(BankARTstudioNYKから赤レンガ倉庫を見る)
①の続き。
「BankARTLifeV 観光」と同時開催の「日産アートアワード2017」、ヨコトリの横浜赤レンガ倉庫1号館会場、「黄金町バザール2017」の一部について、特に気になった作品のみ感想をかきたい。
まずは移転が決まっているBankARTstudioNYKへ。二階では現代アートの登竜門的な「日産アートアワード2017」が開催されている。ファイナリスト5名の作品を展示。これはヨコトリの関連企画ではない。2名について軽く紹介。
石川竜一 「homework」(部分)
石川竜一さんは生まれ育った沖縄で撮影した自分の暮らす部屋の写真と米軍機の写真をならべていた。まさに日常と地続きのところに基地問題がある、なんて敢えて言うのも野暮かもしれない。これをどう展開していくのか?
藤井光「日本人を演じる」 部分
藤井光「日本人を演じる」 部分
藤井光「日本人を演じる」 部分
藤井光「日本人を演じる」 部分
藤井光「日本人を演じる」 部分
藤井光「日本人を演じる」 部分
やはりグランプリを受賞した藤井光さんの作品 「日本人を演じる」が別格の印象。
タイトルは欧米の「帝国の視線」を「輸入」した日本人を演じる、という意味らしい。
(藤井さんのワークショップについて一部記載⇒ http://artscommons.asia/wp-content/uploads/2017/09/annual_2016-2017_2.pdf)
この作品は、いわゆる「人類館事件」をテーマとしたワークショップの記録である。
男女十名ずつくらいの参加者の素性は明らかにされないが、多くは日本人と自認する黄色人種の人が集められたようだ。一人だけ日本で育ったけれど韓国人だと自認する女性がいた。人類館事件当時の新聞記事を読んでディスカッションしたり、「日本人っぽい」「日本人っぽくない」という順序で、参加者同士を並べ替えている様が撮影されている。当時のアイヌの演説を再演し演技指導する場面もあった。現代でも沖縄に対する差別が続いていることや、顔が濃いとされ日本人っぽくないとされがちな縄文人(をルーツに持つ人)こそがもとから日本に住んでいたのだから生粋の日本人である、ということなどが話されていた。どの参加者も真剣に考え発言している様がうかがえた。口論などはなく、面と向かってはっきりと差別的な言動をしている様は見受けられなかった(カットされていたのかもしれない)。
古代から続いているともいえる日本の中のマイノリティ差別の問題について知識として深く掘り下げて反省するというよりは、ありもしない「日本人」という虚像を演じ、かつての振る舞いを真似ることで、改めてそれを無効化しようとするワークショップだったのだろうか。
まずこの作品について言わなければならないのは、差別的な言動がヘイトスピーチやSNSでの過剰な反応で可視化されている現在、このような題材で作品を作ることは大変意義深く、その点では受賞も納得であるということだ。こういう題材の作品がもっと増えてもいいし、こういうことにアーティストが関わっていかないでどうするのかとさえ思う。
それはそれとして、疑問に思うところもあったので少し考えたい。
このような一般人を集めてワークショップをした様子を撮影した作品の場合、参加者は自然とアートに何らかの関りをすでに持っていて知識もあり、ディスカッションにも積極的に参加し、しかも社会問題にも意識が高い人になってしまうと想像する。そのせいか分からないが、参加者の発言にどうしても「言わされている感」を覚えてしまった。タイトルの「演じる」は、まさか「意欲的で行儀のいい参加者」を演じる、という意味ではないだろう。この「言わされている感」をどう考えるべきか、それは横に置いておいていいのかどうか、という点がひとつ。
ステートメントによれば、この作品が問うているのは「植民地主義と人種主義の統合という暴力の地下水脈が多様性を標榜する21世紀に枯渇しているのかいないのか」、ざっくりいえば「帝国主義は今日でも有効か」、というところだろう。そりゃあ無効なのに決まっているのだが、今の日本の様子を見ると自信をもってそうも言えないのがつらいところだ。人種差別に限らず様々な社会問題とそれに対する日本人の反応と現状をみるに、日本は少なくとも人権に関しては今もだいぶ後進国であると私は思っている。もしこの認識が正しいのだとすれば、作品で扱われている内容はあまりに繊細であり、民度が高く、現状から乖離しているという感想を抱く人もあるかもしれない。
しかしそんなことは作家は百も承知だろう。おそらくこの作品はあくまでもひとつのケースとして捉えるのが妥当だ。たとえそれがどんなに狭い範囲の人々の限られた意見だったとしても、そうではなかったとしても、ひとつの現実を切り取ったものとしてこの作品は存在している。
鑑賞者として、このワークショップの記録映像を見て何を感じ得るのかが本当に重要なことである。私は、周囲に気を使いながらワークショップをこなす「意欲的で行儀のいい参加者」を見て、あまりに映像が淡々としていたからだろうか、逆におぞましいヘイトスピーチも思い起こしていた。実は私は心のどこかで感情のぶつかり合いや罵詈雑言の応酬のような想定外の事故が起きることを期待していたのかもしれない。だからといってハプニングを欲するのは自分勝手で人を人とも思わない欲求であり、恐ろしいことである。
一方で、その振る舞いに強く納得したのも事実である。面と向かって相手の意見に反対することは、勇気がいることであるし、それが抽象的な議論ならまだしも人間の出自などに関わることであれば(本来は)慎重になるのは当然である。その点リアリティを感じた。
ワークショップの全貌が映像からではよく見えなかったので、ワークショップそのものについて検討することが難しかった反面、いつのまにか私はワークショップの参加者の振る舞いや気持ちについて想いを馳せてしまっていて、それはそれで面白かった。目立ったハプニングがないような、地味な振る舞いを肯定されるような気持ちにもなった。このような作品はどうしてもモヤモヤした感じが残ってしまうが、テーマの特性上仕方なことかもしれない。それを余韻として楽しみながらヨコトリのテーマとも関係づけて考えるのいいかもしれない。
関川航平 作品部分
関川航平 作品部分
BankARTではほかに関川航平さんの作品、というかパフォーマンスの痕跡が気になった。色のついた粘土で壁になにやら文字が書かれている。どのようなパフォーマンスだったのだろうか。
ヨコトリ、横浜赤レンガ倉庫1号館に移動。ここは特に力が入った展示のように思った。
小沢剛 作品部分
小沢剛 作品部分
小沢剛 作品部分
小沢剛は、フィクションを織り交ぜた音楽と絵画によって実在の人物の架空の伝記を物語る「帰って来た」シリーズの新作で、岡倉天心をテーマにした「帰って来たK.T.O」を発表。私は以前、藤田嗣治をテーマにした同シリーズの作品を見ている。
失意のうちにインドを訪れた天心が、いつの間にか輪廻転生し、東日本大震災で流され消失した茨木県五浦にあった六角堂(現在は再建されている)に戻ってくるというストーリー?のようだった。藤田を題材にした作品よりもスケールが大きくなっているように感じた。会場がけっこう暗くて段差につまずきそうになったことが気になるが、絵画の大作が10点並ぶ様は壮観だった。絵のうしろに平櫛田中作の天心像が佇んでいた。
クリスチャン・ヤンコフスキー「重量級の歴史」
クリスチャン・ヤンコフスキー 「公共の身体から人間的彫刻へ」
クリスチャン・ヤンコフスキーはいずれの作品でも、彫刻に対して働きかけることで彫刻と人間の間に新しい関係性をもたらしているように見える。ユーモラスであり、悪ふざけのようなことを真面目にやっている。それなのに(それゆえに?)、彫刻がただのモノであることが鮮やかに暴露され、彫刻にモノ以上の何かを幻視させる芸術の不思議さが浮かび上がってくる。そういう芸術の不思議さを肯定するでもなく否定するでもなく扱う手際の良さに感動した。
宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分
宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分
宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分
宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分
プライウッドとは合板のこと。映像ではバナナ、ミキサーやエレキギターなどをめぐる関係が語られ、作品の背景が説明されている。特に「私はアメリカ経由の未来派だ」という言葉が印象的だ。しかし、会場に置かれた機械たちは説明を吹き飛ばさんばかりの勢いでまるで生命をもったように音をだし動き出す。不協和音一歩手前でありながら非常に魅力的な歌を聴かせてくれる。「コンセプトなんかどうでもいいから、俺の曲を聴いてくれ!」という叫びみたいな作品だった。
ドン・ユアン 作品部分
ドン・ユアンは区画整理のため解体されてしまう中国の伝統的な民家である祖母の家をモチーフとした絵画を、壁に展示するのではなくインスタレーションとして見せる。こうなると絵画としての技量よりも、なぜ絵画で、それも「オイル・オン・キャンバス」で記録されなければならなかったのか、ということの方に意識が向く。
小西紀行 作品部分
小西さんの作品をまとめて見たのは初めて。言葉では説明しにくいのだが、以前から魅力的な絵画だと思っていた。今回の展示はインスタレーション風に、額を箱のようにしたり衝立のようにしたりして展示。その間を縫うように鑑賞した。核家族のような複数人のヒト型のモチーフは、作家が幼いころに撮影された家族や身近な人物の写真をもとにしているらしい。
ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分
ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分
「ザ・ビジターズ」は、一つの大きな家のあちこちにいる音楽家たちが、ヘッドホンからの音を頼りに一つの曲を奏でようとする様を記録した作品。暗室になった会場ではそれぞれの持ち場に置かれた定点カメラからと全体を映すカメラのからの映像が投影され、あちらこちらから音が聴こえる状態だった。手探りながらもさすがプロの集団というべきか、緩急のあるハーモニーが生成されていく場を体験できるのは理屈抜きで気持ちのよいものだった。この有無を言わさぬ音楽の説得力、そしてそれをコミュニケーションのひとつの形として可視化させた作家の力量に脱帽した。
黄金町バザールへ移動。全部は見られなかったが見た中から気になった作品をいくつか。
キュンチョメ 「ここでつくる新しい顔」
目隠しをした難民と日本人の観客とが福笑いをしている手元を記録した作品である。会場にあったキャプションによれば、難民は次第に福笑いのプロになり、観客に的確に支持をだし修正を加え、顔を完成させるようになっていった。しかし観客はそうとは知らず無邪気にうまくできたものだと思い込み帰ることとなる。ホストとゲストの関係がこの暗闇では逆転していたのだ、と。
非常におもしろい作品だと思うし、まさにホストとゲストの関係が逆転している点などその通りだと思うのだが、そこまでこの作品の意味をキャプションに詳細に書かれると、ちょっと鑑賞の楽しみが奪われたような気にもなる。
毒山凡太郎 「戦争は終わりました」(部分、パフォーマンスを行った場所の地図)
毒山凡太郎 「戦争は終わりました」
毒山凡太郎 「戦争は終わりました」
毒山凡太郎 「戦争は終わりました」
毒山凡太郎は台湾でかつて日本語教育を受けたお年寄りを訪ねて知っている日本語の歌を歌ってもらう様を記録した「君之代」と、沖縄の戦跡など各地で「もう、戦争は終わりましたよ!!!」と叫ぶ様を撮影した「戦争は終わりました」の、二つの映像作品を展示。私は以前第20回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)の会場で毒山の別の作品を見たことがあり気になる作家だった。
今日では親日国ともいわれる台湾に大日本帝国がどのような影響を及ぼしたのか、その功罪を問うともいえる「君之代」では、お年寄りたちはあまり躊躇する様子もなく(躊躇しているシーンはカットされたのかもしれないが)昔のことを話し、嬉々として歌う姿は孫に向けたビデオレターのようですらある。しかし口から出てくる軍歌などは時代を感じさせ、タイムカプセルを開けたような、しかも見てはいけないものを見てしまったような感じを覚えさせる。
「戦争は終わりました」の舞台となった沖縄は、今日でも米軍の起こす事件事故が絶えない。どう考えても日本で一番「戦争が終わっていない」に違いない。そのような場所で「戦争は終わりました」と叫ぶのは皮肉としてはあまりに馬鹿正直で、嫌味すら感じる。この嫌味とは何か?
パフォーマンスを行っているのは作家本人だろうが、ガマや、ひめゆりの塔の前や、今も座り込みなどが行われている基地前に、わざわざ出向いて「戦争は終わりました」と叫ぶことに葛藤はなかったのだろうか?あっただろうし、様々な視線を向けられただろう。沖縄に対して日々行われていることはまさに国家による暴力で、大変面倒な現在進行形の問題だが、それに関わっていこうとする姿勢は素晴らしい。しかし、この作品は、沖縄の人の感情を逆なでするようなことにしかならないのではないか、という危惧が拭えないのも正直な感想だ。
と、ここまで考えて気が付いた。この作品で叫ばれる皮肉は、国家に対しての告発であり嫌味かもしれないが、同時に私たち他府県人にも向けられているのかもしれない。沖縄に対して私たち他府県人はあまりに当事者(加害者)であり過ぎる。私たちは、作家と同じ罪を犯していて、共犯者だからこそ妙に気になってしまう作品になっているのではないか。今後毒山はこの作品をどう発展させていくのか注目したい。
宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」
宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」のキャプション
宇佐美さんは様々な場所で大がかりな合成かと思わせるような写真を撮る。北海道で撮ったのは上の作品だ。見た目におもしろい作品だが、これに付随したキャプションにいくつか引っかかる点がある。
まず「アイヌの後継者」というところ。アイヌは別に世襲制の役職でもなんでもない民族なので、結城さんにアイヌを代表させるような表現はそぐわないのではないか。
また、「生粋のアイヌ人はいなくなってしまったというが」というところも引っかかる。この解説の筆者のいう「生粋のアイヌ人」とはどういった人を指すのだろうか?例えば結城さんは生粋のアイヌ人ではないのか?この写真に写った人々にはひとりも生粋のアイヌ人はいないのか?チセに住んで狩猟採集をしなければアイヌではないと?民族をさすのに「生粋」は適切な言葉ではない。純血か否かを問題にすることそのものがナンセンスであろう。
また「文化は今も伝承されている」というところ。悪意を持って読めば「アイヌ人は居ないが文化だけはある」とも受け取れる書き方だ。その文化を受け継ぐ主体なしに文化は存在し得るだろうか?それはまさに博物館のガラスケースに収まった、過去の文化でなければあり得ない。そしてアイヌ文化はそのような文化ではないだろうし、そのような文化にしてはならない、と私は思う。
作品がおもしろいだけに、このような解説で引っかかってしまうのは残念だ。反面教師として、専門的知識についてはきちんと専門家の力を借りることの大切さを痛感した。
ヨコハマトリエンナーレ全体としては、当然と言えば当然のことながら、多くの作品が「島と星座とガラパゴス」「『接続性』と『孤立』」というテーマを念頭に置くと作品の意味がより感じられ、説得力を増していたと思う。こういうのをキュレーションと呼ぶのだろう。テーマそのもの、キュレーションそのものについての評価は私の手に余るが、キュレーション以前の、寄せ集めに無理やりテーマを付けたような展示を見ることの多い自分としては面白かった。個別の作品としては、作家の力の入れ具合も様々だったと思うが、以上に挙げたように何らかの感想を抱かせる作品は少なくなかった。ヨコトリ参加が初めてだったので、次回がまた楽しみである。
(終)