、それは嘘だということを村で確かめていた。ペルハンは利用されていたのだ。
   アズラは子供を産んですぐ息絶えてしまう。
 
  そんなこんなで警察の立ち入りがあって、アーメドは逃げてしまうし、妹ダニラは実は病院に入っていなかったことも明らかになる。
   イタリアで乞食をやらされていたダニラを探し出し、息子(息子の名前もペルハン)も見つけ出したペルハンは、息子を妹に託してアーメドとその兄弟たちに復讐を果たす。      
  しかし最後はアーメドの新妻に復讐され命を落とす。
  ペルハンの葬送で映画は終わる。
 
 青年ペルハンのおだやかな生活があるきっかけで変わっていき、結果復讐を果たすも死ぬ、というのは悲劇には違いない。しかし悲劇に対し自分はあまり感情移入しなかった。それはペルハンたちと映画を見る側の間に距離ができており、映画を俯瞰したり客観視できるような仕組みになっているからだろう。
 
 その仕組みの一つとして、この映画の背景に横たわる何らかの大きなものの存在を挙げたい。それは映画を狭い関係の間のやりとりしか見えない視野から引きはがす。例えば前半の幻想シーンで顕著に描かれたジプシーたちのの世界観のような。
 言い換えれば、人智を超えたものがこの映画には重要な要素としてあるように思う。おばちゃんの呪術やペルハンの超能力も、細かく言えばこれに含まれるかもしれない。 
 それは運命のことなのかもしれない。例えば、ペルハンが駅で息子と分かれるシーン。息子は父が戻ってこないことを知っていて引きとめる。しかし父は行ってしまう。ペルハンは行かなければならなかった。これは何故かといえば、運命の定めるところ、としか説明のしようがないだろう。
 このような、人間の力ではどうにもならない物語の流れがこの映画では感じられた。
 
 クストリッツア作品で言えば「アンダーグラウンド」も、時代の流れのような、背景にあるものの大きさがすごい。「黒猫白猫」も寓話のような作品だという解説がされているのを見たことがある。他の作品にもある程度共通する要素かもしれない。
 
  この映画の魅力やいいシーンを上げていくとキリがないので、一つだけ。
 
 やっぱり音楽が良い。
  ペルハンはアコーディオンが好きで、ことあるごとに演奏している。それもずっと同じ曲をだ。ペルハンが登場した時、首吊りした時、初めて盗みを働いた時、ギクシャクした新婚初夜などなど。ジプシーは、きっと音楽とともに生きている人たちなのだろう。その一人であるペルハンがいつも奏でる曲は、同じ曲でありながらそれぞれの場面ごとに違った印象で聞こえてくる。まさに人生の伴奏曲であった。
  他にも、幻想シーンで流れる曲も繰り返し劇中で使われていて印象的だし、アーメドの息子が持っている人形から鳴っていた悲しげなメロディーもそのシーンをよく演出していた。
 
  クストリッツァの作品はどれも音楽がいいと評されているらしいけれど、「ジプシーのとき」はその中でも際立って音楽の果たした役割が大きいように思う。
 
よい映画でした。
 
(終)

【アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成 アーカイブ ワークショップ】 旅の記録①

 

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 3月15日から29日まで、「アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成 アーカイブ ワークショップ」というものに参加していました。

 

アートとリサーチ ワークショップ参加者公募 | さっぽろ天神山アートスタジオ

アートとリサーチワークショップ活動成果報告イベント | さっぽろ天神山アートスタジオ

 

 単純にいうと、リサーチと称してアーティストが北海道を旅し、それを記録していくというプロジェクトです。旅とその記録を中心としてレクチャーがある感じでした。成果物の発表込みで二週間でしたので、かなりのハードスケジュールです…。

 

 参加の記録については、ウェブページが立ちあがる予定になっています。ですが、記録としてこちらにも残しておくこととします(同じ内容を書いても面白くないので、ブログにはどちらかというとしょうもないことを中心に記事を書きます)。私が旅した期間は準備日も含んで3月20日から23日と短いですが、比較的無駄なく動けて充実した旅でした。

 日記的に文章をまとめました。いくつかの記事にわけてアップします。

 

 

 

2016年3月20日

 

 どこに旅に行くべきか迷っていたのだが、前日までに色々な人に相談した結果、函館と松前にした。

 今回の旅の目的は、「アイヌ絵」(和人≒北海道に住む大和民族、によって描かれたアイヌの絵。アイヌ偶像崇拝の禁止から、基本的に絵を描かないといわれている)をみることだ。函館は、古くから和人が住んでいた道南地方の情報が集約された都市らしいし、松前はまさに和人による北海道支配の拠点であった。そこに行けば何かあるだろう、という期待もあったし、何もなくても行っておく義務があると考えた。

 全体の予定としては、まず一日目は函館の博物館などを見て午後は図書館の資料を閲覧。二日目は松前に行って、もし必要があれば泊り、三日目はまた函館で、前日までに新たに得た情報を元に博物館などを見る、という風なつもりでいた。行き帰りは札幌函館間の高速バスを使う。

 

 函館市中央図書館には、幕末の北方関係資料がたくさんあることが分かっていたので、高速バスとホテルの予約をした後で、電話で図書館の閉架資料や貴重資料の閲覧申し込みをした。意外と簡単に済んだ。

 

 そこでカメラが問題になってくる。結局、デジタル一眼レフを買うことを決意した。この経緯に関しては前に以下の記事で書いた。

 

デジタル一眼レフと名付け - こたつ島

 

 閑話休題

 

 その後天神山に一度戻り、準備と夕食を済ませ、22時には出発。少しさみしい。数日後に戻ってくる時に僕は何かを得られているだろうか。

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 札幌市営地下鉄の大通駅で下車、バスセンターへ向かう。22時半には着いてしまった。「坂のA字クッキー」を食べながらバスを待つ。23時にはほとんど誰もいなくなった。f:id:kotatusima:20160504231500j:plain

 


 携帯見て遊んでいたらあっという間に出発5分前になった。急いで乗車。長時間の高速バスはわくわくする一方、乗車後の疲れを思うとげんなりする。
 23時50分、出発。寝る時間だ。途中、後ろの座席の親父のいびきが大きくて何度か起きたりしたが、だいたい寝た。3~4時間は寝られた。

 バスは一路、函館へ。

 

(続く)

 

2016.5.10 写真追加、文章構成大幅に変更、文章追加。

 

嗅書

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 本を使った趣味といえば、ほとんどの場合読書のことをさすだろう。しかし、読書以外にも本を使った趣味というものは存在する。
 例えば、本を集めること。署名本や初版本など、レアな書籍を集める人がいる。僕は面白そうな本をとりあえず買って、読まずにため込んでしまう癖があるので、趣味といえば本を読む「読書」ではなく、本を買う「買書」だ。本の収集というのも一つの趣味といえる。
 
 わざわざ古本屋で書き込みのある本を買ってきて、書き込みからいろいろな想像をして楽しむという趣味を持った人もいると聞く。これも読書の一種のように見えるけれど、普通の読書とは違う趣味といえる(しかし、ここで読まれているのは果たして本なのだろうか?)
 
 僕は、趣味というほどでもないが、古本の香りを嗅ぐ時がある。言うなれば「嗅書」だ。
 嗅ぐのは、古本の「匂い」ではなく、「香り」の方がふさわしいと思う。
 嗅覚で感じる対象をいうのに、「臭い」と「匂い」、「香り」というのがある(他に「薫り」というのもあるけれど、これは主に比喩的に使うらしい)。「匂い」でも悪くないのだが、「お香」のように嗅ぐイメージがあるので、そうなるとやはり「香り」でなくてはなるまい。
 本は一般に視覚や触覚によって享受されてきたメディアだろうから、嗅覚とは結びつけにくいかもしれない。しかし、ある古本屋では本の状態説明として、匂いがついていたことを書き添えていた。紙は匂いがつきやすいものなのだろう。
  
もちろん、好みの香りの本もあれば、そうでないものもある。僕が時々無性に嗅ぎたくなるのは、次のような本の香りだ。
 かつて札幌の狸小路にあったラルズというデパートで、年末年始など決まった時期に行われていた古本市があった。そこには台の上の枠に端から端までぎっちりと詰め込まれた一冊百円以下の文庫本コーナーがあった。高校生の僕はよくそのコーナーから本を選び出して買っていた。そこにある、天も地も小口も茶色くなってしまって、カバーの端も少し破れているような、薄い文庫本。大抵は新潮文庫で、内容は武者小路実篤の友情とか川端康成の雪国とか太宰治人間失格だったりする(実家には高校の頃買ったこれらの古本がまだあるはずだ)、そういう本の香りが、私は好きだ。
  
それは、甘い奥深い香りだ。言い換えれば、タバコの空き箱の中のような香り。もちろんタバコと違って火は使わないから、煙臭さはない。少しコーヒーのような香りでもある。
 書いていて気がついた。タバコとコーヒーといえば、子供が思う大人の嗜好品の代表のようではないか。僕にとって古本は少し大人に憧れた背伸びの意識とともにあったのかもしれない。
 
 いずれにしろ、僕が古本を買い集めて読み始めた当初は、単に知識を取り入れる以上に、香りも伴った一つの体験として古本があった。今でも時々古本を開いて香りを嗅ぎ、高校生の頃を思い出したりする。聞くところによると、匂いというのは記憶に残りやすいらしい。最近僕が文字に触れるのはもっぱらスマホの画面だ。それらをスクロールして読むことは、いい悪いではなく根本的にかつての読書経験と違っていると思うし、記憶の残り方も違うのではないだろうか。
スマホをいくら嗅いでも、なんの香りもしないから。
 
(終)