こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

浜田知明の訃報に接して

(神奈川県立近代美術館(2010年)展示図録。表紙の作品は「アレレ…」(1974年))

 

 

浜田知明の訃報 

 

 戦後日本を代表する銅版画家を挙げれば、駒井哲郎、長谷川潔、浜口陽三、そして浜田知明の名がでるだろう(ここに池田満寿夫を加える人もいるかも知れない)。

 

 先日、その浜田知明が亡くなったというニュースを目にした。100歳で死因は老衰というから大往生と言っていいと思う。今年の3月にも町田市立国際版画美術館で個展が開かれており、行けなかったことが悔やまれる。

熊本県御船町出身の彫刻家浜田知明氏が死去|【西日本新聞】

浜田知明 100年のまなざし | 展覧会 | 町田市立国際版画美術館

 

 私は銅版画を制作した経験があり、何度か実物の作品を拝見する機会を得た。それも踏まえて浜田の作品制作の方法について思うところを以下で書いてみたい。

 

浜田知明の技法

 

 私としては上に挙げた浜田以外の3名は技法の探求者としてのイメージが強い。

 長谷川や浜口はメゾチントの第一人者で、駒井は「銅版画のマチエール」という分かりやすい技法書を書いている。一方で浜田は技法よりも技法によって表そうとした何かが作品から強く感じられる。

 

 もちろんそれは技法の裏付けがあってこそである。銅版画を制作した経験のある者なら、高い水準の技術を感じざるを得ないだろう。揺るぎない安定感と完成度を持ったエッチングの線(1953年の「風景」や、1958年の「飛翔」、1961年の「馬のトルソー」、1967年の「風景」、1969年の「騎士と鍵と女」など)や、アクワチントの粒子の美しさ(1954年の「初年兵哀歌ー風景(一隅)」、1977年の「家族」、1979年の「取引」など)を見て、ため息をついたことは一度や二度ではない。浜田の作品の技法に関して言えば、的確で過不足なく用いられている点を、私は特に強調したい。

 

浜田知明の画法

 

 それでも、改めて指摘するまでもなく浜田の作品はストレートに風刺画的であることを抜きには語れない。風刺画としての「ひねり」はもちろんあるのだが、風刺画に取り組むということに関して、正面から取り組んだ作家だと思う。初期の従軍経験を作品化した中ではやはり「初年兵哀歌シリーズ」が代表作になるだろう。これら作品は浜田自身を代表するだけでなく戦後日本美術の重要作品であることに疑いはない。他にも、人間の性格や感情をユーモラスに表した1974年の「アレレ…」(技法的にも非常に冴えている)や、核戦争を戯画化したような1988年の「ボタン」(A)と「ボタン」(B)など、笑いを交えつつ一歩引いて人間を観察し表現することにおいては類例のない作家だと思う。

  

 作品の多くは風刺画のようである、とは言えるけれども、それ以外の共通点はなかなか見出しにくい。浜田の作品は、ひとつの主題を発展させていったような作品群ではない。いつも全てを一からスタートさせて制作していったように見える。そのつどテーマがあって、向き合う人間の様相があった。その結果生まれた作品群なのではないか。

 

浜田知明の言葉

 

 浜田の画文集に「浜田知明 よみがえる風景」(求龍堂)がある。数年前にこれを読みながら、浜田の作品と言葉について短い文章を書いたことがあった。それは以下のようなものである。

 

 

 
(前略)
 私が浜田の作品に強く惹かれるのは、何よりそのテーマ性と、それを形にする際の考え方だ。
 浜田は作風の確立について、次のように語っている。「単なる戦場の表面的な描写ではよく戦場を描き得たということにはならないし、人間心理の深層にまで照明をあてることはできない。あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手掛かりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまうおそれがある。時代の思潮に敏感であろうとするような、新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥せず、是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた」。
 浜田の作品では「是が非でも訴えたいもの」だけをテーマに描かれている。だから作品が非常にシンプルに形になっており、メッセージが分かりやすく鋭く伝わってくる(中略)
 また、浜田の作品を見て驚かされるのは、そのテーマの普遍性と、その普遍性を保ちつつ形にするセンスだ。「新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥」しがちな自分にとって、浜田の作品は戒めになっている。
(中略)
 浜田の「誰のために描くか」という題の文章がある。その文章で浜田は、「ぼくもまた自分のために描く」と答えたあとに続いて、「作品を発表するとぼくはじいっと彼等の反応を確かめる(中略)ぼくの表現したいものが、正しく彼等に伝わった時の悦び、活字にもならなかった時の無言の警告。ぼくは自分のために、そして一握りのぼくを信頼してくれる幾人かの人々のために、まだ見たことも会ったこともない、これらの人々に連なる多くの人々のために描く」と書いている。
 「誰のために描くか」というのは、作家にとって究極の問いの一つだと思う。

(中略)

 上記の文章に表れているように、浜田は常に自分の作品がどう受けとられているか点検し、「信頼してくれる幾人か」に対して作品を通して何ができるかを考えて描き続けるのである。浜田は自己中心的になることもなければ、大衆や社会のために描くなどと上辺だけの綺麗事をいうこともない。
(中略)
 ただ、浜田の作品から私が受けたような感動を、誰かが私の作品によって受けることがあればそれ以上にうれしいことはないし、そのようになるべく、作品を作り続けることと、発表し続けること、また自分に対しても厳しい視線を向け続けることは止めないでおこうと思う。

 (引用以上)

 

・浜田の制作の方法

 

 ここに書いた浜田の作品と言葉への気持ちは、今もそれほど変わっていない。

 そして、浜田の技法と画法(あえて絵づくりの態度をこう呼んでみたい)は、分かちがたく結びついたものであることに、いまさらながら気づかされる。

 

 浜田が銅版画を選んだのは必然だろう。その工程には計画性が求められる。ちょっとでも長く薬品に漬けすぎたりすれば、ごまかしが効かなくなる。絵の構図についても、モノクロで少ないモチーフを絵にすることはとても容易ではないことが想像できる。おそらくたくさんの試作や失敗作があっただろう。しかしその分、作品は研ぎ澄まされたものとなり得る。

 また、「ぼくは自分のために、そして一握りのぼくを信頼してくれる幾人かの人々のために、まだ見たことも会ったこともない、これらの人々に連なる多くの人々のために描く」という言葉を浜田は残した。

  制作の動機にまず自分を据えること。そして、おそらく顔が見えるくらい具体的で数少ない、信頼する人々のために描くこと。さらにその延長線上に、未来に生きる誰かをも見ること。私はこの言葉はそういう意味だと思う。

 きっと浜田はいつでも丁寧に、愚直に、何かを(例えば自分の立ち位置を)確かめるように作品を作ったのだろう。そういう態度に銅版画は合っていただろうし、浜田をいっそう内省的にさせたかもしれない。

 

 浜田が東京美術学校で「聖馬」(1938)を作ったのが20歳の時だという。

 尊敬すべき作家の訃報に接し、人間の愚かさと人間の真っ直ぐさとを愛した長い画業を、心から讃えたい。

 

 

 

 (僭越ながら敬称を略させていただいたことをここにお断りいたします)。

 

 

 (終)

 

 2018.7.21 一部改変、追加、誤字訂正