ずっと野又さんの個展を見たかったのだが、いつも機会を逃していた。やっと念願叶った。
野又圭司 氏(1963〜)は函館市生まれ岩見沢市在住の彫刻家。北海道大学文学部哲学科を卒業後、1980年代後半から本格的に創作活動を始めた。自己の内面を反映したボックスアートから、近年は建造物の模型を用いたインスタレーション作品などを展開しているとのことだ。
「市街から離れ、過疎化の進む村落に暮らしながら、経済至上主義、格差社会、インターネットによるコミュニケーションの変容といった社会状況を見つめ、世界の似姿としての造形によってその行く末を暗示する作風は、現代社会への鋭い批評として注目を集めてきました。」(以上作品リストより)。
今回の個展では、最新作「脱出」を含むここ10年間の作品8点が発表されていた。作品数は多くないものの、近年の作品の移り変わりや中心となるテーマは見て取ることができる展示だった。
「無力の兵器(自分を撃ち込め!!)」(97年) 木、銅ほか
「地球空洞説」(98年) 木、ガラスほか
90年代の作品は2点。「無力の兵器(自分を撃ち込め!!)」(97年)は、創作活動の苦しみや自己との葛藤が昇華した作品のようだ。「地球空洞説」(98年)は、地球儀のような、骨組みがむき出しの球にわずかに陸地が載っている作品。一見、作家が広い視野からものを見ているようにも見えるが、その世界解釈はごくシンプルで、抽象的だ。
いずれにしてもこの頃の作品は内省的で、自己の思考がテーマの中心にあるようだ。
「遺跡」(08年) 銅
巻物が立体的に展開したような展示。
「遺跡」(08年) 部分
年代順でいくと次は一気に「遺跡」(08年)に飛ぶ。この間の作品の変遷がわからないのが残念だが、テーマが変わっているのがわかる。上記にもあったように、社会的なテーマへの移行が起きている。
「レミング(百億の難民)」(14年) 銅、砂
「レミング(百億の難民)」部分
「「経済」という全体主義」 (15年) 砂、木
「遺跡」や「「経済」という全体主義」(15年)、「レミング(百億の難民)」(14年)について思ったことがある。これらの作品は数センチから数十センチくらいの大きさのたくさんの建物の模型や人の模型で構成されている。私はこれらを見て「炭住」(炭鉱住宅。炭鉱労働者のための長屋)を思い出した。野又さんのアトリエは岩見沢市のなかでもかつて炭鉱があったエリアにあるらしい。夕張方面など岩見沢周辺の山間では今でも炭住を見かける。
川俣正さんも炭鉱のあった山々や炭住の模型制作をプロジェクトで展開している。それは私が生まれるずっと前の、川俣さんが育った賑やかな炭鉱の町の模型だ。
野又さんの作品に私が幻視した炭住は、かつての炭鉱の繁栄を表すものではなく、「過疎化の進む村落」(出品リストより)のそれだ。これは私が見知っていることもあり非常にリアルに感じられる。作品の中のたくさんの小さなテントや、砂でできた吹けば飛びそうな崩れかけの家々は、社会に警鐘を鳴らすディストピアの模型ではなくすでに目前にある現実の風景と二重映しになった模型のように見える。
「「経済」という全体主義」 (15年) 部分
「助けて欲しいんじゃないのか。」(12年) セメント、石膏、銅、ほか 部分
出品作品リストの解説文には、野又さんは「作品のモティーフとしてこうした社会問題に目を向け、模型によって世界の縮図を表現」しているとある。
では、野又作品と社会問題の関わりはどういうものなのか?
私は解説文の「現代社会への鋭い批評」という表現に違和感を覚える。批評というのは第三者的な立場から行うものであろうが、野又作品から感じられる社会問題への真摯な態度は、まさに今そのただなかを生きる当事者のそれだと思えるからだ。野又作品には批評的な態度は、要素として少なく見える。
一方で、「世界の縮図」や「模型」という表現もしっくりくる。これらも俯瞰的、鳥瞰的な視点の産物である。矛盾するようだが野又さんの視点で社会を見据え形にすることは、確かに批評的行為であるとも言えよう。言い換えれば野又作品は現状の見取り図的な作品だと思うが、そのめざすところは批評なのだろうか?
批評とはごくごく単純にいえば「良い点と悪い点の客観的な判断」となるだろう。だから近年の野又作品は、社会問題をテーマとして扱った時点で十分批評的だともいえる。だが、私としては、むしろある側面からは批評的ではないという点を強調したい。社会の出来事の良し悪しを論ずることよりも、そこを越えた、問題への接触や介入のようなもの(実際に行為にならなくても何とか働きかけたいという意識)が野又作品には感じられるからだ。
それが行動に発展したのが原寸大の船の形の最新作「EXODUS(脱出)」(16年)とも言えるかもしれない。
「EXODUS(脱出)」(16年) 木、稲、ガラスほか
ある種の社会問題を扱った作品を鑑賞した時のつまらなさが、スノビズムあるいは衒学趣味など、その類の高慢な自意識を感じさせることに原因があるのだとすれば、野又さんの作品にはそれが無い。
反面、扱う問題の多くがあまりに身近で深刻な問題であり、俗っぽいとか泥臭いとも言える。そこに茶化しはなく、生真面目さがあって時に息苦しささえ感じさせる。
「存在の耐えられない軽さ」(10年) 木
この展示では、「存在の耐えられない軽さ」(10年)でインターネットについても扱われている。ネット上ではいわゆる半ば悪ふざけのような感覚で行われたことが「炎上」に至り、大きな事件に発展することも珍しくない。
この作品でもパソコンの画面が模されたオブジェに焦げ跡がついている。「炎上」を表現しているのだろう。木で丁寧に作られたと思しきこのオブジェは、深刻なメッセージを発しているようにはなかなか見えない。木目の風合いもいい感じで、椅子なんて持って帰りたいくらいだ。風刺というには直接的に過ぎる。これが「現代社会への鋭い批評」だろうか。
この馬鹿馬鹿しいほど直球な作品は、私には批評に見えない。だからといって、これを看過していいとも思えないのである。
野又作品は社会問題に対し批評的な関わりを持ちながら、批評にはとどまっていない。 「困難な未来を生きるために」できることは社会を見据えること。そして批評にとどまらず行動することなのだ。
これはネットで顕著だと思うが、何かに「マジになる」ことへの軽蔑やニヒリズムが、社会に何か重大な変化、それも悪い変化を引き起こしていることを、最近私はよく感じる。私は野又作品から「もはや皮肉や冷笑、悪ふざけの時代ではない」と言われているように思えてならない。今、私たちは、真面目で堅苦しくてつまらないものをこそ見るべきではないのか?私たちが見たがっているものは、実はそういうものではないのか?と思うのだ。
ただ、そうは思っていても野又作品から感じられる「マジさ」にはやはり息苦しさがともなう。きっと私と同じように真面目で堅苦しくてつまらないものに息苦しさを感じる人は、未来の困難さをも同時に感じるだろう。私たちに未来があるのかどうか、考えるのにはいい試金石になる展示かもしれない。
(終)