こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

東京で北海道を探す「蝦夷地探検家 秦檍丸 先生 墓」

f:id:kotatusima:20181125114620j:plain

 

 

 根津から谷中へ向かって坂道を歩いていた。落ち葉ももうだいたい散り終えたかという晩秋。いかにも昔からありそうな佇まいの商店や住宅が並ぶ街を抜け、だんだんと道の両側にお寺が増えてくる。

 

f:id:kotatusima:20181125114627j:plain

 

 車道の反対側に玉林寺という禅寺があった。ふと気になって信号を渡り、山門の前にある白くて縦に細長い石碑の字を読んだ。そう古くはなさそうなそれには「秦檍丸 先生 墓」の文字。その横によく見ると小さく「蝦夷地探検家」とあり、「はた あおきまろ」と読み仮名が振られている。

  「蝦夷地探検家の秦檍丸…」と、そこまで読んでやっと思い出した。秦檍丸(秦檍麿)、別名を村上島之允(村上島之丞)といい、松浦武四郎に先立つことおよそ半世紀、近藤重蔵らと蝦夷地を調査し「蝦夷島奇観」C0012769 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索などを書き残した人物だ。 

(参考 三重県 県史あれこれ:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=17/ 函館市史:http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-04/shishi_03-04-07-03-01.htm

 

f:id:kotatusima:20181125114631j:plain

f:id:kotatusima:20181125115811j:plain

 

 境内は奥に広い。参道を進むとお堂があり、右手には千代の富士銅像があり(菩提寺らしい)、住居がある。左手奥から渡り廊下の下をくぐりお堂の裏手に抜けられるようになっていて、墓地の大部分はその先にある。

 

f:id:kotatusima:20181125115057j:plain

 

 石の階段を少し登る。左右に石仏がずらっと並び、正面にひときわ大きい石仏(無縁塔)がある。墓地の中の道は特に規則性がなく、単に通れるところを縫って通っているようだ。唐破風風の屋根が付いていたり、自然のままの形だったり、軍隊の階級が書いてあったり、様々な年代の墓石が混在している。

 墓地をぐるぐる二周ほどしても、なかなか墓が見つからない。 

 枯葉を掃除していたおじさん、たぶん檀家さんなのだろう。見かねて声をかけてくれ、親切に墓の場所を教えてくれた。

 

f:id:kotatusima:20181125115605j:plain

f:id:kotatusima:20181125115758j:plain
f:id:kotatusima:20181125115801j:plain

 

 墓のそばに顕彰碑があるものの、目立つような案内板も何もない。むしろ他の墓より低く小さめの墓石だった。これでは見つけられないはずだ。

 顕彰碑は昭和五十年に倉島延三という人物が建てた。

 山門の「秦檍麿 先生 墓」の碑も同時期に設置したのだろう。これがなければ僕は一生この寺院に足を踏み入れることもなかったかもしれない。

 墓石自体はいつ建てられたのだろうか。没年は文化五(1808)年、流行病が原因で49歳だったという。当時のものが残っていてもおかしくはない。

 f:id:kotatusima:20181125115805j:plain

 

 目を閉じて静かに手を合わせながら、おのずと「蝦夷島奇観」に描かれた風景や文物を脳裏に浮かべていた。

 あたりはさほど汚れていなかったが枯れ葉を一枚だけ除けた。今度来ることがあれば手桶に水の一杯でも持ってこよう。

 

 

 曹洞宗望湖山 玉林寺  東京都台東区谷中1丁目7−15

 

 

 

2018.11.25.加筆