東日本大震災についての覚書

 五年前の2011年3月11日、どこで何をしていたか。

 私は家にいて自室で本を読んでいた。谷崎潤一郎の「鍵」だ。棟方志功の挿絵が入っている作品だ。

 地震がおきた。
 いつもより強くて長い揺れだった。が、普段時々ある地震と大きな違いは感じられなかった。物が棚から落ちたりもしなかった。
 驚いて自室から居間に出てテレビを見る。震度を確認するためだ。地震は別に珍しくないから、ちょっと大きかったな、被害は出ているんだろうか、と思った程度だった。

 それからは夜までずっとテレビがついていた。テレビを消すことができず、釘付けだった。

 僕が本当に大変なことが起きていると実感したのは夜に気仙沼の大火事を見たときだ。
 このときは津波の被害にすら考えが及んでいなかった。原発の被害ならなおさらであった。

 この日から約一ヶ月後に大学に入学することになる。だから大学で美術を学び始めたときから、当然すでに震災後なのであった。私たちの世代の作品は震災後の作品であるということを免れ得ないし、そういうフィルターを通して見られる運命にある。

 震災がきっかけで日本は多かれ少なかれ変わっただろうし、変わらなかったこともまたあろう。
 そういうようなことをずっと考えてきた気がする。

 震災によるいろいろなことを、どの程度考えるかは各個人の選択である。また、どの程度作品に反映させるかは各作家の選択である。しかし私にとってはそれは重要だった。

 「鍵」は結局まだ読み終わっていない。