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吉野せい「洟をたらした神」(中公文庫)

本の感想

 

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 (写真は特に内容と関係ないです)

  本の感想です。随筆です。内容に触れます。

 

 吉野せい(1899~1977)は、現・福島県いわき市小名浜生まれの文筆家。

 1916年頃から小学校教員を務める傍ら山村暮鳥と交流する。1921年、詩人・三野混沌と結婚し、現・いわき市好間の菊竹山で、一町六反歩を開墾する開拓農民生活に入る。六人の子女を育て、混沌が亡くなったのち、交流のあった草野新平に勧められ1970年から再び文筆活動に入る(このいきさつについては本書の「信といえるなら」に書かれている)。

 本書には吉野が大正11年春から昭和49年春まで体験した出来事をつづった随筆が16篇収まっている。内容は主に開拓農民の生活と回想である。

 文庫の底本の出版は彌生書房から1975年である。

 

 中公文庫版は初版が2012年。児童文学者・翻訳家の清水眞砂子が解説を寄せている。二十年ぶりに本書を読みなおして清水と吉野との「距離の近さ」(p223)に驚き、清水の父や兄と重なるエピソードの多いことを述べている。

 私は親戚に農家がいるものの、開墾の苦労や喜びは本書を通して知るのみであり、まして戦中戦後の生活は時代が離れすぎていて、到底自分が理解できるようなものと思えない。だから私にとって本書は「距離が遠い」。しかし、こんなにも胸を打つ随筆にはなかなか出合えない。私は清水のように境遇や時代背景に関する共感を覚えることによっては感動できないが、この文章にはそれらを超えたもっと普遍的な凄みを感じる。

 

 例えば、たたみかけるような個性的な状況描写や比喩からそれは感じられる。実に50年ものブランクを挟んでの文筆活動であるが、おそらくは暮鳥との交流の中で文章を書いた経験はあるだろうし、常に詩人の混沌と生活していたから、文章には接していたのだろう。全く素人が書いた感じは受けないのと同時にこなれた感じもしない、非常に不思議な文章になっていると思う。

 その不思議さというのは、力強く率直でぶっきらぼうな、いかにも生活の実感の中から出てきた感じをもちつつも、素朴とか簡素と言うよりはむしろ装飾的で説明的な独特の語りにある。

 

 最初に載っている「春」(p8)の冒頭から圧倒される。

 

―――春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間のくすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく、すぐにとび込んで欲しい反射の色です―――

 

「かなしいやつ」の冒頭でも、詩に対する思いを独特の表現で述べているし、「赭(あか)い畑」での室内描写(p82)なども非常に具体的で詳細だ。

 これら独特の表現は吉野が普段からよくものを観察し考えていて、しかも表現することに長けていたから可能になったものだろう。50年もの間文章を書かなかったかもしれないが、潜在的に文筆家だったといえる。

 これらの文章は美しい修辞をめざしたものでもなければ、崇高な思想を説くものでもない。実際に吉野が体験した出来事を子細に描写し、また想いを率直に表現している。それはむしろ生活綴方のような感じすら受ける。これらの文章は、詩人に冠をつけた「農民詩人」(p20)のそれではなく「百姓女」(p215)のものだ。ここで書かれているのは、「貧乏百姓の生活の真実のみ」(p221)であり、その生活は「大地を相手の祈り一すじ、自分自身のかぼそい努力に報われてくる応分の糧を授かりたい、つつましい生存の意慾より外に現在とて何もない」(p215)のだ。

 

 そういうありのままの開拓農民の生活は、特に私のように生まれてこの方街で暮らしてきた者としては、自然と共生した生活の礼讃につながりそうにも思える。例えば「信といえるなら」にあるように、経験の積み重ねから天候を予測するような生活は、テレビやネットの天気予報に頼っている私には信じられないものであるし、そのような生き方への憧れも持ちうる。

 しかし吉野の文章を読んでも礼讃する気にはなれなかった。それは、吉野が生活をありのままに凝視しているがために、非常に個人的で具体的な内容ながら、普遍的な生きる苦しみや喜びを描くことに成功しているからだ。それも一筋縄ではいかないような、苦しみと喜びが複雑に織り込まれた感情を私に呼び起こさせる。

 

 例えば、表題作の「洟をたらした神」では、甘えず物をねだらず「いつも根気よく何かをつくり出すことに熱中する」(p35)ノボルは、ヨーヨーをねだるが買ってもらえない。それで終わればただの悲しい貧乏の話なのだが、最後にはノボルは自らの手でヨーヨーを作り上げる。吉野いわく「それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどり」(p45)なのである。私はこの表現に、貧乏の辛さ悲しさや暮らしの中のほほえましさを超えた、得体のしれないものへの畏怖を感じる。

 また、「どろぼう」は、吉野の畑に入った泥棒を集落総出で捕まえる話なのだが、当然泥棒も生きるのに必死で、やむなく泥棒したのであった。その許しを懇願する様はあまりに哀れだ。そして最後に混沌は「つかまえねばよかったんだ!」(p117)と言い放つ。泥棒は憎いが、念願かなって捕まえてみてもまた後悔してしまう。ならばどうすればよいのか?

 

 生きて行くということは本当に一筋縄ではいかない複雑なものなのだ。その複雑さは、生きるものすべてに共感を覚えさせるものではないか。これは、たたみかけるような具体的な生活描写と率直な想いをつづった吉野の文体でなければなかなか感じられるものではないだろう。

 今後も吉野の文章を読み返すたび、現在進行形で生きている自分自身の生について思いを巡らすような気がしている。