札幌国際芸術祭2017(SIAF2017)見聞⑦

 

f:id:kotatusima:20170930140241j:plain

   

の続き。もうこの日はほとんど芸術祭に関係する展示は見ていない。エピローグ的な記事だと思ってもらえれば。

 

 目次

 

 1.円山公園

 2.宮永亮「RECIPROCAL」

 3.東方悠平「ガーデニング

 4.相原信洋作品上映会など

 

 

  

 8月19日

 

 1.円山公園

 

f:id:kotatusima:20170930141409j:plain

 

 朝から再び円山動物園へ。SIAFの展示を見るのではなくて、動物園内の科学館ホールでやっていた外来種の展示(参照→の目次3.)をもう一度見るためだ。じっくり見られた。途中、円山公園で「コタンペップロジェクト」(空間デザイン:五十嵐淳)の看板を見かけた。これはクチャ(アイヌの仮小屋、たぶん狩りの時に使うようなやつ)を模した小さいテントを貸し出してくれるイベントらしい。

 

 

 

 2.宮永亮「RECIPROCAL」

 

(参考→宮永亮 個展「Reciprocal」 – GUEST HOUSE & GALLERY PROJECT SAPPORO ARTrip

 

f:id:kotatusima:20170930141713j:plain

 

 歩いてギャラリー門馬へ。宮永亮「RECIPROCAL」が開催されている。これはSIAFとは関係ない展示だが、前回の2014年のSIAFでは宮永の作品も展示されていた。

 

 このReciplocalとは逆数(掛け合わされると1になる数)のことであり、「相互関係の」「互恵的な」という意味の形容詞でもあるそうだ。現在非常にありふれたメディウムである実写映像はモンタージュで編集や構成をなされたものが一般的であり、それはプロパガンダ的手法でもあったのだが、宮永が用いる実写映像をレイヤー構造として提示する手法においては、被写体と被写体のカットの繋がりによって万人に作者の設定したある主題を伝えようとする意図は機能せず、見る人の数だけの受け取り方が存在するのだ、という。本展においては素材と素材の関りによって生まれてくる感覚や解釈を1として喩えている。

 だいたい以上のようなことがフライヤーには書いてあった。

 また作家プロフィール欄には、映像素材をスーパーインポーズ(映像に他の映像を重ね合わせる手法)によって、モンタージュによる時間軸に対しレイヤー構造という軸を持ち込み、新たに合成されるナラティブの枝を作品内に現出させようとし、時間芸術の中での非時間性を模索している、というようなことも載せてあった。

 

f:id:kotatusima:20170930142147j:plain

 

 会場では5つの作品を展開。複数のプロジェクターで複数の映像を同じ壁面に投影したり、画面内で別々の映像をスーパーインポーズによって重ねながら移り変わらせたりしている。田んぼ、街中の壁、林、車窓からの風景、旗などが映され、滑らかでくっきりはっきりした見やすい映像が移り変わる様は視覚を楽しませるに十分だ。

 

f:id:kotatusima:20170930142215j:plain

 

 そもそもモンタージュとは映像や写真の断片を組み合わせて一つの場面を構成することを指す。宮永はスーパーインポーズによってモンタージュのもつ力に対抗しようとしているのだろう。映像が持っているプロパガンダ的な力、言い換えれば特定の主義主張を信じ込ませてしまうような力を、宮永のつくる「見る人の数だけの受け取り方が存在する」映像によって、脱臼させようとしているように思える。実際に私が今回の展示を見た感想としては、作品から特定の主義主張を読み取ることは難しかった、とはいえる。では、宮永の試みは成功しているのか。「映像の重ね合わせ」によってできた宮永作品は、プロパガンダ的映像を脱臼させ、「見る人の数だけの受け取り方が存在する」のか。私はそうは思わない。

 私は感想として「特定の主義主張は読み取れなかった」と述べた。それはその通りなのだが、そのかわりまったく何も読み取れなかったのである。映像に対する何らかの解釈は生まれなかったのである。「ナラティブの枝」なるものは鑑賞者の心のうちに現出するのかもしれないが、あまりに断片すぎ、枝葉末節であり過ぎてそこから芽を伸ばしていくことは難しいのではないだろうか。

 映像のごくごく基本的な特性として、受動的なメディアであり思考が次々押し寄せる映像に流されてしまうことがあると思うが、宮永作品はまさにそうで、鑑賞中は田んぼが映れば「ああきれいだな」と思うし、ビルが映れば「ああこういう風景どこかでみたかも」とは思うのだが、その総体がある程度まとまった形で心に残ることはなかった。あれほど美しい映像を立て続けに見て、しかしそれが記憶に残らないのはわざわざ作品を見に行った自分としてもショックである。

 強いて言えば、「この映像は何か主義主張をするわけではない」ということだけは、誰しもが感じるところではないかと思う(だとすれば特定の主題を伝えていることになるのかもしれないが)。

 

f:id:kotatusima:20170930143258j:plain

 

 一つ、気になったのは「InBetween」という作品である。これには富士山が映っている(もしかしたら富士山ではないかもしれないが、きれいな左右対称の山を見て富士山を連想してしまうのは日本に住んだ経験が長ければ無理のないことだと思う)。映像に富士山を発見した途端、私は映像のすべてを富士山を中心にして考えてしまうようになってしまった。富士山がもつ象徴的なイメージはここで改めて語らずとも自明であろう。宮永はプロパガンダ的に使われた富士山を敢えて用いてその無効化を図ったのだろう。私にはこの映像は、様々なレイヤーを重ねられながらも屹立する富士のように見えた。富士山のもつ数多の文脈の重さを感じざるを得なかった。もし日本人でなければこの映像に何をみるのだろうか、とも考えた。

 

 宮永の作品から何か読み取れるとしても読み取れないとしても、それがはたして映像のもつ時間軸などの構造によるものなのだろうか、という疑問もある。モンタージュとスーパーインポーズはもちろん違う技法をさしており、その効果も違うだろうが、それぞれが映像で用いられた時に実際どう違うのかは、少なくとも宮永作品からはわからなかった。結局はそこに映ったものが何であるかということの方がより大きな影響を及ぼすのではないかとも思えた。

 

 結局のところ宮永の作品は映像がいかに豊饒なメッセージを伝えられるか、というよりも映像でいかにメッセージを伝えないかという試みなのだと思う。その意味で批評的な作品だ。その閉じた可能性をどう発展させ作品にしていくか、という点は私には想像もつかないし、非常に興味深いと思う。

 

 

 

 14時ころから人と会う用事があったので大通方面へ。札幌市資料館のSIAFカフェで休憩。

 

 

 

 3.東方悠平「ガーデニング

  

 地下鉄でサロンコジカへ。同じ建物内にカフェが併設されていて、おしゃれな人が入っていったので続いて入るのに気後れした。東方さんは今回のSIAFの関連企画でも展示しているがそちらの会場は私は見ていない。

 

(参考→東方悠平 個展「ガーデニング」 – GUEST HOUSE & GALLERY PROJECT SAPPORO ARTrip

 

 展示の紹介文は次のようなものだ。「東方は、日用品や鉄、水、マスコットキャラクターなど身の周りに溢れる多様な素材を組み合わせて制作をしてきました。本展ではギャラリー内で人工物と自然物とを等価に扱い、プラスティックの造花やコンクリートなどで構成された庭に水を流し、ガーデニングを行います。都市と自然との間で、イメージが転回していく様は痛快でもあります」。

 

f:id:kotatusima:20170930164521j:plain

 

 セメントで作られた棺、プラスチック製品、ガラス瓶、小石、じょうろ、マネキンの頭、ばらん、フジツボのついた石や発泡スチロールなど様々な素材とともに、生の植物と作り物の植物が混在している。

 

f:id:kotatusima:20170930164546j:plain

f:id:kotatusima:20170930164641j:plain

 

 「人工物と自然物とを等価に扱い」とはどういうことだろうか。そもそも木や草花を何らかの形で操作し手懐け、一種の支配をすることなしにガーデニングは不可能だろうから、等価に扱った時点ですでに不均衡が生じているはずだ。 

 「都市と自然との間で、イメージが転回していく様」というのもよく意味がわからなかった。

 

 ガーデニング(gardening)は日本語に訳すと造園だろうか。ウィキペディアに興味深い記述があり、造園という語は開拓使が農園を造る意味で用いたという話もある(造園 - Wikipedia)。

 

f:id:kotatusima:20170930164711j:plain

 コーヒー豆を運ぶおもちゃの列車。ここは先述の通り、おしゃれなカフェが併設されている。電車の横によく見ると小さい太陽光パネルのようなものがある。

f:id:kotatusima:20170930164802j:plain

 セメントに突き刺さったばらんなど。

 

f:id:kotatusima:20170930164824j:plain

ガーデニング(オロツコのボール)」という作品。ガブリエル・オロスコの作品「pinched ball」のオマージュ。

 

f:id:kotatusima:20170930164838j:plain

「タワーのポストカード」。

 

 私は東方さんの作品は何点かしか見ていないが、いくつか感じたことを書いておきたい。日用品などチープな素材を用いたインスタレーションは、それぞれのモノがもつ存在や意味を際立たせる類のものではなく、もっと全体として混然一体とした印象をうける。そこにはどこか悪ふざけというか悪戯の類に近い親しみやすさがある。しかしよく個別のモチーフを観察していけば、見た目とは裏腹な真面目な意味も透けて見えるような気にさせるのが不思議だ。

 例えばマネキンの頭が鉢代わりにされて草花が植えられているオブジェのように、今回の展示はグロテスクな表現が散見される。それは、そもそもが自然を操作し支配したうえで成立するガーデニングという行為の、その中にあるグロテスクさを増幅させ誇張させ戯画化したようでもある。ここは調和とは程遠く、強制的にアンバランスに合体させられた自然と人工とが提示されている場なのではないか。

 電車でコーヒー豆が運ばれる様などを見ると、先述の造園という言葉の意味も考えあわせれば発展途上国と先進国、植民地主義など世界規模の問題、人類全体の問題を暗示しているようにも見えてしまうのだ。

 個人的に気になったモチーフとして小さい太陽光パネルがある。北海道をはじめとして、地方都市や田舎では、ここ数年で太陽光パネルがずらっと並んだ光景をよく目にするようになった。まさにこれこそが最新の地球規模のガーデニングなのかもしれない。でたらめに見えて真面目な風でもある(でも結局どちらかはわからない)のが東方作品の魅力だといえるかもしれない。

 

 

 

  4.相原信洋作品上映会など

 

 地下鉄で自衛隊前駅までいってマルバ会館というスペースでの「相原信洋作品上映会」に参加した。

 

 

 

f:id:kotatusima:20170930211200j:plain

 

 

 このスペースではここ一年間くらいで様々なタイプの映像作品の上映を行ってきたことは聞いていたので、やっと来られて念願かなったのだが、今回のイベントが最後らしい。残念である。

 

 

 

f:id:kotatusima:20170930212118j:plain

 自衛隊前駅の構内から見えるくらい近い。

f:id:kotatusima:20170930212239j:plain

 

 

 今回の上映を企画しているのは「EZOFILM」という団体だそうだが、この名前は非常によろしくない。北海道の旧名である蝦夷(地)からとって、「えいぞう」とかけたのだろうと想像する。私が言いたいのはネーミングセンスがどうこうということではなくて、エゾという語は今日では差別語としても使われるということだ。

 そもそも蝦夷は古代ではエゾとは読まずエミシやエビスなどと読み、必ずしも悪い意味ではなかった時期もあったようだが、次第に大和朝廷に従わない勢力を指す語になり、異民族を指す語となり、アイヌを指すようになったということはよく知られている。その変遷をここで詳細に記述することはとても私の手に余るのだが、少なくとも古代から続く東国、東北、北海道で繰り広げられた内戦ともいうべき歴史と、それぞれの時代の為政者の支配における都合と関わりが深い語だということは指摘できる。

 (ウィキぺディアの記述は信憑性は不明だが、この語のもつ歴史と研究の蓄積は見て取れる。→蝦夷 - Wikipedia また児島恭子の「アイヌ民族史の研究」(吉川弘文館、2003年)や、この論文をもとにした「歴史文化ライブラリー273 エミシ・エゾからアイヌへ」(吉川弘文館、2009年)はこの語の変遷について詳しい)。

 それをわざわざ使うのはどういう理由からなのか。ちゃんとした理由があるのならぜひ教えていただきたい。

 おそらくは差別意識なんて微塵もないのだろうが、だからこそ問題は根深い。言葉にはそれぞれ意味があるのだから、それをよく知って使わなければならない。それができなければその言葉を使う権利はないはずだ。それは言葉を使うものの義務だし、エゾという語を北海道で使うのであればなおさらだ。

 このネーミングは北海道の文化水準を著しく落とすものであり、底の浅さ、軽率さを感じさせるに十分である。言葉狩りなどという批判はこれに当たらない。それはエゾ(蝦夷)という語の辿ってきた歴史的経緯を踏まえれば、ここでこの語を使う必然性がないことは明白だからだ。表現に携わるものはこのようなことに関してはもっと敏感であるべきではないのかと思う。

 

 

 

 小言はここまでにして、上映会について。

 一般は2プログラム2000円という高めの料金設定だが、+1ドリンクとあったので、ドリンクがもらえるのかと思いきやこれは要注文の意味らしい。この記述は誤解を招くのでよくない。飲み物の代わりにカレーも注文できたので頼んでみた。これはけっこうおいしかった。豆が入っていた。

 

 

f:id:kotatusima:20170930225630j:plain

 

 会場は普通のお店の土間で、私は二列目に座ったのだが、前の人の椅子が私の座った椅子より高く、頭が邪魔でかなり見づらかったが、なんとか体をよじって見た。

 

 相原信洋は1944年神奈川県生まれ。アニメーターとしての仕事に取組み、1965年頃から自主制作を開始。1980年ころよりアニメーション個展を開催、また1990年ころからワークショップの指導も行う。2011年に急逝。今回は今年の四月に京都のルーメンギャラリーで行われた七回忌追悼映像展の巡回展であり、デジタルリマスター化のプロジェクトのここまでの成果を披露するものでもあるそうだ。

 

 相原作品は今回初めて見た。初期は実写の作品が多く、映像のなかで人が持っているスケッチブックに描かれた絵だけが動くような作品などが印象深い。その後絶え間なくドローイングが動くアニメーションになっていく。

 

 この日は上映会にあたり追悼文を書かれた映像作家の相内啓司さんと、映像作家の櫻井篤史さんのトークもあり、人となりに触れるようなお話があって興味深かった。

 

 

 

 トーク終了後はそそくさと家に帰り、翌日朝はやくの飛行機で北海道を後にした。長い滞在だった。SIAFについては改めて、もう少し考えてみたいと思う。

 

 

 (完)