(宗吾霊堂の塀にあった紋章)
目次
1. 佐倉宗吾について
2.宗吾霊堂までの道のり
3.境内の様子
4.宗吾御一代記館と宗吾霊宝殿
5.本堂内部
6.お土産
1. 佐倉宗吾について
義民・佐倉宗吾をご存じだろうか?
「佐倉宗吾」とか「佐倉惣五郎」「木内宗吾」と呼ばれるが本名は木内惣五郎で、下総国印旛郡佐倉藩堀田家十一万石の領内の公津村(現・成田市)に1612(慶長12)年に生まれたという。
寛永~承応年間(1624~1652頃)、佐倉藩領民は国家老による暴政と重税で大変苦しめられ、他国に逃げるもの餓死するものなど数知れず、ついに百姓一揆が起ころうとするときに、割元名主(名主より上、郡代や代官より下で村落の行政を担当する役人)であった惣五郎はそれを押しとどめ、各村々の名主を糾合し、代官屋敷へ訴えでるも門前払いにあい、江戸に上って佐倉藩の屋敷に訴えるも追い返され、幕閣の久世大和守広之に駕籠訴をするも聞き入れられず、ついに妻子を離縁したうえで宗吾一人での将軍への直訴を決意した。上野寛永寺に参拝の折の四代将軍家綱の傍に仕えていた保科肥後守正之によって訴状は取り上げられ、佐倉藩の実情は幕府の知るところとなり、領民は苦しみから解放された。だが、直訴はもちろん罪に問われ、翌1653(承応2)年、宗吾は磔、子供4人までも打首に処せられた。42歳であった。これらの行いが義民とされる所以である。
のちに堀田家歴代当主は毎年8月3日の命日に祭典を行い、1752(宝暦2)年の百回忌には宗吾道閑居士の法号を追贈(以来、宗吾様と呼ばれるようになる)、1791(寛政3)年の百五十回忌には徳満院の三字を加えた石碑を寄進し、後に木内家再興も許した。
宗吾父子が処刑された公津ヶ原刑場跡に墓所として築かれた宗吾塚が、後に宗吾霊堂となって今に至るのだという。
以上は宗吾霊堂のパンフレットや冊子「実説佐倉宗吾伝」によっている。具体的な年号も入っているがこの話はあくまで伝承であり、だいぶ創作も含まれているだろう。ただそこにいくら創作が盛り込まれていたとしても、佐倉宗吾は今日紛れもなく信仰の対象とされ崇められ祀られている。
その実際を見に行って来た。
2.宗吾霊堂までの道のり
2017.12.3.
日暮里から京成電鉄に乗って特急で成田方面へ向かう。1時間ほどで「宗吾参道」駅に着く。改札を出て右へ進み階段を降りる。あたりは住宅や畑ばかりで目立ったものは特にない。
少し歩くと左手に上り坂があり、道の両脇に灯篭が立っている。ここを上っていけばよい。
「義民ロード」(!)というらしい。宗吾霊堂から2キロ先にある宗吾旧宅では今も子孫の方が農業を営んでいるのだとか。
案内板によれば、佐倉宗吾は「農民の神様」として崇められているのだ。ここはまだ酒々井町だが宗吾霊堂は成田市にある。
坂をずっと上っていく。天気が良い日だった。看板などないので少し不安になる。とにかく道なりに突き当りまで進み、右に曲がるとこのような道に出る。まだ宗吾霊堂は見えない。
左手にあったのは「宗吾郵便局」。この辺の地名を「宗吾」というらしい。
右折してまっすぐ進んだ道の突き当りの交差点に門があった。ここだ。参道の向こうに山門が見える。
宗吾霊堂というのは通称で、正式には「真言宗豊山派別格大本山鳴鐘山東勝寺」という。総本山は長谷寺。もとは平安時代に房総を平定した坂上田村麻呂が戦没者供養のために建立したのが始まりで、創建1000年以上になるが、その由緒を示すような目立つものは見当たらなかった。ここは本尊も大日如来ではなく宗吾様である。ホームページには今の場所に移ってからの宗吾霊堂は約350年とあるが、これはたぶん宗吾の処刑から数えたのだろう。
3.境内の様子
まだ朝の9時過ぎ、土産物屋は開いていなかった。
これが宗吾父子の墓である。立派だ。大名クラスの墓でもここまで立派なのはなかなか無いのでは。ここがまさに刑場の跡地なのだという。 早速お線香をあげた(100円)。
参道の土産物屋の裏手には寄進した金額と氏名が彫られた石碑がいくつも立っていた。境内でもそこらじゅうに石碑があった。
石碑の間から三毛猫が出てきた。
大山門(仁王門)。 1978(昭和53)年施工。仁王像は身の丈8尺8寸(2.6メートルくらい)で鋳造金箔仕上げ。楼上安置仏の聖観世音菩薩像は高村光雲作。
山門をくぐると正面に大本堂、右手に鐘楼、左手手前に総合受付所がある。辺りには「七五三詣で」の赤い幟がいくつか立っていた。まず鐘楼へ。
「カレーの碑」らしい。詳細は案内看板の文字が消えていて分からなかった。
石碑だらけ。
鐘楼。彫刻が立派だった。
鐘楼の上から。
やはり石碑や灯篭がたくさんある。平成20年代に入ってからのような最近立てられた石碑でも、「○○宗吾講」「○○義民講」と彫られているものがちらほらあった。そういう講の活動がまだ各地で行われているのだ。
本堂の手前右手に薬師堂がある。ここが一番千社札や額がたくさんあった。
纏が描かれた奉納物が散見される。土産物屋のおばちゃん曰く、宗吾霊堂は消防や鳶、木遣りなど危険な仕事に従事する人の信仰が特に篤いのだという。
由緒を示した看板には、宗吾が祀られるまでの経緯に続いて「即ちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が諸願成就を御祈祷し、現世のご利益を授かるのであります」とあった。「宗吾精神」ってすごい言葉だ。
「毎月三日は宗吾様の命日。九月三日は祥月命日」らしい。ふと考えてみると、今日はまさに宗吾様の月命日だ。これも何かの縁かもしれない。
大本堂は1921(大正10)年の建築。旧本堂は1910(明治43)年に火事で焼け、直ちに仮本堂が建立されたが、これが現在の薬師堂である。扁額「宗吾靈」は徳川家達(1863~1940)による。やはり将軍に直訴した縁からだろうか。家達は田安家出身なのでもちろん直系ではないが、徳川宗家16代当主だ。
本堂の内部は祈祷がなければ参拝できる。この時はちょうど祈祷の直前だったため、後回しにした。
本堂裏手へ。
4.宗吾御一代記館と宗吾霊宝殿
宗吾御一代記館は宗吾の事績を等身大の人形66体13場面に再現した施設。宗吾霊宝殿は宗吾の遺品と伝わるもの等を展示。入場料は二館共通で700円とちょっと高め。
まず宗吾御一代記館へ。手前の日本庭園は信徒が寄進したものだそうだ。
入り口には昭和を感じる鋳物の虎の置物などが売られていた。掃除はされているようで観覧には支障ないけれど古い建物だからだろう、かなり寒かった。太宰府天満宮でも菅原道真の生涯を博多人形で再現していたがほとんどが等身大ではなかった。この「人形で再現する」という一つの文化?が気になる。流行った時期があったのだろうか?
それぞれの場面にボタンがあり、捺すと解説音声が流れる。芸者で遊ぶ家老から始まり、困窮を極める農民たち、一揆を防ぐ宗吾、名主たちと相談する宗吾、などなどが目の前に展開される。特に直訴を前にして甚兵衛という渡し守に助けられる場面や、親子の別れの場面、将軍に直訴する場面が見どころ。終盤、むしろに座らされ処刑されようとする宗吾父子の前には来場者が投げたであろう小銭がいっぱい散らばっていた。
堀田家が宗吾を葬い祀ったのは、宗吾の怨霊が堀田家を呪い、奥方の変死や藩主正信の狂気と改易となって表れたから、ともいう。僕の中での佐倉宗吾のイメージも、まさに歌舞伎に出てくる怨霊の姿だった。しかし、展示物やパンフレットでは藩主堀田家ではなく家老による悪政が強調されているように思えた。これは名誉回復を行なった堀田家に対する遠慮なのだろうか?
次に宗吾霊宝殿へ。建物は金刀比羅宮の宝物館を思い出させる。雰囲気はあるが、ここも寒くてあまりいい環境ではない。展示物も一応ケースに入っているものの手入れや整理はされていないようであった。宗吾一族の遺品や、浮世絵、奉納されたと思しき彫刻作品から、封筒に入ったままの書類の山、須恵器、甲冑、著名人が書いた「義」の色紙などなど。バラエティ豊かというよりは雑多な印象。これで金取るのか~というくらい。
石碑に宗吾様の姿があった。帯刀せず、総髪で髭を生やし、手には巻物、着流しである。
本堂に戻って建物内を拝観する。
5.本堂内部
本堂は薄暗く、様々な仏の姿を描いた掛け軸が下がっていた。中央の沙弥壇に宗吾様の尊像を安置した厨子が、左右には4人の子供を祀ってある。他にもいくつか神仏がお祀りしてあり、沙弥壇の左手から裏手に入って右手に抜けて参拝できる。左横には虚空蔵菩薩がお祀りしてあり、その手前には宗吾と行動を共にした5人の名主の小さな像が並んでいる。皆総髪でそれぞれの手は印を結んでいる。沙弥壇の真裏には夢想出現大黒天が祀ってあり、マラソン選手の高橋尚子がよくお参りに来ていたらしい。大黒天とマラソンに何か関係があるのだろうか。一時期はお守りを高橋選手が身に着けていたとかで、ずいぶん参拝客で賑わったらしい。
本堂の向かって左横の壁際に、膝ぐらいの高さの夫婦と思しき男女の木像があった。彩色はされず着物などはのみで大づかみに彫った跡も適度に残り、技術的に達者な作品だと感じた。女性は日本髷に和服、男性は短く撫でつけた髪に羽織袴の姿で、二人とも正座をして合掌し前を見据えている。はじめは宗吾夫妻の木像かな?とも思った。小さな看板には次のように書いてあった。
「当山御篤信 旧東京市京橋区入舟町在住 岡田秀治郎 つる 殿御夫妻の像 昭和初年 ご奉納」「宗吾尊霊を崇信すること殊の外篤く 多額の浄財を寄進せられ、且永世にわたり 宗吾尊霊を礼拝せんと願い自らを木像に刻し後世も崇拝を続ける志を伝えるもの也」
信仰心によって自らの姿を木に彫らせ、死後も信仰を続けようとする。そこまでの信仰心とはいかなるものだったか。この彫刻はいったい何なのか。モノを形作ることの厳粛な根源を見せられたような気持ちになった。
6.お土産
帰りにお土産屋に寄った。だるまやまねき猫、せんべいなどの他、「開運宗吾山」と書いた緑色の湯飲みや鉢に目がいった。胴が二重の構造になっており、桜の透かし模様や筆の勢いのまま描いたような馬の絵もなかなか良い。
お土産屋のおじさんによれば、これは相馬焼という福島県の焼き物で、今は原発事故のせいで土の質が変わってしまったとかで作られていない焼き物なのだ、ということだった。ちょっと調べてみると、やはり焼き物の協同組合は移転を余儀なくされ、放射能汚染で釉薬の採掘ができなくなって廃業に追い込まれそうになったが、同じ発色をする釉薬を開発して今も販売されているようだ。(参考→大堀相馬焼 - Wikipedia/大堀相馬焼 松永陶器店)
この焼き物はタイムカプセルのようにお土産屋に取り残されたのだといえるかもしれない。
おまけだと言っておじさんがくれたおせんべいを食べながら、宗吾霊堂を後にした。
(終)