こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

井原市立田中美術館「安藤榮作展 SOUL・LIFE・SPIRIT」

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(安藤榮作展の様子)


 井原市立田中美術館(いばらしりつでんちゅうびじゅつかん)へ行った。第28回の田中賞を受賞した安藤榮作さんの個展を見るのが目的。
 

 

 
 目次
 
1.美術館までの道のり
2.井原市立田中美術館の概要
3.平櫛田中の作品について
4.「安藤榮作展 SOUL・LIFE・SPIRIT」について
 

 

 

 

 2017.10.20.

 

 1.美術館までの道のり

 

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 この時は奈義町から井原市まで向かったので、だいたい三時間くらいかかった。津山駅までバス。そこからJR津山線岡山駅へ。伯備線に乗り換え清音駅まで向かい、井原鉄道井原駅まで行く。岡山の内陸から広島との県境近くまで行ったことになる。

 

 井原駅では構内にジーンズショップがあり、田中の作品「鏡獅子」をモチーフにしたキャラクター「でんちゅうくん」が電車の中や街のあちこちにいた。井原市はジーンズと平櫛田中が観光の二本の柱のようだ

 駅前の通りをまっすぐ進み、途中大きい通りを左に曲がり、また右に曲がると市役所や市民会館に隣接する美術館がある。何箇所かに案内板があるので初めてでも迷わず行けそうだ。15分ほどの道のりのあいだ、田中賞受賞作家の作品などいくつも野外彫刻を見かけた。

 

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(でんちゅうくん)

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2.井原市立田中美術館とは

 

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 (井原市立田中美術館。金色の像は岡倉天心を彫った「五浦釣人」)

 

 井原市立田中美術館では、彫刻家・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)(1872~1979)の作品や1972年から続く田中賞の受賞作家の作品を主に所蔵、展示している(美術館公式サイト:田中美術館 | 井原市。館内は撮影禁止だが所蔵作品はサイトで写真がみられる平櫛田中の彫刻 | 井原市

 なぜ美術館がここにあるのか。それは田中(でんちゅう)が現・井原市の田中(たなか)家に生まれたからだ。本名を倬太郎(たくたろう)といい、「平櫛」は10歳で養子に行った家の姓である。号として田中と名乗るぐらいだから、田中家や井原市への想いは強かったのだろう。市内の学校にもよく作品を寄贈しており、それらが今は館のコレクションの一部になっているのだ。

 ちなみに都内の小平市にあったアトリエは保存され美術館として公開されている小平市平櫛田中彫刻美術館)。

 建物は3階建ての本館と2階建ての別館からなっている。一階の廊下でつながっているので本館1階から入って別館の1、2階を見て、本館の2、3階を見るという少々面倒な順路だった。安藤さんの作品は主に本館1、2階と別館1階にあり、他のスペースに主に田中の作品があった。

 

 

 

3.平櫛田中の作品について

 

 田中は初め木彫人形師の中谷省古に弟子入りし、のち高村光雲に師事した。後年も像の前を通るたび頭を垂れていたというほど、岡倉天心を敬愛し多大な影響を受けている。

 ほとんどの作品が木彫か木彫を原型にしたブロンズだった。田中の作品が不思議なのは、写実的に見えながら表面にはのみ跡が残り素材感があるところだ。いくつかの作品は彩色されている。西洋から伝わった塑像や人体の研究もある程度は行っているはずだが、やはりその作品のベースは江戸時代以前の日本の木彫にあるのだろう。それが、量感より表面の質感を重視した作風に表れているのだと思う。

 兄弟子の米原雲海が一気に一刀で彫るべきところを丁寧に注意深く刀を使っているのを見て、手数をかけても一気に彫ったように見せることがこつであることを会得した、というエピソード(本間正義「序」(「平櫛田中展」図録所収) 東京国立近代美術館 1973年 6pより)から考えるに、田中ののみ跡は手数や手間など、時間を感じさせないことを目指したものだといえよう。

 

 

 
4.「安藤榮作展 SOUL・LIFE・SPIRIT」について

 
 安藤さんの作品は写真では見てなんとなく知っていたが、やはり現物を見ないとわからないこともある。撮影可能だったので、まずは会場の様子を写真で紹介したい。

 

 

 

 (本館1階)

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(2階)

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 館内では制作風景の映像も上映していた。それを見ると、安藤さんの作品は手斧(小さい斧)で少しずつ木を削り続けることで形作られていることがわかる。結果できた作品の表面はささくれ立ち硬い木の質感を思わせるが、同時にやや離れて見ればどれも丸みを帯びたフォルムの柔らかさやしなやかさをも感じさせる。そこには独特な生々しさがある。

 それは削られた木が皮の下の身を露わにすることによる生々しさではない。手斧と木との無数の衝突で作品の表面は金属が鍛えられるようにある種の硬さを持ち、もはや皮膚と化している。

 インタビューで、木彫家たちがチェーンソーを使うようになった時期に「木を彫っているというより、機械に人間が使われているような、ものの加工基準が機械にあるみたいで自分の性に合わなかった」(本展図録7p)と語る安藤さんは、「彫刻を作るときに、僕は身体性というものをすごく大事にしていて、道具と自分がひとつになって木を削っていく。『彫る』のではなく『叩く』んだと。」(本展図録8p)と制作に斧を使う理由を述べている。

  年月が肌に刻む皴さながらの斧の跡は、木という素材の表面を作品の皮膚と化すことで別の生命を吹き込んだことによる生々しさなのであろう。その意味で制作にかかった時間を見せないような田中ののみ跡とは対照的だ。安藤さんの作品は、はっきりと厚みをもった時間が刻み込まれた皮膚のある彫刻作品なのだ。

 

 安藤さんはドローイングにおいても、斧の跡を思い起こさせる短い描線を繰り返し書くことで何かを形を作っている。しかしそれは彫刻作品のための下絵ではない。彫刻とも響き合う、ある世界観のもとで描かれた作品だった。

 絵巻きを思わせる横に長い2階展示室のドローイングは、ヒト型の彫刻が流れる川のように置かれている傍に展示されている。うねるようなタッチで山や波を描き、続いて人々の生活が東日本大震災の時のものであろう津波にのみ込まれ、原発事故が起きた様も描かれている。そして最後には画面いっぱいに鳳凰が描かれる。

 あの鳳凰は震災後の私たちにとって救いだろうか。私にはそうは思えない。

 安藤さんが大事にしている身体性とは、彫刻では斧を、絵画では筆を媒介として、あらゆるものを包み込むようにつないでしまうものではないか。それは山も海も、動物も、花も虫も鳥も、忌まわしい事故も、すべてをある意味で肯定する、否、もはや肯定も否定も超えた地点に至ろうとするものではないか。そういう残酷さも見て取ることができてしまうような普遍的なつながりの象徴として鳳凰はあるのかもしれない。

 

 今回の展覧会タイトルを安直に訳すと、魂、生命、精神となる。

 安藤さんは、あらゆるもののつながりを考え、物と物とが接する表面にその表れを見出し、徹底的に追及する作家なのだ。そしてその表面にこそ、魂は、生命は、精神は、宿るのではないだろうか。そんなことを思った。

 

 

 

 (終)