こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

大友真志“Mourai”を見て(大友真志作品の第一印象)

f:id:kotatusima:20190413083621j:plain

(会場の様子)

 
2019.3.26.

 

 


 新宿のphotographers galleryで開かれていた大友真志さんの個展“Mourai”へ行った。(https://pg-web.net/exhibition/mourai/

 

 大友さんの作品は以前札幌で見たことがある。その時はグループ展(https://pg-web.net/news/masashi-otomo20141230/)の中の参加者のお一人だったこともあって北海道の風景やご家族のポートレートを撮る写真家であることを確認した程度だった。それ以上の感想は抱かなかった。いや、抱けなかったのかもしれない。改めてその展示の図録に載っている解説を読んでみたが、大胆に深い解釈に踏み込むというよりはどこか慎重な、作品の表面をなぞるような印象を受けた。そのような記述に共感できる程度に私は大友作品の雄弁ではない様を感じていたし、言い換えれば作品の語りにくさを感じていたのかもしれない。

 

 今回のphotographers galleryの展示は2室あった。

 

 大友さんは“Mourai”というタイトルのシリーズを以前から何度も発表している。自身の祖父が生まれた場所の名前である「望来」を冠したそれは、北海道の風景写真を中心として構成され家族の肖像や植木鉢などの静物、実家の庭なども被写体に含まれている。

 第1室は20点ほど横長の北海道の風景写真が並ぶ。第2室は大友さん、大友さんの父、大友さんの母のそれぞれのポートレートがあり、大友さんの写真に向かい合うように花咲く水辺の写真が壁に貼ってあった。

 

 風景写真はどちらかというと空は曇りがちで、晴れの日の写真は少ないように思った。水辺の写真も多い。川を撮ったもの、草原を撮ったもの、納屋を撮ったものなどがある。私にとってそれらは北海道のありふれた風景のように思え、懐かしさを覚える。だがこれを北海道になじみの薄い人がみれば植生の違いや気候の違いなどを感じ取って異国や異郷という言葉を思い浮かべるのかもしれない。

 ありふれた風景といっても作品からはスナップ的な軽さは感じず、しっかりと狙いを定めて対象を選び取った上で撮影していることが伝わってくる。風景は静止するでもなく動くでもなく、そこに在るものとして撮られている。モチーフからは象徴的であったりスペクタクル的であると感じられることは少ない。「ありふれた風景」、「特別ではない風景」、と私が形容してしまったそれらは、かえって「ありふれた風景などない」、「特別ではないものなどない」、ということを静かに囁いているようにも思える。

 写真の中心となるモチーフがあることにはあるのだが、それを中心化するのではなくその光景をそれ全体として捉えている。しかし写真に一切合切を詰め込もうというのでもなく、些細なものも不自然にならない範囲で取り込もうとしているようである。第2室にあるようなポートレートでも人物以外の椅子などにも自然と視線を注いでしまう。鉢植えを撮った静物の写真でもそれは共通している。その場で切り取られた光景をそのまま写真に撮ろうとする様は、何を撮ってもある意味で風景写真のようだと言えるかもしれない。ふと、そのような作品を眺める鑑賞者の目つきは、過去の写真からその写真が撮られた時代の風俗を類推するような時のそれに近いのではないだろうか、と考えてしまった。トークイベントで大友さんが田本研造に言及していたのを聞いた後だからかもしれない。

  

 写真に限らず何かを作品化するというのは、ありふれたものを特別な何かにしてしまうことだと思う。その手付きは、例えば何かを切り取って、名付け、展示することだ。そこには権威が伴う。

 大友さんの写真はどうだろう。風景に対峙し、はっきりと撮影者の意図をもって切り取ろうとしているように思う。そして撮られた写真は極めて決定的ではないものを写している。そこでは巧妙に特別なものや象徴的なものが避けられている。

 “Mourai”は、ある意味で作品化しながら作品化を拒むような視点がある。そこに幾許かの物足りなさを覚える人もいるかもしれない。しかしそれこそが作品を作品たらしめている理由なのではないだろうか。二律背反や葛藤をきちんと抱えた上での、腰の座った厳しさやストイックさがそこからは感じられた。

 

 

 

(終)