こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

天塩川日記⑤

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(ピンネシリ) 

 

 

 

 の続き。恩根内滞在5日目は番外編。なんとオホーツク海へ。

 

 

  

2019.5.5.

 

 

 

・オホーツクへ

 

 滞在5日目は朝8時半頃に起床。

 午前中、大友さんは札幌に戻るご家族を名寄まで車で送ってくるとのことで、9時ころお見送りした。大友さんの子どもたちとお別れするのはちょっと寂しい。

 簡単に朝食を食べ、洗濯したあとでカフェでコーヒーを飲みながらNさんと雑談。天塩川河口で拾ってきた貝などの絵を鉛筆で描く。

 

 ふと壁をみると完成した展示のポスターが貼られていた。もう会期まで1ヶ月を切っている。ちゃんと形になるのか少し不安になる。

 Nさんは今日はオホーツク海に面した浜頓別町の方に向かうとのことだった。

 ちょっと横道に逸れるけれど、天塩川河口から日本海を見た後にオホーツク海を見るのも悪くないな、と思って同乗させてもらうことにする。名寄から戻ってきた大友さんと3人で12時前に出発する。

 

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(旧丹波屋旅館)

 

  中頓別では「旧丹波屋旅館」という文化財の横を通りがかった。かつて天北線の小頓別駅前の旅館だった建物で、大正期の建築である和館と昭和期に建築された洋館が連なっていて独特だ。このあたりもにぎやかだったのだろう。

 

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(ピンネシリ)

 

 晴れて気持ちがいい。初めて見るピンネシリは少し赤みがかって見えた。堂々としていて、スマートというよりは重量感のあるどっしりとした山だった。眺める位置によって山肌が次々と表情を変えるのも魅力的だ。

 道の駅ピンネシリには「砂金ラーメン」の幟が立っていた。知らない人が聞いたらチキンラーメンと間違うだろう。

 

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(牛魂碑)

 

 途中、道路わきにあった牛魂碑や馬頭観音を見るなどしつつ車は進む。13時頃に中頓別の食堂で昼食。650円のざるラーメンを食べる。風が強く、店の入り口があくたびに麺の上に載った刻み海苔が飛ばされそうになって慌てた。麺を食べた後に残ったそばつゆをお湯で割って飲みながら、「こういうものは蕎麦湯といわずラー湯とでもいうのだろうか・・・」などと考えつつ完食。

 

 Nさんは植生に詳しく、道すがらあちらこちらの山や林を指さしては説明してくださるので勉強になった。「美深は標高が高く、恩根内で63メートルだ」とか「白樺は二次林で戦前戦中に切られた後に生えて戦後70年くらい経っているのだ」とか「川沿いの柳は保水のために残しているのだ」とか。少しでも知識があれば風景を見る目が変わってくる。

  

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(エサヌカ原生花園にて)

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(自由なシカたち)

  

  

 

・エサヌカ原生花園

 

 知らぬ間に車はオホーツク海に近づいていた。牧草地にいるシカたちを横目にずーっとまっすぐ海への道を行く。あたりには高い建物は何もなく、地平線が感じられる。

 

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(道が貝殻で真っ白だった)

 

 14時半過ぎに「エサヌカ原生花園」に到着。ちなみにここは浜頓別町ではなく猿払村だ。

 いくつか貝殻や石を拾いながら海岸を歩く。ふにゃふにゃとやわらかな砂がビーズクッションのようで足の裏に心地よい。「網走番外地」の歌詞にあるように、僕にとってオホーツクと言えばハマナスなのだが、花が咲く時期にはまだちょっとだけ早かったようで残念だった。

 

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(シカと戯むる)

 

 車で来た道を引き返す途中、二頭のシカが道の左手からでてきてこちらの様子を伺っていた。しばしシカと私たち人間とが見つめ合い、道の譲り合いになったのがおかしかった。やがて道路を横切って右手の牧草地に避けたシカは緊張の糸が切れたようにピョンピョンと跳ね回って戯れていた。その様は全身で春の陽気を浴びているようで、見ているだけで楽しくあたたかな気持ちになる。

 

 近くのベニヤ原生花園へ移動。赤茶色のイソツツジを見た。本州では高山植物とされるらしい。この辺りは次々と木の種類などが変わり、植生がエリアごとに違うのが僕でもなんとなく分かる。Nさんによれば、木の密度が高いところはまだ森が若く、時間がたつにつれ間引きされるように木が淘汰されて日当たりがちょうどよくなるのだという。また、木の小ささは風の影響があると想像される、とのこと。

 

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(ベニヤ原生花園

 

 

 

・帰り道

 

 16時頃、浜頓別道の駅で休憩。オープンしたばかりで賑わっていたが夕方だったからかパンなど軽食は売り切れ。自動販売機で飲み物だけ買った。恩根内に戻ろう。

 

 途中、道路わきに黄色い花がたくさん咲いているのを見た。エゾノリュウキンカだ。ヤチブキともいう。かわいらしい。車を止めて写真を撮っているひとがいたのも納得だ。

 

 17時前に上頓別会館近くで獣魂碑と地蔵が並んでいるのを見た。地蔵さんはヘルメットをかぶっていた。

 

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 (ビッキのトーテムポール)

 

 音威子府ではコンビニに寄って、ビッキのトーテムポールの近くまで行って見てきた。裏面には制作に関わった人々の名が彫られていた。

 

 18時頃に恩根内に到着。ここまでいろいろ連れて行ってもらったNさんが帰宅するのを見送る。

 夕食には麻婆春雨を作って食べた。

 

 

 

 ⑥に続く。

 

 

 

天塩川日記④

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弘法寺の線刻仏)

  

 の続き。恩根内滞在4日目が始まります。

 

 

  

2019.5.4.

 

 

 

・白樺を描く

 

 滞在4日目。7時起床。なんとなく頭がいたい。疲れが溜まってきているのかもしれないと思いつつも「むしろこういう時は動いた方が元気がでるのだ」と自分に言い聞かせつつ朝食を済まし、朝8時頃から、再び5月2日にペンだけで描いた白樺の風景を描きに行った。結局この時に描いた絵を今回の展示のポスターとチラシに使うことになった。

 

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(制作風景)

 

 よく見ると前描いた時より少し雪が溶けている。集中して描いているといつのまにか太陽の光が射す位置が変わっている。刻一刻と季節は移り変わり道北の遅い春が訪れてきているのだと実感する。

 

 アートヴィレッジに戻ってはやめの昼食にピラフを食べる。白樺の絵はさっそく大友さんが写真に撮り、データを渡すと工藤さんがすぐポスターにしてくれた。仕事がはやい。大友さんと本日のスケジュールについて相談する。

 

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・恩穂山へ

 

 大友さんが事前に情報を入手していた「紋穂山」について工藤さんに確認したところ、「恩穂山ではないか?」「このあたりに四国八十八か所を模した石仏があり、それがあるのが恩穂山だ」とのこと。さらに「八十八か所があるといえば…」と近くのお寺を案内された。

 

 この日は大友さんのお子さんたちも2人ついてきて一緒にフィールドワークだ。にぎやかで楽しい。13時ごろ出発。

 まず、アートヴィレッジから車ですぐの天塩山弘法寺に来てみた。ここは北海道八十八か所霊場の第十八番札所である。たしかに八十八ケ所を模した石仏はあったのだが、思っていたよりずっと立派だった。その八十八か所の石仏が並ぶ端に自然石に素朴な線刻で仏の姿を彫ったものが何個かあった。

 想像と違う気がするな・・・と思い帰ろうとすると、ちょうどよく住職さんらしき方がいたので訊いてみたところ、立派な八十八か所の石仏は下川町のお寺で維持できなくなったのを持ってきたもので軟石を使った珍しいつくりなのだという。

 「ではあの線刻の石仏は?」と訊ねると「明治35年に開拓に入った方が畑から出てきた石に彫ったものだ」という。その方がこのお寺の檀家さんなのでここにそれがあるとのこと。道の駅近くの高台にある公園には自然石に線刻した石仏がもっとたくさん置かれているとのこと。その高台こそが恩穂山で、どうやら話に聞いていた石仏はほとんどそこにあるらしい。ちなみに後から調べるとその入植者は神野槌之丈さんといい、やはりというべきか四国の愛媛県の出身者であった。

  

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(恩穂山の石仏)

 

 恩穂山の公園の石碑には「びふか森林公園」の文字が彫られていた。

 町の功労者の銅像などいくつかの碑と並んで八十八か所の石仏がずらっと並んでいた。しかも2タイプある。一方は自然石に線刻されもう一方は成形された石に浮き彫りになっている。いずれも素朴な印象を受ける。不動堂や大師堂もある。お堂にお邪魔して拝ませてもらう。大師堂の祭壇にあった仏像は自然石に線刻されたうえでチョークのようなものを使って青や黄色で輪郭がなぞられていた。不動明王は立体的に彫られているが朴訥とした表情で顔が大きい。不動堂は神野さんとはまた別のいわれがあるようだ。

  

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(雪の重さで折れたらしい木)

 

 山の上へ登っていくとまだ雪が少し残り、階段に木が倒れて覆い被さっていた。

 

 

・アトリエ3モア

 

 その後15時頃から音威子府へ向かう。砂澤ビッキのアトリエであった「アトリエ3モア」を再訪、見学した。ここはアトリエになる前は小学校だったらしい。

 中は木のチップを床に敷き詰めたり暗室で作品をライトアップしたりとかなりギャラリーとしての改装が施されているが、アトリエなどは使われていた当時のままだ。

 作品は年代順並んでいるわけではなく、なんとなくテーマごとに並ぶ。いわゆるビッキ文様が施された器物のドローイングや動物、荒々しい木彫り熊、のみ跡を活かした抽象彫刻、長い巻物状のドローイングなどがある。初期のシリーズ「ANIMAL」に属する作品を見られたのが嬉しい。カフェスペースではバーの装飾に使われていた看板などが展示されている。音威子府村の入り口に立っていたビッキ作のトーテムポールもここにある。もちろん、愛用の品の数々やデスマスクも展示されている。

 

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(アトリエ3モア、館内の様子) 

 

 僕が展示を見ている間、大友さんの子どもたちはカフェスペースでおとなしく動物の映像を見ていた。とても居心地の良い場所だ。

 

 アトリエ3モアを見終え、すぐ近くのJR筬島駅に行ってみる。客車を改造した駅舎を通り抜け線路に出ようとすると、足元に5センチほどの蛾が落ちていて驚いた。「ビッキは蛾をモチーフに作品を作っていた」という説明を読んだばかりだったので、ふいに会ったこともないビッキと出会えたような気がした。

 

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(筬島の蛾)

 

 その後、天塩川に出る。大友さんは写真を撮り、僕は川岸を描いた。ビッキは飼っていたアヒル天塩川で水葬したこともあったという。時々、大友さんの子どもたちが絵を描く僕の両側に座った。見られながら絵を描くのは緊張するし気恥ずかしい気持ちもあるが、それ以上に今さらながら絵を描いていることで注目されるのが嬉しかった。

 

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 (音威子府駅前にて)

 

 恩根内に戻る途中、JR音威子府駅にも寄る。駅の外のスロープに並ぶ柱にはフクロウが彫られ、駅名の看板も木彫だった。ビッキの作だろうか。構内の一角には音威子府から浜頓別を通り南稚内につながっていたJR天北線の資料があった。駐車場の片隅には高さ2メートル以上あろうかという雪山がまだ残っており、除雪機で崩しながら溶かしていた。

 

 

 夜、大友さんと共通の知り合いの美術家のNさんが来て泊まっていくことになった。お土産に魚の干物をくれた。3人で少しお酒を飲みながらよもやま話をして1時頃に就寝。

 

 

 

 ⑤に続く。

 

 

 

天塩川日記③

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 (「北海道命名の地」の近くにて)

 

 の続き。北海道の美深町にある「アートヴィレッジ恩根内」というところで10日間の滞在制作を行った記録です。天塩川という全国第4位の大河をたどっています。

 

 

 

2019.5.3.

 

 

 

天塩川河口への道

 

 滞在3日目。

 6時前に起床。前日の夕方はかなり寒かったことを思い出してタイツを履いた。手に持ちながら絵を描くのがしんどいことも分かったのでアートヴィレッジの備品からイーゼルを借りた。今日も曇り空だが幸いまだ雨は降っていない。

 今日は天塩川河口へ向かう。8時に恩根内を出発。行きがけに音威子府セイコーマートに寄りカメラのメモリーカードを買う。

 

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音威子府天塩川

 

 少し進むと天塩川に出た。橋の手前に車を停める。上流の恩根内からの流れが橋を越え、その先で左に曲がって山の中へ向かっている。ここで絵を描こうとしたとき、なんと買ったばかりの携帯水彩絵の具と筆を忘れてきたことに気がついた。すぐ引き返せるような距離でもなく、幸いにもペンは持っていたので、今日は諦めてペンのみで勝負しようと決めた。

 

 9時頃、橋を渡り筬島地区を過ぎ物満内地区へ。砂澤ビッキのアトリエだった「アトリエ3モア」の看板が出ていたので、近くまで行ってみるがまだ開館前だった。日を改めて来ることにする。

 

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音威子府付近)

 

 そのまま道なりに進み、中川町に入ってしばらくいくと道路の右側に「安政四年六月十日 松浦武四郎踏査地」と書かれた大きな木柱が立っていた。砂利が敷かれて坂がついており、天塩川のすぐ近くまで行けそうなので車を停めた。岸まで歩いて降りる。ここで一枚絵を描いた。

 後から調べると、安政四年六月十日の松浦武四郎は川でたくさんのチョウザメを見たらしい。

 

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 (中川の天塩川

 

 天塩川左岸を通り、啓徳小学校を過ぎ、雄信内を経て幌延を通る。天塩市街へ向かう。

 

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天塩川河口近くにて)

 

 11時頃、天塩川の河口近くの漁港に着いた。晴れていても風は冷たい。近くには運上屋跡の看板があった。

  

 お昼ご飯を食べようかという話になったが、食べてから展示を見ると眠くなりそうなので、先に天塩川歴史資料館へ行く。

  

 

 

天塩川歴史資料館

 

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天塩川歴史資料館)

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(「牛」馬頭観音の碑)

 

 展示物は天塩川沿いの産業についてが主。林業、漁業、酪農の資料が中心。特に興味深かったのは馬頭観音の碑だ。畑作から酪農に生業が転換する中で馬頭観音信仰は牛の安全祈願と供養のためのものに変わっていった。そこで大胆にも石碑に「牛」の字が書き加えられ「「牛」馬頭観音」とされた。生きた宗教はいつでも人々のニーズに応えるものなのかもしれないと思った。

  

 

 

・天塩の昼食

 

 昼食。「以前来た時に食べたラーメンがしょっぱくていまいちだった」と大友さんが言っていたので、ラーメンの幟は避けて歩く。とはいえ飲食店がたくさんあるわけではない。町は静かでほとんど人通りもない。大きな通りに面した角にいかにも昔ながらという感じの喫茶店があったので入ってみる。

 中では地元の方らしいおじいさんがこちらに背中を向けてテレビで野球を見ていた。常連らしいおじさんはご飯を食べながらカウンターのおばあさんと言葉を交わしていた。

 

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(大きいカツカレーと小さい普通のカレー)

 

 席の上に置かれた雑誌にカツカレーがおすすめと書いてあったので、注文する。大友さんは普通のカレーを食べていた。出てきたカレーはボリュームがあって900円以上の値段がするだけはある。お腹いっぱいになった。おばあさんが出がけに缶の緑茶を二本テーブルに置いて「ポケットに入れて持って帰んなさい!」と言った。小さなサービスが嬉しい。

 

 

 

厳島神社

 

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(参道)

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(金毘羅さんの社)

 
 昼食を済まし厳島神社へ。建立は文化年間に遡るようだが、場所も移動しているようで当時の様子を示すものは見当たらない。社殿は北海道特有の神明造だそうだ。大きな鳥居の向こうに背の低い林が続き、まっすぐ社殿まで参道が伸びている。

 本殿の手前にはいくつかの灯篭や石碑、手水舎のほかには小さく簡素な稲荷社と金比羅社がある。カラス除けらしいCDが無造作に取り付けられていたのがおもしろかった。

 

 

 

・海のような川

 

 この厳島神社は道路を挟んですぐ海沿いにある。とはいってもこのあたりは海に沿って天塩川が流れているところなので川沿いともいえる。

 海のように流れる天塩川を見に行くことにする。

 

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(謎の黒い種子)

 

 海沿い(のような川沿い)は公園になっており「遺跡」と看板にあったのでその方向に歩いて行ってみた。しかし舗装された道は途中で途切れ、漂着物が打ち上げられた空き地に出た。いい感じの石や貝があれば拾おうとして下を向いてうろうろしていると、黒くてぼこぼこした昆虫の顔のような何かを見つけた。最初はプラモデルの部品かと思ったが、ブラシのような房があり、種子のようでもある。少し不気味だが持ち帰ることにした。

 遺跡が見つからないので車に戻って海沿いをしばらく北上すると「川口遺跡風景林」の大きな看板があった。

 防風保安林の中に竪穴住居跡がたくさんあるらしい。復元された竪穴住居も1棟あった。中にも入れるようになっている。天井が高く意外と住み心地が良さそうだと感じた。

  

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(左が天塩川、右が日本海

 

 またさらに北上すると道が左に折れて天塩川を越え、海沿いに出る。このあたりの陸地はちょうど天塩川日本海の境になる。防波堤が作られており、片側は砂浜になっていて海がある。反対側は天塩川である。海と川が近くにあるのが面白くて、川と海とを一つの画面に収めるような絵を描いた。そして少し石を拾った。

 

 

 

・「北海道命名の地」

 

 国道40号から恩根内に戻る。

 

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(「北海道命名の地」の木柱)

 

 帰りがけ、まだ明るかったので音威子府で「北海道命名の地」に寄る。なにもこんなところに作らなくとも・・・と思ってしまうようなところにある。あたりには人家も何もない。林を抜けると立派な木柱と看板が天塩川に面して立っている。ここは山の陰になっていて薄暗い。大きな水たまりに周囲の風景が写り込んでいた。

  後から調べると音威子府商工会の方のコメントが見つかった。それによれば、わざわざこのような場所に木柱を建てたのは、武四郎が丸木舟で川を上って来たであろうことや、カヌーや釣りを楽しむ人に見てもらいたいから、とのことだった。

 またここを「北海道命名の地」とするのはアカデミックな見地からは疑問符がつくが、そのうえで宣伝の方法の一つとしてやっている、とのことだ。

 昨年の「北海道150年」の武四郎顕彰の流れを見るに、あくまで「宣伝の一つ」だった「北海道命名」が随分とまことしやかに語られるようになってしまったなと感じる。

  (参考:テッシペディア 138ページhttp://www.kamikawa.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/tesshi_sanpo/shiryou/file/tessi05.pdf

  

 

 

 帰ってきて、今回の展示ポスターについて大友さんと少し相談してから23時半に就寝。

 

 

 

 ④へ続く。

 

 

 

天塩川日記②

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(アートヴィレッジ恩根内近くにて)

 

  の続き。北海道の美深町にある「アートヴィレッジ恩根内」というところで10日間の滞在制作を行い、天塩川を辿った記録です。2日目。

 

 

 

2019.5.2.

 

 

 

・初めての朝

 
 滞在2日目。恩根内で迎える初めての朝。ちょっと遅めに10時頃からの打ち合わせに合わせて起床。この時に初めてアートヴィレッジ恩根内のカフェスペースに入った。木のぬくもりが感じられる内装で、とても落ち着く場所になっている。コーヒーを飲みながら会期など展示に向けていくつか確認した。

 

 壁に大きな恩根内地区の地図があった。最も恩根内の人口が多かった頃どこにどういう人が住んでいたのかを数年かけてマッピングしたのだという。

 小車(おぐるま)という地区にはかつて水銀鉱があり大陸から連れてこられた人が強制労働をさせられていたという話もこの時に聞いた。終戦時に強制労働をさせていた人達は報復を恐れ蜘蛛の子を散らすように居なくなったのだ、と、戦後も恩根内にそのまま住んでいた方の名前を指差しながら、工藤さんは語った。エピソードとともに小車という地名がとても印象に残った。

 

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(恩根内、武四郎碑の裏)

 

 11時頃からひとまずアートヴィレッジ周辺を大友さんの車に同乗させてもらってまわる。外は小雨が降っている。
 駅近くに松浦武四郎の碑と看板があった。建立者などを確認しようと後ろに回り込むと、碑の裏は英文になっていた。英文しか読めないような人がここにくるとは思えないのに、なぜわざわざ?その配慮がなんだかおかしい。道路を挟んで向かいにシラカバが何本か立っていた。雪は表面だけが残り、内側は側溝に溶けて流れて空洞になっている。それが面白くてスケッチブックにペンでその風景を描いた。

 

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(ふきのとう)

 
 アートヴィレッジの前の角を右折し、橋を渡る。天塩川の岸へ行ってみる。だいぶ雨がはげしかったが傘をさして車から降りた。空き地に群れてふきのとうが生えていた。可愛らしいくてつい絵に描き残す。辺りを少し歩いてみて、前日の電車から眺めた風景を思い起こしながら頭の中で地図を書いてみた。蛇行している川の内側にあたる部分に恩根内の集落があるようだ。このあたりは意外と土地に起伏があるとも感じた。

 

 渡ってきた橋を引き返してまっすぐ進むと、また天塩川の岸に出た。恩根内の集落は天塩川が蛇行しているその内側にあることがわかる。左手に恩根内大橋が見える場所で少し絵を描いた。対岸にはまだ雪が残っていた。携帯水彩絵の具を使い慣れず、色が濁ってしまった。

 

 途中、森内駅逓所跡と書かれた看板があり、民家の前で黒い犬が吠えていた。

 
 恩根内駅の方を通ってアートヴィレッジまで戻る。「ねぶた恩根内」と書いてある謎の小屋は雪のせいだろうか、屋根が落ちて半壊状態だった。大友さんと知床斜里ねぷたの話などをする。駅の隣には古そうなレンガの立派な倉庫があった。農協の倉庫だろうか。
 12時30分過ぎに昼食。アートヴィレッジでカレーを食べる。

 お腹を満たしたところで14時ころからアートヴィレッジのすぐ裏手、ミズバショウが生えている空き地へ。地面が水浸しになっているので、靴が濡れないように気を付けながら木の根元でしゃがんで絵を描くのは少ししんどかった。水たまりに写った白い花と鮮やかな緑の葉が美しかった。

 

 

 

・小車へ

 

 その後は水銀鉱があったと聞いた小車地区へ行ってみた。武四郎がオクルマトマナイと記した地名は今、小車という名で呼ばれている。「地神宮」と彫られた碑が謎の建物のそばにあった。この建物はコンクリートで包まれたレンガの壁を持ち、いくつかの小部屋に分かれている。何のために使ったものだろう。

 

 その先にも数軒の廃屋があり家電が捨てられていた。小動物の骨も落ちていた。

 

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(謎の建物)

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(骨)

 

 その先の中川町へ通じる道はすぐ通行止めになっていたが、道路は舗装されずっと奥まで続いているようだ。

 

 15時半頃から、どこまで行けるかわからないが歩いて先に進んでみることにした。ひたすら歩く。

 場所によってはまだたくさん雪が残っている。

  

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(「森林学習の森」)

 

 「森林学習の森案内」と書いた看板があった。白樺と常緑樹がちょうどこの辺りを境にして生えている。カラマツ、トドマツ、シラカバ等の人工林と針広混交林からなり、人工林と天然林を学ぶ場所になっているのだという。

 また少し進むと「郷土の森」と書かれた看板があり、トドマツ人工林と疎開した幼齢の広葉樹林からなり、「育林が進んでいないので町木であるアカエゾマツを広範囲に植林した」とあった。

 

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(ブロックでできた小屋)

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(羽釜)

 

 その先にはコンクリートブロックで建てられた縦に長い建物があった。手前に流れている小川には羽釜が落ちていた。近くに住宅の基礎だったらしいコンクリートの構築物もあった。後から大友さんが「人工物が少しある方が写真が撮りやすい」といっているのを聞いた時、僕はこの場所の景色を思い浮かべた。

 

 キレイに整地された空き地が多い。サイロだったと思しき円形の屋根のない建物があった。この辺りは牧草地として使っていたらしい。

 

 水路として掘ってある溝の斜面にL字に生えた白樺があって面白かった。

 

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(御車小学校跡)

 

 「御車小学校跡」という看板があった。あたりにはそれを示すものは看板のほか何も見当たらず、空き地が広がっている。

 

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(流れのはやい川)

 

 ふと川を見ると最近の雨のせいだろう、流れが速い。

 

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(通行止め手前の森)

 

 16時半頃、また「落石のため通行止め」の看板と車止めのポールがあった。もうすぐ暗くなってきそうなので引き返した。この道はいったいいつから通行止めなのだろうか。

 

 往復で8キロくらい歩いただろうか。へとへとになった。だいぶ寒くなってきた。車でアートヴィレッジまで戻る。

 大友さんは部屋に戻ったが、僕は一日が終わるのが惜しくてさらに30分くらい近所を散歩した。恩根内駅に向かう道路から少し脇に入ったところの木陰にミズバショウが生えている場所を見つけた。

 夕食は適当にパスタを茹でる。

 22時半過ぎ、明日に備えて早めに就寝。

 

 

 

 ③へ続く。

 

 

 

天塩川日記①

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(恩根内へ向かう途中の景色)
 

 

 

 北海道の美深町にある「アートヴィレッジ恩根内(おんねない)」というところで10日間の滞在制作を行った記録です。

 まずは札幌から旭川へ向かいます。そこから恩根内までは電車で。

 

2019.5.1.

 

 

 

旭川

 

 朝7時ころに札幌を出た。旭川まで用事があった家族の車に同乗した。

 

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ソーラーパネル

 
 あちこちで空き地を埋めるように並ぶソーラーパネルを見る。
寄り道をしながら12時過ぎには旭川に入った。

 

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(「男山酒造り資料館」の展示物)

 

 酒造会社の男山株式会社の工場に併設された「男山酒造り資料館」では興味深いエピソードを知った。男山は江戸時代初期にさかのぼる伊丹の銘柄で、今でも全国に同名の日本酒がたくさんある。だがここ北海道の男山こそが本家筋だという。その訳は、シェアを広げようとする中で北海道の消費者が内地(本州)志向が強いことを知った当時の社長が「歴史の裏付けがないことが弱点」と考え、わざわざ男山創業家の末裔を探し出し、印鑑商標類や酒造道具を受け継いだから、という。北海道での歴史や伝統のあり方を考える上でおもしろい。

 

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(名寄行のホーム)

 

 旭川駅まで送ってもらい、14時59分の名寄行きの電車に乗る。早めに改札を通ったが電車の切り離しに時間がかかっていたので一度トイレに行き、戻ってきてみると一両しかない車両はほぼ満席になっていた。なんとか空いた座席の隙間に体を押し込む。

 

 

 

・恩根内へ

 

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(名寄行の車中から)

 

 曇り空の下まだ笹の間にところどころ雪の残る森を抜けていく。山並みを遠くに、耕したばかりらしい黒々とした畑を手前に見ながら電車は進む。

 名寄へは時間通り16時32分についた。音威子府行に乗り換えるのだが4分しか時間がない。いそいでキャリーバックを持ち上げ階段を昇り降りする。無事、出発に間に合った。

 

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(恩根内行きの車中から、天塩川など)

 

 美深駅を過ぎ、初野駅、紋穂内駅と過ぎていくと、窓の下には蛇行した天塩川が次々と展開していく。湿った林にはミズバショウが点々と生えている。道北ではありふれた植物なのかもしれないが、私にとっては自然の豊かな土地という印象を与える花だ。のち、今回の滞在中にはあちこちでミズバショウを見かけた。

 

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(恩根内駅の様子)

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(恩根内駅前) 

 

 予定通り17時23分頃に恩根内駅に降り立った。改札もなにもない無人駅だがなかなかキレイにしてある。電車を見送り、駅の中を通り抜け、まっすぐ駅前の通りを進む。道の左右に何軒か民家があり、郵便局や公園がある。空き地のシラカバの根本にはフキノトウが群れて生えていた。

 突き当りを右に曲がるとかつて小学校だった建物が見えてくる。

 

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(アートヴィレッジ恩根内)

 

 

 

・アートヴィレッジ恩根内

 

 こんにちは、と言いながら戸を開けると、すでに今回の滞在制作のパートナーである写真家の大友真志さんは到着していた。

 グーグルアースなどで予習したとはいえ、東京から1日半、札幌から半日、旭川からでも2時間半以上をかけてやっとたどり着いた見知らぬ場所で、知った顔を見たときの安堵感といったらない。ようやくほっとして力が抜けた。今日からここアートヴィレッジ恩根内で10日ほど滞在し(この時はまだ何を作るのか決まってはいなかったけれど)制作、発表するのだ。ようやく滞在と制作の実感がわいてきた。

 

 続いて、この「アートヴィレッジ恩根内」を運営している工藤さんにご挨拶する。すでに18時近い。もう遅いので細かい打ち合わせは翌日に、ということになった。館内施設の最低限の説明を受けて部屋に荷物を置く。私が割り当てられた部屋は学校の教室を改装したものらしく壁には黒板があった。中央には掘りごたつに長いテーブル。打ち合わせにもってこいだ。

 食事の準備もろくに考えてこなかった私は、ここでようやく買い物のことを考え始めるのだが、ちょうど大友さんが買い出しに行くというので車で美深の市街地まで連れて行ってもらえた。買いだしから帰ると、カップ麺でも食ってごまかそうとしていた私に大友さんが炊いたご飯とスープを分けてくれた。

 夕食後はウイスキーで乾杯する。大友さんはストレートで。僕はグラスの底にほんの少しだけいれたウイスキーリボンシトロンで割った。ほとんどジュースみたいな飲み物のはずでも、疲れのせいか気持ちよく酔いが回るのを感じられた。お互い二人展は今回が初めて。どうしたものか途方に暮れていたが「天塩川」を辿って展示を組み立てていこうということでなんとか話がまとまった。方向性が見えた安心感からか、これからの取材への期待からか、つい話に花が咲く。0時過ぎに就寝。

  

  

  

②へ続く。

  

  

 

松前から函館へ日記④

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(北方民族資料館所蔵の山丹服) 

 

 

  

の続き。松前での一日が終わり、朝から函館へ向かいます。

  

 

 

2019.4.28.

 

・朝の松前

 

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 5時ころ起床してすぐ、前日行った福山波止場へ。使い慣れたペンを2、3本と、買ったばかりの携帯水彩絵の具を持っていく。

 空はすっかり気持ちよく晴れていた。寒い。マスクをしてこなかったことを軽く後悔する。

   

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 朝早いのに釣り人が二人いた。北前船がいなくなってもこの波止場はこうして今も使われているのだ。

 

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 通りすがりの人が僕の描きかけの絵をチラと見て「うまいね」と言った。一瞬で絵の巧拙などわかるまいと思いながらも、軽く「いや、どうも」と会釈した。

 ペンで形を取った後で、ガシガシと色を置いていく。筆の扱いが慣れず水の加減がわからない。それでもなんとか1時間くらいでひと通り描いた。

 

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 朝食6時半頃から朝食。それぞれ少量だが、品数が多かったのでお腹いっぱいになる。ちゃんと松前漬けもついていた。ご飯をおかわりして30分で完食。

 ゆっくりと部屋を片付けて、8時には宿を出る。

 

 入り口の受付で出がけに宿代を払いながら愛想のいいおかみさんと、

「晴れてよかったですね」「はい、本当に」

「今日はどちらまで?」「函館まで」

五稜郭を見に行くんですか?」「いや、目当ての博物館があってそこへ…」

「いいですね、目的があって」

 などと言葉を交わした。

 予想外の言葉に「そうか、目的のある旅というのはいいものなのか…」と妙に考えてしまった。

 

 バスが来るまで30分くらいあったので少し散歩。

 永倉新八住居跡には石碑すらなく立派とはいえない看板が立っていただけだった。それがまたよい。

 寺町では幕末にペリーに応対した家老の松前勘解由の墓を探したのだが見つけられず時間切れ。桜を最後に少し見られたのはよかった。

 

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 バス停「松城」から木古内行きに乗る。さようなら松前。次に来るときに町はどう変わっているだろうか。

 

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 8時34分の定刻を4~5分過ぎてバスは来た。頭がバカになりそうなくらいの強い日差し。昨日とは打って変わって暖かい。窓から海を眺めながらウトウトする。

 道の駅知内の次のバス停はその名も「おいで橋」という。「おいてけ堀」のようで少し気になる。

 

 10時ころ木古内駅到着。バスターミナルを挟んでJRの駅の目の前にある道の駅に行列が。どうやら30人以上の老若男女が並んでいるのはパン屋のようだ。塩パンが美味しいお店があるというのは噂で聞いていた。函館に行く電車まで1時間近くあったので本を読みつつ並んでみた。思ったより買うのに時間がかかって50分くらい待った。個数制限がありそれぞれ5個以内とのこと。塩パン5個、めんたい塩パン5個、塩メロンパンを1個買った。メロンパンは僕の昼食になり、それ以外はおみやげにした。時間を潰すのにはちょうどよかった。

 11時16分発のいさりび鉄道で函館へ向かう。

 車内でメロンパンを食べる。外側のカリカリとした食感がいい。中はふわふわで、塩味は思ったほどしない。

 

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 函館駅には時間通り12時16分到着。

 さすがゴールデンウイーク、すぐ市電乗り場へ向かうも、すごい混雑で危うく乗れないかと思った。

 

 

 

函館公園

 

 ぎゅうぎゅうの車内に耐え、やっと辿り着いた函館公園。ちょうど桜が満開でしかも晴れているから、今まで何度か訪れたどの時よりも混雑していた。焼き鳥やら綿飴やら、屋台もたくさん出ていた。

 

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 この日はなぜか市立函館博物館は入場無料だった。さっそく展示室を見て回る。

 一階は、ここの名物の「志苔館古銭」と昭和を振り返る昔の道具の展示。蚊帳が吊ってあったりした。
 
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(志苔館古銭)

 

 

 二階は目当てのアイヌ絵の展示「描かれたアイヌ」と、函館戦争の展示。

写真をたくさん撮った。「描かれたアイヌ」は所蔵品展だがさすが充実している。

 

 

 

・「描かれたアイヌ」展

 

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(小玉貞良の絵巻。蝦夷錦が描かれた巻物が蝦夷錦で装丁されている)

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源義経アイヌがひれ伏している様を描いたといわれる絵馬の部分。)

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(平澤屏山の「ウイマム図絵馬」)

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(村上貞助「狩猟図」部分。村上貞助は村上島之允の養子でゴローニンにロシア語を学び通訳として活躍。「蝦夷生計図説」を著す。参考:https://yuagariart.com/uag/hokkaido11/

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(左:平澤屏山「アイヌ風俗十二ヶ月屏風」部分 右:「挨拶図」)

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(さすが、平澤屏山は風景の描写などうまいと感じた。いずれも「アイヌ風俗十二ヶ月屏風」部分)

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(村瀬義徳「熊送図屏風」。1922(大正十一)年の作)

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(左から 村瀬義徳「熊送図屏風」、小玉貞良「蝦夷絵」、平澤屏山「アイヌ風俗十二ヶ月屏風」、倉田松濤「狩猟帰路図」。倉田松濤は平福穂庵の門下)

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(左:平福穂庵「母子図扇面」 右:上田(沢田)雪渓「熊送狩猟図屏風」)

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(左:蝦夷島奇観写本 右:蝦夷島奇観オンカミ図粉本)

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(「アイヌ絵下絵」小樽市総合博物館に同じ作者のものとみられる作例がある粉本。)

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箱館通宝の碑

 

 博物館を出て、同じ函館公園内にあるらしい箱館通宝の碑を満開の桜の下探す。箱館通宝は幕末に幕府直営の銭座がここ谷地頭に設置され、そこでごく短い期間だけ作られた貨幣だ。

 

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  公園内の一角の少し高くなっているところに碑はあった。人目が多かったが気にせず写真を撮った。

 私は箱館通宝を何枚か持っているけれど、いずれも都内の古銭ショップで手に入れたものだ。

 これで私の箱館通宝は里帰りを果たしたことになった。箱館通宝と碑とを一緒に写真に収めた。

 

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・碧血碑へ

 

 まだ夕暮れまで時間がある。函館公園から歩いて碧血碑へ行ってみることにした。碧血碑は戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍の戦死者を弔うための碑だ。

 
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 途中、函館八幡宮があった。急な石段を上がると香川の金刀比羅宮を思わせるなかなか立派な本殿がある。

 

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 函館八幡宮から山沿いに五分ほど歩くと碧血碑へ向かう坂に出る。ここから住宅地が途切れ、林の中に入っていく。

 

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 碧血碑を作った柳川熊吉の碑もここにある。

 

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 碧血碑は思っていたよりちょっと大きかった。静かに函館の町を見下ろしていた。今でもお供えをする方がたくさんいるらしい。
 

 
 
 ・北方民族資料館

 
 見終えて坂を下り、谷地頭電停から北方民族資料館へ。電車の運転手に乗り換えの方法を確認したのだが、混雑のせいか非常に愛想が悪かった。最低だ。

 

 北方民族資料館は展示替えしたときいたので来てみた。実際はたしかに一部展示替えしてあったのだが展示の構成や内容には全く変化はなかった。拍子抜けした。それでもそれぞれの展示物は興味深いものがあった。閉館の19時までじっくり見る。

 

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f:id:kotatusima:20190517213532j:plain(山丹服(いわゆる蝦夷錦)の龍。五本爪。)

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(首飾り。アイヌ語で「タマサイ」)

 

 ここ北方民族資料館の収蔵品は北大名誉教授で解剖学者の児玉作左衛門による「児玉コレクション」も多く含まれている。

 児玉はあちこちで墓荒らしをしてアイヌの遺骨をたくさん収集した悪名高い人物でもあるので、ここの収蔵品には副葬品だったものも含まれているのではないかと思って僕は見ている。

 

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(千島アイヌロシア正教の十字架だという)

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(木偶)

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(宇梶さん)
 
 

 

 

・函館の夜
 
 電車に乗らず歩きたい気分だったので函館駅まで歩く。ラッキーピエロに行きたかったのだが外にまで人が並んでいた。ゴールデンウィークだからだろう。

 

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 すぐ諦めて塩ラーメンを食べに行く。味はそこまで悪くなかったのだが、店員が忙しなく動いて、よくわからない要件で声をかけてきたり落ち着きがなく、非常に不愉快だった。はやく出て行けと急かされているような感じ。ゆっくり飯を食わせてほしい。この店はダメだ。

 

 札幌に戻る高速バスの時間まではマクドナルドでこの旅を振り返りながら適当に時間をつぶした。

 23時30分頃。バスの時間が来た。

 

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 さよなら函館。さよなら駅前の変なオブジェ。函館にはそのうち来るだろう。また会う日まで。

 狭い車中だったが、旅の疲れでぐっすり寝られた。翌朝、気が付いたら札幌にいた。

 

 

 

 (終)

 

 

 

松前から函館へ日記③

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 (松前城を振り返る)

 

 の続き。松前町でいろいろ見学しました。

 

 

・2019.4.27. ③

 

 

 

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 外は少し雨脚が強まってきた。坂を下る途中、崩れかけた石垣をみた。きれいに直線的に加工された石。その上から何本も生えている大木。なぜかとても印象に残った。松前の人には怒られるかもしれないが、この打ち捨てられたような風景こそ松前らしいと感じた。

 

 

 

・徳山大神宮、松前郷土資料館、松前城

 

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 10分くらい歩いて徳山大神宮へ。本殿や棟札が北海道の文化財に指定されている。石鳥居や灯籠には幕末の場所請負人に寄進されたものもあるようだ。またこのあたりはゴロウニン幽閉の地でもある。お城の裏手で暗い雰囲気がある。

 

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 ここは以前は天神社もあったのだろうか、牛のような豚のような、不思議な生き物が石で彫られていた。ちょっとかわいらしく、ちょっと不気味さもある。

  

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 次に、すぐ近くの松前郷土資料館へ向かう。松前町民総合センター内にあり体育館や図書館を併設している。市街地からは少し離れていて前回の訪問の時は来られなかった。観覧無料。展示はけっこう古びているが最新の発掘調査に基づいた小さい特集展示コーナーもあり町の底力を感じる。

 

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(左:町内の遺跡から出土した陶片の産地の図。見せ方が凝っている。 右:甲冑など)

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(左:松前神楽の写真 右:落部コタン(八雲町)のアイヌ弁開凧次郎の遺品らしい器など)

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(右:町内からは相当数の陶器が出土するようだ。松前のかつての繁栄が偲ばれる)
 
 図書館にも寄ってみた。さすが北海道の歴史に関する本がたくさんある。少し興奮しながら本をめくってみたり、書名をメモしたり・・・。つい夢中になって長居をしてしまった。松前城の閉館時間が迫ってきたので、きた道を引き返し、再度松前城へ。まだ雨はしとしと降っている。

  

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 もともと松前城福山城松前福山城)は安政元(1854)年に建てられ、福山城跡は昭和十(1935)年に国の史跡に指定。昭和十六(1941)年には国宝に指定されたが昭和二十四(1949)年に役場の火事が飛び火し焼失した。現在の松前城は昭和三十四(1954)年に火災で焼けた後に再建されたもの。内部は資料館になっている。2018年末には当時の図面などを参考にして江戸末期の工法で再再建するという方針を松前町が固めたと報道された。

 (参考:https://e-kensin.net/news/111736.html

 木造での再再建はいろいろ是非もあるだろう。これから構想を固め、整備期間は最低でも16年かかるとみられているそうだ。今の鉄筋コンクリート松前城資料館もいつ見納めになるかわからない。

 内部は不思議なつくりになっており、まず地下に入り、1階、2階、3階と昇って展示を見ていく。出口は1階にある。

 

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(左:案内図 右:入り口)

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(左:地下の展示。主に松前城の縄張りについて 右:1階)

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(左:1階の目玉ともいえる「松前屏風」(模写)の部分 右:2階への階段)

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(やはり蠣崎波響の作品もたくさんあった)

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(左:2階展示。アイヌ民具など 右:3階。松前城天守閣についてのパネル展示。)

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(左:いわゆる毛槍。 右:2階に展示されていたイクパスイ)

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(左:夷酋列像の絵葉書が!もちろん買った 右:夷酋列像垂れ幕)

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(天守閣からの眺めはよかった)

 

 

 

・陶片と石垣

 
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 松前城資料館の陶片を見ている時に、ふと「これは町内のあちこちにある石垣と重なるな」と思った。

 

 松前郷土資料館でも松前城資料館でも、僕は実にたくさんの陶片を見た。例えば上の写真は福山城跡出土遺物で、ヨーロッパからもたらされたとされる19世紀中ごろの皿である。見ての通り一部欠けたところが白く埋めてあり、用いられていた当時の様子を想像できる。

 

 松前町内を歩くと、至る所で崩れかけた石垣の一部や、廃城の石材を再利用した名残を目にする。いまはあまり形としては残っていないけれど、この地には大規模な和人の営みがあった。ここに生まれ育った人は、歴史をどういう視点で考えるようになるのだろうか。少なくとも江戸時代の街並みを再現したり天守閣の木造再建をめざしているという点からして、松前町の、松前城や城下町に対する想いや誇りは並々ならぬものが感じられる。

 皿が欠ける前を想像で補うことができるように、私たちは崩れかけた石垣からでも、この地の歴史について感じとることができる。今後は天守の復元と同時に松前城跡全域で建築の復元が進むのだろうか。もし復元するのなら、私は、欠けた皿の形を白くなぞるようなやり方でやって欲しいと思う。想像の余地が残されることが何より歴史に対する感覚を研ぎ澄ませることになるからだ。お城の遺跡の上に建っているかのような松前町の良さは、草の生えた石垣にこそ見出せないだろうか。ある種の完璧な復元によって私が今日感じたことが失われてしまうとしたら、少し残念だ。

 

 

 

松前城と桜

 

 お城には、桜がよく似合う。雨が上がって日が射した。汚れが洗い流されたかのような、気持ちのいい空気が漂っていた。

 

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 カラフルな飾りは何かと思えば松ぼっくりだ。

 
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・福山波止場

 

 松前城資料館は閉館時間になった。夷酋列像の絵葉書を買い、町をぶらぶらと歩きながら夕暮れ時の海へ。

 

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 橋の下にたくさんの陶片や貝殻が落ちていた。少し拾う。

 

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 今度は橋の上から海を眺める。対岸の島影は青森だろう。改めて近いと感じる。

 

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 福山波止場は明治はじめに開拓使によって取り壊された石垣を利用して作られた防波堤だ。本当はスケッチしようと思っていたのだがだいぶ暗くなってきていたので翌朝に持ち越した。

 あたりには僕の他には釣り人しかいない。

 

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 18時前になって道の駅に駆け込んで、松前城の形をした最中を買った。今晩のつまみにする。

 

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 たくさんのものを見てあまりに充実した一日だった。宿に戻ってこの一日が終わってしまうのがもったいない気がして、いつまでも浜辺で貝を拾っていたかった。

 

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 日が暮れた。宿に戻り、少し休憩した後で夕食を調達にコンビニに行った。

道の駅で買った最中は食後のデザートにした。甘さ控えめで食べやすかった。

明日に備えて早めに寝た。明日は函館へ向かう。

 

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(お城もなか)
 

 

 

 に続く。