映画「生きとし生けるもの」(監督:今津秀邦)

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 角川シネマ新宿で映画「生きとし生けるもの」を見た。以下ネタバレ注意。
 

 

 

 作品についての概要は映画公式サイトからの抜粋で十分だろう。
 


『長年旭山動物園のポスター写真などを手がけてきた北海道在住の写真家今津秀邦が初監督を務めた渾身のドキュメント。北海道で生きる様々な命の証を、感性豊かに心に刻み込む。解説が無くても伝えられる映像を記録するために5年の歳月を費やした。物語へと誘う津川雅彦のナレーションは2か所のみだが圧倒的な存在感。監修は旭山動物園元園長の小菅正夫。その場にいるかのような臨場感溢れる映像と音、役者のように撮影された生き物たちは見応え十分』
『いちど限りの永遠。本物のドキュメントは、語るまでもないドラマだった』
『一斉にねぐら立ちをする8万羽のマガン、氷河期から生き残るエゾナキウサギの冬支度、故郷の川へ遡上するシロザケと待ち構えるエゾヒグマ、情感豊かなキタキツネの子育て・・・。今を精一杯生きる姿から、新たな感動と衝撃を体験する』

 (以上抜粋、引用にあたり行を詰めた。)

 

 『いちど~』と『本物の~』は、チラシや劇場予告でも使われていて、この作品象徴するフレーズだ。サイトには次のような監督からのメッセージも載っている。
 
『私は私。あなたは、あなたでしかありません。この世界に必要だから生まれました。野生動物と表現される生き物たち、根をはって命を全うする植物、空気、光・・・。存在する全てものが必要であり、お互いに必要としています。時には邪魔になったり、敵や味方と感じる時がありますが、今生きているのは全ての営みがあってのことです。特に野生動物は全ての状況を受け入れ、持って生まれた能力を最大限に生かして命を全うします。誰がどうこうではなく、ただ今を生き抜いています。この映画は動物たちを紹介するのが目的ではありません。北海道の自然やそこに生きる様々な姿、能力を借りて、あなたは、あなたでしかないことを表現しました。映画を観終わった後、新たな価値観を感じていただければ幸いです。誰もが、一度限りの永遠だということを』

 (以上抜粋、引用にあたり行を詰めた。)

 
 監督メッセージや公式サイトの概要をまとめてみよう。
 『5年の歳月を費やし』て完成したこの『本物のドキュメント』は、『語るまでもないドラマ』、『解説が無くても伝えられる』や『動物たちを紹介するのが目的ではありません』などの言葉に表れているように、出来るだけ説明を避け、『その場にいるかのような臨場感溢れる映像と音、役者のように撮影された生き物たち』によって『あなたは、あなたでしかないこと』や『誰もが、一度限りの永遠だということ』、乱暴にまとめてしまえば、命の尊厳や普遍的な生き物の営みを感じてもらうことを意図している、といえるだろう。
 
 
 
 映画は明け方に水辺で何かを待つようにたたずむ男のシルエットから始まる。男の手にはスケッチブック。朝焼けの空はまさに私の知っている北海道のそれであり、はやくも懐かしさで泣きそうになってしまった。するとマガン?の群れがわーっと飛び立ち、見上げる男の頭上を覆うように飛んでいく。この最初のシーンから鳥肌ものだ。マガンについて「?」としたのは作品中では動物の名前について字幕やナレーションがないので確認できなかったからだ。特に触れられていないが、この男はおそらく絵本作家のあべ弘士さんだろう(エンドロールには名前があった)。この冒頭のシーン以外で直接ヒトが出てくるシーンはない。続いて「誘い人」津川雅彦の語りが入り、動物たちの生きざまを見に行く旅へいざなわれる。津川の語りは最初と最後のみ。
 あとは比較的短いカットの映像が続く。どうやって撮ったの?としばしば思ってしまうほど生き生きとした姿を捉えていて、人によってはカメラの存在はあまり感じないかもしれない。だが構図として完成度の高すぎるシーンばかりだからだろうか、ときどき人工的な感じを覚えた。動物のたてる音も不自然なくらいちゃんと入っている。BGMは管弦楽で、うるさくない程度に盛り上げていて効果的だったと感じた。
  

 

 
 特に四季が意識されるような編集ではないが、真夏の次に真冬が来るようなことはなく、いつの間にかゆるやかにシーンが移り変わっていく。その中で、美しいとしか言いようがない北海道の自然の景色も織り込みながら、遠くからも近くからも、また地面からも空からも、動物の様々な生きざまをひたすら見ていく。

 動物、と一言でいってもヒグマやエゾシカ、フクロウ、モモンガ、ナキウサギ、シャチ、シャケ、ウサギ、キタキツネの他、タンチョウ、ワシ?などの鳥に加え、虫も撮られていて幅広い。例えば、草花で彩られた岸壁の間を走り回るナキウサギの独特な動きの間、雪原でのタンチョウの群れとエゾシカの群れの邂逅、水平線の向こうまで続く流氷の海のあちこちに佇む海鳥や、黒光りした筋肉の塊みたいな泳ぐシャチの背、雪を掘り出して植物を食べるのに夢中なエゾシカのお尻などなど、印象的な光景がいくつもある。いうなればオムニバスやアンソロジーのような作品だ。といっても全く各動物を並列に扱っていたわけではなく、ハイライトとなるシーンはあった。
 
 
 
 北海道の野生動物といえば、真っ先に挙がるのはヒグマだろうか。ヒグマの登場シーンはいくつかあったが、シャケを捕るシーンが凝っていた。まず川を泳ぐシャケを撮っている。水中にまでカメラが入り、鑑賞者はシャケの視点になる。次にシャケを撮るヒグマが映され、また交互に川を遡るシャケの映像が差し込まれる。おそらくシャケの映像とヒグマの映像は別に撮っているのだろう。状況を客観的に見る視点とシャケの視点を入り乱れさせる編集は作為的だが、劇的な画面を生んでいた。
 また、チラシにもなっているキタキツネは明らかにこの映画の主役級の扱いだった。砂利の轍を残して真ん中に雑草の生えている道がある。その傍のやぶに住むキタキツネの親子が魚を食べたり、子ぎつねがじゃれ合う様子などに多く時間が割かれていた。映画の後半に次のようなシーンがある。道の向こうへ親ギツネが行ってしまう。その姿が見えなくなった途端、車のブレーキのような不穏な音が入る。交通事故に遭ってしまったのだろうか?しかし、狐の亡骸が映されるわけでもなく、車の影さえみえない。次に子ぎつねが映る。何かを待つようにじっとしている。その表情が私には不安げに見えた。その後は子ぎつねが親ぎつねの向かっていった道の向こうへ歩いていくシーンが続く。私はこのシーンに、親ギツネの不意の死とそれを乗り越えた子ぎつねの新たな旅立ち、というストーリーを読み取った。
 撮影クルーは私の想像したようなことが起きた現場に立ち会ったのだろうか。私が子ぎつねの表情を不安げなものとして見てしまったのは、間違いなく前のシーンの影響だろう。私にはキツネの個体の見分けがつかないから、親ギツネと子キツネという関係性すら合っていたのかわからない。どこかで別のキツネの映像が混ざっていてもわからない。そもそもこの映画の特徴は先にも書いてある通り、動物の名前についてはもちろんのこと、説明的な字幕やナレーションがない点だった。
 
 
 
 このキタキツネのシーンに関しては、特に動物を『役者のように』撮影、編集し物語的な演出をしようという意図が感じられた。しかしその演出がどの程度事実で、どの程度演出なのかわからないからモヤモヤしてしまう。『本物のドキュメントは、語るまでもないドラマだった』はこの映画の宣伝文句だが、「ドキュメントの対象に対して語らないこと」を「対象をありのまま提示し解釈しないこと」なのだとすれば、『役者のように』動物を撮り演出することは「語っている」ことに他ならないのではないか。
 もちろん、編集や演出がドキュメンタリーにとって禁じ手だ、などと言うつもりはない。そうではなく、そもそもカメラは何らかの対象を切り取るものだから、そこから意志とか作為を排除することは不可能であるはずだ。ドキュメンタリーも、もちろん何かを表現した作品なのだから、意図はあっていいし、あるべきだ。
 だとすれば問題になるのは編集の有無ではなく(そんなものは有るに決まっている)、その編集がどのようなもので、作品の意図に沿っているか?ということだろう。『語るまでもないドラマ』などといって字幕やナレーションによる説明を避けたことはこの映画にとって副次的な要素であり、こだわり抜いたと思しき『その場にいるかのような臨場感溢れる映像と音、役者のように撮影された生き物たち』によって『あなたは、あなたでしかないこと』や『誰もが、一度限りの永遠だということ』を伝えることに成功しているかどうか、という観点からこそ作品を考えるべきだ(作品の意図そのものに対する批評をするとすれば、さらにその先だろう)。

 

 推測の域をでないが、美しく生き生きと動物を撮影するには、撮る側の「この動物はこう見せたい」というビジョンがあり、それを実現する様々な準備と工夫がなくては不可能だったのではないだろうか。この映画は、北海道に住む野生動物に対して多くの人が抱くイメージに近く、制作者も含む私たちが見たいと思っている生態をかなり望み通りに、しかも予想を上回るクオリティで実現している。そのかわり、一般に知られていないような生態や、グロテスクなものや退屈なものなどノイズは周到に排除されている(より正確に言えば、排除されているかどうか本当のところは分からないが、そのように見える)。言うまでもなく何かを普遍的であると感じ、それを受け入れるには、新奇さを覚えてしまっては難しい。
 そのような動物たちの生きざまが制作者側の意図によって、それぞれの種の個性や時の流れを超えた形で純化、一般化、抽象化され増幅された形で提示されているのがこの映画だろう。これを普遍的な生き物の営みの表現とみなせば、『あなたは、あなたでしかないこと』や『誰もが、一度限りの永遠だということ』は伝わるかもしれない。
 

 
 
 そもそもこの映画は『生きとし生けるもの』というタイトルだった。「生きとし生けるもの」という慣用句の最も古い使用例のひとつは古今和歌集仮名序だそうである。
  
 やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける
 世の中にある人ことわざしげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり
 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける
 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
 (引用に当たり改行、傍線筆者)
 
 「ウグイスやカエルの鳴き声を聴けばあらゆる生き物で歌を詠まないはいない」というような意味だろう。しかし素人なりに曲解すれば、「生きとし生けるもの」はこの文の主語ではなくて目的語ではないだろうか。主語は人である。前の文とのつながりから考えて「ウグイスやカエルの鳴き声などあらゆる生き物に思いを託し歌を詠まない人はいない」とも読める。
 だとするとこの映画はなんだろうか。この映画はあらゆる生き物が歌を詠む様を撮った映画なのか、あらゆる生き物に思いを託し歌を詠んだ人間の映画なのか。私には、後者のように思えてならない。