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豊島で考えたこと② 豊島美術館と茨と蚊

日記

 

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豊島美術館内のアプローチ) 

 

 三題噺みたいなタイトルですが違います。いや、三題噺かも?豊島美術館に行って感じたことを書きました。

 

 

 

 

 豊島美術館に初めて行った。現代アートの聖地・瀬戸内の中でも特に有名な場所のひとつであろうここは、自然豊かな豊島のシンボルのような場所として受けとられていると思う。では、この場所においてアートと自然はどういう関係なのか?

 

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豊島美術館内、「母型」を見る前に木の間から見える風景)

 

 豊島美術館はサイトスペシフィックアートであるだけではなくて「ホワイトキューブ」である。

 例えば、私は美術館内を這っていた蟻を、今まで経験したことがないくらい愛おしく思った。手に載せもてあそんでみたくもなった。少なくともあの場で蟻を踏みつぶそうとは思えなかったし、思ったとしてもそうさせない空気があった。

 ホワイトキューブとは端的にいって「鑑賞経験を限りなく純粋化させる近代の芸術が生んだ空間」だ。そこにあるものがそのものとして純粋に見られる場所であり、今日の美術作品の展示場所としてスタンダードな形式といえる。蟻を純粋に見た結果、愛でたくなるのかどうかは疑問があるかもしれない。しかし、少なくともそこは周囲の自然とは切り離された建物の中である。蟻は自然の中というよりは図鑑か標本箱の中で見る時に近い状況であったとは言えよう。それは蟻の鑑賞経験として純粋に近いのではないか。

 もし豊島美術館に表れたのが蟻ではなく、部屋にいつも現れるうるさい蚊だったら、いつものように私は一瞬で叩きつぶしていただろうか?きっと愛(め)ではしないにしても(愛でようとしたら刺されるだろうが)、いつもと違った気持ちでそれを眺めたに違いない。その蟻と蚊に違いはあるのか?

 

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蚊取り線香

 

 そもそも豊島美術館は建築家・西沢立衛とアーティスト・内藤礼の合作で、「美術館を豊島に据えるには、建物だけでなく周辺の自然と一体となって再生すること」(ステートメントより)が重要と考え、何度も説明会を行った上で休耕田になっていた棚田を住民協力も得て再生させ建てられたのだった。また建築家は美術館周辺の景観から建築、作品へと連続的に巡る鑑賞をめざし「ランドスケープも建築の一部として、アーティストの意向も取り入れながら」(ステートメントより)設計したとのことだ。 

 島の外部からの働きかけによって美しい棚田が復活したこと、壇山など豊島の自然と風景を意識し設計されたこと自体はさほど悪いこととも思えない。しかし豊島美術館にはどこか違和感を覚えてしまう。

 

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(豊島の棚田)

 

 僕が豊島のなかの様々な場所で見てきたように、水は壇山から島内を流れるうちに豊島石でろ過され、ときにため池となり、棚田を潤し、瀬戸内海へ流れだす。

 もし水を使った内藤礼のこの「母型」という作品が豊島の豊かな水を象徴し、だからこそ棚田のそばにあるのだとしても、私にはその必然性がわからない。豊島の豊かな水を象徴しているのは「唐櫃の清水」に他ならないし、美しい棚田越しに瀬戸内海を眺めればそれで豊島がいかに豊かな島なのか分かるのではないか?(実際のところ私は内藤礼の作品を見る前に豊島の豊かさを十分感じていた)。

 もっとほかにささやかなやり方があったのではないだろうか。豊島美術館は棚田の中につくるにしてはあまりに大きい存在で、あまりにホワイトキューブ的だと私には思える。

 ただもちろん、アート作品があるからこそ島に人が来るという面も承知している。ただの美しい棚田は、人目は引かないかもしれない。アートを見に島に来ること、そしてわずかでも島のことを知ること、それはたぶん素晴らしいことだ。豊島美術館の存在意義が全くないなどとは露程も思わない。

 「母型」は私が蟻を愛でたくなったようにモノの見方を変えてくれる。モノの見方を変えることこそはアートの存在意義のひとつだろう。だとすればその意味では「母型」は素晴らしい作品に違いない。

 

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(豊島の石組み)

 

 ここで草刈りの話をしたい。豊島で草刈りを行った時、雪かきに例えて話したことがとても腑に落ちた。僕は農家の生まれじゃないし家庭菜園もなかったので草むしりや草刈りの経験は少ない。でも雪かきはやってきた。この二つに共通する点は多い。

 放っておいたら雪に(草に)飲み込まれるから、どうせ降る(生える)のに定期的にしなきゃならない。かなり労力も時間もがかかるのにそこから直接得られるものは徒労だ。でもただの徒労ではなくて、どこかに面白さも付随している。

 いずれも風景を変えることが共通しているから、それは人間にとって快楽なのかもしれない。ただし風景を変えると言ってもそれは一時的で、雪ならば春には溶けるし草は再び生える。

 しかし人間は風景を半永久的に変える力をも持っている。そうして変えた風景は、いずれ人間にも取り返しのつかない事態を引き起こすのではないか。

 

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豊島美術館内の草。豊島に自生する植物から選んで植えたのだという)

 

 人間は自然といかにバランスをとって生きて行くべきか、というあまりにも大きすぎる問いに対して答えを考えてみよう。人間が一方的に自然に呑まれ翻弄され生きて行くのも、自然を征服し修復不可能なまで利用するのも良いと思えない。 

 そこは自然と取っ組み合いのやり合いをするのがもっともいい。例えば草刈りであり雪かきである。イバラは肌を刺し雪は冷たさで肌を刺す。しかし私たちの側も対抗し雪をかいては溶かし草を刈っては燃やす。それは徒労かもしれない。でも、その関係を維持することでしか生きていけない気もするのだ。

 さて、蚊もやはり人間の肌をさす。私は蚊取り線香か手で叩くかして数多の蚊を殺してきた。それは紛れもなく自分がよりよく生きて行くためである。これもまた人間にとっては徒労かもしれない。毎年夏になればだれでも蚊に悩まされるから。

 

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(鳥、とんび?)

 

 その意味で豊島美術館における蟻はどうか。愛でることはできても殺せない。

 蟻は作品の一部として計算されているだろうし、蜘蛛だって蚊だって風だって自然だって、豊島のあらゆるものは全部そうだろう(ちなみに前記ステートメントには「ランドスケープも建築の一部」とあり、「建築もランドスケープの一部」とは書かれていない)。

 ならば豊島美術館に来た鑑賞者も作品の一部として振舞うことを求められるのは当然かもしれない。水たまりを囲んでたくさんのひとがほとんどしゃべらず佇んでいる光景は異様だった。

 豊島美術館に対して、蟻と蜘蛛と蚊と風と豊島と私たちは、おそらくほとんどしゃべらず佇むことしか許されていない。美術館か図鑑か標本箱かに陳列されるように。

 

 私には、蟻も殺せないよう場所ではとても自然と関係をもつことなんてできないように思えるのである。「美術館を豊島に据える」ために重要だった「建物だけでなく周辺の自然と一体となって再生すること」とは何なのだろう。そこにはある種の歪んだ関係があるように感じられる。そしてその歪みは、美術に携わる私自身の歪みかもしれない。

 

 

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(終)