こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

以前見た展覧会の感想 春画展(永青文庫)―春画を見慣れる日―

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春画展へ行く

 
 ここ数年で最も話題になった美術展と言っても過言ではない「春画展」。混むと聞いていたのでわざわざ平日の朝一番で行ったにも関わらず、開館前には既に30人以上並んでいた。土日でなくとも毎日2000人の入場者があるという。

 
 今回の展示は日本初の春画だけの展示ということもあり、シンプルな「春画展」という名前になっている。やはりこの名前のインパクトで来場する人が多いのだろう。
 しかし、よく考えてみると「春画展」というタイトルはなかなか変わっている。「春画」とは絵のジャンルの一種である。風景画、役者絵、美人画。そういう語と同じである。これが春画でなければ、風景画展とか、美人画展とかになる。そんな大雑把な展示は聞いたことがない。もしそういう展示があったとして、それ春画展のようにタイトルだけで人を惹きつけるのは難しかろう。春画春画であるだけで目玉となっている今の状況からは、これまでいかに春画が公に展示されてこなかったか、ということを改めて感じる。

 

春画展の概要

 
 約20名ごとに区切って入場し、まず年齢確認を受ける。展示室は4階、3階、2階の順に3つを回る。
 4階では、はじめに導入として、いわゆる 「あぶな絵」が数点。気分が高まる。次に肉筆春画を見て版画としての春画の前史をざっと知る。春画は版画だけではないのだ。有名絵師がちらほら。円山応挙、英一蝶、狩野山楽など。個人的には鳥文斎栄之が好きなので、肉筆が見られて良かった。
 3階は菱川師宣からはじまり、版画としての春画の歴史を代表作で追う。「春画を描いていないのは写楽くらい」「浮世絵の半分は春画」というが、本当に聞いたことのある名ばかり。鈴木春信、喜多川歌麿歌川国芳葛飾北斎、鳥居清長、歌川国芳らの春画の代表作をいいとこどりで、つまみ食いするように見ることのできる、贅沢な展示。
 2階では、豆判春画という、名刺くらいの小さな版画を展示。新年に登城した大名たちが暦と一緒に配ったり、日清日露の頃には出征する兵士に贈ったりしたという。膨大な数が出版されており、研究はまだまだ手つかずなのだとか。
 エピローグとしては、永青文庫所蔵の春画を展示。さすが名門だけあって細川家はいいものを持っていると感じた。春画展を開くだけのことはある。
 全体の展示数としてはやや少なく感じられるが、選りすぐった名作が展示されているようだ。春画に特に詳しくない自分でも知っているタイトルがいくつかあった。満足できる展示だった。

 

春画展のモヤモヤ

  
 私は春画展を見てモヤモヤした。変な気持ちにさせられた(一応断っておくが、それは単なる性的興奮ではない)。春画は私にシンプルに感動することを許してくれない感じがしたのだ。この体験したことのない感じは何か?妙にひっかかる。

 元来、春画は性的興奮を引き起こすための道具として作られたのだろう。その本来の用途でなく、今回の美術館での展示のような美的鑑賞のために使用することに対して、私は違和感があった。しかし、本物を見て春画はとにかく美しいものだと知った。なにより春画には最高の技術と材料が使われている。これを美しいと言わずしてなんと言おうか!私には他に適切な言葉が見つからない。

 春画が美しいものなのだとして、美しいものを美術館や博物館で展示するのには(そういう美術館観が今日のあり方として適切かは置いておいて、また「美」とは何かという深遠な問いは置いておいて)とりあえず異論はない。
 
 そうして春画を美しい美しいと言って感嘆して見ていると、次第にエロの側面が見えてくる。私の鑑賞経験としては、エロと美が交互に現れる感じだった。それは同時には現れにくかったように思う。エロか美か、というシンプルな鑑賞ができなかった。それがモヤモヤの原因のひとつだ。

 

・エロと美の交差

 
 ファンシーキャラを表現するのに、「キモかわいい」と表現することがある。これは気持ち悪い且つ可愛い、の意であろう。気持ち悪い要素と可愛い要素が同一のものから発せられているか、限りなく近くに並置された状況をさすと思われる。気持ち悪さと可愛さが分かち難く結びついているような状態だ。
 この言い方を借りて言えば、春画は「エロうつくしい」ということになるだろう。ただ、「エロ且つ美しい」なのかというと、それは微妙だ。

 「エロうつくしい」と言われて私が思い浮かべるは空山基山本タカトの作品だ。これらの作品は、エロさ(色気と言ってもいい)と美しさが分かち難く結びついているように感じられる。それは、エロと美のどちらかを選び取ることはできないような存在の仕方だ。
 一方で春画は、エロさと美しさが同居する表現でありながら、それが分かち難く結びついているのではないように私には見える。春画からエロさを引けば美人画とか風俗画になりそうだし、春画から美しさを引けば、性的な図画(現代のエロ漫画ではなく保健の教科書に載っている図解のようなイメージ)になるだろう。

 そもそも、春画からエロさや美しさをとったらそれはもちろん春画ではない。だが、敢えてそうしたくなるのは、春画が今まで私も含めた衆目に晒されてこなかったが故に、既存の美人画や性的な図画と比較しがちだからだ、といえよう。

 

・今日の春画

 
 改めて言うことでもないが、少なくとも今日の私たちが目にする性的な図画の類は、春画のような浮世絵式のデフォルメはほぼあり得ないし、幸か不幸か、春画を純粋にエロとしては眺めにくいのだ。
 そのことがエロと美しさを分離させ、エロという本来の用途をすり抜けたり再浮上してきたりする動きを起こすのだろう。 そのことはおそらく春画と見る側の間に一定の距離感を生む原因にもなっていると思う。
 その証拠に、春画展の来場者が口々にどのような感想をつぶやいているかといえば、「これも芸術だから」「ベッドルームが広かったら飾りたい」「これは18禁だ」「子供には見せられない」「ロマンチック」「キレイ」など様々だ。これらはやはりエロと美が交互に現れているような感想である。また、何か猛烈な感動をしたというのではなくて、少し距離感のある位置から冷静に春画を愉しむ態度も表れてはいないだろうか。
 春画展に来て、少なくとも露骨に嫌悪感を示すような人は見当たらなかった(わざわざ見に来ているのだから当たり前だが)。展覧会の構成がいたって真面目に春画史をおさえ代表作を展示しているのと対照的に、美術品鑑賞とか歴史的遺物の見学というしゃっちょこばった感じでもなく、むしろニコニコ、ニヤニヤしながら見ている人が多そうだった。しかしそれはまた普通のポルノに対する反応とも違っていた。秘宝館に対するそれに近いかもしれないが、そこまであっけらかんとした雰囲気は無く、会場にあったのは礼節を保ったような含み笑いであった。
 大雑把にまとめれば、性という普遍的な題材や、今日見ることの少ない描法、最高の技術と美しさなどが微妙な距離感を生み、普通のポルノによって引き起こされるであろう嫌悪感が減って、ニヤニヤしてしまうくらいのおかしみが生まれている、ということだろう。

 春画展からくるモヤモヤは、春画と見る側との複雑な距離感のためだと私は考える。だが、それを引き起こしている大きい理由は、まず春画を見慣れていないということからきているのではないか。
 今回の展示は非常に質の高いものだと思うが、展示替えも多く展示数は少なめだった。今後はより大きい展示空間でたくさんの作品を見る機会が期待される。

 
 より大規模な春画展があちこちで開かれるようになれば、あるいは今展を機に、春画本来の価値(?)が広く見直されるようになれば…。つまり、春画を見慣れれば、私たちの見方も変わるのかもしれない。
 それはいつの日か、春画が見慣れたものになってみないと分からないし、そうならなければ、春画本来の評価も不可能なのかもしれない。

 

 

 

(終)