映画「ジプシーのとき」(監督 エミール・クストリッツァ)

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「ジプシーのとき」を下高井戸シネマで見たので感想を書きます。

※内容に触れます。まだ見ていない方はご注意を。
 
 
  学部の時にエミール・クストリッツァの監督作品「アンダーグラウンド」を見て、映画にハマった。
   
  数々の美しいシーンと大胆な設定。その背景と主人公たちのコントラスト。そして素晴らしい音楽(これらのことはクストリッツァの作品のどれに対してでもいえることかもしれない)。
 
  それからはエミール・クストリッツァ監督作品をいくつか見てきた。今まで見たのは、、、
「パパは出張中」、「アンダーグラウンド」、「ライフイズミラクル」、「黒猫白猫」、「アリゾナ・ドリーム」
 の5作品だ。
 
  そして今回クストリッツァの特集上映で念願の「ジプシーのとき」を見た。この作品は長らくDVD化されず当然レンタルもなかったために日本で見るのは困難だった。
  僕には「アンダーグラウンド」「黒猫白猫」に勝るとも劣らない傑作のように思える。
 
 
 
  映画はユーゴのとあるジプシーの集落からはじまる。ジプシーの結婚式の参列者たちやアヒルがドロドロした道を行く。最初は何だかよくわからない。
 
  集落は斜面にあるらしく、屋外でのシーンでは人物の背景で遠くに都市が見えていて、対比を感じさせる。事実ジプシーは隔離されることもあるのかもしれないし、そうじゃないにしろジプシーに対する差別のようなものを僕はそこに見てしまう。
 
 ストーリーはだいたい次のようになっている。
 
  主人公ペルハンは、博打にはまったどうしょうもない叔父と、呪術を使える祖母(ペルハンも超能力がある)、脚が悪い妹ダニラと暮らしている。 クストリッツァの映画の特徴のひとつは動物が活躍するところだが、この映画ではペットの七面鳥が登場する。
 
  ペルハンには恋人のアズラがいる。アズラの両親に結婚を頼みに行くが、彼女の母は激昂して断る。
  絶望したペルハンは首を吊ろうとするのだが、改修中の教会の鐘に繋がった紐を使うのだ。首を吊ると鐘がガンガン鳴ってペルハンが上下する。シリアスなのに滑稽でおもしろいし、恋愛が成就しないことで自殺にはしる青年の純朴さも感じさせる。ここは前半の見所の一つだ。
 
  その後で幻想シーンともいうべき場面が挿入される。でかい案山子みたいなものが川に浮かんでいて、その周りに松明か何かを持った人がいっぱいいる。ペルハンは棺桶みたいなものに乗って川に浮いている。アズラも一緒に乗っていて、どこまでも流れていく。
  おそらくここではジプシーの世界観を幻のように現すとともに、夢見がちな青年ペルハンと、ジプシーというバックグラウンドを緩やかに重ね合わせている。まさに「ジプシーのとき」という感じのシーン。繰り返し使われるBGMもよい。
 
  どうしようもない叔父は博打で負けて、金を出せとおばあちゃんを脅そうとするのだが、なぜか家の屋根を車を使って持ち上げたりする。意味不明だ。本当に狂っていておもしろい。
 
  村一番の金持ちアーメドの息子の病気を呪術で治したおばあちゃんは、その見返りとして、脚の悪い妹ダニラをイタリアの病院に入れることを提案した。それにペルハンもついていくことに。道中、亡くなった母親が幽霊になってあらわれるシーンがある。ダニラもおばあちゃんの血をひいているから、不思議な力を持っていて、幽霊が見えるのだろう。映画の世界観が出ている。
 
  イタリアに着くも、ペルハンは半ば騙されるような形で、アーメドの一味で働かされてしまう。実はアーメドは盗みや詐欺まがいの行為で稼いでいた。
 
   ペルハンは一度は反発するが、着実に手柄を立てていく。兄弟の裏切りがあり、高血圧か何かで体の自由がきかなくなったアーメドに代わってペルハンが一味を仕切るようになる。小綺麗なスーツを着て、イタリアの街を肩で風を切って歩く。もうそこには純朴な青年の姿はなかった。
 
  詐欺の人員を探しに元いた村に帰る。たぶん数ヶ月ぶりだろう。おばあちゃんは変わってしまったペルハンを嘆いたが、孫への愛は変わっていなかった。
  恋人アズラは妊娠していた。その子はペルハンの子かどうかわからない。アズラはペルハンとの子だと言い張る。しかしペルハンはそれを信じず、堕すことを条件に盛大な結婚式を行う。悪事で稼いだ金で。
 
  身重のアズラを連れ、一味のアジトへ帰る。アーメドはペルハンのために村に家を建てる約束をしていたが、それは嘘だということを村で確かめていた。ペルハンは利用されていたのだ。
   アズラは子供を産んですぐ息絶えてしまう。
 
  そんなこんなで警察の立ち入りがあって、アーメドは逃げてしまうし、妹ダニラは実は病院に入っていなかったことも明らかになる。
   イタリアで乞食をやらされていたダニラを探し出し、息子(息子の名前もペルハン)も見つけ出したペルハンは、息子を妹に託してアーメドとその兄弟たちに復讐を果たす。      
  しかし最後はアーメドの新妻に復讐され命を落とす。
  ペルハンの葬送で映画は終わる。
 
 青年ペルハンのおだやかな生活があるきっかけで変わっていき、結果復讐を果たすも死ぬ、というのは悲劇には違いない。しかし悲劇に対し自分はあまり感情移入しなかった。それはペルハンたちと映画を見る側の間に距離ができており、映画を俯瞰したり客観視できるような仕組みになっているからだろう。
 
 その仕組みの一つとして、この映画の背景に横たわる何らかの大きなものの存在を挙げたい。それは映画を狭い関係の間のやりとりしか見えない視野から引きはがす。例えば前半の幻想シーンで顕著に描かれたジプシーたちのの世界観のような。
 言い換えれば、人智を超えたものがこの映画には重要な要素としてあるように思う。おばちゃんの呪術やペルハンの超能力も、細かく言えばこれに含まれるかもしれない。 
 それは運命のことなのかもしれない。例えば、ペルハンが駅で息子と分かれるシーン。息子は父が戻ってこないことを知っていて引きとめる。しかし父は行ってしまう。ペルハンは行かなければならなかった。これは何故かといえば、運命の定めるところ、としか説明のしようがないだろう。
 このような、人間の力ではどうにもならない物語の流れがこの映画では感じられた。
 
 クストリッツア作品で言えば「アンダーグラウンド」も、時代の流れのような、背景にあるものの大きさがすごい。「黒猫白猫」も寓話のような作品だという解説がされているのを見たことがある。他の作品にもある程度共通する要素かもしれない。
 
  この映画の魅力やいいシーンを上げていくとキリがないので、一つだけ。
 
 やっぱり音楽が良い。
  ペルハンはアコーディオンが好きで、ことあるごとに演奏している。それもずっと同じ曲をだ。ペルハンが登場した時、首吊りした時、初めて盗みを働いた時、ギクシャクした新婚初夜などなど。ジプシーは、きっと音楽とともに生きている人たちなのだろう。その一人であるペルハンがいつも奏でる曲は、同じ曲でありながらそれぞれの場面ごとに違った印象で聞こえてくる。まさに人生の伴奏であり伴走者だった。
  他にも、幻想シーンで流れる曲も繰り返し劇中で使われていて印象的だし、アーメドの息子が持っている人形から鳴っていた悲しげなメロディーもそのシーンをよく演出していた。
 
  クストリッツァの作品はどれも音楽がいいと評されているらしいけれど、「ジプシーのとき」はその中でも際立って音楽の果たした役割が大きいように思う。
 
よい映画でした。
 
(終)