こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

私と御朱印

 

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(私の御朱印帖①)

 

 

 ここ数年「御朱印集め」が流行っているようだ。たぶん旅行代理店か何かが紹介し始めて、それが旅番組で取り上げられるようになって広まったのだろう。ホントかウソかわからないが「御朱印ガール」なるものまで出現しているらしい。その一方で「スタンプラリー感覚で集めるのは敬意に欠ける」という批判もあるようだ。実際に私も「スタンプとは違うので大切に保管してください」という旨の注意書きを見たことがある。数日前には期間限定などのレアな御朱印がオークションで取引されたり、転売目的で何点も御朱印をもらうことが問題視されニュースになっていたのを目にした。これもブームの過熱の証左だろう。

 

 御朱印とは寺社仏閣を参拝した証としてもらう印章や墨の字で、もとは寺院に納経した証だったという。ふつう四国のお遍路や七福神めぐり、観音霊場めぐりのような巡礼者がもらうものなのだろう。「御朱印帳」と呼ばれる帳面に書いてもらうことが多いが、ペラ一枚の半紙に書置きしているところもある。この御朱印帳もだいたい各寺社で売られていて、凝った刺繡を施したようなかわいいものは人気だそうだ。

 大伽藍ならお堂ごとに御朱印を用意しているところもある。片や多くの浄土真宗の寺院は御朱印を書き与えていない。

 大抵は初穂料などとして300円を納める。特に金額を設定していないところもある。参拝の証なのだから参拝後に貰うものかと思いきや、参拝前に御朱印帳を預けて帰りに受け取るところも多い。

 

 

 私が御朱印をもらうようになったのは2012年9月の京都旅行がきっかけだ。残暑が厳しい日だった。

 東寺を参拝したあと、お守りなどを扱う一画でたまたま御朱印の文字が目に入ったのでこれは何かと尋ねた。作務衣を着たおばさんは丁寧に御朱印について説明してくれた。「これをもらったらきちんと参拝しなきゃいけないなあ」と考えたのを覚えている。私はそこで初めて御朱印帳を買い、表紙の余白に「御朱印帖」と書いてもらった。

 御朱印は細く伸びる梵字のしたに滑るような動きの筆で「弘法大師」と書かれていた。今見てもうっとりする。そして同時にその描かれた様を見たときの感動と、静かで涼しいお堂の日陰の色も思い出されるのだ。

 

 

 私が御朱印をもらう理由は、きちんと参拝するためだ。御朱印は神仏の名前が書かれていることも多いし、書かれていなかったとしても寺社からいただくありがたいものだ。だから、御朱印をもらうとなればそれだけで気持ちが引き締まる。以前より寺社での作法、振る舞いにも気をつけるようになった。一枚一枚違う御朱印のように、一回一回を丁寧に参拝するようになるということだ。それは結局自分の満足にもなる。

 

 また、御朱印には多くの情報がある。 御朱印は千差万別だ。私はまだ見たことがないが、何色ものはんこを使ったカラフルなものや手書きの絵入りのものもあると聞く。もちろんそれはただ観光客を集めるための物ではなく、それぞれの寺社の特徴にちなんだものだろう。

 御朱印を見るときはその達筆にうっとりするのも楽しみ方のひとつだが、文字や紋をきちんと見て読んでいくと発見が多い。例えばご本尊が何であるか、とか、その寺社の紋や由来などである。御朱印帳には向かい合った御朱印の墨や朱肉が移らないようによく紙を挟んでもらうのだが、それには御朱印自体や寺社についての説明が書かれていることが多く、それをみるのもまた楽しい。

 例えば私にとって思い出深いのは京都の千本釈迦堂大報恩寺)の御朱印だ。ここは本尊は釈迦如来なのに御朱印は普通「六観音」と書かれる(希望すれば観音菩薩や釈迦如来と書いてもらえる)。そのことだけでも私は結構面白いと感じるのだが、この六観音というのは鎌倉時代の仏師・定慶による六観音像のことで、重要文化財だ。これがすごい。まず観音像を六体一度に見ること自体あまりないのに加え、一体180センチほどあってデカく、しかも超端整なのだ。ちなみにここは本堂が応仁の乱の戦火を逃れた国宝だったりして他にも見どころがかなり多い。寺宝を展示している建物はめちゃくちゃ寒く、震えながら何度も六観音の前を往復して拝観した記憶がある。

 

 このように、御朱印は参拝した時のことを実にありありと思い出させてくれるものでもある。京都のような観光地ではあまりできないけれど、御朱印をお願いするのと同時に寺社の由来とか世間話をすることもある。もちろん迷惑にならない範囲で、だ。御朱印集めがあんまり流行るとそういうこともできなくなるかもしれない。

 

 

 わざわざ寺社を参拝したとなれば、何か記念になるものが欲しくなったり、いくらか気持ちを納めたいというのが人情だろう。しかしお守りだとあちこちであまりたくさんもらっても後々扱いに困りそうだし、他にそれほど目ぼしいものがないこともある。お賽銭はだいたい五円とか十円の小銭だ。そういう時に300円というお手頃な初穂料で、しかもけっこうきれいで、寺社の由来などに触れられる御朱印は、参拝者にとっても寺社にとってもけっこういいものなのではないだろうか。

 

  御朱印をスタンプラリー感覚で集めることへの批判があるとも上に書いた。それは言い換えれば御朱印ありきの参拝の形だろう。たとえ遠方の寺社に参拝に行ったとしても御朱印さえもらえれば良いという考え方であれば、転売が横行するのも理屈としては理解はできる。

 私にとって御朱印は経験したこととともにあるもので、つまりは参拝ありきのものだ。御朱印は参拝の証としてもらうという大前提はいったん無視しても、どこかに行って建物や名所旧跡を見て参拝して・・・いろいろあってやっともらうものだ。その一連の流れが面白いのであって、それがあるから御朱印は私にとって価値になる。ティム・インゴルドの「ラインズ」でいう徒歩旅行の線と輸送の線の違いみたいなものだ。

 そういう楽しみ方をしている私にとって、行ったこともないような場所の御朱印を手に入れるのはたとえレアものでも魂の抜けた死体を手に入れているようなものだ。むしろ昔の「お伊勢参り」のように、御朱印集めを名目にして参拝ついでに観光も・・・というようなことがあってもいい(旅行代理店の思う壺かもしれないが)。その意味でなら私も動機が「スタンプラリー」であってもそれほど悪いとは思わない。

 

 そもそもスタンプラリーという言い方で御朱印集めを批判するのはよくわからない。どうせ「昔の人は信心で巡礼したが、今の若いものは信心もなしに御朱印目当てで参拝するのはけしからん」とでもいうのだろう。信心のあるなしが御朱印集めとスタンプラリーの違いなのであれば、それは他人が指摘できるような性質のものではないだろう。そんなことを敢えていうのは野暮だ。

 私が思うのは、信心もなにもなしにレアさや見た目のキレイさだけで御朱印を集めるのはただただ空虚で、もったいないということだ。ちょっと寺社仏閣に興味のあるようなひとであれば、是非おすすめしたい。

 

(完)